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The Responsibility of the Scientific Advisors

科学者の政策関与──科学顧問の責任

[これは、『科学の倫理学』(丸善、2002年4月)の一部原稿である。「科学者の社会的責任を考えるために」の続編ともいうべき内容なので、ウェッブ公開する。引用はウェッブ版ではなく前記の本よりされたい。]


科学者の政策関与──科学顧問の責任

原子爆弾の話をしたついでに、その後の話をもう少し続けてみよう。アメリカ政府の科学顧問の話を調べれば、何冊もの本になるほどの材料があるはずだが、ここでは比較的一般に知られていない事例を紹介したい。

ジョン・アーチボルド・ホイーラー

ホイーラーは、1960年代に一般相対論研究の新しい波を起こし、プリンストン大学などで、リチャード・ファインマンをはじめ多くの優秀な弟子を育てたことでも知られる第一級の物理学者である。彼は90歳をこえてまだ存命であるが、数年前に彼の自伝(Wheeler 1998)がでたので、マンハッタン計画および水爆開発における彼の関与ぶりと信念の詳細が明らかになり、興味深い事例である。マンハッタン計画では、彼は当初シカゴの冶金研究所にいたのだが、やがてプルトニウム製造を引き受けたデュポン社との関係を担当する役割を与えられ、最終的には西海岸のワシントン州、人里離れたハンフォードに作られたプルトニウム製造プラントで働くことになる。ここで作られたプルトニウムが、長崎の爆弾で使われたわけである。彼は、日本軍が風船につけてとばした爆弾が、ハンフォードで、プルトニウム・プラントを一時停止させたという秘話を紹介している(Wheeler 1998, 62-3)。

それはともかく、ホイーラーは戦後1950年に、再び水爆開発に駆り出される。水爆は、核融合(熱核反応とも呼ばれる)のエネルギーを利用するもので、核融合を起こすために核分裂によっていわば点火するという仕掛けを使う(ただし、「テラー-ウラム設計」と呼ばれる中心的な設計は軍事機密なのでわからない)。水爆開発の立て役者はエドワード・テラー(彼の息子のポールは科学哲学者であり、わたしも1976年にシカゴで同じシンポジウムに出たので面識がある)であり、水爆開発に反対したオッペンハイマーの公職追放に当たっては、テラーの証言が一つの決め手となったことはよく知られている(藤永1996、316、327-331)。ホイーラーはテラーと仲がよかった。前年の秋、ヨーロッパ滞在中にソ連の原爆実験を知り、水爆開発参加への誘いを受けたホイーラーは悩みに悩むが、ボーアに相談した後、引き受けることに決心する。ボーアは、「西側の原子爆弾がなかったとしたなら、ヨーロッパがソ連の支配からいま自由であろうと、一瞬でも思うかね」と答えたとのことである(Wheeler 1998, 189)。

しかし、われわれの興味があるのは、ホイーラー自身の言い分である。彼は決心の理由を次のように述べている。

わたしの心中では、わたしは国家への奉仕に応えていた。わたしに、仕事の一つのラインから別のラインに乗り換えさせた──その過程で家族も巻き添えにした──のは、科学的な好奇心ではない。経済的な見返りでもない。他人の説得力に負けた意志の弱さでもない。熱核(核融合)問題は科学的な関心をそそる問題だったけれども、それで働く理由はまったく実践的なものだった。わたしは、合衆国がジョー1[ソ連の原爆一号]に対応するためには、ソ連より先に熱核兵器を開発するプログラムを優先的に追究することが緊急課題だと考えた。トルーマン大統領がこれを国家的優先課題としたとき、それを助けるための召集には応じる義務があると思った。(Wheeler 1998, 199)

