NOTES ON POINCARE
ポアンカレ『科学と仮説』(河野伊三郎訳、岩波文庫)の見所
この本には結構豊かな内容が詰まっているので注意深く読まなければならない。以前、スクラーの議論にかかわりがあったのは第一篇と第二篇のみであったが、われわれは第三篇にも立ち入らなければならない。
第一篇 数と量
第一章 数学的推理の本性
[ここではポアンカレが先天的総合判断を認めることに注意。数学的帰納法の原理は経験的命題ではなく、また規約でもなく、カント的な先天的総合判断として真であることが認められる。]
第二章 数学的量と経験
[数学的連続を定義してもまだ測りうる量まで規定できたわけではない。そのためには規約が導入されなければならない。計量(メトリック)についてのリーマン・ポアンカレの規約主義]
第二篇 空間
第三章 非ユークリッド幾何学
[非ユークリッド幾何学の可能性、無矛盾性などが論じられ、幾何学の公理は数学的真理とは異なって、先天的総合判断ではなく、実験的事実でもなく、規約であると主張される。 ここの議論にはかなり飛躍があると見受けられるので、すこしテキストを検討しておこう。訳はおおむね河野訳に従うが、原典を参照し適宜改訳する。]
「公理の本性」と題された最終節で、数ある可能な幾何学のうちで真なる幾何学はどれであろうかという暫定的な問いが検討される。この問いに答えるには、幾何学の公理の本性を検討しなければならない、とポアンカレは次のように続ける。
これらの公理はカントの言ったように先天的綜合判断であろうか。
そうだとすると、これらの公理は非常に強力にわれわれを束縛するので、これに反する命題を考えることもできないし、そのような命題をもとに理論体系を立てることもできない。非ユークリッド幾何学というようなものは存在しないはずである。(邦訳74)
ところが、もちろん非ユークリッド幾何学は存在するし、ユークリッド幾何学が無矛盾なら非ユークリッド幾何学も同様に無矛盾である。ポアンカレは、もちろん幾何学の公理が先天的綜合判断であることを否定するのだが、これに納得するためには数学的帰納法(これはポアンカレにとっては先天的綜合判断の一例)を否定する場合と比較してみよ、と彼は論じる。それが不可能であるのと対比的に、ポアンカレはすでに、架空ではあるが、曲がった二次元世界に住む知性的動物の思考実験を提示しているでのである。彼らが、彼らの世界でユークリッド幾何学の公理を採用するとは考えられない。だから、ポアンカレは、ユークリッドの公理を否定しても無矛盾であるだけでなく、その公理は先天的綜合判断に類する強制力を持たない、と主張する。
しかし、ポアンカレの議論はここでほころびを見せている。先の架空の動物はなぜユークリッド幾何学を採用しないと言えるのだろうか?「これらの動物がわれわれと同じ知性を持つとしたなら、彼らのすべての経験に矛盾するようなユークリッド幾何学」は採用しないだろう、とポアンカレは言う(邦訳75)。しかし、経験がユークリッド幾何学と矛盾すると言えるなら、これは幾何学がこの文脈では経験的だと認めることではないのか?「自然法則を変えればユークリッド幾何学は維持できる」という後のポアンカレの主張からすれば、この架空の動物も同じ戦略を採りうるではないか!グリュンバウムがかなり前に指摘したように、ポアンカレのなかには、文脈によって二つの異なる議論が含まれているようである(see Gruenbaum on Duhem and Einstein)。
それでは幾何学の公理は実験的な真理であると結論すべきであろうか。しかし、人は理想的な直線や円などについて実験することはない。ただ、物質的な対象についてのみ実験できるにすぎない。(邦訳75)
幾何学的図形を「剛体」(変形しない物理的対象)になぞらえ、近似的な剛体を用いた実験をすることはできる。しかし、そのような実験から人が引き出すのは、剛体の性質である。同様に、光の性質を利用し、光線を用いた実験をすることもできる。
しかし、難点が一つ残っており、これは克服できないものである。幾何学が実験科学であったとしたなら、幾何学は精密科学ではないことになり、絶えず改訂にさらされることになろう。それどころか、厳密に変形しない剛体が存在しないことをわれわれは知っているので、今日ただいまより幾何学は誤りであるとわれわれは確信しなければならないことになろう。
