(この論文は『生物科学』50-2、September 1998 に掲載されたものである。掲載論文では字数の制限のため一部の語句を省略したが、以下では省略された箇所もすべて完全に復元した。)
ダーウィンの『人間の由来』の出版から八年後,スペンサーは『倫理学のデータ』(1879)という本を出版し,「本格的」な進化倫理学説を打ち出した.よく知られているように,同じ「進化論」という名の学説を奉じても,スペンサーの進化論は,多数の無方向の変異のうちからあるものが自然淘汰によって環境に適応した形質に集積され,結果的にある方向を生み出すというダーウィニズムではない.すでに触れたように,彼の言う「進化」は進歩を前提しているのである.簡単に言えば,単純で同質的なものが複数の異質的な要素を含む複合体になり,その過程で世界や生物界の多様性が増す,というのが彼の進歩のイメージである.また,彼はラマルク流の「獲得形質の遺伝」の信奉者でもあった.このように,スペンサーは「ダーウィニズムと倫理」という小論のテーマからは少々外れるのだが,進化と倫理との関係を語る場合にはやはり欠かせない思想家なので,手短に触れておきたい.
『倫理学のデータ』の「まえがき」において,彼は「道徳的命令が,かつて想定されていた神聖な起源によって与えられていた権威を失いつつあるいま,道徳の世俗化は急務となっている」と訴え,「科学的な基礎」のうえに道徳を確立することを目指す.これは,ダーウィンがなし得なかった「進化論から規範倫理学へ」の橋渡しを公言するものである.この橋渡しは,四段階を経て行なわれる.
第一段階では,倫理判断の対象となるような行為を人間の行為の全体のうちに位置づけ,さらに人間の行為をすべての生物の行為のうちに位置づけて眺めるという視点がとられる.生物が進化するとともに,行為もまた進化する.スペンサーによれば,この視点から眺めた場合,行為とは「ある目的に対する順応」の一形態であり,そのような行為は発展の程度が低いものから高いものへと進化を遂げてきたことになる.この進化論的な視点のもとで倫理的行為を考えるというのが,彼の考える「科学的」なアプローチにほかならない.
では,生物の行為はいったいいかなる目的に順応するのだろうか.この目的の設定が第二段階である.スペンサーは,(1)個体の寿命を長くし生命活動の量を増やすこと,(2)子孫に受け継がれる生命の量を増やすこと,そして(3)他の生物の生命と共存共栄する,という三つの相にわたる生命の増大を目的としてあげる.もちろん,このような目的設定がなぜ正当だと言えるのか疑問は残るのだが,(3)に注目するかぎり,スペンサーの学説が俗流の「社会的ダーウィニズム」とは相当異なる価値基準の設定に向かっていることは理解できよう.彼は,ある個体あるいは種が他の個体や種の犠牲のもとで栄えることは,十分な順応とはなっていないと見なすのである.
続いて,第三段階では,この目的の達成の度合いに応じて,行為の進化の程度と善悪の程度が測れるという筋書きが述べられる.スペンサーの進化が進歩であり,進化の程度の大小が測れるのは,前述のような目的をおいたからにほかならない.したがって,彼の進化論は明らかに目的論的進化論であり,より進化した行為がより善い行為であるのは,設定された目的が善であることを認めるならば,ほとんどトートロジーとなる(善なる目的実現に貢献する行為は,その貢献の程度に応じて「手段として」善である).
しかし、スペンサーが設定した目的――すなわち,前述三つの相にわたる生命量の増大――はなぜ善だと言えるのだろうか.これが最後の第四段階である.明敏な読者ならすでに予測されたとおり,これまでの他の点は見逃すとしても,ここの価値判断が肝心かなめの点であり,スペンサーの進化倫理学が,彼の意味での「進化」にせよ,「進化」倫理学になっているかどうかはまさにこの点にかかっている.問題点は明らかである.生命の増大が善であるためには,生命自体が善であると言えなければならない.しかし、スペンサーは,この点については二つの相対立する見解があるという.一つは「生は善だ」という楽観説である.他方は「生は悪だ」という悲観説である.だが,スペンサーによれば,二つは矛盾する説のようでいて,実は共通の前提をもち,事実認識においてのみ異なる見解である.楽観説は,生においてもたらされる快楽は苦痛よりも多いと考えるので,生は善であり生きるに値すると判断する.他方,悲観説は,生においては快楽よりも苦痛が多いので,生は悪だと見なす.どちらも,「快は善であり苦は悪である.快が苦よりも多ければ生は全体として善である」という快楽説価値論を前提している.それだけでなく,行為の基準として提唱されたどのような基準もこの快楽説価値論からその権威を引き出している,とスペンサーは主張する(SPENCER 1879, 50-51).かくして,目的の善悪を決めるための最終的な基準,すなわち快楽説価値論に到達したので,われわれはこれを第一前提として倫理学を組み立ててよい,とスペンサーは主張する.