これは一つの見識であり、「科学者としての能力」を提供して国家への義務を尽くすという点では、すでに見たファラデイの見解に近い立場である。フランクやボーアなどは、核兵器が使われる前に核兵器競争を防ぐための対策を講じようとしたのだが、それが失敗して競争が始まった時点では状況は変わっている。ホイーラーは、その変わった状況のもとでの判断を示している。いま、その是非は問題にしないが、問題は、「ラッセル・アインシュタイン宣言」に象徴されるように、「国家への義務」だけで解決できるレベルをはるかに超えたというところにある。この水爆開発をめぐっては、アメリカの物理学者の意見は賛成と反対に二分され、多くの場合、対立が個人的な関係にまで持ち越された。ホイーラーは、彼の個人的な人徳によって、それを最小限にくい止めた一例であろう。しかし、そのホイーラーと、彼の愛弟子の一人であるキップ・ソーンの間でさえ、水爆開発の立て役者テラーに関する倫理的評価は「正面衝突」の観を呈している。キップ・ソーンは、彼の名著『ブラックホールと時空の歪み』(1994、邦訳1997)の中で、オッペンハイマーの公聴会でのテラーの証言に触れ、次のように述べている。

アメリカの大部分の物理学者にとって、オッペンハイマーはたちどころに殉教者になり、テラーはたちどころに悪漢になった。テラーは終生、物理学者の共同体から村八分にされることになる。しかし、ホイーラーにとっては、殉教者はテラーだった。テラーは「国家の安全を物理学者集団の団結の上に置いて、自分の正直な判断を表明する勇気をもっていた」とホイーラーは信じた。このような証言はホイーラーの見解では、村八分に値するのではなく「考えてみる値打ちのあるもの」である。アンドレイ・サハロフも三十五年後にこれに同意するようになった。(ソーン1997、215、一部原典を参照して改訳。ここで出てくるサハロフとは、ソ連の水爆開発に関わり、後に反体制派となった物理学者のことである。)

記録のために述べておくのだが、私はホイーラー(私の親友の一人であり、指導教授であったが)にも、サハロフにも断じて不賛成だ。(ソーン1997、215、注)

左はT. W. Harvey の写真より、右は内井のペイント

このような意見の対立をできるだけ公平に裁くには、テラーについての個人的評価(ウィグナーも友人だったので好意的な意見を残している。Szanton 1992, 262-265, 272-274)だけではなく、1949年から50年にかけての水爆開発プランをめぐる状況と論争、その後の米ソの水爆開発の実際の進展、極秘文書の解禁に伴う歴史的研究の進展など、多くの要因を考慮に入れなければならない。これは、もちろん、わたしの手には余るし、「科学の倫理」だけにも収まらないが、「科学の倫理」が重要なファクターとしてかんでくることも明らかである。そこで、わたしの力量不足は、優れた研究として定評のあるハーバート・ヨークの本(York 1989)で補って、暫定的な分析だけを示すことにしたい。


水爆開発に対する1949年の状況

ハーバート・ヨークは、ロチェスター大学の物理学科を1943年に出て以来1969年まで、核軍備拡張レースがらみの研究にずっと携わってきた物理学者である。彼の本で取り上げられたのは、とくに水爆開発の研究の歴史と、1975年の時点で明らかになった諸事実をふまえて、このような研究が適切であったかどうかの評価である。一つの焦点となっているのは、1949年10月30日、水爆(スーパー爆弾と呼ばれた)の開発をすべきかどうかについて、当時の原子力委員会(Atomic Energy Comission, AEC)の一般諮問委員会(General Advisory Committee, GAC)が出した結論の、歴史をさかのぼった評価である(この文書は長らく秘密であった。解禁は1974年)。オッペンハイマーが委員長を務め、科学者あるいは科学の行政官をメンバーとしたこの一般諮問委員会 GAC は、ソ連の核開発を受けて、一方で合衆国が原爆の製造と研究を加速すべきだと認めた。しかし、他方、全員一致ではなかったが、水爆開発は好ましくないという一致は得られたと報告し、多数意見(9名中の6名)と少数意見(2名)をともに添付した(1名の委員、後にケネディ政権の時に原子力委員会の委員長となるシーボーグはヨーロッパ滞在中で欠席)。このうち、オッペンハイマーも加わった多数意見では、水爆開発は決してすべきでないと進言したのである。この部分(Part III)は重要なので、まず冒頭部分(オッペンハイマーの署名)を引用しておく。なお、この文書からの引用は藤永(1996)でも行なわれており(とくに、288-290)、訳文は、それも参考にしたがわたし自身の訳である。

