嵐襲来:参:
ざわり、風がそよぐ。太陽が雲に隠れ、一時の深い影が地上を暗く包んだ。
カカカカンッ!
殆どの者が、一体何が起こったのか解らなかった。
連続する高速の打ち合いの音が響き、二つの影が素早く離れる。
一人は勿論輪の中心の女。そしてもう一人は、
「不意打ちたァ偉く男前な手法ね?」
「受け切れるって解ってる時は‘不意打ち’とは言わねぇよ」
「ますます素敵♪」
じっと機会を狙っていた永倉であった。原田との打ち合いを終えた後のホンの一瞬の影を盗んで名乗りも上げずに打ち込んだのだ。
木刀のぶつかり合う音や地面を擦る足音をが合わさって激しい律動を刻む。
会話の間も十数合切り結んでいるが、まだ大半の者が彼らの動きを追えていない。何となく解るのは、剣を合わせている彼女が妙に上機嫌になっていることくらいである。
「面白い剛剣・・・神道ね。ってことは――永倉新八?」
「・・・俺としちゃあ、君がどれだけの人間とやり合って来たのか気になるケド」
藤堂・原田に続いてまたもやぴたりと名を当てられた永倉は、それに答えずにするりと逃げそうになる彼女の剣を強引に押し合いに持ち込んだ。外見は小柄でもかなり力のある彼の押しに、ざりっと地の石を軋ませて彼女の軸足が若干下がった。
「そりゃぁ、勿論」
ギリッ。奥歯を噛み締めて何とかその押しに耐え、ほんの少し力の重心を低くずらし――
カカカッ、ガツッ
一本の木刀が高い空に緩やかな弧を描いた。どさっと小柄な体が地に尻餅をつく。
「道場に篭ってるあんた達の、」
何十倍よ。
ニヤリ。彼女は口元を歪めて不敵に微笑み、木刀を奪われた彼の喉元にその切っ先を突きつけた。藤堂・原田・永倉の三名とやり合って消耗していないわけが無く、流石に強気で通してきた彼女も細い肩を上下させて小さく息を乱しており、左肩はぶらりと下ろしている。
彼女はゆっくりと、大きく息を吸い込み、静かな動作で体を反転させ――軸足を、蹴った。
鳥の鳴き声も、風のざわめきも消え、
陽光は射していてもその姿を捉えなかった。
影が、掠めるように人目も知らず地面を這った。
がぎぃッ! メキッ
凄絶な音が、空間に鈍く圧し掛かる。木刀を打ち鳴らしても、普通はありえない類の音であった。
彼女は数歩離れて彼女を見つめていた土方から、木刀を構えた姿で丁度二歩半離れた場所にいた。しかし、彼女と土方の間には、阻むように沖田が横に木刀を構えて、土方の腹の中央を狙った切っ先を受けている。
沖田の木刀は、先の彼女の技の威力を示すように、受けた箇所から罅が入っていた。
音に漸く反応して彼の木刀の有様を視認した男達は、ウワァと青くなって冷や汗を流した。何しろ、彼女は左腕をぶら下げたまま・・・つまり、右腕一本でそれをやってのけたのだ。
片腕であの威力。両腕で本気で打たれていたら、自分達はどうなっていたか。考えるだに恐ろしい。
沖田は殺気を込めて彼女を迎え、真正面から見た彼女の目を見てふと瞳を眇めた。今彼が見ているそれを後ろの男も目撃しているだろうと確信しながら、殺気を解いて彼女に微笑んだ。そっと風に撫でられてはゆれる黒髪がやけに美しく見えた。
「すごい突貫力ですねぇ・・・両手使わないと弾かれそうでしたよ?」
悪戯っぽく片目を閉じて見せ、ふと息を吐くと、彼女は数瞬の後にゆっくりと笑みを浮かべた。木刀に掛かる負荷が徐々に消えていくのが解る。
「だぁめよ、人の前に飛び出しちゃぁ。人の背を押すくらいに狡くならないと」
唇だけで囁かれた言葉は、棘で刺した痛みを伴っていて。それは余りにも小さくて、沖田とそのすぐ後ろにいた土方だけに届いた。
「で」
約半歩退がって土方を見上げた彼女は、ニヤリと意地悪く追い詰めるような笑みで凝っと睨み上げた。
「で?」
彼女の言いたいことは既知であるが、土方は態と苦々しい声で繰り返した。眉間の皺が深く三本ほど増えている。
「前例がないだのと肝の小さいことをまだ吐かすつもり?アタシの剣に反応すら出来なかったクセに」
圧縮して押し殺したそれをじっくりと舌で転がして言い放つ。沖田がギリギリと微かな音に引かれて目を向けると、木刀のさらしを巻いた柄の部分に形の良い爪をきつく立てていた。
「も・し・・・私をまだ追い返そうってんなら・・・」
「ど、どうするんだ?」
若干どもりながら、彼女の脅迫調の声に反応したのは近藤だった。
