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Hans Reichenbach, The Rise of Scientific Philosophy, Univ. of California Press, 1951

ライヘンバッハ『科学哲学の形成』(市井三郎訳、みすず書房、1954)

この本は、少し古いが初学者にはぜひ一読をすすめたい。わたしはこの本を読んで科学哲学を目指そうと思った。日本の科学哲学の草分けの一人、市井さんのハギレのよい訳も当時の難解な哲学書と比べて新鮮だった。ライヘンバッハがうたった「科学的哲学」は、現在では再考を要するが、いわゆる「ポストモダン」の難解なナンセンスに比べるとよほど健康的で、知的に誠実である。ライヘンバッハの第一部、冒頭部分を以下に紹介しよう。


 

次の文章は、さる著名の哲学者の著作からの抜粋である。「理性とは実体であり、また無限の力であり、その無限の質料は、自然および精神生活のすべての根底に横たわる。理性はさらに、その質料を運動せしめる無限の形相であり、あらゆる事物がその存在を引き出すところの実体である。」

多くの読者は、この種の言語的産物に我慢ができず、それになんの意味も見出せないことから、、そんな書物は火の中に投げ込んでしまいたいと思うだろう。このような感情的反応から論理的批判へ前進するためには、博物学者がカブト虫の珍らしい標本を調べる時のような中立的観察者の態度で、いわゆる哲学的言語を研究することが必要となる。誤謬の分析は、言語の分析に始まるのである。

哲学を研究するひとびとは、通常はアイマイな表現方法にいら立ちはしない。かえって初めに引用したような文章を読むと、そのようなひとびとは、この文章を理解できないのは自分のせいだ、とおそらく考えることであろう。したがって彼らは、幾度も幾度もそれを読んだあげく、なんだかわかったと思えるような状態に到達する。・・・このようなモノの言い方に慣らされてしまって、「教養」のより少ないひとびとなら言うであろうような文句をすべて忘れてしまったわけだ。

さてここで科学者のことを考えてみよう。科学者は自分の使うコトバが、どの文章もすべて意味を持っている、というようにコトバを用いる訓練を受けている。また科学者の言明は常に、それが本当であることを証明できるような風にコトバ使いがなされている。その証明に、長い思索のクサリが必要であっても意に介さないし、また抽象的な推理をすることをも彼らは恐れない。しかし科学者は、その抽象的思索がなんらかのやり方で、自分の眼で見、自分の耳で聞き、また自分の指で触れることができるものに関係づけられていることを、要求するのである。この科学者が先に引用した文章を読めば、どのような批評をするであろうか?

・・・ではその哲学者の言う本当の意味は、何であろうか?おそらく彼の言いたいことは、宇宙のすべての出来事が、ある理性的目的に役立つように生起してゆく、ということであろう。これは疑問の余地のある想像だが、少なくともそう考えれば納得はゆくのである。しかしもしこれが、くだんの哲人が言いたいことのすべてであれば、どうしてその哲学者は、あのように謎めいた表現をしなければならないのだろう?

これが、わたくしの答えたい問題である。この解答がすんでから、哲学とは何か、また哲学はどのようにあるべきか、という問題に移りたいと思う。(邦訳 1-3。表記は少し現代風に改めた。)


ライヘンバッハのこの本は、以上に紹介したような一般的な反形而上学の立場を述べただけのものではない。彼がもっとも得意としたのは、物理学の哲学、なかでも空間と時間の哲学であった。そのサワリだけでもかいま見たいなら、第二部のはじめのほう、第8章を拾い読みすればよい。「幾何学の本性」と題されたこの章では、数学的幾何学と物理的幾何学の区別、物理的幾何学と相対論との関係、物理的幾何学において幾何学と物理学が分離できるのかどうか、この問題をめぐるアインシュタインとの論争など、科学哲学の「ハードコア」とも見なされるべき活動が例示されている(ただし、彼の言い分が全部正しいわけではない)。日本の科学哲学の草分けたち(彼らの功績を認めるにやぶさかではないが)は、残念ながらこういった分野には分け入らなかったので、欧米とのレベルの差は開くばかりである。


Last modified April 11, 2002. (c) Soshichi Uchii

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