諮問委員会のメンバーは、スーパー爆弾についてどうすべきかという提案について全員一致ではないが、全員が一致できるいくつかの要素はある。われわれは、全員、何らかの手段でスーパー爆弾の開発が避けられるよう希望する。われわれは、全員、合衆国がこの開発促進を先導することは望まない。われわれは、全員、現時点において、その開発に向けての全面的な努力に踏み切ることは正しくないということで一致した。 われわれの意見が分かれるのは、この武器を開発しないという決定にどれだけ踏み込むかという点である。多数意見によれば、この決定は無条件であるべきである。少数意見では、このような決定は、そのような開発を断念しようという提案に対し、ソ連政府がどう反応するかによってなされるべきである。(York 1989, Appendix I, 158-9より引用。)

さらに、多数意見では、水爆開発を無条件で断念すべきだという理由について、次のように踏み込んでいる(ここの執筆は、元ハーヴァードの学長、J. B. コナントらしい)。

われわれの意見の根拠は、スーパー爆弾開発の提案には、人類に対する極端な危険が必然的に伴うので、その危険が、開発から得られるであろうどのような軍事的利益をもまったく凌駕してしまうだろうという信念である。この爆弾はスーパー兵器であることを明確に認識すべきである。これは、原子爆弾とはまったく異なるカテゴリーに入る。このようなスーパー爆弾を開発するための理由は、一発の爆弾で広範な地域を壊滅させる能力を持つことであろう。その使用は、莫大な数の一般市民を殺すという決定を含む。われわれは、想像可能な二、三のスーパー爆弾の爆発によって生じた放射能がもたらしうる全体的な影響についても懸念する。もしスーパー爆弾が実現されるなら、それによってもたらされうる破壊力には内在的な限界はない。それゆえ、スーパー爆弾は人類皆殺しの兵器となるかもしれない。(York 1989, 159-160より引用。)

これは、基本的に科学者がメンバーとなった委員会の報告であるから、スーパー爆弾の威力についての、当時の科学的査定を踏まえた上での判断である。同報告書第二部では、事実、当時のスーパー爆弾計画の難点も含め、技術的な査定が付け加えられている。念のために情報を補足すれば、マンハッタン計画の途中から「スーパー、スーパー」と言い続けていたのはテラーであり、その後もテラーが立て役者だったのだが、この1949年当時(それどころか1951年初めに数学者ウラムのアイデアが出るまで)、テラーには開発のキーとなる有望なアイデアは何もなかったのである。これについては、これも1980年にやっと解禁され、1982年に公表されたハンス・ベーテ(彼もマンハッタン計画で働き、後に水爆開発にも協力した。原論文は1954年に書かれた)の論文がヨークの本の付録として収録されているので、テラーの無節操ぶりの記述と合わせて、参照されたい。ベーテ自身の立場は、水爆開発はすべきでなかったが、ソ連との開発競争がいったん始まったからにはそれに協力すべきだという考えだった。そのベーテからここで引用したいのは、テラーについての悪口ではなく、水爆開発を成功させるには何が必要であったか、という彼の指摘である。

熱核爆弾プログラムを成功させるための要件は四つあった。第一に、アイデアがなければならなかった。第二に、そのアイデアを実現するために、一つのチームとなって働く、多くの有能な人材がいなければならなかった。第三に、高度に開発された、高度に効率のよい核分裂爆弾がなければならなかった。第四に、高速のコンピュータがなければならなかった。(York 1989, 175-6より引用。)

