(この論文は『生物科学』50-2、September 1998 に掲載されたものである。掲載論文では字数の制限のため一部の語句を省略したが、以下では省略された箇所もすべて完全に復元した。)
このような議論の後,レイチェルズは自分の積極的な提言に踏み込むのだが,そこまで紹介する必要はない.すでにここまでの段階で,ダーウィニズムと規範倫理とをつなぐ彼の道具立てはすべて出そろっている.科学史からの多くの事例を織り込むことで説得力を与えようとする彼の努力は評価できるものの,彼の議論のカギとなる道具立ては比較的単純なものである.すなわち,科学的理論や一般の信念体系が具体的事実や別の信念によって「支え」られたり「支えを失ったり」し,この関係を厳密に論理的含意関係だけを軸にして理解することができないのと同じで,倫理的価値判断と事実との関係ももっとゆるやかな(非演繹的な)「理由づけ」の関係のネットワークによって理解されるべきである,というのである.
このアイデアは一見有望に見えるものの,少なくとも二つの異なる関係を「理由づけ」のうちに含めている.(1)一つは,個別的あるいは一般的事実に関する仮説や信念が別の事実命題によって裏づけられたり理由づけられるという,事実命題間の理由づけ,証拠づけの関係である.もう一つは,(2)価値判断や倫理的規範を受け入れる理由が,事実命題あるいはそれらに関する信念によって提供されるという,価値判断の理由づけである.この多義性があることを認識し,この多義性があっても議論には問題がないということを確認しないかぎり,科学的知見と規範倫理との合理的な橋渡しとして認めるわけにはいかない。なぜなら,科学的知見と規範的倫理判断との違いがどこにあるかをはっきりと押えないまま二つの間を「橋渡し」する議論(少々素人受けはするかもしれないが)など,ムア以来のメタ倫理学の洗礼を受けたわたしにとって,一文の値打ちもないからである.
そこで,すでにご存じの方には初歩的すぎてつまらないかもしれないが,いわゆる事実命題と価値判断との本質的な違いがどこにあるのかを確認しておきたい.善悪の判断,為すべきことと為すべきでないことの区別は,いったい何のためになされ,どういうはたらきを持っているのだろうか.最もはっきりしているのは,「こうすべきだ」という「べし」判断である.単に人と話を合わせるだけのリップサービスの場合を除けば,「こうすべきだ」という判断は「こうせよ」という命令を含意する.有名な哲学者カントが,基本的な道徳法則は無条件命令だと主張したのは,まさに「べし]判断のこの特徴を念頭においてのことである.かくして,「べし」判断を代表とする倫理判断は指令的であると特徴づけることができる.
もっとも,善悪の判断は基本的に比較の判断(「これはあれより善い」)を前提するので,もう少し込み入っている.倫理的であるなしを問わず,一般に「よしあし」の判断は選好の序列を前提し,「選好」とは「あれよりこれを好む」という好き嫌いのことである.もちろん,道徳的な善悪は,単に個人的な好き嫌いではなく,一定の観点から一定の条件が満たされた場合に成り立つような,多くの人々の同意が得られるような選好の表現であり,独特の道徳感情の後押しがあることは,すでにダーウィンのところで紹介したとおりである.いずれにせよ,選好は行為選択の基盤になる欲求や好みであるから,やはりある種の指令と関係が深いことは直観的に明らかであろう。例えば,ゲーム理論などで前提されている合理性のモデルでは,多数の選好がある場合,あるいは選好体系から効用関数が決まる場合,それらの選好体系を最大に充足する,あるいは(期待される)効用を最大にする行為を選ぶことが合理的な選択――つまり,その行為を選ぶべき――である.これ以上詳しい分析には立ち入らないが,指令,選好,規範,価値といった一群の概念は,記述,認知,規則性,事実といった,科学的探求が関わる一群の概念とは,意味の上でもわれわれの心的活動のうちでも異なる役割を果たす.例えば,われわれの持つ言葉が,数多くの料理や飲物の種類をもっぱら記述するだけで,好みの表現や選択の指針を与える表現をもたないとしたなら,われわれの心的生活はなんと貧弱になることだろうか!
