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かくて魔神は律に叛き

慟哭は遍く響く


投稿者名:詠夢
投稿日時:05/ 7/29

そこはもはや廃墟でしかなかった。

石床は冷たく、かつてあった温もりはとうに過ぎ去った。

壁はところどころ剥がれ落ち、ひび割れは天井、床を問わず、館全体に至る。

中庭に植えてあった草木も荒れ放題で、さながら館を飲み込もうとしているかのようだ。

美しい水を吐き出していた噴水も止まり、澱んだ濁水がゆらゆら揺れていた。

これが、かつて美しかった自らの館だと思うと、苦い思いが沸き起こる。


「…随分、荒れたものだ。」


かろうじて形を留めていた獅子の彫刻に手を伸ばす。

だが、触れた途端にそれはさらさらと崩れ、手に残ったのは一握の砂のみ。

それも、零れ落ちていった。







《 かくて魔神は律に叛き 〜慟哭は遍く響く〜 》







権勢を失った神は、急速に没落する。

今更ながら思い知る、世界のシステム。

己の信徒に力添えをし、己への信仰のため、すなわち己の力の増大のために神々もまた戦う。

宗教とはそういうものであり、そしてこれが敗者の末路というわけだ。

いかなる偉大な神であっても、信仰を失えば衰え滅ぶ。


「…まさに栄枯盛衰、諸行無常だな。そう思うだろう、アスタルテ?」

「なんだ。気付いてたの、アシュタル。」


柱の影から、女神アスタルテがその姿を現す。

なめらかな光沢を放っていた衣も、ところどころ煤で汚れてしまっていた。

彼女は戦地において、優秀な戦士でもあるからな。


「何の用だ? 今日はお前の夫とも、お前とも争う気はない。感傷ぐらい、ひとりで浸らせろ。」

「そう邪険にしないでよ。私もアンタも、今じゃ負け組。似たようなもんでしょう?」


そう言って彼女は、ふらふらとした足取りで歩いてくる。

見れば、ほんのりと赤らんだ顔に、甘い匂い。

そして彼女の手の中にある、蜂蜜酒の大きな酒瓶。


「…飲んでるんだな。」

「何よぅ! これが飲まずにいられますかってーの!」


言うや否や、彼女はぐいっと思いっきり呷るようにして飲んだ。


「アンタも付き合いなさい。もちろん、断らないわよね?」

「いや、俺は…。」

「よ・ね!?」

「……だから。ひとりで浸らせろといっただろう。」


そう口にしながらも渋々と彼女の後を付いていく自分が、なんだかひどく情けなく思えた。








様々な物が朽ち果てた中でも、比較的無事だったテーブルに二人でつく。

腰を下ろしたとき、ギシリと大きく軋んだ。

アスタルテが二つの杯に、それぞれ酒を注ぐ。


「まあ、これで私らもこれからは魔族ってわけね。」

「…それも魔神クラスのな。しばらくはその立場でいるしかない。」


強大な力を持つ魔神は、それゆえに再び神の座に還るのは難しい。

人間たちの中でのイメージが、根強く残ってしまうせいだ。

神や悪魔というものは、言ってみれば『概念』そのものの存在だ。

そしてそれは、良くも悪くも人の認識に強く影響を受け、その在り方すら左右される。

今回の相手はかなりの版図を持つらしいから、それこそ世界の文明が一新される必要があるだろう。


「まあ、いつか返り咲いて見せるさ。今度は俺が王としてな。」

「…根拠のない自信も、ここまで来るといっそ気持ちがいいわね。」

「フン…。」


いつもなら彼女の軽口に食って掛かるが、今はそんな気分ではなかった。

杯の酒を、一口で飲み干す。


「…その時、俺の隣にはお前がいる。」


まさか、その一口で酔ったわけではないだろう。

だが、気付いたときには、ついそう言ってしまっていた。

偽ることなき、己の気持ち。

彼女は最初、きょとんとした表情を向けていたが、やがてそれはいつもの、茶化す様な笑みに変わる。


「何よ。口説いてんの、それ? 無駄よ。」

「それでも、だ。諦めることは出来ない。」


一度言ってしまえば、後は開き直ったものだ。

彼女への想いを、何のてらいもなく口に出せる。

その時、自分はどんな表情をしていただろう。

微笑んでいた、ように思う。

だが、それを見ていたはずの彼女は。



彼女は…寂しげに見えた。



「…でも、無理なのよ。……ゴメン。」

「アス…!?」


彼女の様子に妙なものを感じて立ち上がりかけ…そのまま床に膝をつく。

手足に力が入らない。


「な…何だ…?!」

「薬よ。」


わけもわからず混乱していると、頭上から声をかけられる。

顔も持ち上げられないので、視線だけを動かしてみれば、アスタルテがこちらを見下ろしていた。

冷酷ともいえる、無表情で。


「アンタの杯にだけ、即効性の薬を入れておいたの。しばらくは、動けないわよ。」

「な、何故…だ…!?」


声を出すだけでも一苦労だが、それでも何とか問い質す。

アスタルテはゆっくりと歩み寄ると、目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「通達が来たのよ。あちらさんからのね。」


恐らくは、今回の戦いの勝利者側からだろう。

だが、一体何を…?