前述のホイーラーは、プリンストンでチーム(「マッターホルンB」と名づけられた)を組み、ロス・アラモスと手分けして水爆の設計計算(とくに、核融合反応の点火から爆発の過程)を行なったのである。それには、もちろん、当時の初期コンピュータをうまく活用しなければならなかった。


原子力委員会の科学者は責任を果たしたか

さて、科学の倫理あるいは科学者の倫理という本書のテーマに戻るなら、前述GACの報告は貴重な資料である。水爆実験の後で出された「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955)をわれわれはすでに見たが、GACの報告は水爆開発の前である。この委員会のメンバーは、合衆国の原子力委員会(委員長リリエンソールは、この報告書通りの勧告をした)を通じて大統領の決定に影響を及ぼしうる地位にあった。その地位にあって、「科学者の責任」と「科学顧問の責任」の二つを引き受けていたのである。念のために二つの責任の基準をもっと明確にしておこう。(1)「科学者の責任」については、フランク・リポートやラッセル・アインシュタイン宣言と同じ、人類一般に対する責任と見なす。(2)「科学顧問の責任」については、アメリカ合衆国の国益を基準とし、アメリカ国民に対する責任と見なす。彼らはいずれの責任も果たしただろうか。わたしは、いずれについても「イエス」と答えたい。

まず、(1)については、科学者のみに対して過大な要求を突きつけないように注意しなければならない。アメリカの政策や国際関係について、後世の人間が「こうあってほしかった」という結果につながらなかったからといって、その責任をすべてこれらの科学者に求めるのは不合理である。彼らも、与えられた時代、与えられた場所で、種々の制約を背負って生きていた人間であった。そして、いま問題なのは、水爆開発に関わる彼らの科学的な査定がどうであったか、その査定をふまえて適切な判断を下したかどうかである。「秘密文書だったのだから、人類に対する責任は無意味だ」という反論が出るかもしれないが、これは両刃の剣である。この論法を使うなら、原爆開発自体も秘密だったのだから、プロジェクトの科学者たちには人類に対する責任はなかったことになる。ポイントは、GACの勧告の中で、人類の利害が適切に考慮に入れられていたかどうかである。フランク・リポートやラッセル・アインシュタイン宣言がわれわれに訴える力、感銘を与える力を持つのは、まさにそこであろう。この点では、GAC報告の内容、とくに多数意見の内容は、われわれがすでに高い評価を与えた二つの文書に比べて遜色がない。「自国優先」の影は、ほとんど認められないのである。その証拠に、多数意見の最後は次のように締めくくられている。「スーパー爆弾の開発には進まないことを決定するということは、戦争の全体に対して何らかの歯止めをかけるということを実例をもって示し、それによって人類の恐怖を抑え希望を高めるという、類のない好機である、とわれわれは考えるのである」(York 1989, 160より引用)。

また、「科学者の」責任であるから、当然科学的査定に関わる妥当性が問題となるが、これについては多言を要しない。われわれは、その後の後知恵によって、核分裂、核融合いずれについても、核爆弾の地球規模での弊害をよく知っているからである。それだけでなく、専門家ヨークが1975年の時点で下した評価もきわめて高いので、引用しておく値打ちがあろう。

・・・GAC はスーパーのいくつかの性質について一連の予測を行ない、その開発プログラムがたどるであろう道筋についても予測を行なった。完璧ではなかったが、そのような予測に付きものの困難を考えると、彼らの予測は驚くほど正確だった。(York 1989, 11)

より難しいのは、(2)の答えの擁護かもしれない。「自国優先」を離れたのなら、なぜアメリカ国民に対する責任も果たしたことになるのだろうか。ここでは、ヨークの分析を援用しなければならない。