わかりやすく言えば,すでに触れたムアの「自然主義的誤謬」の指摘は,いま述べたばかりのことと深い関係がある.「よい」とい言葉の意味が「快楽をもたらす」ということに尽きるなら,「快楽をもたらすことはよい」という価値判断の意味は「快楽をもたらすことは快楽をもたらす」というトートロジーになってしまって,選好や価値を表現し行為選択の指針を与えるという役割を果たさない.これでは,価値判断や倫理判断の本質的な役割が失われるのである.
この実に初歩的なポイントを押えて,本節冒頭の(1)と(2)の多義性を眺めてみよう.「よい理由づけ」という一つの概念のもとに,(1)の記述命題の証拠づけの話と(2)の価値判断の理由づけの話をともに投げ込むのは,いま述べたばかりの初歩的な区別を再び見えにくくして,規範や価値の役割をぼかしてしまう危険が大きい.レイチェルズ自身が使った例でこの点を示してみよう.
彼は,(a)ダーウィニズムが「人間のみが唯一の理性的動物である」という「理性のテーゼ」の信憑性をくつがえし,(b)そのことによって人間の尊厳性という価値基準の支えを掘りくずした,という.(a)の部分にほとんど問題はない.問題は(b)である.これがレイチェルズが言うほど明らかでないことを見るためには,「理性的であること」という記述的条件を,人間についてのみ当てはまりそうな別のつまらない記述的条件で置き換えるという簡単な思考実験をしてみればよい.例えば,
(a’)ダーウィニズムは「人間のみが唯一の二足歩行動物である」という命題の信憑性をくつがえした
としてみよう.これによって,(b)も同じように成り立つだろうか.答えは明らかに「ノー」である.「理性的」と「二足歩行」とを入れ換えるだけで,なぜ(b)の説得力がこうも変わるのだろうか.レイチェルズの議論では,ここの説明がまったく欠けている.つまり,論理的含意という関係であろうが,もっとゆるやかな「理由づけ」の関係であろうが,(a)と(b)の間にはまだ「ミッシング・リンク」がある.このミッシング・リンクは,
(c)理性的であることは倫理的に重要であるが,二足歩行は倫理的に重要ではない
というたぐいの倫理的価値判断(したがって,これは指令的な判断)にほかならない.このつなぎを補ってはじめて,「理性的であること」が「人間の尊厳性」という倫理的規範を支える理由となりうるのである.「よい理由づけ」が事実と価値判断とを橋渡ししたかのように見えたトリックは,(c)のたぐいの,伏せられていた価値判断にある.
したがって,「ダーウィニズムが人間の尊厳性の根拠を掘りくずす」というレイチェルズの主張を認めるにしても,それは(c)のたぐいの倫理判断を介したかぎりでしかなく,事実命題から価値判断へのギャップは依然として残ったままなのである.これでは,とても「ダーウィニズムの倫理的含意」などという表現は使えない.
以上のように,これまでの試みをことごとく批判してくると,わたし自身は「ダーウィニズムと倫理とは無関係だ」という見解の持ち主であるというふうに読者に誤解されるかもしれない.実は逆なのである.わたしは,規範倫理を考えるためには人間の本性を知らなければならないという、経験主義の倫理学の支持者であり、人間の倫理,あるいは人間のほかの動物に対するふるまい方を考える上で,ダーウィニズムは重要な関わりをもち,倫理のきわめて重要な事実的基盤になりうると考えている.しかし,ダーウィニズムに基づく倫理擁護を行なうほとんどの論者とわたしが異なるのは,事実と価値との越えがたいギャップを認めたまま,進化論と規範倫理とのつながりをつけようとする点である(このようなつながりのつけ方をわたしはヘアから踏襲するが,彼自身は進化倫理学を擁護するわけではない.HARE 1981, 内井1988 も参照).そこで,最初に,誤解の余地がないほど明確にわたし自身の立場を述べておきたい.わたしは,事実から価値判断や指令的規範が論理的に導けないことを積極的に主張するが,事実に基づいた合理的選択の結果,ある価値判断や規範が(適切な事実を知り,合理的に考える人々によって)受け入れられるという形で,価値判断の正当化も可能だと考える.そして、ダーウィニズムは,この合理的選択を左右する,人々の選好に関する重要な事実を提供し,受け入れられた規範を遵守するための動機(これも選好の一つの形)となる道徳感情の由来をも明らかにするという点で,規範倫理学に貢献するのである.