だから、幾何学の公理は先天的綜合判断でもないし、実験的事実でもない。
それは規約である。われわれの選択は、あらゆる可能な規約のうちから実験的事実に導かれておこなわれた。しかし、選択は自由であり、矛盾を避けるという必然性以外に制限をもたない。こういうわけで、公理の採用を決定した実験的法則が近似にすぎなかったとしても、公理は依然として厳密に真でありうる。
言い換えれば、幾何学の公理(算術の公理について言っているのではない)は擬装した定義にすぎない。(邦訳75-6)
ここで、一応結論に達し、ポアンカレの議論は一段落したかのように見える。しかし、早まってはいけない。彼の議論はまだ終わってはおらず 、第四章、第五章へと継続される。第一、これで議論が完結だとしたなら、ポアンカレの議論はいかにもお粗末ではないか。「擬装した定義」という結論さえ、この段階では意味不明に近い。ユークリッドの公理が「厳密に真である」という言明も理解に苦しむ。ポアンカレはヒルベルトの『幾何学の基礎』(1899)における公理的方法は知った上で議論しているのである。現代流に言えば、「記号式の体系」としての幾何学については、いかなる意味でも真偽の概念は適用できない。基本概念に適切な解釈を与え、集合論なり実数論の構造に即したモデルを作ってやって初めて真偽を論じることができる。また、「点」とか「直線」といった概念に物理的解釈を与え、適当な物理法則を前提すれば、経験幾何学ないし物理幾何学となって「経験的な真偽」を語ることができる、というのも一般的な常識である。では、このような現代的な分類や常識によってポアンカレの議論は的はずれになったのだろうか。答えは意外に(と言うべきか、それとも当然と言うべきか?)むずかしい。例えば、アインシュタイン(「幾何学と経験」1921、"Reply to Criticisms" in Schilpp, ed., Albert Einstein, 1951)は結構ポアンカレ乗りである(see Einstein on Geometry)。
ここまでのポアンカレの議論では、
- 先天的綜合判断として真
- 経験的(実験的)に真
- 擬装した定義
という分類がなされ、いずれも排他的であることに注意しよう(現代的に、これに加えて 0. 論理的に真、というカテゴリーを加えてもよい)。その上で、3に属するユークリッドの公理がある意味で「厳密に真」であると言われているのである。おそらく、これは「規約によって真」であるから(規約を変えないかぎり)偽にはなり得ないという含みをもつのであろう。それだけでなく、後に明らかになるように、「規約」と「物理法則」との出入り、相互依存の関係があるので話がむずかしくなってくる。いわゆる「デュエム問題」(理論、補助仮説、初期条件等の体系全体でしかテストにかからないのか、それともテストされる対象は原理的に狭く特定できるのか)がからんでくる。結局のところ、「真でも偽でもない単なる記号式」は物理学では使い物にならない。「現象を救う」、あるいは「現象を説明する」営みの中で出てくる幾何学には重要な認識論的役割があって(意味を担った幾何学でなければならない)、それを論じるためにポアンカレはあえて「真理」の言葉遣いにこだわっているのだろう。(ちなみに、彼はヒルベルトとは違って記号論理学──ごく初期のものしか知らなかった──にはきわめて冷淡であった。)
第四章 空間と幾何学
[幾何学的空間と表象的空間のちがいが論じられる。非ユークリッド幾何学で記述するのが自然な想像上の世界が提示される。再び規約主義の主張。]
第五章 経験と幾何学
[経験はわれわれが住む世界の幾何学を決定するのに十分か。ポアンカレの答えは否で、その理由が述べられる。スクラーのいう underdetermination にかかわりがあるのはここ。この章のはじめの方から始まる、力学的予測の初期値問題の定式化と議論は、絶対運動と相対運動の論争がらみで必読部分の一つ。]
第三篇 力
[古典力学の問題が論じられる。ポアンカレは絶対運動を認めない。しかし、相対的運動だけでは古典力学は成り立たない。ではどうするか?]
Last modified, March 31, 2003. (c) Soshichi Uchii