科学者の責任を考えるために

The Responsibility of the Scientist, S. Uchii

内井惣七 京都大学大学院文学研究科

[English Abstract//English version]

この論文は、『大学の物理教育』1998-3号、pp.4-8 に掲載された同名の論文を増補したもの。5節後半および二箇所の注と参考文献1点とが新たに付け加えられている。転載を許可された日本物理学会に感謝する。なお、この論文の基本線は、科学的業績の先取権問題から説き起こして、『科学の倫理学』丸善、2002年、でもっと周到に練り上げ、優生学など他の事例にも適用した。


1. 原爆開発と科学者の責任

科学者の社会的責任について論議を始めた草分けは、日本では、パグウォッシュ会議についての報告や所見を述べた湯川秀樹、朝永振一郎らの論文であろう。その経緯についてまず触れておこう。そもそもの始まりは、冷戦と核軍拡競争の激化を憂慮した「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955、湯川が署名、ビキニでの第五福竜丸の被爆も触れられている)であり、その精神に基づき東西の科学者たちによって1957年にカナダのノヴァ・スコシアの寒村で始められたのが(その地の名前をとって)パグウォッシュである。最近での論議はもっと広がりを見せ、唐木順三の遺著『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』(1980)をきっかけとして、武谷三男『科学者の社会的責任』(1982)、村上陽一郎『科学者とは何か』(1994)、あるいは藤永茂『ロバート・オッペンハイマー』(1996)などの著作が現れている。

わたしがこの問題にかかわり始めたのは、村上の前掲著書の書評(内井1995)を頼まれ、書評の後もいくつか重大な疑問と不満が残ったからである。まず、村上は話のマクラに使った唐木の問題意識や議論とまともに対決しない。原爆を作り出した物理学の「罪」を糾弾し、物理学者の「罪の意識」を問題にする唐木の議論は傾聴に値するのかどうか。わたし自身の検討によれば、率直に言って、唐木の議論から「科学者の責任」の問題について学ぶべきものはほとんどない、と言い切れる。しかし、第一回のパグウォッシュ会議の報告に触発された唐木の問題意識と、湯川と朝永を比較して湯川を断罪した唐木の判断を紹介して話を始めるのなら、パグウォッシュ会議の問題意識とその活動の内実、およびこの会議の出発点となったラッセル・アインシュタイン宣言(1955年)の、あるいは原爆開発のマンハッタン計画の前後にわたる科学者たちの言動の検討は不可欠である。村上の本では、これが(わたしのような歴史には疎い)哲学者の目からみても不十分である。わたしが自分で調べてわかったのは、これらの動きの中に、実は、近年の「科学者の責任」の問題の源流があったということである。

もちろん、村上ほどの鋭い感覚の持ち主がこれに気づかなかったはずはない。その証拠に、科学者集団の全般的な「無責任態勢」を厳しく論難した彼の本にあって、好ましい科学者像の一つの手本として賞賛されているのはレオ・シラード(1898-1964)である。核分裂の連鎖反応の可能性にいち早く気づいていた彼は、アインシュタインにルーズヴェルト大統領宛にナチス・ドイツに対抗するため原子爆弾開発を勧告する手紙(1939年)を書かせたという功績(?)により、核兵器の歴史が語られるときには必ず言及される、いわば「伝説的」人物である。彼は、また、マンハッタン計画に参加するかたわら対日戦争での原爆使用に対して最後まで「反対請願」を展開したことでも知られる。しかし、村上のシラード評価は、ある種の「伝説」をほとんど無批判に継承したとしか思えない。引用してみよう。

このシラードの行動は、専門家としての知識(それは、当時の当該分野においてもっとも先導的な種類のものだったことは、明らかである)を十分に駆使しながら、しかも、国家や政府の行動原理、あるいは軍事的な環境からの圧力のもつ意味、あるいは国際軍事情勢についての基本的な、しかし正確な知識を組み合わせ、健全な推理力と洞察力によって、単に専門領域のなかの専門的知識における判断ではなく、より包括的な、人間個人やそのグループとしての社会集団に関する判断を造り上げた、希有の例のように思われる。(村上1994、126-127)