「そうね・・・まず信用のある奴やご近所さんに試衛館は極弱道場だって言いふらして来るわ」
間違いじゃないわよねー私に負けてるんだし。
「それは・・・」
困る。そりゃぁ限りなく困る。
極弱というのはかなり事実と誤りがあるものの、もしそんなうわさが広まりでもしたらただでさえ極貧な道場が更に寂れてしまうだろう。
「それから、試衛館の師範代の○○は小さい上に早漏で使い物にならないから門の閂はしっかり閉めておくように武家の奥様方に触れ回る」
勿論、試衛館関係者も含めて吉原出入り禁止。
うわ、男の下半身の危機。
「・・・・・・・・・」
何か言おうと口を開いた土方は、そのまま憮然と押し黙った。吉原を動かす、というのは岡っ引きを動かすよりもある意味難しいことだ。そんな力が目の前の女にあるとはとても思えなかったが、たった今ナメて掛かって痛い目を見たばかりである。
こっ・・・この女なら・・・やりそう。
僅かな怯えと厭に確信めいた心情が男達の間で薄気味悪く漂った。何しろこの女、名前(も本名か定かではない)以外は得体が知れないのだ。腕っ節の強さは散々体に刻み込まれたが。
彼らの彼女に向ける疑惑の目は、転じて土方への縋る様な視線に変化していく。
近藤は入門希望者を真っ先に掬っていこうとするが、土方はそうして掬われる者を篩いに掛ける網。というか壁として立ち塞がる。
つまり、近藤の許しを得る前に土方を蹴倒さなければならない。
彼らの認識で最も難しい関を、この女は力と衝撃と脅し文句で足蹴にしているのだ。
力が無ければ捻じ伏せることも出来ただろう。彼女が醸し出す奇妙な底知れなさが無ければ、脅し文句に圧されることも無かった。
防ぐ手立てを見出せずに内心で激しい葛藤に苛まれているらしい土方を睨む目が、段々と半眼になっていくのを見て取った沖田は、何か言おうと口を開いた彼女の、木刀に爪を立てた右手を両手で取った。
「ボクは彼女を歓迎しますよ――」
人を安心させる優しげな笑みで、誰もが言い出せなかった言葉をいとも簡単に吐き出した。対する彼女は、唐突な沖田の言動にキョトンと目を見開いて端正な顔を見つめている。
男達は問題発言の主を一斉に見た。そこで、彼と向き合っている女に目を向ける。
朝っぱらから道場の空気を大いに震わせてくれた彼女は、厳しい言動や皮肉気な眼差し――これはこれでいい、と藤堂は後ににやけながら言っていたが――がなければ大層別嬪なのである。
それに、女性である、ということを除いて剣客として見れば、極上の腕前であり、まさに焦がれる‘倒してみたい力の領域’に立っているのだ。
「トシ・・・」
藤堂、原田、永倉の三人との打ち合いを見ていた時から既に目を輝かせていた近藤が、眩しい視線で土方を見つめ呼びかける。
土方は自分のどてっぱらに向かって真っ直ぐ伸びてきた木刀の面影を瞼の奥で見据え、それを押し留めた見知った旋毛の人物に視線を落とし、重く溜息を一つ吐いて彼らに背を向けた。
「食客してなら扱ってやる。・・・勝手にしろ」
「始めっからそうするつもりよ」
面倒そうな態度に苦々しさを含めて彼女の希望に諾を告げると、既に背を背けた土方からは見えなかったが、彼女は元よりこうなる事を知っていたような確信の笑みで、大いにこちらが負けた気がする台詞を吐いた。
実際に負けているのだが。・・・認めたくないことに。
軽傷者(打撲含む)十数名。重傷者無し。失神者数名。六ツ時の鐘が鳴ってから、実はまだ次の鐘も鳴っていない。土方が起きるのには常に鐘が鳴ってから半刻は掛かることから察するに、彼女はこの状況を半刻も掛けずに作ったのだと解る。
一応、曲がりなりにもそれなりに剣術を学び、または修めた者達を相手に、だ。
しかしもうここまで決まれば当人たちも気にしない。男の矜持に爪を立てられようと、皮膚が硬ければ案外気づかないものだ。
「いよっシ!今夜は歓迎の宴だァー!」
ォオ―――!!
原田が声を上げて拳を天に突き上げるのに合わせて、他の男共も一斉に雄叫びを上げて拳を天に突き上げる。試衛館道場・師範の近藤も、むさ苦しい男共と同様である。
彼等は忘れている。まだ朝稽古の途中であることを。
彼等は知らない。この後の稽古が土方の八つ当たりで存分に厳しくなることを。
何よりも今は、新たに迎える剣客との夜の楽しみに燥ぐばかりであった。