『美徳のよろめき』:1957、日本

倉越夫人はまだ28歳でありながら、官能の天賦に恵まれていた。彼女は躾が厳しく、門地の高い家に育った。今では失われた階級だが、貴族という窮屈な檻の中で、大きな音も立てず女になった。昭和十六年、紀元節。藤井邸では一家の集合写真が撮影された。節子の祖母は武家の娘だが、鹿鳴館華やかなりし頃は孔雀のようだった。父は若き日より宮廷の奥深くに仕えて歌を詠み、花を愛した。妻に仕え、9人の子供を作った。上の伯父は陸軍大将、下の叔父は海軍少将で、戦争に関しては素人だが位だけは鰻登りに上がった。
9人兄弟の中で3人が女性で、上から順番に紀子、元子、節子と名付けられた。節子は倉越一郎と結婚した時、躾を受けていない夫の下品な食べ方に驚いた。結婚後の彼女が初めて日記に記したのは、「男性」の二文字だった。昭和二十年、大空襲の時、節子は落ち着いた態度で父を屋敷から避難させ、丁寧な言葉で喋った。力一杯に大声を上げたのは、息子の菊夫を出産した時だった。平穏な彼女の生活は、ある偶然から崩れ始めた。それは、土屋との再会だった。
二年前、節子は銀座で土屋とバッタリ出会った。去年、彼女は東京駅でも偶然に土屋と再会した。かつて節子は軽井沢の秋、テニスの後に土屋と接吻を交わしたことがあった。倉越と一緒にいる時も、茶会に参加した時も、節子は土屋のことが気になった。ある日、彼女は友人の牧田与志子に誘われ、ステーキレストラン「いそむら」へ出掛けた。彼女が店に入ると、与志子は飯田という男と一緒だった。彼女は飯田を友達だと紹介し、彼から後で再び会おうと誘われると断った。
飯田が店を去った後、節子は「趣味が悪いわね」と彼に対する不快感を口にした。与志子は飯田を下品だと評するが、それが気に入ったと話す。かつて彼女はプロ野球選手と交際しており、今回の飯田はプロレスラーだった。与志子は結婚しているが、夫に浮気が露呈することを恐れる様子は無かった。ステーキを食べるために店の二階へ移動しようとした節子は、土屋が女性と一緒に出て来るのを見て驚いた。土屋は兄の省三が営む洋酒輸入商の土屋商事へ戻り、そろそろ身を固めるよう勧められた。
節子の祖母が亡くなり、宮中から来賓が参加するほど大規模な告別式が執り行われた。会場に現れた土屋は節子に歩み寄り、「明日、鎌倉の八幡様の境内でお待ちしています。3時に」と告げた。翌日、節子は3時が近付く中で自宅に留まり、迷いを見せた。女中のとみと話す時も、彼女は時間を気にしていた。ついに決心して八幡様へ向かおうとした彼女だが、菊夫が幼稚園から帰宅した。節子は土屋が家まで押し掛けることを期待したが、いつまで経っても来ないので「勇気が無い」と蔑んだ。
翌日、節子は与志子と会い、土屋が来なかったことに対する不満を吐露した。すると与志子は微笑し、恋している証拠だと告げた。節子は「道徳的な恋愛ならいいかもしれない」と考え、自分を納得させた。彼女はレストラン「カトレア」へ行き、土屋と会った。一緒に昼食を取った彼女は、自分の考えは間違っていないと確信した。節子は武蔵野茶寮で土屋と会い、昼食を取った。土屋は彼女に、真っ裸で食事をするのが好きだと語った。
節子は土屋と夜道を歩きながら、「私、子供の母ですの。妻ですのよ」と語った。すると土屋は、「倉越さんのことは幾らでも聞きます。お子さんのことは言わないで下さい」と告げた。2人は新橋駅から列車に乗り、節子は向かいの客を意識した。しかし土屋には、他人の妻を連れている意識が全く見られなかった。その様子を見た節子は、自分と同じ恐怖心を与えるにはどうしたらいいのかと絶望した。しかし彼女は、この恐怖を愛していた。
節子は土屋と海辺を散歩しながら、どうして結婚しないのかと尋ねた。土屋が返答しないので、節子は女友達の人数を尋ねた。しかし土屋が答えようとすると、彼女は口を塞いだ。節子は家に指圧師を呼んだ時、恋しているお嬢様のように見えると指摘されて動揺した。別の日、節子は与志子に呼び出され、彼女が宿泊するホテルの部屋を訪れた。すると飯田が浴室に隠れており、与志子は「しつこいから飽きた」と辟易した様子で節子に告げた。
節子は与志子に、土屋から旅行に誘われたこと、夫に悪いので断ったことを話した。すると与志子は「自分を悲劇に仕立てて楽しんでいるだけだ」と言い、旅行に行けば土屋が紳士かどうか分かると述べた。彼女は自分が口実を作ると語り、倉越を訪ねた。与志子は「今年の冬に過ごす家を借りるため、下見に節子を連れて行きたい」と語って承諾を得た。節子は土屋と出掛け、ホテルにチェックインした。土屋が明日の朝に裸で食事を取ろうと提案すると、節子は「嫌よ」と拒んだ。
土屋は結婚しない理由について、節子が嫁に行ったからだと語る。土屋との散歩から戻った節子がロビーで休憩していると、叔父がゴルフ仲間と一緒に現れた。節子は慌てて身を潜め、部屋に戻った土屋は彼女から話を聞き、フロントに電話して叔父が宿泊しないことを確認した。彼は節子に「もうどこへもやりはしない。貴方の全部を貰うんだから」と言う。「それが目的だったの?結婚できる?」と節子が口にすると、土屋は「そんなこと言ったら貴方が困るでしょ。僕たちは結婚なんか出来やしない」と語った。
土屋は「汚く見えても、僕は貴方が欲しいんだ」と言い、節子をベッドに押し倒した。しかし節子が泣いて嫌がるので、もう1つ部屋を取った。そのまま2人は別の部屋に宿泊し、翌朝にホテルを出た。大船駅で土屋と別れた節子は帰宅し、寝ていた倉越に抱き付いた。翌日、節子からレストランで話を聞いた与志子は、不健全だと告げた。土屋が真面目に自分を愛してくれているのだと節子が語ると、彼女は「不潔な感じ」と評した。節子は指圧師から妊娠していると指摘され、産婦人科で診察を受けて事実だと知った。彼女は土屋とデートするが、妊娠のことは明かさなかった…。