このようなシラード賛美は珍しくないにせよ、その根拠が問題である。「希有の例」なら歴史的資料に基づくしっかりとした理由づけが必要なはずであるが、村上の本にはどこにもそれがない。この箇所に、わたしは「神話?!」という書き込みを入れておいたが、案の定このような評価に真っ向から反対する見解が現れた。それは、わたしがいままで読んだなかではもっとも感銘を受けたオッペンハイマー評伝、藤永(1996)のシラード評価である(同書226-238)。翻訳文献からの引用に終始する村上とは異なり、オッペンハイマーが結果的に公職から追放されることとなる「聴聞会」の記録を含む多くの一次資料を丹念に当たった藤永(彼の兄は長崎の被爆者である)の著書は、資料の扱いと全般的な信憑性において、村上の略式の「ケース・スタディ」とは比べものにならない。この半年あまりで入手できた資料については、わたし自身もチェックしたのでそう判断できる。

その藤永の判断によれば、一言でいえばシラードは「堕ちた偶像」(同書226)である。むしろ、藤永の評価が高いのは、シラードと同じく、マンハッタン計画ではシカゴの冶金研究所で働いていた、そして大戦末期には原爆の対日戦での不使用を強く勧告する「フランク・リポート」を政府に提出した、ジェームズ・フランク(1882-1964)のほうである。世評に反してなぜ藤永のシラード評価が低いか、その一つの有力な根拠は、シラードの親友であり、やはり冶金研究所で働いていたウィグナー(1902-95)の証言からくるのであろう。村上の評価が妥当だと思う人は、一度ウィグナーのシラードに関する証言(歯に衣着せぬ直言と親愛の情とが入り混じっている。Szanton 1992, 222-229)に目を通して、その評価が変わらないかどうか試してみるとよい。シラードのある種の先見性や優れた行動力までも否定する必要はないが、わたしは村上よりは藤永の評価を支持する。


2. 「フランク・リポート」

さて、わたしの見るところ、この「フランク・リポート」こそ、科学者の責任についての近年の論議の一つの原点にほかならない。委員長フランクとシラードも含め七人のメンバーからなる委員会によってまとめられたこのリポートについては、すでに多くの研究がある(例えば、中沢1995、141-144、藤永1996、222-226)。このリポートは、現在ではウェッブ・ページでも簡単に読めるので一読すれば明らかなとおり、格調の高い立派な報告である。その内容は、簡単にいえば、核兵器の威力を最も早く認識した科学者たちによる、核兵器不使用の勧告、および世界平和に対する重大な危惧の表明と解決策の提言とを含んでいる。このリポートの先見性を理解するためには、リポートの日付けが1945年6月11日となっていることに着目しなければならない(ロス・アラモスのプルトニウム爆弾の実験が成功したのは7月16日である)。

小論でとくに取り上げたいのは、このフランク・リポートから、科学者の社会的責任を考えるためのどのような示唆が得られるか、という一点だけである。おそらく、大多数の読者には、直ちに次のような疑問がわくであろう――「なぜ彼らはこのような報告書を政府に提出する必要性を感じたのか」。リポートでは次のように述べられている(I.序文)。

過去においては、科学者たちは、利害を離れた科学的発見が人類によって利用されたことに対して直接の責任はないと主張することができた。われわれはいまや同じ態度をとることはできない。なぜなら、核エネルギー開発においてわれわれが成し遂げた成功は、過去のいかなる発明とも比べものにならない大きな危険を伴うからである。

もちろん、現代の読者にとってはこれはもはや常識かもしれない。しかし、シカゴの冶金研究所は世界で初めて原子炉において核分裂連鎖反応の制御に成功した(1942年12月)ところであり、マンハッタン・プロジェクト自体も軍事機密であったことを想起しなければならない。フランクらは、こういった最先端の知識をもったひと握りの専門家集団であった(また、ロス・アラモスの研究者たちは、原爆の技術的な難問と格闘していて、おそらく原爆使用の倫理問題にまで考えを及ぼす余裕がまだなかった)。そして、この引用文では、そのような専門家によって「科学者の責任」がはっきりと言及されている。しかも、その「責任」の論拠も十分に明確である。すなわち、ある科学的発見(や発明)が人類の利害にとって重大な関わりがあると見なされるとき、それにいち早く気づいた科学者には、それを何らかの形で人びとに知らせ、適切な方策を模索するよう勧告する責任が生じる、という見解である。

