嵐襲来:壱:





 時は文久元年の秋。国中を震撼させた戦も収ったが、都・田舎に関わらず侍たちが力を持ち、田舎百姓も刀を持とうと血気盛んな、時代で言うなら江戸末期。
暖かな日差しが降り注ぎ、蒼天高らかに晴れ渡るある朝。微かな冷気を伴う風が吹く中の東がら上る日光は浴びる者に心地よい温もりを与えてくれる。
 いつまでも眠っていたくなる微温湯の気温の中、低血圧ながらももそもそと布団から抜け出した土方は、遠く鐘の鳴っていた音を脳裏に思い出してのそのそと井戸に向かった。

「おはよーございますv」

 バシャッ。顔を洗った後の桶をひっくり返して水を流し、軽く顔を拭っていると、朝から上機嫌な沖田がトラ縞の猫を抱えて近づき、朗らかに朝の挨拶をしてくる。元々武家の出である彼の振る舞いは大抵が礼儀正しい。
対する土方は「おぅ」とだけ返して大雑把に髪をまとめた。バラガキ(乱暴者)などと昔呼ばれた分、彼の放つ声音は不機嫌な色を含むと酷くガラが悪いが、朝に普通に声を掛けて返事を返されるだけまだマシな扱いであることを沖田は長年の付き合いで知っていた。
だから、一見して近寄るなという雰囲気を醸し出している土方を相手にしていても全く気にする風も無く、

「今日もいい天気ですねぇ」

とゆったり流れる雲を見上げながらほのぼのと笑うのだ。そんな彼に対し、大抵人は呑気だと呆れるか、大物だと感心するかの感想を抱く。
 穏やかな風が木々をさわさわと揺らし、長閑な小鳥の鳴き声が枝擦れの音に韻律を添えている。これから朝稽古だというのに、柔らかに包む陽光は起きたばかりの体を再び眠りへ誘うようだった。
しかし母屋と併設している道場からは、そんな土方の心情を無視して寧ろ急かすように朝稽古の素振りの音と気合の声が多々聞こえてくる。恐らくその中にはいつもの如く馴染みの食客達も面を揃えているのだろう。土方は常の光景を思い浮かべ、着物の裾をからげた姿で大股で道場へと向かう。
今日も変わらない、いつもの朝だ。とふと日常となりつつある日々に息をつこうとしたが、

「たのも―――――――――――――!!」

吸い込んだ息をそのまま呑んでしまう程の、長閑な朝の風景を突き破る凄まじい大音響が、試衛館中に響き渡った。全くの不意打ちに仰天し、近くの窓に視線をやるとビリビリと震動しているのが見て取れた。高く晴れた空にまで届きそうなその声は、良く通る分破壊的だ。

「・・・道場破りみてぇな台詞だな」

先だって、この男は多摩川を挟んで南の南多摩八王子の甲源一刀流の道場と命懸けで喧嘩したばかりである。面子も守り名もそこそこ上げたと言えるが泥臭い百姓道場同士の喧嘩である。名声目当ての道場破りの標的になぞはまずされない。
(司馬遼太郎『燃えよ剣・上』参照)
それでも何かあってはやはり面子が立たぬ。見てみるか、と丁度正門から聞こえてきた声を辿って土方はのんびり歩き出した。道場からもばらばらと稽古着を身に着けた門下生や、やはり今日も朝食を相伴に来ていたらしい食客共が出てくるのが見えた。
そうして多くの試衛館の住人が、殆ど興味本位で正門に向かう中、沖田は井戸端にて一人首を傾げ呟いた。

「今の・・・女の人の声ですよね・・・?」

にゃーと先程の声で今にも逃げ出しそうだった腕の中の猫が、同意か否定か眠たげに一声鳴いた。




********


正門に向かった男たちが見たのは、少し大きめの着流しを身に纏い、木刀を担いだ、髪の長い・・・女だった。

「たのも―って・・・女で道場破りも何もねぇか・・・」

細身の体、年のころは十代後半だろうか。艶の出てきた美しい容貌、長い黒髪を後頭部で束ね背に流し、小さく白い顔に、明るく輝く大きな黒い瞳は勝気に吊りあがっていて猫を思わせる。すっと通った鼻梁に薄い唇は紅を差した様子も無いのに色香を匂わせる紅で、にやりと人を食った笑みを刷いていた。

先程の気迫に満ちた声に驚かされていた門下生たちも、その声の主が女とあって肩の力が抜けた様子で、気楽に軟派する調子で彼女に近づいていった。

「おいおい、姉ちゃん。女が道場に何の用だよ?」
「俺らにオイシー料理でも賄ってくれんのかー?」

げらげらと笑い混じりで問いかけてくる男共に、彼女はフンと鼻で笑い飛ばし、形の良い唇を嘲笑に歪ませて肩に担いでいた木刀の切っ先を向けた。
ビシィッと風を切ってその鼻先に突きつけられた男は思わず及び腰で数歩後退り、突然目の前に現れた切っ先に目を白黒させる。