トルーマンが水爆開発を見送っていたなら何が起こったか

歴史に「もし」は禁物だとよく言われる。しかし、ヨークの研究の評価が高いのは、この「もし」、しかも水爆開発というきわめて大きな決定について、事実に反する「もし」を追究して一つの結論を引き出した点にある。この推論は、ヨークの本の中ほど、見開き2ページの図で簡潔に要約されている。すなわち、米ソの核開発について、(a)実際の歴史の進行、(b)GAC の勧告に従っていたとした場合の最もありそうな事態の進行、および(c)同じ場合の、アメリカにとって最も不都合な事態の進行、の三つのケースを比較し、アメリカの軍事的国益を比較したのである(York 1989, 94-102)。ヨークの図を簡略化した図を参照されたい。

図 米ソ水爆開発の可能なシナリオ

(a)1951年5月に、アメリカは核分裂と核融合を併用した爆弾のテストを二回行ない、いずれも成功した。これはまだスーパーではない。1952年11月には「マイク」と呼ばれる最初のスーパーの実験が成功し、威力は10メガトン(TNT火薬相当)、広島型の約1000倍であった。同年11月、アメリカは核分裂爆弾の新型「キング」を実験し、威力は0.5メガトン、広島型の約50倍だった。これに対し、ソ連は1953年8月、核融合を含む爆弾「ジョー4」の実験に成功したが、これの威力はキングと同じかそれより小さなものだった。しかも、これはスーパーではない併用型だった。アメリカは、続く1954年春に6個のスーパーを実験し、それらの威力は小が0.1メガトン、大が15メガトンで、これがビキニ環礁で行なわれた「ブラヴォ」である。ソ連は、1955年11月に、ついに新型(テラー-ウラム型か、それに近いもの)スーパーに成功するが、威力は数メガトン。

(b) 仮にトルーマンが勧告に従ったとしたなら、核分裂型の改良は同じ、もしくはもっと早く進み、「キング」に行く。(スーパーについては、勧告にしたがえばソ連との交渉が始まるかもしれないが)ソ連も「ジョー4」にこぎ着けただろう。しかし、これはソ連がアメリカに追いついただけで、追い越したわけではない。その後、アメリカがスーパーの開発を始めたとしても1955ないし56年には「マイク」あるいは「ブラヴォ」レベルに行けたであろう。しかし、ソ連は、アメリカのスーパーの先例がないので、スーパーの開発は遅れ、おそらく三年ほど遅れて最初のスーパーにたどり着くだろう。アメリカの優位は保たれたままである。

(c) 同じ前提でアメリカにとって最悪の事態は、ソ連の開発は実際の歴史通りで、アメリカのスーパーの開発のみが遅れるというシナリオである。この場合、ソ連は1953年8月に「ジョー4」にたどり着いてアメリカと肩を並べるが、アメリカがここからスーパー開発に乗り出して「マイク」レベルにたどり着くのは1955年9月から1956年4月の間と予想される。ソ連は1955年11月に威力で劣るスーパーを完成するが、数ヶ月の遅れは大きな問題ではない。テストから実際の生産には時間がかかり、この点ではアメリカの方が優れているからである。加えて、通常核分裂爆弾および「キング」レベルの核分裂爆弾ではアメリカはなお優位を保っているので、それでソ連に対抗できる。かくして、この場合でもソ連に追い越されたわけではない。

以上三つのシナリオを比較して何が言えるだろうか。すでにある程度は書いてしまったが、「自国優先」にこだわらず、世界的、人類的規模で考えて打ち出された判断と方針とは、当時予測できた事情(GACは当然それを考慮に入れた)に鑑みて、アメリカの軍事的国益を著しく損なうものではなかったし、1975年の時点で後知恵を援用して下した判断によってもそれが確認できるということである。これを踏まえて、ヨークは次のように結論する。

かくして、1949年終わり頃から長らく言われてきた、オッペンハイマー・リリエンソール勧告 [リリエンソールは当時のAEC委員長] に従っていたとしたなら、何らかの大きな災難がもたらされていたであろうという普通の考えは、振り返ってみれば、やはり間違っていた。(York 1989, 102)