このような見解がフランク・リポート以前にはっきりと表明されたことがあったかどうか、わたしには現在のところ不明であるが、これ以後、ラッセル・アインシュタイン宣言、パグウォッシュ(この会議と長年事務局長を務めたロートブラットには、1995年のノーベル平和賞が贈られた)、そして湯川、朝永らによって実質的に同じ見解はくり返しくり返し述べられていくことになる。その具体的証拠は後にいくつかあげることとして、このような「責任」または「義務」がなぜ「科学者」に生じると言えるのか、その理由をもう少し突っ込んで考えてみたい。


3. 専門家の義務

責任や義務の根拠を一般的に考察するのは、哲学のなかでも「倫理学」と呼ばれる分野の課題であるが、ここではそれほどむずかしい理屈がいるわけではない。われわれ人間は社会生活を営んでおり、そのなかでいろいろな役割をこなさなければならない。大学教師には教師の義務が、建築を請け負った大工には請負人や職人の義務が伴う。例えば、わたしのような国立大学の教師には、明文化された法や規程で定められた「職務」に加えて、「そのような『職務』をできるだけ忠実に果たすべし」という倫理的義務がある。

ここでは、責任あるいは義務の概念に二つのレベルがあることを注意したい。(1)ひとつは、法、規程、慣習などで内容をある程度決められた義務である。わたしの例では、「定められた講義を行ない、学生を指導すること」、「出張や研修に際しては所定の届を提出すること」という内容の義務がこれにあたる。しかし、いくらこと細かにこういった義務を規定しても、それを実行するかしないかは個人次第である。幸い、社会的動物である人間には「倫理」というインフォーマルな制度または性向が備わっており、個人は多くの義務を「そうすべきだ」と納得して実行する。そうでない場合は、仲間の人びとからの冷たい視線による制裁が伴うこともある。そこで、このレベルでの「すべきだ」という義務は(2)倫理的義務として個人によって承認され実行される。わたしの場合、講義を時間どおりきちんと行なうよう努力し、学生に宿題を課して添削し、遅刻、サボリに厳しくしているのは、「それが倫理的に正しい」と考えるからにほかならない。

さて、少々堅苦しい話になってしまったが、フランク・リポートで言及されている「責任」は、基本的に倫理的義務のレベルの話であることが明らかである。(1)のレベルの「科学者としての職務」は、おそらくいまだかつて規定さえされていないであろう。しかし、だからといって(1)のレベルの話が無関係だと速断してはならない。大工やその他の職人の「職務」も(中世のギルドの場合はいざ知らず)別にあからさまに規定されているわけではないが、長年の慣習や、人びとの間で形成された当然の「期待」などによって、人びとの間である程度共通の理解がある。フランク・リポートでは、「原子爆弾以前の科学者については、この共通理解のうちに、科学的成果の現実的な帰結に対する配慮やそれについての報告義務などは含まれていなかった」と示唆している。そして、「それにもかかわらず、核エネルギー開発については、科学者は同じ考えを踏襲すべきでない」と主張し、おそらくは科学者の「職務」についてのこれまでの(1)のレベルでの共通理解にも改変が必要になってくる、と示唆しているのである。この「べし」は倫理的なレベルの話であるから、当然相応の理由づけが必要である。そこで、フランク・リポートでは、科学者の「職務」や「なすべきこと」を決める際の原則として、より一般的な「人びとに重大な被害をもたらさないこと」という基準をもちだし、それに則って考えるとリポートで提示するような勧告が出てくる、と主張している。

要するに、自分の研究分野でそのような被害が予見できるときは、科学者にはそのことを知らせる義務がある。なぜなら、その分野の専門家である科学者をおいてそのような予見ができるものはいないからである。この理由づけは、言われてみれば、単純であるが十分説得力があり、科学者の責任や義務を導くための基本的理由づけである、とわたしは考える。前提とされている価値判断は、人類への被害を回避すべきであるという、誰でも同意できる価値判断である。また、科学者の義務や責任は、知識の専門家としての役割に即した内容になっていることに注意されたい。「知識の専門家」という役割を「建築の請負職人」とか「医療の専門家」という別の役割に置き換えれば、この理由づけの基本構造は、社会生活のなかでのほかの職能や職業にも当てはまる、いわば「職業倫理」の理由づけとしても通用する。