この第四段階の論証が不十分であることはすでに多くの人々によって批判されている(内井 1996, 第2部参照)ので,ここでは次のことだけ確認すればよい.すなわち,目的の善悪という倫理学の最も基本的な前提において,スペンサーは(彼の,そして彼以外の)進化論とは無関係に快楽説価値論を持ち込んでいるのである.しかも,彼の進化倫理学を組み立てるには,これでもまだ不十分であった.
スペンサーが『倫理学のデータ』の後半部分で最も力を注いだのは,利己主義と利他主義との調停である.これは,今世紀後半の進化生物学でも頻繁に話題になる重要な課題であり,生物学的な意味での「利己・利他」(遺伝子の複製を多く行なうための表現型レベルでの形質や行動戦略に適用される)と,倫理的な意味でのそれとの間を、意味を区別しながらも進化の脈絡の中では何らかの形でつなげて考えようというのが一つの有力な流れである(例えばTRIVERS 1985, RUSE 1986)。したがって,スペンサーのこの試みはもう少し再評価されてよい意義をもつかもしれない.彼にあっても,この調停のカギを握るのは,人間の場合,共感能力であった.極端に言えば,子供の幸福を増進させる親の子育ての「苦労」が,親には苦労とは感じられずある種の「喜び」をもたらすとしたなら,そして人が他人に利益をもたらす自分の行為を自分にとっても喜びであると感じるようになれば,自他の利害は一致に向かうわけである.これを部分的にせよ可能にするのは,他者の喜びや苦しみをを自分のそれに再現するという共感能力である.(「苦労」を「喜び」と感じることなど到底無理ではないかという疑問はもっともであるが,まさにそれゆえ「苦労」を伴う義務は道徳感情が後押しするようにできており,ダーウィンも多くの哲学者も道徳感情を共感の作用に帰するのである.)
スペンサーは,進化の方向は自他の利害の対立を軽減する方向に向かっており,共感能力の進化(実は進歩)はその一つの証拠であるという.しかし,そのようなことが言えるのは,彼が進化のための条件として,進化と快苦の増減との次のような関係を持ち込んだからにすぎない.
快と苦は行為を奨励したり抑制したりする動機となる.その結果,ある能力が与えられた条件のもとで快も苦も生み出しうる場合,全体として苦よりも快を多く産み出すのでなければ,その能力はそれ以上発達しない.(SPENCER 1879, 282)
かくして、進化が共感能力の強化に向かっており,それゆえ快楽説価値論が目指す倫理的目標の達成を可能にするというスペンサーの主張も,進化論の外からこのように持ち込まれた仮定によって,ある種の信憑性を与えられたにすぎないのである.
以上に見たように,スペンサー主義は進化学説としてダーウィニズムではないし,それから引き出された「倫理的含意」は,実は進化論の外から持ち込まれていた規範倫理の前提から引き出された帰結にすぎない.ルースは,スペンサー流の進化倫理学での規範的主張の「正当化」は,ある種の「進歩」の前提から提供されていると論じている(RUSE 1995, 94-95).この見方には反対しないが,その「進歩」の中味を特定しないと,引き出される「倫理的含意」の内容も特定できないというのが,わたしが付け加えたい主張である.
スペンサーの進化倫理学やゴールトンの優生思想に対しては,19世紀末にすでにトマス・ヘンリー・ハクスリーの有名な批判(1894)が出ている.進化倫理学の可能性を探るためには,この批判の論点をも押えておく必要がある.この批判の骨子は,次の三点にほぼ尽きる(より詳しい検討については,内井1996,102-126を参照).(1)進化論は道徳的能力の進化の過程は明らかにするかもしれないが,われわれの倫理的判断を支持したり批判する理由づけは与えない.(2)「最適者生存」の規則を人間社会において適用すべき規範的規則と見なすことは,進化論における意味での「最適」(環境に対して最も適応している)と,倫理的な意味での「最適」(倫理的に最もすぐれている)との混同に基づいた誤りである.(3)社会の倫理的進歩は,社会において自然の過程を模倣することによってではなく,倫理的観点から悪だと見なされる結果が自然において生じるなら,それを克服するように自然の過程と戦うことにある.