監督は中平康、原作は三島由紀夫(講談社版)、脚本は新藤兼人、製作は大塚和、撮影は岩佐一泉、照明は藤林甲、録音は神谷正和、美術は松山崇、編集は辻井正則、助監督は西村昭五郎、音楽は黛敏郎。
出演は月丘夢路、三国連太郎(三國連太郎)、葉山良二、南田洋子、千田是也、安部徹、高友子、宮城千賀子、信欣三、芦田伸介、西村晃、北林谷栄、渡辺美佐子、汐見洋、相原巨典、河野弘、草薙幸二郎、秋津礼二、青砥方比呂、伊藤寿章(澤村昌之助)、相馬幸子、堀恭子、原恵子、立花泰子、竹内洋子、泉桂子、志賀夏江、須藤孝(野村隆)、川村昌之、林茂朗ら。
ナレーターは高橋昌也。


三島由紀夫の同名小説を基にした作品。
監督は『狂った果実』『夏の嵐』の中平康。脚本は『殺したのは誰だ』『海の野郎ども』の新藤兼人。
節子を月丘夢路、倉越を三国連太郎(三國連太郎)、土屋を葉山良二、節子の父の景安を千田是也、飯田を安部徹、とみを高友子、与志子を宮城千賀子、省三を芦田伸介、指圧師を西村晃が演じている。
土屋と「いそむら」から出てくる女性の役で、南田洋子が特別出演している。
アンクレジットだが、集合写真に写る若い頃の節子は、月丘夢路の下の妹である月丘洋子。

原作はフランス文学に影響を受けて執筆され、「よろめき」のブームを生み出した小説である。1957年に刊行され、30万部のベストセラーとなった。
その人気に目を付けた日活が、すぐに映画化を決めたわけだ。
しかし原作者の三島由紀夫は、本作品を愚劣だと酷評している。
ひょっとすると中平康と新藤兼人は、節子の行動や心情が良く分からなかったのかもしれない。
自分たちの感覚には無い物語が原作では紡がれているので、理解できる範囲に引き込もうとした結果、三島由紀夫から「そういう話じゃないんだよな」と全否定される映画を作ってしまったんじゃないか。

映画開始から9分辺りまでは、ずっと高橋昌也のナレーションベースで進行する。その間に流される映像は、全てナレーションの補足に過ぎない。
台詞らしい台詞は無く、ダイジェスト的な映像が連なるだけだ。ほぼ朗読劇と変わらないような状態になっている。
しかも補足としても、全く足りていない。
何しろ、節子と土屋の関係が良く分からないのだ。
2人は2年前の銀座が初対面ではなく、そこが再会だ。「かつてテニスの後にキスを交わした関係」という設定なのだが、2人がテニスをした経緯や当時の関係性は、ナレーションや補足映像だけでは全く分からないのだ。