「『女神アスタルテは、魔神となるにあたり、同胞アシュタルを吸収せよ。』」

「なッ…!?」


アスタルテが語った内容に、俺は絶句する。

パワーバランスの関係で、アスタルテの力を扱いかねているらしい。

低級や並みの魔神にしては強大すぎ、それ以上の上級の魔神にはわずかに足りない。

そこで、他の神─この場合は俺─を吸収して、その分を補おうというのだ。


「まあ、名前が似ているから混乱する、ってのもあるかもねぇ。」

「ふざ…けるなッ…!!」


あはは、と脳天気に笑って言う彼女を、動けないまま睨みつける。

そんな馬鹿げた理由で消されるなど、絶対にご免だ。

彼女はそんな俺の視線にも、困ったように笑ってみせるだけで。


「まあ、そういうわけだからさ。…悪く思わないでね。」

「……。」


しばし互いに無言のまま。

やがて、俺はひとつ大きく息を吐き、目を閉じる。


「…好きにしろ。」

「うん…ごめんね。」


彼女の手が俺の胸にあてられる。

軽く後ろに押されて、上体が反らされるような体勢になる。

その間、ずっとなされるがままだ。

薬が効いているのもあるが、それ以前に自分の言動を自嘲していたからだ。

こうして消える運命とも知らず、叶う筈のない夢を彼女に、誇らしげに語る。

滑稽だ。

それ以外の何ものでもなかった。

だが、「彼女の一部となれるのなら、それもいいか」とも思ってしまう。

それもまた、つくづく滑稽だ。

やがて、彼女の手を介して、力は失われていく。

この魂も、存在も。すべてが彼女へと流れていき、同化するのだ。

そう、今にも─。


「─…?」


だが、いつまでたってもそんな気配がない。

それどころか、むしろ力が充実していた。

体が動かないのは相変わらずだが、確かに今、自分の体には力が溢れんばかりに満ちている。

まるで、どこからか『流れ込んでいる』かのように─。


「─…ッ!! 何をしているんだ、アスタルテ!?」


不審に思い目を開けた俺は、驚愕に叫んだ。

彼女の手から、力が注がれていた。

そして、彼女自身の姿が、うっすらと薄くなり始めている。

これでは、逆だ。

彼女が俺を吸収するのではなく、『俺が彼女を吸収』してしまっているではないか。

アスタルテは、相当辛いだろうに、穏やかそのものの表情で微笑んだ。


「私の性格は知ってるでしょ? 誰かの言いなりなんてまっぴらよ。」


それはいつもの彼女であった。

そして、いつも通りであるからこそ、その本気を悟る。


「魔神になるなら、私じゃなくてアンタが残ってもいいのよね。別に。」

「そういう問題じゃ…!!」


とにかく身を離そうとする。

だが、当然ながら体は動かない。


「無駄だってば。この薬はバァルを、あの人を押し倒したときに使ったやつなんだから。」

「そんな事してたのかッ!?…じゃなくて、そうだ! バァルだ!! こんな事、あいつがどう思うか…!!」

「あの人なら心配いらないわ。」

「心配いらないって、そんな訳が…─!!」


さらに抗議の言葉を続けようとしたが、その口を押さえられる。

アスタルテは俯いていて、その表情は見えない。


「…言わないで。それ以上は、辛くなっちゃうから…。」

「……。」


その力無い姿に、覇気の無い声に、何も言うことができなくなった。

わずかな沈黙の間も、確実に彼女は消えつつあるというのに。

何も、言えなかった。


「……本当はね。」


だから、しばらくして沈黙を破ったのも、またアスタルテだった。


「本当は、あちらさんへの当てつけとか、そんなの関係ないの。」


ならば、こんな馬鹿げたことは、今すぐ止めろ。

そう言いたかった。言ってやりたかった。

だが、言葉として出てこない。


「楽しかったよね。私たち三人でさ。あの人が…バァルがいて、アンタもいて。」


彼女の意思は、変わらない。

そんなことは最初から分かっている。

だから、言葉が出ないのは、それが理由じゃない。


