今日は始まりの日だ。
これほどまでに喜ばしいことがあるだろうか。
我々は全ての膠着を解きほぐし瓦解させ膿を吐き出す。
我々は神の使者ではない。悪魔の遣いでもない。ただの人間だ。
我々を侮ってはならない。優雅に座っている余裕など、我々は決して与えはしない。
カナリアの鳴いた日
カチカチ、と小さく響くマウスの音。薄っぺらで仮初めの静かな気配。いつ壊されても可笑しくない、自分しかいない暗い空間でコナンはじっとパソコンの画面を見詰めていた。
彼の沈黙は、カチコチという小さな時計の音だけが響く静寂と張り詰めた雰囲気を保っている。夜の帳はとうに過ぎ、小学一年生の一般家庭では9時と定められやすい就寝時間は、彼の前ではあまりにも呆気なく破られることになる。そんなことをいえば、自分は本当は17歳なのだからという反論が返ってきそうだが、残念ながら彼が今小学一年生の姿であることを真っ向から正そうとする奇特な人間はこの場には存在しなかった。
隣家の少女ならば、「健康の為よ」とだけ言って脅してでもベッドに括り付けて人間の三代欲求の一つを満たさせようとするだろうが、その彼女がこの部屋に突如出現するという都合のよい事態が起こることも無い。
だから、彼の思考を止めるものは今現在ここには存在していなかった。
稀有な蒼い目は、今や何かに驚愕してたった一つの画面に釘付けにされている。ある情報屋から流れてきた情報。幾つものトラップを仕掛けた自分だけのメールボックスに突っ込まれていた、自分にとってはかなり有益となるそれに、自然と口元に浮かぶ笑みは深く鮮やかに刻まれていく。
もしも今の彼の姿を見たものがいたとすれば、外見の幼さからは到底考え付かない艶やかさに呆然とするところだろうが、生憎彼の表情を拝める人間はいなかった。
数十秒も掛けてそのメールを数度に渡り何度も読み返し、覚えてしまった文面を小さく口の中で唱えるように囁いてから、コナンは肩を小刻みに震わせた。
「・・・・・・クッ・・・・・・っ」
耐え切れない、というように彼は声に出して笑う。それにより静寂は簡単に崩れ落ち、緊張していた空気はあっという間に愉快で堪らないという彼の明るい気配に飲み込まれた。
今までは微塵も見えなかった「勝機」。自分に毒薬を飲ませ、目的の為には手段を選ばない、殺人も厭わないという、裏世界に広く浸透して勢力を拡大して行く「黒の組織」を崩壊させる力と手段が、今までは殆ど無いと言ってもよかった。
コナンが何かをしたとしても、それは太く高い柱を周りから削って行くようなもので、その中枢に近づくには、今の自分では悔しいことにそれこそ時の運を信じて待つしかなかったのだ。
八方塞という状況にぶち当たり、どうしようかと手をこまねいている時に届いた情報で、突然大きく広がった可能性にコナンは歓喜する心を止められない。ここでは自分一人なのだから止める必要など無いのだが、それでもコナンは自分の平静を保つ為に一度目を閉じ、内心に宿る火を静かに抑えてゆらりと再び目を開いた。
「・・・あいつと、あいつと一緒なら、きっと・・・・・・!」
小さく。小さく夜の闇に支配されている空間に向かって囁くのは、途方も無い胎動の予感を伴うたった一つの決意だった。
全てを、掴み取る為に。
†††† †††† ††††
高くエンジン音を唸らせながら公道を通り過ぎて行くバイク。クラクションの音。遠くでサイレンが響く音。同じ建物の中に居る、複数の人の気配。そんな周りの全てを一先ず遮断して、快斗はパソコンの画面を凝視していた。
ビッグジュエルの来日も展示会も最近では特に無く、夜の姿でない快斗は敵対する組織に接触することが滅多に無いため、KIDの隠れ家のマンションの一室で自らの追う組織の情報収集に励んでいた。
家のパソコンでも出来ることは出来るのだが、母親や幼馴染が近くに居ることもあって、用心の為にも場所を移した方が無関係の人間が狙われる可能性は低いからだ。勿論、もしも自宅で情報収集をしても向こうに気取られるようなことは有り得ないのだが。
「・・・ハッ・・・・・・う、そだろ・・・!?」
パソコン画面を凝視する彼の表情は「何故」という疑念と「信じられない」という驚愕に満ちていた。
そして、その事が真実であると認識すると、今度はクツクツと込み上げる笑いに身を任せた。自慢のポーカーフェイスも大きすぎる悦びと興奮の中では役に立たない。
