『真剣勝負』:1971、日本
宮本武蔵は関ヶ原の合戦に雑兵として従軍し、破れて逃げ延びた。辻風典馬を首領とする落ち武者狩りの一隊に追い詰められた彼は、頭目を倒した。当時の武蔵は、まだ同じ字で「たけぞう」と称していた。武蔵は蓮台寺野で吉岡剣法道場の当主、吉岡清十郎と果し合いを行い、勝利を収めた。洛中蓮華王院では清十郎の弟、伝七郎と立ち会って勝利した。一条寺下り松において、吉岡道場一門と対決して破った。。小倉舩嶋では佐々木小次郎と決闘し、またも勝利した。
武蔵は鎖鎌という武術や宍戸梅軒に興味を抱き、鈴鹿山系安濃郡雲林院村を訪れた。彼が家へ行くと梅軒は不在で、妻のお槇が幼い息子の太郎治に鎖鎌の型を見せていた。梅軒は伊勢からの帰り、仕掛けておいた動物用の罠を確認した。彼は配下の八人衆である岩テコ、於六、鉄砲又、飛び十、槍市、野洲川、法界院、藤兵衛の元へ行き、東西軍が睨み合ったままなので当分は平穏で出る幕が無いと伝えた。彼らは半年前から戦いが無いため、キツネやタヌキを捕獲して暮らす貧乏生活を余儀なくされていた。
梅軒は帰宅し、待っていた武蔵と会う。お槇が一通りの型は見せたことを話すと、梅軒は「それ以上は真剣勝負になる」と言い、話をするだけなら構わないと告げた。彼は太郎治を起こし、土産に買って来た風車をみせた。外に出た梅軒はお槇と二人になり、いつものように武蔵を殺すか身ぐるみを剥がす計画を話し合う。まだ武蔵の正体を知らない梅軒は、酒を飲ませて眠らせ、金品を奪おうと目論んだ。彼は家の中に戻り、武蔵に酒を勧めた。
武蔵が関ヶ原で宇喜多勢だったことを話すと、梅軒は自分の雑兵として参戦していたことを明かした。修行の目的を問われた武蔵は、剣の道に生涯を託すつもりだと答えた。すると梅軒は「剣は道なんかじゃねえ。人を殺す技だ」と言い、今に大騒動が起きるので一旗揚げるつもりだと語った。彼は武蔵の名前を聞き、有名人なので驚いた。関ヶ原では「たけぞう」と名乗っていたことを知り、梅軒の顔色が変化した。彼はお槇に酒を買って来るよう頼み、耳打ちして八人衆を呼ぶよう指示した。
梅軒は武蔵に、鎖鎌が両手を同時に使う兵法であり、敵に防御の隙を与えないと説明した。武蔵が関ヶ原で抜群の功を立てたのだろうと言うと、彼は乱戦の場合は刀に切り替えると述べた。武蔵が「所詮は一対一の飛び道具」と口にすると、梅軒は沈黙した。お槇が戻ると、梅軒は武蔵に草鞋を脱ぐよう促して再び酒を酌み交わした。彼は武蔵を眠らせた後、外に出て八人衆と合流した。武蔵は寝ているように装い、周囲を警戒した。
梅軒は八人衆と作戦を決め、家の中に戻った。武蔵の姿が消えていたため、彼は慌ててお槇や八人衆と共に捜索する。隠れていた武蔵は家の外に出て、梅軒たちの前に姿を見せた。彼は「卑怯千万」と言い、自分を殺そうとする理由を尋ねた。すると梅軒は「典馬を後ろから騙し討ちにしただろう」と指摘し、典馬はお槇の兄だと告げた。武蔵は騙し討ちを否定するが、梅軒は信じなかった。武蔵は梅軒たちの覚悟を確認し、真剣勝負を承諾した。武蔵は夜明けを待ってから場所を移動し、戦いを開始した。八人衆を軽く片付けた彼は、梅軒とお槇に対峙した。武蔵は太郎治を人質に取り、彼らの動きを制した…。監督は内田吐夢、原作は吉川英治、脚本は伊藤大輔、製作は椎野英之&大木舜二、撮影は黒田徳三、美術は中古智、録音は藤好昌生、照明は金子光男、編集は氷見正久、剣道指導は杉野嘉男、殺陣は尾形伸之介、音楽は小杉太一郎。
出演は中村錦之助(萬屋錦之介)、三国連太郎(三國連太郎)、沖山秀子、田中浩、岩本弘司、当銀長太郎、木村博人、伊藤信明、上西弘次、浅若芳太郎、荒木保夫、二瓶正也、沖田駿一、吉山利和、新乃蔵人、木村正道、熊谷卓三、磯貝武毅、松山秀明ら。
吉川英治の小説『宮本武蔵』を基にした東宝の時代劇映画。
監督は東映で『宮本武蔵』5部作を手掛けた内田吐夢で、これが遺作となった。
脚本は『秘剣破り』『幕末』の伊藤大輔で、脚本家としては遺作になった。 武蔵を中村錦之助(萬屋錦之介)、梅軒を三国連太郎(三國連太郎)、お槇を沖山秀子、岩テコを田中浩、於六を岩本弘司、鉄砲又を当銀長太郎、飛び十を木村博人、槍市を伊藤信明、野洲川を上西弘次、法界院を浅若芳太郎、藤兵衛を荒木保夫が演じている。映画の冒頭、「二天一流、二刀兵法の開祖である宮本武蔵は自ら称して曰く、我、生涯六十余度の試合において、一度の不覚を取りしこと無しと。しかも自ら書き残したいずれの著作物からも、二刀流による勝負の記録をただの一つも見出すことの出来ないのは、何の所以による物であろうか」というナレーションが入る。
なので、その「何の所以なのか」という理由を説明するのか、あるいは仮説を提示する内容なのかと思ったら、まるで関係ない。
