そこはもはや廃墟でしかなかった。
石床は冷たく、かつてあった温もりはとうに過ぎ去った。
壁はところどころ剥がれ落ち、ひび割れは天井、床を問わず、館全体に至る。
中庭に植えてあった草木も荒れ放題で、さながら館を飲み込もうとしているかのようだ。
美しい水を吐き出していた噴水も止まり、澱んだ濁水がゆらゆら揺れていた。
これが、かつて美しかった自らの館だと思うと、苦い思いが沸き起こる。
「…随分、荒れたものだ。」
かろうじて形を留めていた獅子の彫刻に手を伸ばす。
だが、触れた途端にそれはさらさらと崩れ、手に残ったのは一握の砂のみ。
それも、零れ落ちていった。
《 かくて魔神は律に叛き 〜慟哭は遍く響く〜 》
権勢を失った神は、急速に没落する。
今更ながら思い知る、世界のシステム。
己の信徒に力添えをし、己への信仰のため、すなわち己の力の増大のために神々もまた戦う。
宗教とはそういうものであり、そしてこれが敗者の末路というわけだ。
いかなる偉大な神であっても、信仰を失えば衰え滅ぶ。
「…まさに栄枯盛衰、諸行無常だな。そう思うだろう、アスタルテ?」
「なんだ。気付いてたの、アシュタル。」
柱の影から、女神アスタルテがその姿を現す。
なめらかな光沢を放っていた衣も、ところどころ煤で汚れてしまっていた。
彼女は戦地において、優秀な戦士でもあるからな。
「何の用だ? 今日はお前の夫とも、お前とも争う気はない。感傷ぐらい、ひとりで浸らせろ。」
「そう邪険にしないでよ。私もアンタも、今じゃ負け組。似たようなもんでしょう?」
そう言って彼女は、ふらふらとした足取りで歩いてくる。
見れば、ほんのりと赤らんだ顔に、甘い匂い。
そして彼女の手の中にある、蜂蜜酒の大きな酒瓶。
「…飲んでるんだな。」
「何よぅ! これが飲まずにいられますかってーの!」
言うや否や、彼女はぐいっと思いっきり呷るようにして飲んだ。
「アンタも付き合いなさい。もちろん、断らないわよね?」
「いや、俺は…。」
「よ・ね!?」
「……だから。ひとりで浸らせろといっただろう。」
そう口にしながらも渋々と彼女の後を付いていく自分が、なんだかひどく情けなく思えた。
様々な物が朽ち果てた中でも、比較的無事だったテーブルに二人でつく。
腰を下ろしたとき、ギシリと大きく軋んだ。
アスタルテが二つの杯に、それぞれ酒を注ぐ。
「まあ、これで私らもこれからは魔族ってわけね。」
「…それも魔神クラスのな。しばらくはその立場でいるしかない。」
強大な力を持つ魔神は、それゆえに再び神の座に還るのは難しい。
人間たちの中でのイメージが、根強く残ってしまうせいだ。
神や悪魔というものは、言ってみれば『概念』そのものの存在だ。
そしてそれは、良くも悪くも人の認識に強く影響を受け、その在り方すら左右される。
今回の相手はかなりの版図を持つらしいから、それこそ世界の文明が一新される必要があるだろう。
「まあ、いつか返り咲いて見せるさ。今度は俺が王としてな。」
「…根拠のない自信も、ここまで来るといっそ気持ちがいいわね。」
「フン…。」
いつもなら彼女の軽口に食って掛かるが、今はそんな気分ではなかった。
杯の酒を、一口で飲み干す。
「…その時、俺の隣にはお前がいる。」
まさか、その一口で酔ったわけではないだろう。
だが、気付いたときには、ついそう言ってしまっていた。
偽ることなき、己の気持ち。
彼女は最初、きょとんとした表情を向けていたが、やがてそれはいつもの、茶化す様な笑みに変わる。
「何よ。口説いてんの、それ? 無駄よ。」
「それでも、だ。諦めることは出来ない。」
一度言ってしまえば、後は開き直ったものだ。
彼女への想いを、何のてらいもなく口に出せる。
その時、自分はどんな表情をしていただろう。
微笑んでいた、ように思う。
だが、それを見ていたはずの彼女は。
彼女は…寂しげに見えた。
「…でも、無理なのよ。……ゴメン。」
「アス…!?」
彼女の様子に妙なものを感じて立ち上がりかけ…そのまま床に膝をつく。
手足に力が入らない。
「な…何だ…?!」
「薬よ。」
わけもわからず混乱していると、頭上から声をかけられる。
顔も持ち上げられないので、視線だけを動かしてみれば、アスタルテがこちらを見下ろしていた。
冷酷ともいえる、無表情で。
「アンタの杯にだけ、即効性の薬を入れておいたの。しばらくは、動けないわよ。」
「な、何故…だ…!?」
声を出すだけでも一苦労だが、それでも何とか問い質す。
アスタルテはゆっくりと歩み寄ると、目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「通達が来たのよ。あちらさんからのね。」
恐らくは、今回の戦いの勝利者側からだろう。
だが、一体何を…?