「ある筈のないところに、追い求める情報があった」なんて怪しすぎるボタモチだったが、それはそれだ。今は、手に入れたばかりの情報を使ってどう動くか。それが問題なのだ。
ハッキングを掛けていたのは、組織に連なっていると思われるある企業のメイン・コンピューター。
そこには自分が追い求めるものへの糸口の替わりに、最高のライバルともいえる彼が追い求めるものへの、様々な要素を内在した情報があったのだ。
この際、問題は自分の望む情報がなかったことなどではない。
彼が追う組織の情報が、自分が追う組織の情報と微かな接点を見せたことだった。
(・・・まさか、本当に叶うなんて、な)
弱い月明かりの元で、月下の奇術師の仮面を被った少年はにやりと笑った。そこにあるのは期待。希望。見えなかった光への道筋を捉えたという確かな確信だった。
ずっと考えていたのだ。もし彼と同じ組織を追っているのなら、たった一人で立って突き進んで行く彼の背中を押し、時には支えられるかもしれない、・・・彼の隣に立てたかもしれないのに、と。
今までにも彼には横から手を差し伸べていたが、必要最小限の場合だけで、遠くから見ていてハラハラするような出来事は、彼自身の性質もあって何百回とあったのだ。
それだけではない。自分の方の事態も最近では一向に進展せず、かなりの苛立ちや焦燥感に駆られていたのも事実だった。
・・・長く思い続けていたことが、たった一つ現実になった。
この情報がどこから入っているのかは知らないが、今は取り敢えず奥まで追及することはせずに快斗はパソコンの電源を切った。
何か、大きな何かが動いているような気配がする。
しかし、快斗はその正体に気づくことなく、ゆっくりと目を閉じた。
彼と再度会い見える日を思って。
†††† †††† ††††
「・・・・・・なあ、灰原。思いっきり巻き込みたい奴が居るんだけどさ」
突然インターホンを鳴らし、不敵な笑みを閃かせながら開口一番に告げた相手に哀は困惑し、同時に呆れた。
いつかは来るだろうな、と思っていた矢先の申し出に、先程までパソコン画面を睨み付けていた目を軽く擦り、眉間を揉み解しながら特大級の溜め息を吐いた。
その言葉はかなり突飛なもので、それが彼から発されたとあっては、明日は地震や雷だけでなく、彼の予言者がはずしたという恐怖の大魔王が降ってくるかもしれない。
「・・・それはつまり、誰かをこちら側の味方に引き入れようってことよね」
「ああ」
咎める口調に気づいたのか、幾分申し訳なさそうな顔をしてコナンはゆっくりと頷く。しかし、不敵な笑みはそのままだ。
「その相手、聞いてもいいかしら?」
彼の崩し得ないニコヤカな笑顔に半ば呆れながら哀は相手を問うた。彼が手を結ぶといえば、様々な面に優秀であり、組織の事とこちらの事情を知っていて、更には共犯者の立場にある自分も知っている人物でなければならない。
(・・・そんな都合のいい人、いたかしら?)
ふと脳裏を掠めた影にわざと目を瞑って、哀は内心首を傾げた。
しかし、その疑問は簡単に解消された。・・・・・・畏れていた可能性を、目の前の彼に肯定される事で。
「・・・怪盗KIDだよ」
鮮やかともいえる微笑みに思わず目眩を起こしそうになった。
「・・・正気なの?」
本当なの?とか本気なの?なんて聞かない。彼は誰よりも「探偵」という種を忠実に体現している人間であり、どんなに歪んでいようとも真実だけを見出し明かす性質を持っているから。それに、本気かどうかは彼の輝く蒼を見れば容易に解った。・・・解ってしまった。
「正気だぜ?この上なくな」
まぁ、ちょっと興奮してるけど。
付け加えられた言葉に嘆息し、哀は自分の体を少しずらして扉を大きく開けた。
どうせ、こうなってしまった彼は誰にも止められやしないのだから。それに他ならぬ彼の希望なのだから、自分はこうして伺いたてられなくても多分許しただろう。彼も知ってるはずなのにこうして訪れたということは、まだ彼は近くに居るという事だから、取り敢えずは良しとする事にした。
「立ち話もなんだし。・・・作戦、立てるんでしょ?」
言って、中に招き入れる。
「勿論さ」
当然の如く頷いて、コナンはニヤッと共犯者の笑みを浮かべ扉を潜った。
火蓋は切って落された。
この後、コナンはKIDに接触し、契約を取り付ける事に成功する。
善意も悪意もない。ただただ自分達の目的の為に。
遠くへの自分の未来を築く為に。
END
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