朝永振一郎『物理学とは何だろうか』上下、岩波新書、1979

この本も、科学哲学をこれから勉強しようという人におすすめしたい本の一つである。ガンに侵された朝永先生が最後の精力を注いだという感傷的な理由は別にしても、素人向けに近代物理学の発展をたどった名著であり、タイトルの素朴な疑問に第一級の物理学者が答えを与えようと努力している。文科系の学生諸君にも、上巻に盛り込まれた程度の物理学の知識は持っていてもらわないと、「科学哲学」にはならない。

この本の本当の見所は、下巻の気体分子運動論の展開のところである。マクスウェルとボルツマンがニュートン力学という決定論的な物理理論と確率論あるいは統計的な手法とをどのように併用しようとしたか、その過程でどのような難問と格闘しなければならなかったか、それが哲学的問題とどのようにかかわるか。こういった問いが迫力ある筆致で語られていく。少し難しいかもしれないが、こういう議論に興味を感じないなら、そして、そういう興味を掘り下げていく根気がないなら、科学哲学なんかやるのはやめたほうがいい。割引定食みたいな「科学論」で満足しますか?

「ちかごろ都に流行るもの」(日本の都は現在東京!)、科学論(science studies)、STS (science and technology studies, or science-technology-and-society)のたぐいは、もちろん重要な新しい分野である。しかし、朝永先生がこの本で示したような、学説史や科学理論自体を押さえて分析した研究があらかじめなければ、これら「新分野」は商売のネタにすぐ事欠くことになる。アチラの流行を追いかけ、借り物の紹介ばかりに走る人たちのまねを(あんまり)してはいけない。これらの新分野を開拓し、重要な業績を上げている人たちは、科学史の素材をきちんと押さえた上で仕事をしていることを見落としてはいけない。

ナニ、見分けかた?「一次資料」をどれだけ読みこなしているか、文献表や注をしっかり調べてみ。いわゆる「孫引き」が見分けられるようになれば、キミもナカナカのもの。


ついでに、朝永振一郎『量子力学』I, II もおすすめ。ふつうの教科書では、いきなりシュレーディンガー方程式が出てきて原子のエネルギーレベルや振動子の計算が始まる、という叙述になるところ、朝永先生の記述は、量子力学の形成過程を丁寧に追跡する。これも、基本的には『物理学とは何だろうか』と同じスタンスの現れとみることができる。第一巻はプランクのエネルギー量子の発見物語から始まり、19世紀の統計力学や電磁気学の背景から、いかにしてそれを打ち破る新しい概念的変革が進んでいくか、が大変よくわかる流れとなっている。ここでも、著者が歴史的な原論文にきちんと当たった上で、その内容を自分の話の流れの中にうまく取り込んでいることが(わかる人には)わかり、並みの教科書ではない「名著」であるゆえんが明らかである。こういったスタンスが徹底されているので、シュレーディンガー方程式は、第二巻に入るまで出てこない。そこに至るまでの過程が大切なのである。プランクの苦闘、アインシュタインの大胆なヒラメキ(光量子仮説)、ボーアの対応原理やハイゼンベルクの行列力学の意義をこれだけ丁寧に解き明かしたものはまれである。ところどころ、必要な数学の前提があって、文科系の人にはわかりにくいところもあるが、それは自分で補ってチャレンジしてみよう。それだけの値打ちのある本である。


Last modified April 27, 2004. (c) Soshichi Uchii

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