ハクスリーのこの見解は,優生思想と政治とのグロテスクな結合のいくつかの結果をすでに知っているわれわれにとっては受け入れやすい見解である.また,社会的ダーウィニズムや優生思想の危険性をいち早く見抜いた慧眼には敬意も表すべきであろう.しかし,彼の価値判断(3)が,天下り的に,進化論とも科学とも無関係に前提されているという点では,スペンサー(快楽説価値論)や優生思想(「健康」で「知的,体力的にすぐれている」ことを善と見なす)の主張とまったく同じである.後者の価値判断の理由づけがないに等しいという批判は,(3)を天下り的に前提するのであれば,そっくりそのままハクスリーにも当てはまることに注意されたい.
実際は,ハクスリーは優生的「人種改良」に反対する理由としては,三つほど具体的にあげている.まず第一に,そのような試みを「成功させる」ためには,人間を選別するに際して途方もない残忍さが要求されるので,その試み自体が倫理的に望ましくない.第二に,(人種改良の目標を仮に認めたとしても)人間の人為淘汰を行なうためには,途方もなく強力な知性が必要であり,そのような淘汰を正しく行なうことは人間には不可能である.そして,第三に,現実にこれらの条件が整わない条件のもとでそういった試みを行なうことは,社会のなかで人々を結びつけている特有の人間的絆を壊してしまう危険性がきわめて大きい.
これらの理由づけはどういうタイプの理由づけだろうか.第一の残忍さが望ましくないという理由は,スペンサーも十分認める理由である.なぜなら,残忍な手段は,多大な苦痛を引き起こすので快楽説でも(よほど大きな快楽の見返りがないかぎり)否認されるからである.第二の「正しい淘汰を行なえるだけの知性がない」という理由は,基本的に事実問題に関わる.ゴールトンらの多くの優生学の支持者たちは,(素朴すぎる目標の設定に加えて)この点の認識が甘すぎたのであろう.そして、第三の理由は,やはりスペンサーの立場でも十分認めうる理由である.常識的に考えても,日常的に人と交わり,友情や信頼の絆を結ぶことなくしては,人生の大半の楽しみや喜びは実現すべくもない.人種改良の政策が,こういった人間的絆を壊す多大な危険を伴うのであれば,スペンサーの快楽説でもこれに反対する十分な理由がある.しかし、ハクスリーは,自分の倫理的立場をスペンサーほどにも明確には述べておらず,常識的倫理の立場を無批判に前提しているのみなのである.
例えば,ハクスリーは次のように格調高く宣言する.
最後に,わたしの知る限り,次のことに対して公然と疑いを表明する人は誰もおりません――われわれが物事を改善する能力を持っている限り,われわれがその能力を使って,われわれのすべての知性と活力を同類に対する最上の奉仕のために鍛えることは最高の義務なのであります.(HUXLEY 1894, 66.内井訳)
しかし,いかに格調高くとも,この宣言に心から納得して同調できる人はいったい何人いるだろうか.われわれは,なぜこの判断を受け入れるべきなのだろうか.ハクスリーは何も教えてくれない.
かくして、われわれは一見意外な中間的判断にたどり着く.一方で,進化倫理学が科学の外から無関係に価値判断を持ち込んだのでけしからん,と言うのであれば,その批判を行なった代表的論客の一人であるハクスリーにも,またすでに見た円熟期のダーウィンにも,ほとんど同じ批判が当てはまる.他方,ハクスリーは進化倫理学や優生学を批判できる理由づけを述べているのでよろしい,と言うのであれば,同じような理由づけは(事実関係を共通に認識した上で、もし求められるならば)スペンサーの立場からも提出することができるので,スペンサーがとくに悪者になるわけではない.事実関係に関わる部分は,倫理的立場のいかんにかかわらず,原理的に白黒が決められるはずであろう.
この中間的判断は,進化論と規範倫理学との関係にまだ十分立ち入ってないので,必ずしも満足のいくものではないのだが,「スペンサーは悪玉,ダーウィンとハクスリーは善玉」という,それこそ無批判な図式的ラベル貼りに疑問を呈するには十分であろう.
そこで,ダーウィニズムと規範倫理学との関係に戻ろう.スペンサー流の進歩思想とは異なるダーウィニズムの特徴をきちんと押えた上で,ダーウィニズムの持つ「倫理的含意」を取り出そうという試みは少数だが存在する.ここでは,レイチェルズの試み(1990)を取り上げてみよう.