「…ずっと、三人で馬鹿やっていけると思ってた。でも…アンタだけが消えるってわかって…。」


言葉が出てこないのは─。


「アンタを吸収して私が生き延びるって…その事に私が耐えられそうになかっただけ。」


喉を塞いでいるのは、ただ─。


「だから、これは…私の臆病なワガママ。」


ただ、俺が泣いているからだ─。


「…ゴメンね。私が耐えられないからって、アンタに押し付けて…酷いよね。」


俺は首を横に振る。

もしも。

もしも、自分が同じ立場であったらどうしただろう。

そんな仮定は無意味で、実際に直面しない限り、断言出来るものではない。

だが、それでも俺は彼女と同じ方法を選択しただろう。

少なくとも、今の俺はそちらを選択したかった。

たとえ、自分が消えるとしても、彼女には笑っていてほしいから。

同じことをするだろうから、俺は彼女を責めることも、否定することも出来ない。

そう、彼女は酷いわけじゃない。彼女は─。


「……お前は、卑怯だ…!」


泣きながら、なんとかそれだけを口にする。

彼女が、また謝る声が聞こえたが、それがひどく遠い。

流れ込んでくる力とともに、彼女の悲しみも伝わってくる。

今はもう、この涙がそのためなのか、それとも自分のものなのか、分からなくなっていた。

ただ溢れてくるままに、泣いた。





俺は神々の王となりたかった。

それは間違いなく本心だ。

バァルに何度となく挑み、打ち負かされ。

アスタルテにからかわかれ、呆れられながら。

俺は悪態をつき、それでも…楽しかった。

楽しかったんだ─。





「俺は、ただ君の傍にいたくて…それで強くなりたくて…。」

「─…アンタは充分、強かったよ。泣き虫だけど。」


彼女の笑顔が、透けて見えた。

ぎこちない動きで、その笑顔に手を伸ばす。


「……強くなんか、なりたくなかった。王の座も、どうでもよかった…。」


伸ばされた手は、彼女に触れることなくすり抜ける。

それでも、何とか触れようと手を動かす。

繋ぎとめようとするかのように。


「ただ…ずっと続けばいいと思ってた。ずっと…君と一緒に…─。」


彼女の瞳からも、一筋の涙が落ちた。

初めて見る、彼女の涙。

俺の手はそれさえも掴むことはできず、涙はただ地に落ちていった。


「さよなら…アシュタル─。」




















どれほどの間、そうしていたのか。

うずくまったまま、ゆるゆると手を持ち上げる。

以前のものと違う、銀色に輝く自らの長い髪の間に指を差し入れると、何か硬いものに当たった。

びくっと手を震わせ、やがてゆっくりと立ち上がる。

ふらふらと、夢遊病者のように。

ふらふらと、あてもなく彷徨う放浪者のように。

庭に出て、すでに水の止まった噴水へと向かう。

覗き込めば、濁った水がゆらゆら揺れて。

浮かび上がるように、一つの人影が映りこむ。

それは紛れも無く、かつての自分の顔。

だが、どこか彼女の面差しが混じった、『私』の顔。

長い灰銀の髪。細い三日月形の角。

彼女が残していったもの。

震える手を持ち上げ、表情を無くした顔を、あちこち触ってみる。

頬に触れる。

視線が激しく揺れ動き、足元が頼りなげで世界がかすんでいく。

なのに、映りこんだ顔ははっきりとしていて。

爪を立てると、皮膚を破る感触。

流れ出るのは魔族の血。

そのまま、頬をゆっくりと引き裂いていき。

すでに表情は、ぐしゃぐしゃに歪んで。





慟哭が迸る。





それは言葉にならない、ただの音。

閑散とした館を駆け抜け、そして虚しく消えていく。

私の中に消えていった彼女が、決して最後まで口にしなかった断末魔の代わりであるように。

憎むべき相手も定められぬ、私の怨嗟が。

ただ、慟哭する─。


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