その人の名前を知りたいとは思わなかった。
むしろ、自分は知ってはいけないものだと思っていた。
そして、それ以前にその人の名前に興味はなく、ただ彼が語る言葉に耳を傾けた。
知る事は罪ではなかった。そうである事を願いたい、と想う自分の気持ちも、きっと―。
旅人
夜。明るい場所。知らない街。そんなキーワードが自分を人気のない路地の奥へ奥へと駆り立てた。
ただ独りになりたいのではなかった。孤独を感じて感傷に浸りたいなんて望んだ訳でもなかった。ただ、何かに・・・誰かに誘われるように、勇吹はのんびりと闇の中にその身を紛れ込ませた。
ずっと奥へ奥へ進んで行くと、そこには小さな広場があった。
広場の中心には樹齢何年かも解らない大木があり、その木の下に座り込んだギター弾きが、小さな音を奏でながら知らない外国語で穏やかな旋律を歌っていた。
何かに囁くような音色にはほんの少しの哀愁が混じっていて、じんと胸の奥まで浸透する。暖かくて慣れたように歌う男に近づくと、揚羽蝶を肩に止まらせた彼はにっこりと笑った。
「こんばんわ」
「・・・こんばんわ」
掛けられた英語の挨拶になんとなくぎこちなく返し、じっと男の持つギターに視線をやると、彼はああ、と手元の楽器に目をやってまたにっこりと変らない笑顔をこちらに向けた。
「何か聞いて行ってくれるかい?これでもね、一応吟遊詩人なんだ」
言い方はちょっと違うかな?といいながらポロン、と弦の上を軽く指で撫でるように弾いた。その仕草は酷く愛し気で、ここでこうして弾き歌う事で、何かを待っているような感を受けた。
その微笑みの中には、確かな孤独が見えた気がした。
唐突に、何の予測も感慨もなく、この吟遊詩人と名乗る男と話をしてみたくなった。
「・・・俺を呼んだのは、貴方ですか?」
「・・・‘誰か’を呼んでいたのは僕だよ」
穏やかに返される言葉。勇吹は座ろうともせずに、夜の静寂を乱す事無く、寧ろ溶け込むように奏でられるギターに聞き入った。
Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
da regt's sich und raschelt und fl?stert zugleich.――
どこか聞いた事のあるような旋律。どこの言葉かは解らないが、ニュアンスでドイツ語のような気がした。
のんびりとした調子で吟遊詩人は滑らかな発音で歌い上げる。時に激しくなりながらも、彼の歌声はどこまでも穏やかで耳に心地よかった。
Und Sagen und Lieder ert?nen im Rund,
wie Spaniens G?rten so bl?hend und bunt,
und magische Spr?che f?r Not und Gefahr
verk?ndet die Alte der horchenden Schar.
脳裏に浮かんでくるのは何かのビジョン。夜の映像だった。どこかの広場・・・もしかすれば、ここなのかもしれない。そこで、沢山の男女が小さな火を囲んで楽し気に笑い合い、踊り、宴を開いていた。
しかし、陽気に笑う彼らの目の奥には、何か深い、強い想いが何かのフィルター越しに見えた気がした。
Dann ruh'n sie erm?det vom n?chtlichen reih'n.
Es rauschen die Buchen in Schlummer sie ein.
Und die aus der gl?cklichen Heimat verbannt,
sie schauen im Traume das gl?ckliche Land
歌は佳境に入る。それは彼の少し辛そうな、しかし満足した様子の歌声で知る事が出来た。眠る赤子に囁くような温かな空気に、勇吹は何の言葉も挟まずに静かに歌に聞き入った。
幻想の中の少女達が消えて行く。宴の終わり。彼の旅人達は緩やかな眠りにつこうとしていた。
Doch wie nun im Osten der Morgen erwacht,
verl?schen die sch?nen gebilde der Nacht,
es scharret das Maultier bei Tagesbeginn,
fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
ポロン、と最後の一音を弾き終わった吟遊詩人は、「ありがとう」と小さく言った。
「・・・なんという歌か、聴いていいですか?」