アメリカの哲学者レイチェルズは,事実を明らかにする科学理論と宗教的信念や倫理思想との間には,前者が後者の真偽を論理的に含意するという形の強い関係はないが,宗教的信念や倫理的判断の理由づけを,科学の理論や仮説が支持したり掘りくずしたりするという,もう少しゆるやかな関係が成り立つという見解の持ち主である.わたしの守備範囲の一つであるメタ倫理学の領域では,この見解は別に珍しいわけではなく,すでに1950年にトゥールミン(後に科学哲学の大家になった)によって打ち出された立場であり,それなりの支持者も集めている(実は,わたし自身はこれを支持しない).
この立場を,まず科学と宗教(神学)との関係に当てはめて,少し具体的に説明してみよう.「科学と宗教とは異なった関心からなされる営みであり,二つが交わる領域はなく,二つの間に闘争があるという俗説は誤りである」というグールド流の割り切った考えを批判して,レイチェルズは次のように論じる.「宗教」ということで,単に「自然や非自然的なものに対する畏敬の念を抱くこと」というような漠然とした態度だけを意味するのならグールドの主張は成り立つかもしれない.しかし、普通「科学と宗教との闘争」が問題にされるとき,宗教的信念にはもっと具体的な内容が帰属させられている.キリスト教世界では,例えば,「神は,人を神の姿に似せて創った」とか「神は,人に世界のほかの被造物をすべて治めさせるように意図した」という,聖書に書かれた多くの言葉を信じることが宗教的信念の内容として含まれる.また,自然界の現象を説明するに際して,神のプランや目的に訴えるということも宗教的信念の一部として含まれる.まさにそれゆえ,コペルニクスやガリレオ以来,宗教と科学との闘争が絶えなかったのである.
しかし、ある種の体系をなす宗教的信念は,一部がくずれただけでは全体は少ししか揺るがない.したがって、例えば地動説が科学的成果として認められた後も,キリスト教の信念体系はまだ多くの人々にとっては揺るがなかった(ただし、一部は改訂される).しかし、少なくとも一部の人々にとっては,これは聖書の記述にも誤りがあるということになり,聖書に書かれていることの信憑性 が少なくとも部分的に損なわれることの証拠となる.これが,レイチェルズの言う「科学的な知見が宗教的信念に対する支持の一部を掘りくずす」ということの一例である.これに抗して,聖書の権威や宗教的信念の体系を擁護することは可能であるが,掘りくずされた部分を支えに使うことはできず,別の材料を支えにもって来なければならない.この必要性には合理的な根拠があるので,単なる好き嫌いによってどうにでもなるつながりとは異なり,同じような事例が数多く重なった場合には,体系自体の信憑性を大幅に変える要因となりうる(RACHELS 1990, 93, 127).
では,レイチェルズは,この考え方を進化論と規範倫理学との関係に対してどのように適用するのだろうか.西欧社会では規範倫理を支えている本質的な考えが二つあるとレイチェルズは言う.一つは,すでに触れた聖書の創世記に起源を持つ考えであり,神が人間をみずからの姿に似せて創り,万物の中で人間を特別な地位につけたので,人間は道徳的に特別であるという信念である.この信念を彼は「神の似像のテーゼ」と呼び,この信念が人間の尊厳性という価値を支えていると見るわけである.これは宗教的信念を背景とするが,近世以後,宗教的権威が後退するにつれ,人間の尊厳性を支えるもっと世俗的な考え方も浸透し,西欧のもう一つの伝統的信念を形成した,とレイチェルズは言う.それは,人間のみが理性的動物であり,人間を道徳的に特別なものとする理由は,人間が理性的であるという事実にある,という考えである.この考えを彼は「理性のテーゼ」と呼ぶ.かくして、「人間は尊厳性を持つ」(それに対して,他の動物や事物は尊厳性は持ちえず,人間の手段として使ってよい)という価値判断は,これら二つのテーゼに代表される信念体系によって支えられ,理由づけされている.二つのテーゼは,いずれも広い意味で事実に関する命題であり,「人間は尊厳性という価値を持つ」という価値判断を含意するわけではない.これらは,むしろ,その価値判断を支えるよい理由づけを与えるのだ,とレイチェルズは分析してみせるわけである(RACHELS 1990, 97).
そこで,ダーウィニズムと規範倫理との関係を検討するためには,ダーウィニズムの科学的知見がこれら二つのテーゼに対してどういう影響をもたらすのか検討しなければならない.