4. 「ラッセル・アインシュタイン宣言」

フランク・リポートには、これ以外にも、軍拡競争の的確な予見、「非人間性」という点での化学兵器と原子爆弾との比較、戦争を終らせるための手段としてなら無人島での示威実験でも十分ではないかという提案、核兵器の国際的管理の可能性についての考察など、数多くの傾聴すべき内容が含まれているが、これ以上は触れない。どうしても触れておきたいのは、このリポート以後の論議の展開である。機密文書扱いされたこのリポートが、直接的で多大な影響力をもたなかったことは致しかたがない。しかし、ラッセル・アインシュタイン宣言とパグウォッシュ会議などを通じて浮び上がってくる考え方は、科学者の責任については、このリポートのものと基本的に同じである。

ラッセル・アインシュタイン宣言は、水爆の開発によりさらに破壊力の増した核兵器の現状を認識し、人類破滅の道を防ぐ方策を探るため、まず冒頭で科学者たちに会議に集まるよう呼びかけていることに注目すべきである。このことは、国籍や主義主張の違いをすてて「人類の一員として語っている」という有名な文句に劣らず重要である。さらに、宣言のいたるところで当時の最先端の専門家の知見あるいは見解が言及され、「彼らの見解が彼らの政治的立場や偏見に基づいているという証拠は見いだせない。われわれの知るかぎり、彼らの見解は専門家としての知識の深さのみに依存している。そして、最も深く知る者が最も憂慮していることがわかった」と主張されている。この論調がフランク・リポートのそれと親近性が強いことは、すでに明白であろう。また、この宣言に署名した11名の顔ぶれをみても、数人の核物理学者に加え、放射線医学や遺伝と生理学の専門家、化学者など、国籍の異なる多くのノーベル賞学者をそろえたことにも、宣言の内容に見合うメッセージが込められているようである。


5. パグウォッシュ、朝永、ロートブラット

さて、この宣言を受けて1957年に第一回のパグウォッシュ会議が開かれ、三つの議題が論じられた。第一は「原子エネルギーの利用の結果起こる障害の危険」、第二は「核兵器の管理」、そして第三は「科学者の社会的責任」の問題である。これらのテーマ自体、フランク・リポートで扱われた問題と見事な符合を見せていることに注意されたい。さて、第三のテーマを議論した第三委員会の結論は、科学研究の自由を守ることに加えて、これからは科学者がみずからの社会的責任も自覚しなければならないというものであった。唐木は、これを「研究の自由が第一、責任は第二」と誤解し攻撃したのであるが、責任の指摘がポイントだったはずである。この点については、実は朝永の行き届いた解説(1963年)が残されているので、それを援用しよう。朝永は、まず科学的発見とその技術的応用との距離が近年では著しく短くなったことを指摘し、次のように続ける。

発見の多くは直ちに新技術の開発となり、その社会的影響は善悪いずれにせよ直ちにあらわれる。科学者はその目で影響を見うるし、しようと思えば、それを善の方に、また悪の方に向けることもできる。一歩ゆずって、善悪どちらの方に向けるかという決定は科学者以外の人がするとして、どういう使い方をすれば善になり、どういう使い方をすれば悪になるか、また、善用がどれだけ好ましいものであり、悪用がどれだけ破壊的なものであるかの正しい評価は科学者が科学上のデータに立って始めて行ない得ることである。したがって、少なくともここまでの作業の責任は、科学者が負わなければ誰も負うことのできないものである。(朝永1982、154)

この考え方は、フランク・リポートが核エネルギー開発の問題に限定して提唱した原則をもう少し敷衍し拡張したものにほかならない。パグウォッシュの解説の文脈においてだけでなく、朝永みずからがフランク・リポートと基本的に同じ考えを踏襲していることは、次の文章(1960年)からも一目瞭然である。

