その喫茶店は、ビルとビルの合間、丁度風が吹き溜まる交差点の角にあった。
コーヒーの美味い気に入りの店の一つで、その日も残暑の夕暮れの涼しさに惹かれてのんびり散歩に出た帰りにふらりと立ち寄った。
小さなガラスの小窓が入ったクラシックな造りのドアを押し開く。
“カランカランッ”
微かに蝶番が軋む音の後、乾いた空気に軽いカウベルの音が抜けた。
店内は薄暗い。濃色の木の色で落ち着いた雰囲気の店内にはいくつかの白熱灯があるだけで、客も2,3人しかおらずゆったりした静けさが揺蕩っている。
人の囁きすら消せない音量の洋楽が、凝った静けさを柔らかく解して流れている。
既に顔なじみになっているマスターと視線を合わせて挨拶し、定位置となっている窓際の席――白熱灯がある真下に座り、手持ちの本を広げた。
芳しい匂いが鼻腔をくすぐる。文字列から目を上げると白い陶器のカップが置かれていて、匂いの元が湯気を上げて満たされている。更に目を上げると、穏やかな微笑を浮かべたマスターが佇んでいた。
“ありがとうございます”
“ごゆっくり”
静けさを壊さないようにそっと囁くだけの会話。
軽い会釈を残してカウンターに戻る背を見ながら、カップを取って啜ると、熱くて上質な香が口に心地よく広がった。
ほっと一息つける美味さに頬を緩め、じっくり味わいながらの読書に戻った。
丁度、カップの中身が空になる頃。水の雫が手の近くに落ちて、コツコツとノックされるようにテーブルが叩かれた。
自分のすぐ近くに佇む気配に気付いて顔を上げると、20代半ばくらいの女性がにっこり笑ってこちらを見ていた。
“こんにちは。相席いいかしら?他はいっぱいで”
“ええ・・・どうぞ”
ゆっくり周りを見回して見せた彼女に頷き、向かいの席を勧める。交わされるのはやはり囁きだけの短い会話だ。
彼女は座る前に軽く服をハンカチで拭いて、席に着いた。
“すごい雨ね”
“そのようですね”
ざっくりとかき上げた髪は湿っているようで、毛先には小さな滴が溜まっていた。
マスターを手振りで呼んでオーダーを聞くと、コーヒーをと返される。迷い無く、嬉しそうな言葉。常連だったのだろうか。
“コーヒーを二つ”
“かしこまりました、少々お待ち下さい”
静かな微笑みに、美味いコーヒーを味わった時とは違う意味で肩の力が抜けた。
ぱたん、栞を挟んで開きっ放しだった本を閉じる。耳を澄ますと、意識の底に潜水するような心地よい音楽と、時折通る車のエンジン音が聴覚をくすぐった。
“今日はどうしたんですか?”
“ちょっとね、彼氏の家に行こうとしたら雨にあっちゃって”
自分の家に帰ろうとしたが、迷ってしまったのだという。
恥ずかしそうな、照れたような苦笑を零しながら、彼女は少し寒そうな仕草で手を組んだ。
“傘は?”
“持ってくるの忘れてたみたい”
“送りましょうか”
“大丈夫よ、晴れたらきっと帰れるわ”
ひょいと肩をすくめる仕草には愛嬌がある。喫茶店に迷い込んできた彼女は、ここが自分の家のようにゆったりと寛いだ様子で椅子に腰掛けていた。
“お待たせしました”
“ありがとうございます”
“ありがとう、マスター”
“ごゆっくり”
雨、止まないわねぇ。止みませんね。なんて言い合いながら、徐々に暗くなってきた窓ガラス越しに見える外の景色を眺めていると、二つテーブルにコーヒーが置かれた。
一つは先程と同じブラック。もう一つはミルク付き。
“いい香り”
満足そうに微笑む彼女を見ながら、煎れ立てのコーヒーの味を楽しむ。まろやかな味わいと芳しい香りでやっぱり口元が緩んだ。
雰囲気のいい店と、美味しいコーヒー。正面に座る相手への気安さも手伝って、言葉はするりと零れ出た。
“お話、しましょうか。雨がやむまで”
“あら、いいの?”
“ええ。暇ですから”
嬉しそうな微笑で返され、深く頷く。これが正解だったのだ。
それから、彼女と他愛の無い話をして過ごした。飼い犬のこと、今日の散歩のこと、彼女は専門学校生で、彼氏は同じ大学の先輩だということ。この店のコーヒーの美味しさについて。
カタカタと時折風で窓の桟が揺れる。道路側に嵌められた大きな窓からは、夜を迎える前の強風に撓る木々や乾いた砂埃が巻き上がる様が良く見えた。
“私ね、犬って飼えないの。・・・ううん、動物を飼おうと思えないのかな”
“それは、どうして?”