さて,レイチェルズの中心的な主張は,ダーウィニズムが正しければ,前述の二つのテーゼのいずれについても信憑性が大きく損なわれ,それによって人間の尊厳性という西欧の伝統的な価値判断がこれまでの支えを失なうということである.これは,それゆえ倫理的な懐疑主義に陥って規範倫理の根拠がなくなるという主張ではなく,ダーウィニズムから提供される別種の根拠のうえに新しい規範倫理を作りなおさなければならない,という積極的な提言も含む.したがって、もしレイチェルズの分析が正しければ,ダーウィニズムが新しい規範倫理の構築に貢献することになり,「ダーウィン的規範倫理学」が成立しうることになる.本当にそういうことになるだろうか.
まず,議論のために,ダーウィニズムが「神の似像のテーゼ」の信憑性は十分に破壊したということは認めて差し支えないであろう.ダーウィニズムはいわゆる特殊創造説の息の根を完全に止めたわけではないし、目的因に基づく説明のパターンを根絶したわけでもない.しかし、今日,「神の似像のテーゼ」を本気で(合理的根拠に基づいて)信じる生物学者はいまい.進化のメカニズムについてはともかく,人間が他の生物と同じようにより原初的な生物から進化してきたことは一般に認められた事実であり,この事実を確立するにあたってダーウィニズムが大きな貢献をしたことは疑いようがない.しかし、このテーゼに信憑性がなくなったということは,人間の尊厳性という価値判断の根拠とされていた一つの重要な理由づけがくずれるということになる.もちろん,二つの関係は論理的な含意関係ではないから,理由づけがくずれたからといって,その価値判断が成り立たないことの証明にはならない.しかし,それに代わる他の理由づけが見いだされないかぎり,その価値判断の説得力が弱まることは確かである(RACHELS 1990, 126-128).
「理性のテーゼ」については,事態はもう少し微妙であるかもしれない.というのは,「理性」はそれだけで独立させて把握できるような能力ではなく,他の心的能力(例えば,ダーウィンがいう「道徳的能力」)とも複雑に絡み合っているからである.しかし、小論でもすでに示唆したように,ダーウィンはまさにそのような広い脈絡で「理性」や「知性」の現象を問題にし,ミミズの知性から人間の理性までを論じたのである(ダーウィンのミミズの研究については,佐々木 1996,第2章を参照).動物の行動を記述し解釈するにあたっては,常に「擬人主義」の問題がつきまとう.これに対する極端な反動としてスキナー流の行動主義があることも周知の事実だが,これはこれでまた逆の問題を抱え込み,極端に言えば,われわれ人間自身の行動の記述も条件づけと刺激ー反応の言葉に還元して行なうべきだということになりかねない.しかし,「擬人主義」の言葉を使おうが「行動主義」の言葉を使おうが,動物の「理性」的行動の記述と,人間の「理性」的行動の記述には類似性の連続的なスペクトラムがあり,どこかで鋭く区別することは困難だという「事実」が見えてくる.ダーウィンが執拗にわれわれの注意を喚起したのは,この「事実」に対してである,と理解することは十分可能である(また,霊長類学者の観察と研究は,この点を十分に確証する方向にあると考えられる.例えば,DE WAAL 1996 参照).そこで,ここでも議論のために,理性的能力が人間にのみ特有ではなく,動物とも連続する程度の問題になるとすればどうなるか,と問題を立てることにしよう.
これに対するレイチェルズの答えは,先と同じである.人間が唯一の理性的動物であるという「理性のテーゼ」が信憑性を失うことにより,このテーゼによって理由づけられていた人間の尊厳性という価値判断は,もう一つの支えも失う.
これら二つのテーゼが信憑性を失っても,人間の尊厳性を支える別の根拠が新たに見いだされるなら話は別だが,これら二つの主要な理由づけがくずれることは,この伝統的な価値判断にとっては大きな痛手である.そして,最後のダメ押しは,ダーウィニズムが正しければ,これら二つのテーゼに代わって人間の尊厳性を支えるような理由づけは見つかりそうにない,ということである.なぜなら,人間にのみ特別な道徳的地位を保証するためには,人間が他の動物とは根本的に異なる本性のものであることを示す必要があり,ダーウィン流の連続主義では,このようなことはありそうにないからである(RACHELS 1990, 171-172).
March 10, 1999. Last modified June 14, 2006. (c) Soshichi Uchii
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