あと、わざわざテロップを入れてまで紀元節と昭和二十年のシーンを挿入する必要性も、まるで感じられない。それが後の展開に上手く結び付いているようには、到底思えないのだ。
節子の祖母や父の経歴が語られても、だから何なのかと。
「そういう家庭環境で育った」という意図で説明を入れているんだろうってのは、何となく分かるよ。ただ、そこを丸ごとカットして何か支障が出るかと考えても、特に何も無いのよ。それは空襲も同様。
あと、出産の時に初めて大声を出したという説明も含めて、無くても全く問題は無いよ。導入部で丁寧に「節子はこんな女性です」と説明しているけど、ナレーションの分量と伝わる情報を比較した時、まるで割に合ってないのよ。

そんなトコで丁寧に説明するよりも、もう少し倉越との結婚生活に時間と手間を掛けた方が良かったんじゃないかと。
この映画だと、倉越が「人妻が浮気する」という状況を作るための記号に近いぐらいの存在なのよ。
あと、節子の心情を表現するために、何度も日記の文面が映し出されるんだけど、これも「なんだかなあ」と。
これが小粋な演出ではなく、単なる逃げの一手に思えてしまう。ナレーションと文章に、やたらと頼りっ放しなのよね。

冒頭のナレーションで節子は「官能の天賦に恵まれていた」と評されているのに、ちっとも官能的な資質を感じさせないまま話が進んでいく。
土屋への浮気心が明確になってからも、ずっと高潔さと貞淑さを強くアピールしている。
インモラルな女性なのかと思いきや、上品な世界から一歩たりとも踏み出そうとしない。インモラルな方向に目は向けつつも、抵抗を続ける。
土屋との関係は最後までプラトニックなままで、「清らかな恋愛」というイメージを保っている。淫猥な欲望は、微塵も抱かせないのだ。

ヒロインの描き方とは別に、構成として色々と問題を抱えている。
例えば茶寮での食事シーンで、土屋は「裸で食べるのが好き」と話す。そこから1本ほどでカットが切り替わり、夜道の散歩シーンで土屋が「子供のことは言わないで」と節子に言う。
そこは50秒ぐらいで終了し、今度は列車の移動シーンで「節子は土屋に絶望して」というナレーションが入る。ここは40秒ほどで切り上げ、今度は浜辺の散歩で節子と土屋が会話を交わす。
そこを50秒ほどで終わらせ、節子は帰宅する。

そのように短いスパンで次々に場面を切り替えるが、その意味が全く分からない。一連の流れで片付けた方が、収まりがいいでしょ。
ここが最も顕著だが、他にも無駄にしか思えない場面転換、必要性に疑問のある場面が多い。
短いシーンと言えば、指圧師の登場シーンも何なのかと言いたくなる。
「お嬢様のように恋している」「妊娠している」と指摘させるためだけに、20秒とか40秒といった短いシーンで指圧師を登場させるのだが、ものすごく不格好な存在になっている。

与志子が節子と土屋の関係について「まるっきりメロドラマじゃないの」と呆れるシーンがあるが、その通りの内容になっている。
たぶん「結果的にそうなってしまった」ってことじゃなくて、意図的にメロドラマとして仕上げたのではないだろうか。そして、それは原作で三島由紀夫が表現しようとしたモノとは全く違っていたということなんだろう。
原作のままだと、あまりにも恋愛に対して自由奔放すぎる節子は製作サイドが思う「妻で母」のイメージから大きく逸脱していたんだろう。
そして自分たちの理解できないキャラクターは、表現できないってことだったんじゃいかな。

ただ、「分かりやすいメロドラマ」としての改変を施したことによって、節子が「罪の償い」として中絶する行動が理解不能になっている。
この映画の場合、土屋の子を妊娠したってことなら、そこで堕胎を選ぶのは納得しやすい。
だけど倉越の子を堕ろすのは、「なんでそうなるの?」と言いたくなる。
それを「自分は土屋に惚れているので、倉越の子供を産むのは裏切り行為になる。愛ゆえに堕胎する」と解釈して受け入れるのは、簡単なことじゃないよ。

終盤、与志子が飯田に刺され、病院で息を引き取る展開がある。
この事件は新聞で大きく報じられ、節子は父に「もし周囲にそんなことが持ち上がったら、どうする?」と尋ねる。父の「その日の内に辞表を出す」という答えを聞いた彼女は、土屋と別れることを決意する。
だけど、それは節子の行動理由として、いかがなものかと思うぞ。
そこに来て急に「このままだと父や倉越家に迷惑を掛けてしまうから」と考え出すのは、どうにも凡庸すぎやしないか。

(観賞日:2025年3月24日)

 

*ポンコツ映画愛護協会