また,もう一つついでに付け加えるなら,ダーウィニズムだけで規範倫理の基盤として十分だというような見解は,わたしは支持しない.規範倫理でわれわれが使用する主要概念の分析,すなわちメタ倫理学(の主要部分)は,ダーウィニズムからの支持を得る部分はあるかもしれないが,大部分,論理的・哲学的分析の領域である。
このようにわたしの立場を予告しておいた上で,ダーウィニズムがどういう形で規範倫理学にも貢献しうるのか,議論の本線のみを以下でスケッチしてみたい.すでに相当紙数を使ったので,細部については内井(1996)を参照されたい.
まず,「べし」で表される指令的判断には,倫理判断だけでなく,技術的判断,処世の思慮の判断などいろいろありうることに注意したい.そこで,できるだけ単純な事例から始めて,「べし」の判断がどのように正当化されうるかを明らかにしていきたい.そうすると,自分の選好だけを考え,目的手段関係に訴えて正当化できる次の例をまずモデルケースとして提示できる.
(1)A子さんは自動車を運転したいと望むが,同時に法律に違反したくないと望んでいる.
(2)A子さんは運転免許を持っていない.
(3)法に違反せず自動車を運転するためには,運転免許をとることが必要である.
(4)A子さんには,運転免許をとる能力がある.
(5)したがって、A子さんは運転免許をとるべきである.
(1)−(4)の前提から(5)の結論を導く「推論」の形に書いたこの過程は,「べし」判断が正当化される一つの典型的な事例であると思われる.しかし、よく注意して見ると,(1)−(4)がいずれも事実を述べる命題であるのに対し,結論の(5)は指令的な判断である.とすると,この推論は前提に含まれていなかった新しい要素(指令的な「べし」)を結論で主張することになるので,論理的推論としては正しくないように見える.どこがおかしかったのだろうか.
わたしの解釈と分析は次のとおりである.結論(5)は当然指令的である(そうでなければ,A子さんの行為の指針にはなりえない).これは,(1)−(4)の事実命題から論理的に導出されるのではなく,(1)−(4)に基づいて,合理的な選択の結果受け入れられるのである.(5)が正当化されるというのは,(1)で示されたような選好をもち,(2)と(4)の条件を満たし,かつ(3)の目的手段関係を知る人なら誰でも,(5)を受け入れるのが合理的だ,ということである.そして、適切な条件を満たす人なら誰にでも成り立つ指令なので,「べし」という言葉がふさわしいのである.(4)の条件を入れたのは,人にできないことを「すべきだ」と指令するのは不合理だからである(「べし」は「できる」を含意する).
この解釈によれば,(1)−(4)の前提と(5)の結論の間に,事実と指令のギャップは残されたままである.しかし、目的を望む(これは選好である)ならそれに必要な手段も望むことが合理的である(そうでなければ,この世界では目的は実現しそうにない).したがって、(5)の指令を受け入れ,それに従った行為をとることが合理的な選択となる.つまり,指令的な判断を正当化するとは,その判断を前提から論理的に導くこと(これは不可能である)ではなく,与えられた条件のもとでその判断を受け入れることが合理的であることを示すことである.しかも,指令を受け入れるためには動機が必要であるが,その動機は(1)の選好によって用意されていることに注意されたい.このポイントを理解するためには,読者自身がA子さんの立場に立つ(これは共感能力の行使を必要とする)という思考実験をしてみればよい.あなたは,(2)−(4)の事実を知り,A子さんの(1)の選好に対応するあなた自身の選好を持つと想像するのである.このようにA子さんの立場に立ったとたん,いままで記述されていたA子さんの選好は,あなた自身の選好に置き替わり,あなたの選択を動機づける指令的要因となる.これが,あなたに(5)の指令的判断を受け入れさせるのである.倫理判断の正当化における共感の意義は,まさにこの点にある.