「それは、何?」

「たのもー」という大喝からこれまで、一言も声を発することが無かった彼女が漸く口を開いたかと思いきや、それは低い、ひくーい・・・深々とした怒りを含んだ声だった。

「な、何って――」

一緒になって揶揄の言葉を投げかけていた男は動揺も露に発言しようとしたが、それもまた木刀で止められてしまう。突きつけられたのは、今度は鼻先ではなく喉元であったけれど。

「女だからって一々賄いのためにこんなむさ苦しいところにやってきたと思ってんの?脳脳味噌まで筋肉なんじゃないの自分が本当に強いと思ってるの言い切れるのアタシより強いって思い込んでんのハッッちゃんちゃら可笑しいわよ木刀持って何で野郎共の料理なんかしなきゃなんないのよ「たのもー」っつったら普通道場破りか入門希望の常套句なんじゃないのそんなことも知らないの非常識なヤツね」

非常識はお前だ!と誰もが思ったが、沈黙から一転して立て板の水の如く高速回転する彼女の毒舌はまだまだ止まらない。
しかも息継ぎすらしないから口を挟む隙すらないのだ。門下生たちの後方で原田左之助や永倉新八と一緒に聞いていたお気楽を心情にした藤堂平助などは「すごい肺活量だなぁ」と感心すらしている。

「女が来たからってニヤニヤがっついて笑ってそんなんだから試衛館の男の相手はちょっと〜なんて一部除いて吉原で嫌がられることになるのよ人間様で考える脳味噌があるくせにケダモノめいた思考回路しかないんじゃないのああごめん脳味噌筋肉なんだったわねそんなんじゃ相手の女の事まで考えなんざ及ばないわよねぇ単細胞でゾウリムシと同位じゃぁ到底無理な話よね大体“女”だからってナメて掛かる様じゃ大事な脳まで筋肉にしちゃっても力量の程が知れるってもんだわ――」

最後にあっはっはっはーっと高笑いまでつけた彼女の毒舌は聞いていた者を酸欠状態にして漸く終結した。男としての強さすら否定しまくった毒を吐き終えた彼女の方は、恐ろしいことに息一つ乱していない。

「と!言う訳で☆」

おい「☆」じゃねぇだろこんだけ毒吐いてイマサラ。
木刀を喉元に突きつけられたまま直に毒舌をぶつけられた青年は、半ば真っ白になりながら突っ込んだが、あくまでも心の中の出来事なので相手には伝わらない。
寧ろ、また何か言って10倍にも20倍にも30倍にも増幅した威力で返り討ちにされると気力まで全て取られるような予感がしたのだ。
大変、正しい選択である。

「入門希望よ!」

ズビシィッッ

爛々と瞳を輝かせ、彼女は突きつけていた木刀をヒュッと風を切りながら回し、地面に突き刺した。

「試衛館は入門希望者には理由を問わず門戸を開くって聞いたんだけど」

まぁ、食客として置いてくれるんならそれでも良いわ。

どこまでも巨大な態度とぞんざいな口調である。
言葉だけはお願いの体を装ってはいるが、頼むと言うより「入れてくれなきゃ叩き潰す」といった気迫に満ち溢れているのだ。
もうこれでは“希望”と言うより“脅迫”である。
 しかし、仮にも武士を志している者もいる道場の門下生たちが、こんな大口を叩ける様な力量があるとも思えない女などに言われっ放しで済ませられるわけがなかった。

「お前ッお――」
「その気組みや、良しッッ!!」

女の癖に、と猛毒つきの言の刃を食らわなかった男が堪り兼ねて怒鳴ろうとすると、門下生(下っ端)の後方から実に楽しそうな声が遮った。
その威勢の良い声を聞いて、相変わらず正面の男の喉に木刀の切っ先を突きつけている彼女はくっと口の端を上げた。

「近藤先生!」

どすどすと大股で前に出てくる男を見て、門下生の誰かが叫んだ。その後を仕方が無い、とばかりに土方が続き、猫を抱いたままの沖田がひょこひょこと付いて来る。
試衛館の師範、師範代が揃った、知る者にしてみれば錚々たる面子に、周囲は一瞬のざわめきを起こすが、土方の一瞥でシンと静まった。