ヨークは長らく軍事研究に携わっていた研究者であり、「核のバランス」については専門家の感覚をもっているはずである。しかし、その専門家の判断によれば、「最悪でも、両国は、大きな水素爆弾の点火方法をほぼ同時期に発見したであろう」し、「最善の場合は、公算は小さいにしても、スーパー爆弾を時機を得てくい止めたかもしれない」(York 1989, 102-3)という。わたしは、この判断が無条件に正しいと擁護するつもりはない。しかし、ここでヨークの研究を紹介したポイントは、核問題について倫理判断を下し、科学者の責任を云々するためには、最低限どれだけの、あるいはどのような、事実認識や予測が必要かということを、具体例に則して示すことにあった。「真、善、美」の統一といった美辞麗句を持ち出したり、「物理学者は懺悔せよ」と声高に非難しても、何も解決に向かわないのである。結論として、オッペンハイマー率いるGACは、その立場に置かれた科学者として、人類に対しても、アメリカ国民に対しても、十分責任を果たしたとわたしは考える。後の責任は、政治家および政治家を動かして画策した「抵抗勢力」(流行の言葉を使わせていただく)にあったのではないだろうか。その間の事情や、オッペンハイマーのその後については、藤永(1996)、290ページ以下を参照されたい。


グレン・シーボーグとケネディ

アメリカの科学顧問をもう一人だけ取り上げよう。今度は、エスカレートを続けた軍拡レースに歯止めをかけようと努力した科学行政官の話である。これが、オッペンハイマーの諮問委員会で、重大なときに唯一(スウェーデン滞在中で)欠席していたグレン・シーボーグ、プルトニウムの発見者の一人である。彼の意見は、このとき、不承不承だったが水爆開発推進派だったのである(彼は、フランク・リポートにも加わった一人であったことを指摘しておかなければならない)。このシーボーグも数年前に自伝のたぐいを出したので(Seaborg 1998)、ケネディ時代にAEC委員長を務めた活動ぶりの詳細(ただし、全貌ではない)が明らかになった。彼は克明な日記を残すことで有名であり、そのために退任後AECと一悶着を起こしたほどである。それはともかく、シーボーグは、マンハッタン計画の時のルーズヴェルト大統領から数えて、クリントン大統領まで、実に11人の大統領のもとで、何らかの形で科学顧問として働いてきたが、ハイライトはやはりケネディ時代である。その始まりが面白いので紹介してみよう。

わたしの人生を変えた電話は、1961年の1月9日にかかってきた。電話は、大統領に選ばれたケネディからだった。彼は、わたしに原子力委員会AECの委員長をやってくれないかと言ってきたのである。わたしが、決心するためにどれほど時間をいただけるかと尋ねると、彼は次のように答えた。「十分に時間をかけてください。明日の朝まで返事する必要はないですよ。」(Seaborg 1998, 78)

いかにも、キビキビしたケネディらしいではないか。シーボーグは当時西海岸のバークリーの近くに住んでおり、家族の反対もあったが、結局この仕事を引き受け、実に1971年までその地位に留まることになる。

アポロ計画

ケネディ時代の「科学的雰囲気」を知るためには、ソ連のユーリ・ガガーリンが宇宙に飛び出した最初の人間になった(1961年4月12日)ことを想起しなければならない。アメリカは、スプートニク(1957年、最初の人工衛星)でソ連に後れをとり、宇宙飛行士でまた後れをとった。ロケット競争、宇宙競争ではソ連にリードを許したということである。そこで、ケネディは議会で「緊急の国家的課題」をブチあげ(5月25日)、その中の一つに「月に人を送り込む」ことを含めた。世に言う「アポロ計画」である(これが実現するのはニクソン政権の時代、1969年7月である。わたしのアメリカ留学中だったが、テレビを買えない貧乏学生だったのでロクに見た記憶がない)。