と聞くと、彼は小さく笑って、綺麗な発音で「Zigeunerleben」とだけ告げた。
やはり聞いた事のない音に首を傾げると、汚い印象ではなく、寧ろ紳士のような感じのする顎の髭を擦っていた彼は、今度は英語で「 Vagrant people」と歌うように告げた。
ああ、と漸く合点がいって、浮かんできた歌詞を心の中で勇吹は口ずさんだ。
既に歌ひ疲れてや 眠りを誘ふ夜の風
慣れし故郷を放たれて 夢に楽土求めたり
東空の白みては夜の姿かき失せぬ
ねぐら離れ鳥鳴けばいづこ行くか流浪の民
思い出したのは最後の二節。古めかしい語調だが、遠くの古里を夢見る彼らの姿を自分に重ねてみた事が合った。流れ流れて、どこに行くのか知れない。
自分が求めるもの。求めていたもの。
それは、かつてあった温もりという自分の居場所だった。
今の場所が自分の居場所なのだと認めていない訳ではない。相手がどう思っているのか知らないが、これ以上確かなものはないとも言える「友人」がいる。
隣に立ってくれる人が、いる。
だけど、それでも・・・探し物が本当にあるのか、という不安がいつも胸の内に宿っていた不安定な旅はとうとう終わりを告げてしまった。・・・最悪の形で。
今の居場所に何か不満がある訳ではなかった。
ただ、自分は故郷を求めていただけだった。
今は無き、大きな手によって押し潰されてしまった故里。
「・・・・・・僕にはね、妻も子供もいたんだ」
じっと無言のままに立っていた勇吹を見上げていた男は、何をするでもなく突然話し出した。そのことにはっと顔を上げると、ずっと変らぬ穏やかな表情をした彼は静かに微笑みながら話を続けた。
「でもね、随分前に火事に巻き込まれて死んでしまった。僕は丁度その時家には居なくてね・・・ずっとずっと後悔していたんだ。なんでその時家にいて、彼等を助けてやれなかったんだろうって」
語る彼の面には後悔の念が刻まれていた。覚えのある感情。あの爪痕を見た時、瓦礫を必死で掻き分けていた時、彼らの居ない日常に不意に気づかされた時。真っ先に湧き起こったのは――言い知れぬ後悔だった。
「辛くて辛くて、自分は本当に生きていていいのかと思ったよ。でも、このまま死んでしまっていいのか、とも考えて、ずっと生き繋いで・・・この歌を聴いてね、旅に出ようと思ったのさ」
単純だろう?と聞いてくるのにただ否定の為に首を振って、不意に感じた寒さに手を軽く擦った。
「・・・・・・‘旅’で、見つかったものはありましたか?」
・・・その旅に、終わりはありますか?
小さく訊ねると、彼は苦笑して「沢山あるさ」と答え、見つかったものはね、と付け足した。
「人はいつも旅をしているのさ」
ポロン、と変らず愛し気に弦を軽く撫でるように弾いて、歌うように吟遊詩人の男は語った。ひらり、と彼の肩に止まっていた揚羽蝶が、今度は勇吹の肩に止まる。
「一瞬で儚く消えてしまっても、人はその一瞬の生の度を歩んでいるのさ。・・・終着点は、きっとどこにも無い」
「あなたは・・・あなたの旅に終着点を作ろうと思った事はないんですか?」
「ないよ。・・・僕の旅は、求めるものを探す旅なのさ。求めるものがあると解ってそれが決まってしまえば、これは旅ではなくゴールの決まったマラソンになってしまう。いくら長い時を走るのだとしても、その終着点は決まっているからね」
ポロロン、と軽く弾く。ほんの短い旋律と共に、彼の言葉はすんなりと胸の内に入ってきた。
夜中。まだ寒い時期のはずなのに、引き寄せられてきたここは何故か寒くはなかった。
「・・・君の旅に終着点はあるのかい?」
穏やかな微笑みともに呟くように言われた言葉は、初めての問いかけだった。
「俺の旅は・・・・・・終着点は、見失ってしまいました」
込み上げるのは哀しみなんかではなかった。それは辛辣に突きつけられた現実に対する、弱々しく力無い慟哭で。
求めて、求めて求めて求め続けて。確かにあると思っていたモノは、たった一つの大きな炎に毟り取らてしまったのだ。
「じゃあ、今の君の旅は、終着点を探す旅・・・かな?」
彼はにっこりと優しく笑って言った。笑った感じが今の保護者に似ているなと思ったが、よく考えれば全然似ていない。彼の人の笑顔には見えない裏が潜んでいるのだし。
「・・・終着点が、沢山あってもいいんですか?」
唐突に道を変えてしまっても?ずっとずっと見ていた一点から、不意に目を逸らしてしまったとしても?・・・また、違う道を選んでしまうのは、本当に許される事なのだろうか?
