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"Objectivity" of Experimental Knowledge


 

実験的知識は高次の理論からは独立

論理的経験論と新科学哲学の間で争点となった「理論と観察」の関係は、最近では実際の科学での具体的な事例に則した分析によってかなり異なった角度から照明が当てられている。仮に、いかなる理論からも独立な「生の観察」といったものが存在しないとしても、理論からの個別的な予測を検証するための実験的知識は、当の理論や対抗理論からはおおむね独立で中立的な性格をもっているではないか、というのが新しい見方である。

例えば、20世紀の初め頃に行なわれた、ブラウン運動による気体分子運動論の実験的検証を紹介してみよう。ブラウン運動とは、水やその他の溶液に含まれる、花粉や各種の微粒子がきわめて不規則に動き回り、決して止まることがないという現象である。他方、気体分子運動論は、テキストでも紹介したように、分子の運動は基本的にニュートン力学で扱えるが、多数の分子の運動が含まれるときには細部は抽象した統計的な扱いをすることで、巨視的な現象とうまくつなぐことができるという理論である。アインシュタインは、1905年に出版された論文で、この理論とブラウン運動とをつなぎ、ブラウン運動の観察によって気体分子運動論からの重要な帰結が観察にかかる形で検証できることを指摘した。 See Einstein on Brownian Motion

その指摘とは、簡単に言えば、(1)ブラウン運動が統計的にまったくランダムな運動である、そして(2)そうであるなら、その運動のある統計的な性質から1モル(グラム分子──例えば水素分子は水素原子2個のペアであるが、2グラムの水素が1モル)あたりの分子の個数(2グラムの水素には分子が何個含まれるか)──アヴォガドロ数──が決定できるということである。

(1)について言えば、統計的なテストは、ブラウン運動だけでなく、人口調査や工業製品のばらつきの検査、あるいは生物の形質の分布など、多種多様な現象に適用できるテストであり、とくに気体分子運動論からの「理論負荷性」がかかるわけではない。問題は、ランダムであるかないかを判定するためには、どのようなテストをパスすればよいかということに帰着する。ところが、このようなテストは、気体分子運動論の支持者であろうかなかろうが、物理学者であろうが遺伝学者であろうが共通に使えるものである。簡単に言えば、ランダムな運動は、数多く観測すれば、測定値(例えば粒子の最初の位置と一定時間後の位置との差)が特定のパターン(正規分布)を示す。これは、科学に必要な意味で「客観的」に判定できるのである。

(2)について言えば、これには細心の注意を払った入念な実験が必要であるとはいえ、長さの測定や、人口の統計的推定と同じように、ある量の実験的な決定の問題に他ならない。「何の」量であるかを言うためには理論が必要である。しかし、その量の決定自体は当の理論に依存せず、他の分野でも共通に使える手続きが適用可能であり、得られた数値の信頼性は、当の理論の是非には依存せず判定することができる。簡単に言えば、測定値自体の信頼性は、理論の信頼性とは切り離すことができる。ここでも、信頼性の高い測定値は、科学に必要な意味で「客観的」であると見なされる。 See, e.g., How good are Perrin's Measurements?

かくして、新科学哲学が問題視した「観察の客観性」は、「実験的知識の客観性」に置き換えられて復活しているのである。ただし、注意しなければならないのは、気体分子運動論からの予測がこのように「客観的に」検証されたからと言って、気体分子運動論の全体が(分子の本性などのディテールも含めて)「客観的に正しい」と確立されたわけではないということである。マクスウェルやボルツマンたちが予想した原子や分子の姿と、現代の量子力学的な原子や分子の描像とは、多くの点で異なっている。実験的知識の「客観性」は、そのことも十分に許容しうるのである。

For more on this, see Error Statistics


Last modified April 11, 2002. (c) Soshichi Uchii

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