「君の入門への意気込みはよぉく解った」

そりゃあ、こんな脅迫紛いの台詞を叩きつけられれば嫌と言うほど解ろうというものだ。

「数多ある道場の中からここを選んで来たことも嬉しく思う」

武州の中で、百姓だの百姓だの偶に免許皆伝の食客だのを抱えているだけのしがない道場を、こんなどっか派手派手しい女が選んだのは至極疑問なことだが、しかし師範よ、そんなに暢気なことを言ってて良いのか。

にこやかに、それはもうにこやかに機嫌よく並べ立てた近藤は、不満と不安を募らせる門下生を他所に、一瞬気合を貯め、本題に移ろうと少女を見下ろすが、

「しかし――」
「女だからだめ、なんて言うつもり?」
「前例が無い」

涙ながらに熱く語っていた近藤の本題を目線だけで留め、彼女が怒りを潜めた声で聞くと、パクパクと口を開閉させている近藤の替わりに土方がすっぱり切り捨てた。

女は家を守り、男は職に就き己を鍛え国を支える。そんな古習の中に生きてきた男たちにとって、女が武芸をするなどとは少なくとも彼らにとっては前代未聞の話である。
土方もその考えに異論は無い。それでも、目の前で臆せず男三人と対峙する女を注意深く観察していた。

小さな顔を乗せるには十分の細い首。外に出ることが無いのかと思わせる白い肌。帯を締めた腰も、裾から覗く腕もやはり細い。木刀を――ましてや真剣を振るうとは思えない程に。
女にしては些か乱暴すぎる言動や勝気すぎる目の輝きが無ければ、一体どこの深窓の姫君かと思うような容貌である。

「小さい事吐かしてんじゃないわよこの唐変木」

先程とは違ったざわめきが広がる。多くには知られていないが、土方はこの道場で人を斬った事がある数少ない一人で、武州の剣達者を斬った日からこの男の剣の腕前は道場で一、二を争うものでもあるのだ。そんな男に唐変木とは真剣を帯びた幕藩武士に異国語で話しかけるよりも危険である。
恐々と周囲が見つめる中心では、一言で倍返しを食らった師範代が、こめかみに青筋を浮かべている。

「例が無いなら作りゃあいい。女は家にいれば良いとか誰が考えたんだか知らない悪習なんて男の思い上がりが作ったんじゃない。女が剣を振るえるわけが無いとか思ってるならそれはあんた達の勘違いだわ。大体そんな小さいことに拘っている様じゃ大局を見据えられるわけが無いし、武士になってでかいことなんてできやしないわ」

土方が考えていたことまでズバズバと射抜く彼女は、相変わらず息継ぎなしで土方だけでなく周囲の男共も突き刺していく。

「でも――そこまで言うなら」

そこまでって近藤以外は一言二言しか発言してないのだが。内心ではともかく。
彼女は大きめの着流しの合わせの間に手を入れて、折った半紙を取り出した。

「これ、正しく読めたら一旦引いてあげる」

楽しげに笑みながら、半紙をきれいに開いて近藤に手渡した。
半紙に実に達筆な字で書かれていたのは、

『睦木斎早』

という四つの漢字であった。何かの呪文のようにも見えないし、酒や地名でもないだろう。しげしげと半紙を眺めつつ、近藤は思いついた読みを声に出してみる。

「むつみ、き・・・さいはや?」
「ぶっぶ――!」

大きく腕で×を作り、彼女はなんとも言えないイイ笑顔で間違っていることを示した。半紙を近藤の手から引ったくって土方に押し付ける。

少なくとも答えなければこの少女を追い返せないと悟った土方は、半紙をじっと睨んだ。自信満々で手渡してきた、ということは、その漢字のままに読んでも違っているということだ。
「睦」は“むつ”とも“ぼく”とも読むが、近藤が「むつ」と言った時、指先に若干の反応があったから、恐らく上は

「むつぎ・・・」

だろう。一度言葉を切っても何も言われないのを正解と取ると、次の二文字を考える。

「斎早」をさいはや、と読みたいところだが、この文字が一体何を意味するのかと考え、それがもしも何かの名だとすれば、

「さいぞう?」
「はっずれ―!」

いっそ楽しそうに笑いながら腕で×を作った少女は、土方から半紙を引ったくり、なぜか得意気に二人に半紙を突きつける。

「これは、私の名よ。いっくら我流を重んじるったって人の名くらい正しく読めなくちゃいけないわよねぇ?」

そんなんじゃ一旗上げようなんざ幻想の世界だわ。

半紙を丁寧に畳み直して懐に入れ、木刀を一振りして土を払い、えも言えぬ笑みを浮かべて木刀を肩に担ぎ、言い放った。


「私の名は、睦木斎早(むつぎときはや)。・・・この時世に名を馳せる男共を導く女よ」

次項

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