いまや、もっと大きな一歩を踏み出す時であります。新しいアメリカの偉大な企ての時であります。わが国が宇宙開発においてはっきりと指導的役割を果たす時が来ました。これは、地球におけるわれわれの未来へのカギを多くの点で握るものとなるでありましょう。(Seaborg 1998, 101より引用。)

この演説や、アポロ計画は、アメリカだけでなく日本で科学や工学を目指す若者にも夢を与えたことを指摘しておかなければならない。「理科系離れ」や「理数の学力不足」が言われる昨今とは隔世の観がある(実は、わたしもこの時代に理科系を目指した若者の一人)。

キューバ・ミサイル危機

次に来るのはキューバのミサイル危機である。これがきっかけとなり、結果的にはアメリカとソ連の間で「核実験禁止」の話し合いが行なわれるようになり、シーボーグはこの話し合いで大きな役割を果たしていくことになるのであるが、それは後ほど。1962年の8月終わり頃から、キューバでソ連船から軍事機器が荷揚げされ、いくつかの場所で工事も始まっているという情報が入り始めた。ケネディは、10月22日にラジオ、テレビを通じて国民に対し演説を行ない、ソ連のミサイルと爆撃の基地がキューバに建設されていることを航空写真で確認したと告げる。そして、カストロの頭越しに、ソ連のフルシチョフ書記長に対し直接要求を突きつけるのである。二人の間でギリギリのやりとりがあった後、フルシチョフは折れ、10月28日に、国連監視のもとでミサイルを撤去するというソ連政府からの返答が入る。核戦争の危険が最も高まった一週間であった。しかし、このやりとりでケネディとフルシチョフの間にある種の絆が生じ、一年経たない間に核実験限定禁止条約が両国の間で成立することになる。(注)

核実験禁止交渉

これの交渉に先立ち、シーボーグは1963年5月、科学使節団を率いてモスクワに乗り込む。そして、ソ連の国家原子力委員会の議長とともに、原子力の平和目的利用における両国の協力に関する覚え書きに調印する。このときの彼の印象は、引用しておくに値するであろう。

われわれが受けた丁重なもてなしは、科学が東西の共通の地盤として、また、共通の言語として有効に働くというわたしの信念を確認することを助けた。(Seaborg 1998, 110)

これは、パグウォッシュの運動を支えている信念とも基本的に同じであると考えられる。「科学が核兵器を作った」という側面しか見えない人々に対して、これははっきりと指摘しておく必要があろう。

この成果を受けて、1963年7月15日から12日間にわたって、核実験禁止の条約調印に向けてモスクワで交渉が行われる。ハリマン特使の尽力にも関わらず、包括的禁止ではなく限定的禁止の条約しか合意されなかった。調印は8月5日にモスクワで行なわれた。シーボーグはこの成果を大いに残念がるのだが、次のような信念も披露している。

ケネディが生きていて第二期目を務め上げたとしたなら、そしてもしフルシチョフが地位を持ちこたえていたなら、核実験の包括的禁止を含む、軍縮のもっと大きな成果が出ていたであろうとわたしは思う。ケネディとフルシチョフ二人の軍縮を進展させるという決意は、キューバ・ミサイル危機の身にしみる経験によって大いに強化されていた。・・・二人は関心を同じくする諸問題について互いに相談し、一緒に考える機会をますます増やしていた。これは、大部分私的な文通によって行なわれていたが、キューバ・ミサイル危機以後、その頻度は高まったのである。(Seaborg 1998, 141)

しかし、もちろん、これはかなわぬこととなった。1963年11月22日の午後、ケネディはダラスで暗殺されるのである。しかし、ケネディが行なった最後の仕事の一つは、もちろんシーボーグの尽力と進言もあって、オッペンハイマーの名誉回復だった。AEC が科学者に与える栄誉、1963年の「フェルミ賞」がオッペンハイマーに与えられることに決まったのである(前年の受賞者はテラーだった)。授賞はジョンソン大統領の手から行なわれた。 このように、シーボーグはケネディといいコンビを組んで、アメリカの原子力政策、東西の軍縮に好ましい足跡を残したと考えられる。