・・・科学の発見が原子力の平和利用をもたらすと同時に核兵器をもたらしたという例からわかるように、科学の発見の人類社会に及ぼす善悪両方の影響が極めて大きいので、科学者には今までになかった責任がかかっているということである。すなわち、かつては科学者は自分の専門の研究だけをしていればよかったが、今では、その研究の成果が人類に何をもたらすかをよく見定め、善についても悪についても、世の人びとにそれを周知させ、警告する仕事を引き受けねばならない。科学者がこれを引き受けねばならない理由は、科学者はその発見のもたらすものを普通の人びとより、より早く、より深く知っているからである。(朝永1982、70)

最後に、フランク・リポートとほぼ同じ路線をとっているもう一つの重要な例として、すでに触れたロートブラットのノーベル賞講演からの引用をいくつか付け加えて、わたしのこれまでの主張をさらに補強しておきたい。ポーランド出身のジョゼフ・ロートブラット(1908-)は、イギリスの科学者チームの一員としてマンハッタン計画に参加し、ロス・アラモスで働いていた物理学者である(詳しくは、藤永1996、220-222参照。NHK でロートブラットの活動を描いた番組も放映された)。しかし、ナチス・ドイツでの原爆開発が進んでいないことを知った彼は、ロス・アラモスを去ってイギリスに帰国し、その後ラッセル・アインシュタイン宣言の署名にも名を連ね、パグウォッシュ会議の活動に長く貢献した。ノーベル賞講演(Rotblat 1995)で彼は次のように述べている。

年若いときから、わたしは科学に情熱をもっていました。しかし、人間知性の最高の力の行使である科学は、わたしの心のなかでは常に人びとの利益と結びつけられていました。わたしの見るところ、科学は人間性と調和していたのです。わたしの後半生が、科学によってもたらされた、人間に対する重大な危険を防ぐための努力に費やされることになろうとは、わたしは想像もしませんでした。

言うまでもないことであるが、ロートブラットが、フランク・リポートと同じく、科学研究の価値の源として人類の福祉あるいは利益を前提していることは明らかである。しかし、原子爆弾に象徴される、科学の危険な成果に気づいた彼は、「いまや、科学者たちの倫理的な行為のガイドラインを、おそらくは自発的になされるヒポクラテスの誓いのような形でまとめる時がきたのです。これは、若い科学者たちがみずからの科学的キャリアを踏み出すに際して、とくに有益でありましょう」という提言に踏み込むのである。そして、講演のなかで彼が同僚の科学者に訴える部分は、次のように締めくくられている。

社会生活のなかで科学がかくも強大な役割を果たし、人類全体の運命が科学研究の成果に依存するかもしれないこの時代には、すべての科学者にとって、科学のこの役割を十分にわきまえ、しかるべき行動をとることが義務として課せられるのであります。わたしは、同僚の科学者たちに、人類に対する彼らの責任を忘れないようにと訴えかけます。

このような論調と議論の運びとが、まさしくフランク・リポートと軌を一にすることは、もう指摘の必要もないであろう。すでに述べたように、わたし自身はこのような見方を支持し、「知識の専門家」という科学者の役割と健全な常識的倫理判断とから、科学者の義務と社会的責任とは比較的容易に導き出すことができると考えている(詳しくは、Uchii 1998, 8-11)。むずかしいのは、その義務や責任を実際に、個々の科学者がおかれた状況で実践することであるが、例えば、パグウォッシュそのほかでのロートブラットの後半生の活動は、一つの模範となるかもしれない(藤永1996、222冒頭に引用されたロートブラットの言葉も是非参照されたい)。


*ウィグナーの一方的な証言をすべて信用するのはシラードに対してフェアでないかもしれない。しかし、以下に抜粋したウィグナーの言葉がすべて外れているとはとても思えない。読者はこれを読んでどのようなシラード像を形成されるだろうか。なお、藤永(1996, 233)も指摘しているとおり、シラードは、1944年1月14日づけのヴァネヴァー・ブッシュ宛の手紙の末尾(Weart and Szilard 1978, 163)では原爆の実戦での使用を主張していることも注意しておかなければならない。

When I had first met Leo Szilard in Berlin, his eccentiricity and selfishness had as yet found no definite purpose. But as Szilard aged, the purpose of his queerness seemed to become clearer. He wanted a high political position. (Szanton 1992, 222)