ただ梅軒たちとの戦いを描くだけの物語だ。粗筋では関ヶ原から小倉舩嶋までの戦いについて書いたが、それらは全てナレーションベースでアヴァン・タイトルに処理される。3分半ぐらいのダイジェスト描写だ。でも、これまた冒頭のナレーションと同様、まるで意味が無い。
これが今までのシリーズの映像の再利用であれば、まだ分からんでもない。しかし前述したように、これは東宝の製作。内田吐夢がシリーズを手掛けたのは東映だ。なので、冒頭のダイジェスト映像は新撮だ。
でも、わざわざ新しく用意する必要を全く感じない。
典馬との戦いに関しては、「実はお槇の兄だったので、復讐のための戦いになる」という形で後の展開に繋がっている。だけど、ここも梅軒が因縁を口にした時、回想シーンで初めて触れる形でも大して変わらない。一言で言えば、「安い映画」という印象である。
セットは梅軒の家だけで、屋内シーンと家の周辺のシーンだけで大半が占められている。
ダイジェスト部分を除けば、登場人物は14名。武蔵、梅軒、お槇、八人衆、太郎治、八人衆が試験している若者2人だ。
しかも、その内の若者2人は1シーンだけの出番で、太郎治は赤ん坊なので台詞は無い。八人衆の出番も少ないし、武蔵と梅軒の二人芝居という時間が多い。
チャンバラが無かったら、「これは舞台劇の映画化なのか」と言いたくなるぐらい小ぢんまりした作品である。当然のことながら、30分ぐらい続く戦闘シーンが大きな見せ場になっている。
八人衆は鎖鎌じゃなくて槍や長刀など他の武器を持っているのだが、一斉に襲い掛かって来ることもあって、異種格闘技的な面白さは皆無。
しかも全員が簡単に武蔵に殺されてしまい、あっという間に梅軒とお槇だけになってしまう。
この夫婦は両方とも鎖鎌なのだが、それはチャンバラ映画としては特殊な武器だ。だけど、そんな武器の特殊性を活かしたアクションが存分に描かれているかというと、さにあらず。太郎治を人質に取った武蔵は、当然の如く梅軒から批判される。しかし彼は全く悪びれず、堂々たる態度で「兵法は勝ことが全てで理屈は無い」と主張する。
宮本武蔵のフワッというイメージしか知らない人からすると、そういう行動は意外に思うかもしれない。
でも宮本武蔵って、基本的にこういう人なのよ。粗筋では触れなかったけど、吉岡道場一門との対決でも真っ先に子供を殺害しているし。
「勝つためであれば何をやっても構わない」という、徹底した勝利至上主義者なのよ。少なくとも本作品の場合、武蔵がそういう信念に至る経緯が全く描かれていない。
それもあって、シンプルに「非道な奴だな」という印象が強くなる。
もしかして製作サイドからすると、「東映のシリーズで今までの経緯は描いているので、それを踏まえて受け止めてね」ってことだったりするのか。
まあ観客の全てが「これは東映、これは東宝」と完全に意識しているわけじゃなくて、これを東映シリーズの続編みたいな感覚で捉える人もいるとは思うけどさ。武蔵が人質を取ると、お槇は息子を返すよう求めて泣き叫び、梅軒は攻撃したくても出来ないのでウロウロする。そんな状況が続く中で、不意に周囲が煙に包まれ、武蔵の姿が見えなくなる。そして煙が無くなると、武蔵の姿が消えている。
梅軒とお槇が慌ててていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえる。梅軒とお槇が泣き声のする方へ行くと、そこに武蔵が座っている。
まず、なぜ急に煙が沸いたのかが良く分からないし、武蔵が移動する意味も無い。自分が有利になる地形に移動するわけでもないし。
正直に言って、話の中身が薄いから時間を稼いでいるだけにしか見えない。武蔵は赤ん坊を人質に取るだけでなく、激しく動揺する梅軒とお槇を馬鹿にしたような笑みさえ浮かべる。赤ん坊が泣いても、まるで気にする様子は見せない。お槇が泣き叫んでも、ヘラヘラと余裕の高笑いを浮かべる。
どんだけ嫌な奴なんだよ。最終的に武蔵は太郎治を解放するけど、それで全てがチャラになるわけじゃないし。
そりゃあ梅軒だって卑怯な方法を取ろうとしたし、決して褒められた奴ではない。
だけど、まだ「息子を人質に取られて狼狽し、激しく苦悩し、父親としての一線を超える」という心の動きを見せてくれる分、まだ武蔵よりは主人公に適しているんじゃないかと思ってしまうぞ。たまに止め絵を挟んだり、心の声を入れたりする演出があるが、こういうのが分かりやすく上滑りしている。
あと、最後は「殺人剣 即 活人剣」「剣は畢竟 暴力」という文字を画面に出して、武蔵と梅軒の一騎打ちの決着を描かずに済ませているのだが、これは何のつもりなのかと。
余韻を残す効果が何かを狙ったエンディングなのかもしれないけど、ただの尻切れトンボにしか思えないぞ。
あと、武蔵の行動が、ちっとも「殺人剣 即 活人剣」になっていないし。(観賞日:2025年2月23日)