「『女神アスタルテは、魔神となるにあたり、同胞アシュタルを吸収せよ。』」
「なッ…!?」
アスタルテが語った内容に、俺は絶句する。
パワーバランスの関係で、アスタルテの力を扱いかねているらしい。
低級や並みの魔神にしては強大すぎ、それ以上の上級の魔神にはわずかに足りない。
そこで、他の神─この場合は俺─を吸収して、その分を補おうというのだ。
「まあ、名前が似ているから混乱する、ってのもあるかもねぇ。」
「ふざ…けるなッ…!!」
あはは、と脳天気に笑って言う彼女を、動けないまま睨みつける。
そんな馬鹿げた理由で消されるなど、絶対にご免だ。
彼女はそんな俺の視線にも、困ったように笑ってみせるだけで。
「まあ、そういうわけだからさ。…悪く思わないでね。」
「……。」
しばし互いに無言のまま。
やがて、俺はひとつ大きく息を吐き、目を閉じる。
「…好きにしろ。」
「うん…ごめんね。」
彼女の手が俺の胸にあてられる。
軽く後ろに押されて、上体が反らされるような体勢になる。
その間、ずっとなされるがままだ。
薬が効いているのもあるが、それ以前に自分の言動を自嘲していたからだ。
こうして消える運命とも知らず、叶う筈のない夢を彼女に、誇らしげに語る。
滑稽だ。
それ以外の何ものでもなかった。
だが、「彼女の一部となれるのなら、それもいいか」とも思ってしまう。
それもまた、つくづく滑稽だ。
やがて、彼女の手を介して、力は失われていく。
この魂も、存在も。すべてが彼女へと流れていき、同化するのだ。
そう、今にも─。
「─…?」
だが、いつまでたってもそんな気配がない。
それどころか、むしろ力が充実していた。
体が動かないのは相変わらずだが、確かに今、自分の体には力が溢れんばかりに満ちている。
まるで、どこからか『流れ込んでいる』かのように─。
「─…ッ!! 何をしているんだ、アスタルテ!?」
不審に思い目を開けた俺は、驚愕に叫んだ。
彼女の手から、力が注がれていた。
そして、彼女自身の姿が、うっすらと薄くなり始めている。
これでは、逆だ。
彼女が俺を吸収するのではなく、『俺が彼女を吸収』してしまっているではないか。
アスタルテは、相当辛いだろうに、穏やかそのものの表情で微笑んだ。
「私の性格は知ってるでしょ? 誰かの言いなりなんてまっぴらよ。」
それはいつもの彼女であった。
そして、いつも通りであるからこそ、その本気を悟る。
「魔神になるなら、私じゃなくてアンタが残ってもいいのよね。別に。」
「そういう問題じゃ…!!」
とにかく身を離そうとする。
だが、当然ながら体は動かない。
「無駄だってば。この薬はバァルを、あの人を押し倒したときに使ったやつなんだから。」
「そんな事してたのかッ!?…じゃなくて、そうだ! バァルだ!! こんな事、あいつがどう思うか…!!」
「あの人なら心配いらないわ。」
「心配いらないって、そんな訳が…─!!」
さらに抗議の言葉を続けようとしたが、その口を押さえられる。
アスタルテは俯いていて、その表情は見えない。
「…言わないで。それ以上は、辛くなっちゃうから…。」
「……。」
その力無い姿に、覇気の無い声に、何も言うことができなくなった。
わずかな沈黙の間も、確実に彼女は消えつつあるというのに。
何も、言えなかった。
「……本当はね。」
だから、しばらくして沈黙を破ったのも、またアスタルテだった。
「本当は、あちらさんへの当てつけとか、そんなの関係ないの。」
ならば、こんな馬鹿げたことは、今すぐ止めろ。
そう言いたかった。言ってやりたかった。
だが、言葉として出てこない。
「楽しかったよね。私たち三人でさ。あの人が…バァルがいて、アンタもいて。」
彼女の意思は、変わらない。
そんなことは最初から分かっている。
だから、言葉が出ないのは、それが理由じゃない。
「…ずっと、三人で馬鹿やっていけると思ってた。でも…アンタだけが消えるってわかって…。」
言葉が出てこないのは─。
