・・・明夜・・・
窓の外では、しとしとと寒い雨が降っていて、空には白色混じりの薄い雨雲が、遠く目の届く限りの天上を覆っている。
大雨になる気配はなく、雷が鳴る様子も無く、ただそこにひっそりと留まって、細い滴を長い周期に渡って地上に降らせていた。
工藤邸の住人が増えたのは、こんな雨の降る日だった。
事件で呼び出しを受けた帰り道、「雨が降りそうだから」と言って送迎を名乗り出てた高木刑事の申し出を断り、それならせめてと傘を貸そうとしてくれたそれすら拒んで、今にも雨が降りそうな道のりを新一はのんびりと歩いていた。
細かな水滴や仄かに濃くなった水の匂いを感じたのは、事件現場を去ってから間もなくしてのこと。
しかしそんな事は全く頓着せずに、一応心の中では隣家の少女科学者になんと良い訳しようか思案しながら、取り敢えずは気の向くままにと近くの小さな公園に足を進めた。
――最初は空耳だと思っていた。
あまりにも小さな鳴き声に、ぱっと視線を周囲に走らせても特に何も無く、それでも訝しんで突っ切ろうとしていた小さな滑り台の下を覗いてみると、小さく丸まった仔猫が一匹、薄汚れたダンボールの中に入っていた。
砂埃に塗れた毛並みは灰色になっていて、少し痩せてしまっている体は細かく震えている。その小さな姿に、ひっそりと闇の中で脅えている子供の姿が重なって、思わず新一は仔猫のは言ったダンボールに近づいた。
そっと触れてみた毛並みは柔かく、凍えそうなほど冷たかった。
「・・・なぁ、お前も・・・一人か?」
ミー・・・と小さく肯定するように鳴く猫。不意に、得も言えぬ愛しさが込み上げてきて、冷えてしまった手で仔猫を抱き上げた。
灰色に汚れてしまった毛並みの奥は暖かく、新一は精一杯優しく抱き締める。汚れた毛並みの奥は美しく、元々は白猫だったのだと伺えた。
「お前、俺の家に来るか・・・?」
その暖かさに口元を緩ませ、小さく声を掛けてみる。すると、仔猫はすりすりと擦り寄ってきて、こちらの言葉が解っているようにミー・・・と再び小さく鳴いた。
「・・・お前の名前、どうしようかなぁ・・・」
なんて、答えられもしない仔猫に話し掛け、擽るように喉を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めて仔猫はごろごろと小さく喉を鳴らした。
新一はこれ以上濡れない様にと、コートの中に仔猫を入れてやり、これ以上冷えてしまわない様にと、先程のローペースとは打って変わって足早に帰路についた。
玄関の鍵を開けて、仔猫を下ろさずに新一は取り敢えず脱衣所に向かった。結構長い時間を雨の中で過ごしたので、体が芯まで冷え切ってしまっている。指先などにおいては、既に感覚が無くなってしまっていた。
仔猫を先に浴室の中に入れ、どこか不安そうにこちらを見上げてくる仔猫に微笑みかけてその小さな頭を撫でた。
「お前もついでに洗ってやるよ」
と首の辺りを軽く一撫でしてから指先を放し、服を脱いで新一は浴室の中に入った。
浴槽に熱めの湯を勢いよく出し、温度をしっかりと確かめてからジャーッと仔猫の頭からシャワーで湯を掛けてやると、仔猫は気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らした。猫は風呂が嫌いというが、この仔猫は別らしかった。
自分の体も冷えない様にしっかりとお湯を掛け、流石に猫用のシャンプーなんて置いてないので、自分がいつも使っているシャンプーを出して、
「洗ってやるから、おとなしくしてろよ?」
と声を掛けてから灰色の毛並みをわしわしと擦り、丁寧に洗った。するとたちまち仔猫は泡塗れになり、プルッと首を振り回していた。それに気がついて、新一はゆっくりとシャワーで泡を洗い流した。