Szilard had an excessive regard for his own talents. His thouhts revolved too much around himself and his own proper place in the world of affairs. And yet, though most conceited men are complacent, Szilard was incapable of complacency. He did not always see his own deficiencies, but he saw brilliantly many of the deficiencies of the world. And he worked very hard to correct them, often at some sacrifice to himself. (Szanton, 1992, 222-223)

Szilard was not one to hide his ambition. When he reached Chicago in 1942, he did not expect to be a common assistant. He said plainly and firmly that he deserved a high office, preferably full control of the Metallurgical Laboratory. (Szanton 1992, 223)

But I saw clearly then, and see even more clearly now, that Szilard certainly did not deserve the position of a boss. By 1942, he gave less love and attention to pure science than he once had. He was a lesser physicist. (ibid.)

It is never wise to seek prominence in a field whose routine chores do not interest you. I loved the daily work of physics, loved making physical calculations, even those that proved fruitless. Nearly every scientist in the Manhattan Project felt the same way. Szilard was an exception. He took no pleasure in extended calculation. And yet he refused to draw the logical conclusion: that he should not try to be a prominent physicist. (ibid.)

Szilard shared Plato's idea that society should be ruled by an elite. Szilard was never malicious; he had good will for all the stupid people. But he saw no reason for stupid people to craft national policy. Bright people should; people quite a bit like Leo Szilard. (Szanton 1992, 225)

Szilard's admiration for Enrico Fermi was tinged with jealousy. During most of the time that Fermi was laying the foundation for the first large-scale chain reaction, Szilard could not bring himself to watch. He could not bear to play such an insignificant role. (Szanton 1992, 226)

Fermi established the chain reaction on December 2, 1942, as I have described. Leo Szilard was able to bring himself to attend the event. His sense of history was apparently greater than his jealousy of Fermi. (Szanton 1992, 228-229) [BACK]

*四十年たった今も、一つの疑問が私の心につきまとう。あの時犯した誤りを繰返さないように私たちは充分学んだであろうか。私自身についてさえ確信はない。絶対的平和主義者ではない私は、前と同じような状況になったとき、前と同じように振舞うことはない、とは保証しかねる。私たちの道徳観念は、一度軍事行動が始まれば、ポイと投げ捨てられるように思われる。だから、最も重要なことは、そうした状況になることを許さないようにすることである。(藤永1996、222より引用。)


文献

藤永茂(1996)『ロバート・オッペンハイマー』、朝日選書、1996。

唐木順三(1980)『「科学者の社会的責任」についての覚え書き』、筑摩書房、1980(全集第18巻に収録)。

村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』新潮選書、1994。

中沢志保(1995)『オッペンハイマー』中公新書、1995。

西尾成子(1993)『現代物理学の父ニールス・ボーア』中公新書、1993。

ローズ、リチャード(1995)『原子爆弾の誕生』上下、紀伊國屋書店、1995。

武谷三男(1982)『科学者の社会的責任』、勁草書房、1982。

朝永振一郎(1982)著作集第5巻『科学者の社会的責任』、みすず書房、1982。

内井惣七(1995)村上1994 の書評、『科学』65-2、1995。

湯川秀樹(1989)著作集第5巻『平和への希求』、岩波書店、1989。

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Rotblat, J. (1995, web-text) "Remember your Humanity" (1995 Nobel Peace Prize Speech) http://www.pugwash.org/award/Rotblatnobel.htm

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"Russell-Einstein Manifesto" (1955, web-text) http://www.pugwash.org/about/manifesto.htm

Smith, A.K. and Weiner, C., eds. (1980) Robert Oppenheimer, Letters and Recollections, Stanford University Press, 1980.

Szanton, A. (1992) The Recollections of Eugene P. Wigner, Plenum Press, 1992.

Uchii, Soshichi (1998, web-text) "Philosophy of Science in Japan, 1-11 " http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/philsci_j.html

Weart, S.R. and Szilard, G.W., eds. (1978) Leo Szilard: His Version of the Facts, MIT Press, 1978.


丸木美術館(原爆の図)


Last modified, February 13, 1999; last modied April 9, 2003. (c) Japan Physical Society, and (two notes and the latter half of sect. 5) Soshichi Uchii.

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