「アンタを吸収して私が生き延びるって…その事に私が耐えられそうになかっただけ。」
喉を塞いでいるのは、ただ─。
「だから、これは…私の臆病なワガママ。」
ただ、俺が泣いているからだ─。
「…ゴメンね。私が耐えられないからって、アンタに押し付けて…酷いよね。」
俺は首を横に振る。
もしも。
もしも、自分が同じ立場であったらどうしただろう。
そんな仮定は無意味で、実際に直面しない限り、断言出来るものではない。
だが、それでも俺は彼女と同じ方法を選択しただろう。
少なくとも、今の俺はそちらを選択したかった。
たとえ、自分が消えるとしても、彼女には笑っていてほしいから。
同じことをするだろうから、俺は彼女を責めることも、否定することも出来ない。
そう、彼女は酷いわけじゃない。彼女は─。
「……お前は、卑怯だ…!」
泣きながら、なんとかそれだけを口にする。
彼女が、また謝る声が聞こえたが、それがひどく遠い。
流れ込んでくる力とともに、彼女の悲しみも伝わってくる。
今はもう、この涙がそのためなのか、それとも自分のものなのか、分からなくなっていた。
ただ溢れてくるままに、泣いた。
俺は神々の王となりたかった。
それは間違いなく本心だ。
バァルに何度となく挑み、打ち負かされ。
アスタルテにからかわかれ、呆れられながら。
俺は悪態をつき、それでも…楽しかった。
楽しかったんだ─。
「俺は、ただ君の傍にいたくて…それで強くなりたくて…。」
「─…アンタは充分、強かったよ。泣き虫だけど。」
彼女の笑顔が、透けて見えた。
ぎこちない動きで、その笑顔に手を伸ばす。
「……強くなんか、なりたくなかった。王の座も、どうでもよかった…。」
伸ばされた手は、彼女に触れることなくすり抜ける。
それでも、何とか触れようと手を動かす。
繋ぎとめようとするかのように。
「ただ…ずっと続けばいいと思ってた。ずっと…君と一緒に…─。」
彼女の瞳からも、一筋の涙が落ちた。
初めて見る、彼女の涙。
俺の手はそれさえも掴むことはできず、涙はただ地に落ちていった。
「さよなら…アシュタル─。」
どれほどの間、そうしていたのか。
うずくまったまま、ゆるゆると手を持ち上げる。
以前のものと違う、銀色に輝く自らの長い髪の間に指を差し入れると、何か硬いものに当たった。
びくっと手を震わせ、やがてゆっくりと立ち上がる。
ふらふらと、夢遊病者のように。
ふらふらと、あてもなく彷徨う放浪者のように。
庭に出て、すでに水の止まった噴水へと向かう。
覗き込めば、濁った水がゆらゆら揺れて。
浮かび上がるように、一つの人影が映りこむ。
それは紛れも無く、かつての自分の顔。
だが、どこか彼女の面差しが混じった、『私』の顔。
長い灰銀の髪。細い三日月形の角。
彼女が残していったもの。
震える手を持ち上げ、表情を無くした顔を、あちこち触ってみる。
頬に触れる。
視線が激しく揺れ動き、足元が頼りなげで世界がかすんでいく。
なのに、映りこんだ顔ははっきりとしていて。
爪を立てると、皮膚を破る感触。
流れ出るのは魔族の血。
そのまま、頬をゆっくりと引き裂いていき。
すでに表情は、ぐしゃぐしゃに歪んで。
慟哭が迸る。
それは言葉にならない、ただの音。
閑散とした館を駆け抜け、そして虚しく消えていく。
私の中に消えていった彼女が、決して最後まで口にしなかった断末魔の代わりであるように。
憎むべき相手も定められぬ、私の怨嗟が。
ただ、慟哭する─。
この話を思いついたのは、『アシュタロス』について神話関連サイトを調べていたときです。
女神アスタルテが、男神アシュタルを吸収し性転換したという記述を見て、「じゃあ、実際どんな感じだったんだろう?」とか考えたのが始まりでした。
で、(女性の魔神もいるのに)何でわざわざ性転換したのか、とか、ひょっとして逆だったりするのか、とか考え出してこんな話に。
次回で完結ということになります。
読んでいただければ有難いです。では。 (詠夢)