諦められなかった自分がいる。
一瞬。世界を巻き込んでしまってもいいと思ってしまった自分がいる。
ずっと感じる事の無かったどす黒い感情に呑み込まれそうになって、何もかもを捨てようとしていた自分に気がついて。・・・知らないうちに切れそうになった理性に、ほんの少しの恐怖を抱いた。
それは喪失の恐怖なのかもしれないし、自分の中に存在する冷たい激情への畏れなのかもしれない。
「・・・モチロン、いいのさ」
至極当然、という顔をして、偶々知り合った吟遊詩人はもう随分前から知っていた人のように静かに微笑んで語った。
「旅には終着点は決まってないよ。旅には沢山のゴールがあって、旅人はそれを選ぶ事が出来るのさ。全ては旅人の心のままに」
ピン、ピン、と細い弦から一本ずつ小さく弾く。音を調整するだけのようなそれが、心の水面に波紋を作るように勇吹の中で弾けては消えていった。
「ああ・・・でも、結局は君次第なのかもしれないね」
男はギターを置いて、勇吹に視線を固定したまま言った。
「俺次第・・・ですか?」
「そう。先の見えないものを追うのは不安で怖い・・・でも、その見えないものを追う時に人に指図されて動くのは簡単で気も楽だけどね、その通りにすれば良いのだし」
その微笑みに、自嘲めいた色があったのは気のせいだろうか。
「でも、その時・・・不意に後ろを振り返ったりするとね、従ってる自分の心は空っぽで、従った後に見つけたものは、きっと・・・何も無いんじゃないかな」
流れに流されっぱなしだと、時折自分を見失ってしまう。その度に虚しさが付き纏って、理解し難い心地悪さを感じた。自分がそこにいる事への違和感。丁度、今のような感情。
そうして流されてしまうよりも、自分で道を作って歩けと言ったのは。あれは誰だったか。
「それでもね」
と悶々と思考に嵌まりそうになった勇吹に男は続けた。
「辛くなった時は、誰かに助けてもらっても良いんだよ。助けてもらって、ちょっと手を貸してもらって・・・そして、また歩き出せば良いんだ。旅は道連れ、なんて言葉もあるんだしね」
君にもいるんだろう?と穏やかな目をした吟遊詩人は、確信に似た調子で訊ねてくる。それに、躊躇いがちにも勇吹は頷いて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「だったら、早く帰った方が良いよ。きっと君の旅の相棒は待ってるから」
告げて、彼は身軽に立ち上がって、不意に勇吹の額をトンっと小突いた。
途端に、何故か急速に意識が遠のいていって、無理矢理それを繋ぎ止めながら勇吹は僅かな時間の話し相手に問い掛けた。
「・・・あなたの待ち人は・・・現れるんですか?」
遠くで自分を呼ぶ声が聞える。ああ帰らなければとは思ったけれど、どうしてもこれだけは聞いておきたかった。
「・・・・・・大丈夫」
視界が霞む。ぼやけてきた向こうの彼の顔は晴れやかで、遠く聞えた声はかなり嬉しそうに弾んでいた。
「もう、会えたからね」
誰かに見つけてもらいたかったのさ、と照れくさそうに告げる彼にちょっとだけ微笑んで、勇吹は意識を手放した。
ゆっくりと、この場から戻る為に。
喧騒の音。瞼の向こうの緩やかな日差し。――自分を呼ぶ、聞き慣れた声。
ぼんやりしていた脳が覚醒するのを感じながら瞼を上げると、そこには綺麗な紫紺の瞳と燃えるような赤があった。
「――イブキっ!」
珍しく焦った様子を見せる友人は、開かれた目にホッと息を吐いて向かい側の壁に軽く凭れた。
背中にはコンクリートの感触があって、周囲は少しだけ薄暗く、それはここが表通りではない事を指していた。
そういえば、と先程まで彼と表通りを散歩がてらに歩いていた事を思い出す。天気が良いからという理由で外に連れ出して、偶々通りかかったこの通りに引き込まれてしまったのだと今では納得できた。引き込んだのは、恐らくはあの吟遊詩人だったのだろう。
「大丈夫。もう平気だからさ、・・・帰ろう?」
ここ最近は浮かべた事の無い穏やかさで微笑む勇吹に安心したのか、友人はあの吟遊詩人と同じ様にコツンと軽く額を小突いて、「さっさと帰るぞ」と言って先を歩き出した。勇吹は慌てて彼を追い、横に並んで歩き出した。
元の場所へ。自分達の、居場所へ。
「俺さ・・・」
「なんだよ」
スッキリした様子の勇吹に、先程まで何があったのか聞くに聞けない様子のカルノはずっと無言でいたが、勇吹は波立たない心に安心しながら彼に話し掛けた。
「多分、大丈夫なんじゃないかな?」
「・・・・・・・・・」
しかし、その途端に黙り込んでしまった友人になんとなく憮然としながら問い掛ける。
「あ、何だよ、何で無言なんだ?」
「・・・お前ってさ」
「ん?」
「・・・ぜってーすっげぇ自信家か滅茶苦茶ボケてるかのどっちかだろ?」
と昔にも何度か聞かされた気がする言葉が返って来て、少し笑った。
息を吸う。喉から体に染み渡る空気はやけに気持ち良くて、淀んだ気持ちをにスッキリとした清々しさを与えてくれた。
自分は先を見つめる目を持っていない。だけど、だからこそ今のこの旅を生きていこう、と勇吹は帰路を踏みしめながら感じた。
空を見上げると、小さな揚羽蝶がひらりと羽を羽ばたかせて飛んでいた。
END
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