“だって・・・人間以外の動物って何かと短命でしょう?私より先に死んでしまった命を前にした悲しみになんて、きっと耐えられないわ”
“一緒にいた時の幸せを思っても?”
“余計に辛いわよ。どうして今はいないのって悲しさが倍増しちゃいそう”
そういう彼女は、きっとペットを飼いたいと思える性分じゃないのだろう。その分、人との交わりを大切にする人らしく、彼氏との話は特に幸せそうに語ってくれた。
“今日はね、初めてあの人の家に行くつもりだったの”
“付き合ってもう結構経つんでしょう?”
“家が汚すぎて見せたくなかったんですって”
くすくすと零れる微笑は嬉しそうな感情に満ちていて、酷く柔らかい。
“でね、私が片付けてあげようかって言ったら、彼なんて言ったと思う?”
“・・・なんて言ったんです?”
“お前は俺の家政婦じゃなくて彼女だろって”
もう耳まで真っ赤にして言ったのよね〜
年上の癖に可愛いのだと惚気る姿はこちらが思わず微笑んでしまうくらい生き生きとしている。
そんな彼女を見て、ふと胸の内に影が差すのを感じたが、表には出さなかった。
幸せな思いで包まれている彼女に対して向けるべき感情ではない。
“その彼氏さんに迎えは頼まなかったんですか?”
“携帯の電池が切れちゃってね〜呼ぼうにも呼べなくて”
“彼氏さんは、今どこに?”
“どうかしら。・・・わからないわ”
静かな苦笑。竦められる肩は細く、胸元にかかった髪の先を見ると、先程よりも幾分か乾いていた。
“この喫茶店には長く来ているんですか?”
“そうね・・・付き合いはじめの頃、あの人が連れてきてくれたのよ”
その日は晴れだったわ。
そっと震える手をカップにかざし、懐かしむように目を細めた。まだ温かいコーヒーからは細い湯気が白く立っている。
ゆったりとした時間が過ぎる。彼女の言葉や思いは、薄暗い店内の中で光を放つように優しくて暖かだった。
“一緒にいてすごく楽な人なの。自然体の自分でいられる人”
“ずっと、一緒にいたかったんですよね?”
“そうね。・・・貴方は、不思議ね”
あなたも、一緒にいてすごく楽だわ。
そんな褒め言葉には言葉を返さず、ただ微笑みだけ渡してコーヒーに口をつけた。
効きすぎていない冷房の中、ゆっくりと温度を無くしていく液体は、喉に負荷を掛けずに香りだけ残して滑り落ちていく。
“ああ・・・雨が、止んできたようね”
“そうですね。・・・きっともうすぐ、光が差しますよ”
“そうね”
ふと窓の外を見れば、すっかり日が暮れていて、熾火のような光源のない赤が名残として残っていた。気づけば、店内の客は自分たちだけになっている。
カウンターの中ではマスターが上機嫌にグラスを磨いていた。
“家にね、ちっちゃい木彫りの犬の置物があるの”
“彼氏さんからのプレゼント?”
“そう。ペットを飼うのはダメだけど、動物が好きなのは気づいてくれてたみたいでね”
“犬が一番?”
“そう、次が猫で、後は鳥とか、タヌキとか”
これくらいの、と指で示す。小指くらいの小さな置物。沢山の種類の動物たち。温もりはなくても、贈った人の思いが彼女を癒しているのだろうか。
そっと胸に両手を押し当てる彼女を見ながら、カップをソーサーに戻す。彼女のカップを見ると、白く立っていた湯気はもうすっかり細くなっていた。
“大切にしてたんですね”
“もちろんよ。あの人が私を大切にしてくれてたのと同じくらい、大事にしてたわ”
“今も?”
“ええ、今も”
ほら、と広げて見せてくれた両手の上には、ちょこんと一つの小さな犬の木彫り人形が転がっていた。それを机の上に置いてころころ転がし、徐に手渡された。
“一つ、あげる”
“大事なものでしょう?”
“平気よ。家に帰ったらたくさんあるもの”
あの人にも会いたくなっちゃった、連絡しなくちゃ。
小さな木彫り人形。大雑把な作りのそれはどこか愛嬌があって、家で待っている飼い犬にどこか似ている。
確かな感触があるそれを握りこんで受け取り礼を言うと、大事にしてねと微笑で返された。
“うちまで帰れますか?”