本書では、これまで「科学者の責任」ということで「科学者の義務」をもっぱら考察してきたのだが、科学者として「責任をとる」(償いをする)という意味での「責任」の実例をみたいなら、このシーボーグが(本人が意識してかどうかは度外視して)一つの例になるのではないだろうか。原爆開発の結果生じた好ましくない事態(すべてが科学者の責任ではないが)を、次世代の科学者を代表して、シーボーグは改善しようと努力したのである。パグウォッシュに参加した科学者たちも、立場は違うが、別の形での「責任の取り方」を実践したと言える。

(注) キューバ危機の実状は、その後明らかになった多くの事実を踏まえてローズによって克明に描かれている。好戦的な軍人どもがいかに危険な言動をとっていたか、寒気がしてくるほどである。次を参照。

ローズ『原爆から水爆へ』下(紀伊國屋書店、2001)、876-886(原著1995、570-576)


(1) The situation in 1949 in the US, and after the GAC report, is briefly summarized, by York, as follows:

The opponents of the superbomb argued that neither the possession of a super weapon nor the initiation of its development was necessary for maintaining national security and that under such circumstances it would be morally wrong to initiate the development of such an enormously powerful and destructive weapon. In essence, they argued that the world ought to avoid the development and stockpiling of the superbomb if at all possible, and that America's forgoing it was a necessary precondition for persuading others to do likewise. Furthermore, they concluded that the relative status and dynamism of American nuclear technology were such that the United States could safely run the risk that the Soviet Union might not practice similar restraint and would instead initiate a secret program of its own.

The advocates of the superbomb contended that the successful achievement of such a bomb by the Soviets was only a matter of time, and so at best our forgoing it amounted to a deliberate decision to become a second-class power and at worst it was tantamount to surrender to the dark forces of world communism. They added that undertaking its development was morally no different from developing any other weapon. (York 1989, 2-3)

In this context, it is very important to notice that this argument was not between "doves" and "hawks"; it was rather between "mild hawks" and "superhawks". And what I am saying in the text is that the "mild hawks" said respectable and responsible things. Read the GAC report, which is included in York's book.

[The GAC report contained a prediction from which the statement in the figure, made in 2003, can be derived]

(2) Hans Bethe's paper (written in 1954), also included in York's book, is another "must" for anyone interested in the history of nuclear weapons.

(3) As regards Seaborg, see my review: http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phisci/Newsletters/newslet_27.html

(4) As regards Oppenheimer's political activities (eventually leading to his own downfall) after the war, consult Huzinaga 1996, chh. 8-10, and examine the documents referred to there. Huzinaga's book is one of the best biographies of Oppenheimer.

(5) The situation in 1949, and the process of the GAC decision, is well documented by Richard Rhodes in his newer book, Dark Sun, the making of the hydrogen bomb, 1995 (Japanese translation, Kinokuniya, 2001), ch. 20.

Also, contrary to York's conjecture (York 1989, 37) , Rhodes shows (in detail) that the role of espionage was great in the Russian program of the atomic bomb; the Russians (headed by I. Kurchatov) obtained all the essential information of the plutonium bomb by June 1945 (Rhodes 2001, ch. 9).


文献

藤永茂(1996)『ロバート・オッペンハイマー』、朝日選書。

唐木順三(1980)『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』、筑摩書房、1980(全集第18巻に収録、ページ番号も全集版)。

村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』新潮選書。

ローズ、R. (1995)『原子爆弾の誕生』上下(神沼二真・渋谷泰一訳)、紀伊國屋書店。

武谷三男(1982)『科学者の社会的責任』、勁草書房。

内井惣七(1995)村上1994 の書評、『科学』65-2。

内井惣七(1998)「科学者の責任を考えるために」『大学の物理教育』1998-3。これの増補版は、http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/resp.sci.html

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