現れたのは、最初に見て思った通りの、真っ白い毛並みの美しい仔猫だった。その姿に彼の待ち人を思い出して新一は一瞬静かに哀愁を湛えた目で微笑み、口では
「・・・風呂に放り込んだら・・・溺れるかな」
などと酷いことを考え、すぐに止めようと軽く頭を振ってその考えを打ち消した。
手早く自分の髪と体を洗い、仔猫を抱えて湯の張った浴槽に入ると、熱かったらしくミギャァ!と悲鳴を仔猫が悲鳴を上げて暴れ出した。
ドボボボボ・・・と水を足して湯を温め、浴室の隅の方で固まっている仔猫を抱え上げて、新一はその小さな体をもう一度湯に浸からせた。
丁度良い温度だったらしく、仔猫は幸せそうにごろごろと喉を鳴らして目を細めている。そういう処はやけに人間臭くて、つい新一はくすっと小さく笑ってその頭を撫でた。
のぼせる前に風呂から上がり、服を着て、濡れ髪のまま肩にタオルを引っかけて猫をバスタオルでくるんでリビングへ向かう。
ソファに腰を下ろし少し乱暴に包んでいたバスタオルでわしわしと濡れた猫を拭いて、ひょいっと帰って来た時とは全く別物に見える白猫を抱えて、大人しい猫を正面から見詰めた。
「・・・お前の名前、どうしようか・・・?」
と言いながら、じ〜〜っとこちらを見つめ返してくる猫に微笑んだ。
真っ白なふわふわの毛並み。くるくると大きな目は漆黒で、まるで夜がそのまま溶け込んだような色だった。
膝に下ろすと、仔猫は気持ち良さそうに丸まってニャーと小さく鳴く。
「・・・・・・・・・ヤト」
口の中で唱え、もう一度音に変換する。
「夜斗」
そう呼びかけると、ぱちくりとこちらを振り向く仔猫。
「お前の名前だよ。気に入ったか?」
その小さな頬に指を滑らせながら聞くと、夜斗はペロペロと新一の指先を舐め、くるんと丸まって今度こそ眠った。
新一は自分の髪を軽く拭いて、ポスッとソファに寝転がり、たった今命名した夜斗を自分の腹の上に移動させてその小さな温もりに目を細める。
夜斗。白日の日差しを思わせる毛並みの猫に、闇色の夜の名を付けるのは、結局のところ自分のエゴだ。暖かな熱を持つ白い生き物。この小さな生き物で己の焦燥を溶かそうとする弱さとに、思わず新一は寂しげな笑みを浮かべた。
すぐ戻るから、とだけ言って、未だに何の連絡も寄越さない彼。
もしかすれば大怪我を負っているかもしれない。どこかで倒れてしまったのかもしれない。・・・死んでしまったのかもしれない。
そんなマイナス思考に捕われがちになってきた心は酷く寒くて、いつもならば拾ったりしない仔猫を拾った。
動物は、多分自分よりも早くに死ぬから。幼い頃からそれが分かっていた所為か、ペットを飼おう思ったことすらなかったのに。
「・・・・・・暖かいな・・・」
小さく呟いて、新一は目を閉じた。
彼を待ち続けている日々が苦痛と思わなくなったのは、既に隣家の少女からも可愛がられるようになってすっかり懐いてしまった仔猫・・・夜斗のおかげだと言えた。
ペットを飼うと心が和むという人もいるが、それは本当だったんだな、と窓の外の雨音を聞きながら少し前の雨の日を思い出していた新一は、自分の膝の上で眠る夜斗を撫でてやりながら納得する。
拾った当時は痩せ細っていた体は今ではすっかりしなやかな肉付きを取り戻し、毛並みは一層艶やかになっている。
時折甘いものを食べていると擦り寄ってきたり、魚よりも肉類を好む辺りは待ち人と似ていて、魚嫌いが発覚して、つい思い切り笑ってしまった記憶はまだ新しい。
「・・・・・・とっとと帰って来いよな・・・」
と月の隠れてしまっている夜空を見上げ、新一はどこに居るとも知れない待ち人に囁いた。
待ち焦がれた恋人が笑顔と共に帰るのは、きっともうすぐ――
END
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