“きっと平気よ。ここからなら”
嬉しそうに頷く彼女を見つめてからそっと外へ目をやると、とっぷり暮れた夜の闇、ビルの谷間の向こうから、左側を大きく抉った月が顔を出している。
目に煩いネオンの光が届かないこの奥まった場所に、細身とはいえ確かな光源である月は何かの標のように輝いていた。
“いい天気ですよ”
“・・・本当だわ。――お話聞いてくれて、ありがとう”
“僕でよかったなら、よかったです”
示されるのは感謝と安堵だ。彼女は静かに席を立ち、ぺこりと小さくお辞儀した。
“さよなら。貴方は、温かいのね”
“さよなら。素敵な時間でしたよ”
“こちらこそ、よ”
満足そうな微笑みの後、くるりと向けられた背中は細く、彼女が歩くにつれて靡く髪は既に乾いていた。
静かに、静かに物音を立てず、ドアから出て行った彼女の背を見送り、ほっと一息ついてコーヒーの最後の一口を啜る。
そして反対側――彼女の前に置かれていたカップに手をつけると、すっかり冷え切っていた。
カチカチ、ダイヤルを回す音がして、カウンター脇に置かれたランプの光が大きくなった。
オレンジ色の温かな光が、店の奥から小さな白熱灯を浸食しつつあった闇を柔らかく退け、店内のそこここに濃い影を作る。
暖炉の火を思わせる光に目を細めながら、カップいっぱいに残った彼女のコーヒーを一気に飲み干し、席を立った。
“800円になります”
“え?でも・・・”
一杯400円のコーヒー。紙幣を二枚出そうとしていた手をマスターの声が押し留めた。
払おうとした手から、紙幣を一枚だけ抜き取られ、おつりの200円を手渡される。
“ありがとうございました”
細く、目じりにしわを刻んだ笑みに、おつりをありがたく受け取り、また来ますとだけ言ってドアを開いた。
“カランカランッ”
小さく蝶番が軋む音がした後、軽やかなカウベルの音が少し気温の下がった夜の路地に響く。猫の爪よりも尚細い既朔の月が、ビルの谷間から暗い路地を照らしていた。
ちょっと出てくると言っていたのに、随分遅くなってしまった。とっぷり暮れた夜の暗がりの中、明るい光で家人を出迎える門灯に苦笑しながら玄関の扉を開くと、待ち構えていた犬に勢い良く抱きつかれた。
「しんいちぃいい!ちょっと出てくるってどこまで行ってたのさ連絡くらいしてくれたって良いじゃないか心配したんだからねぇえ!!」
わんわんと泣き出さんばかりにやかましく喚かれるが、ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の力が本当に心配だったと語っていて、うっかり蹴飛ばそうと上げた足を下ろして背中をぽんぽんと叩いてやった。
「悪い悪い。ちょっと寄り道と雨宿りの付き合いをな〜」
「雨宿り?今日雨降ってなかったけど・・・」
「だから付き合いだって」
まぁとにかく入れてくれ。
中々放そうとしない飼い犬、もとい快斗の頭を乱暴に撫でて腕を放させ、その手に小さな土産を渡してやった。
「・・・木彫りの、犬?どうしたのこれ」
「雨宿りしてた迷子の人に貰った。お前に似てるだろ」
似てるってなんですか犬だからですか飼われてるからですか動物っぽいからですか。
疑問が口に出さなくても不思議と駄々漏れになっている解りやすい同居人に苦笑しつつ、いい匂いが漂ってくるダイニングに向かった。
すると、どこからとも無く夏仕様の浴衣を着た座敷童が現れて、子供らしい笑顔で出迎えてくれる。
『おにいちゃん、おかえり〜!・・・おねえさんに会ってたの?』
「ただいま、瑠璃。そうそう、迷子のお姉さんだ」
『ちゃんとおうちに帰れた?』
「ああ、帰ったよ」
『おにいちゃん、あったかいもんね』
「あの人も、そんなこと言ってたよ」
探偵業なんてしている自分が温かいなんて言うのは彼らくらいなものだろうと苦笑しながら、ほとんど感触の無い彼女の髪を撫でてやると、照れたように笑って瑠璃は姿を消した。
リビングにでも行ったのかとそちらに目をやっていると、今度は背後からがっしりと大型犬に抱きつかれる。
「新一、おねえさんって?」
幾分か声が低い。立派に勘違いしているらしい男に一笑し、ぺしりと手をはたきながら振り返って、
「迷ってた人の話し相手になってただけだって。ちゃーんと家にも帰れたみたいだしな」
エプロンのポケットに入っている犬の置物を突きながら返し、それより腹減った〜と零して見せると、珍しい新一からの食欲への訴えに慌てた様子でキッチンに引っ込んでいった。
今年も猛暑だった所為ですっかり食欲を失くしていた新一の栄養状態を危惧していたのは、毎日抱きしめながら細くなっていく体を実感していた快斗なのだ。
手際よく次々出てくる二人分の皿に、食べれる時に少しでも多く食べさせようとしている魂胆が解ってしまって苦笑してしまう。
馴染んだ気配。自分の居場所にいるという安心感。こんな気分を彼女も味わえているだろうかと考えながら、新一は帰ってきた“家”の温かさに力を抜いて、快斗を手伝うためにキッチンへ足を踏み入れた。