前節のモデルケースの理解が基本であるが,もちろん,これから倫理的価値判断の正当化にまでは,まだ長い道のりがある.倫理判断の正当化がむずかしいのは,自分の行為の結果,周りの人々に及ぶ影響を考慮に入れなければならず,とくに自分だけでなく他者の選好も考慮に入れなければならないことによる.また,自分が何を為すべきか,人が何を為すべきか判断するためには,自他に何ができるか(前節(4)参照)の判断も不可欠である.しかし、ダーウィニズムが規範倫理学に貢献できるのは,まさにこのむずかしい部分においてである。
まず,比較的簡単な部分から説明していこう.人に何がきるかできないか.これは,もちろん,(a)人それぞれによって大きく異なる部分と,(b)人間一般についてだいたい共通する部分の二つに大まかに分類することができる.例えば,プロ野球の公式試合でホームランを700本以上打てるか――これは,王選手やベーブ・ルースなどごく少数の人にしかできないので(a)に属する.しかし、日常生活でしばしば為されるたぐいの小さな約束を守ることは,ほとんどの人にできるので,これは(b)に含めてよい.このつまらない区別が,誰もが実践すべき規範倫理を考える際にはけっこう重要である.要するに,日常的に実践すべき義務の目録のなかに含められるのは,(b)のたぐいの「できる」行為でなければならない.ダーウィニズムは,この点に関して,高邁な倫理学者をわれわれ人間の生物学的現実に引き戻す役割を果たす.例えば,少数の「聖人」のような人を除けば,われわれの共感能力には明らかな限界があり,血縁者や親しい知り合いの人々の輪を超えて,文字どおり誰に対しても共感が行使されることはありえない.ダーウィニズムは,この「ありえない」に生物学的基盤があることを強く示唆する.したがって,普通の人(マザー・テレサにではなく)に対して,飢えに苦しむ発展途上国の人々のために,「給料の大半を飢餓救済団体に寄付すべきだ」と要求する倫理判断は不合理である.
この主張は,人間に関する生物学的事実から「普通の人々に対して過大な義務を要求すべきでない」という倫理判断を導出したのではないことに注意していただきたい.そうではなく,生物学的事実に基づいて「できる」を判断するなら,先のような高邁な倫理判断は(合理的な選択によって)正当化できない,と主張しているにすぎない.しかし,これは否定的な主張であっても,ダーウィニズムと規範倫理学との明らかな(そして,メタ倫理学を介した)接点の一つである.先に批判したレイチェルズの主張のいくつかも,わたしのこの路線の上で解釈しなおせば,ダーウィニズムと規範倫理学とのつながりとして救いあげることができると思う(内井1996,67-76).
ダーウィニズムが規範倫理学に対してもつもっと重要なつながりは,事実の認識のうちでも,他者の選好や感情の認知に関わる部分で現れる.共感能力の起源や,この能力を介した利他的性向の発展は,ダーウィニズムでは基本的に自然淘汰のメカニズムによって理解される.つまり,われわれ人間の道徳性において重要な役割を果たす共感能力がおそらく自然淘汰の結果人間に備わっているということは,この能力が生存闘争のうえでもこれを備えた個体にとって(生物学的に)有利であったということである.つまり,比喩的に言えば,「情けは人のためならず」という有名な諺がここで近似的に成り立つと見てよい.
A子さんの運転免許の例で読者に思考実験をお願いしたが,これは,架空の事例ではあれ,A子さんの選好を読者が的確に再現できることを前提した.われわれの日常での倫理的議論でもよく使われる「相手の立場になってみなさい」という(一種の殺し)文句も,同じことを前提している.ヒュームやアダム・スミスという,歴史的に高名な哲学者が道徳哲学において共感の重要性を強調したときも,共感を介した自他の利益の調停の可能性がしっかりと認識されていたはずである.悪名高いスペンサーですら,彼の進化倫理学で最も強調したかったのはここなのである(彼をこきおろすことだけに熱心な人たちは,この点に気づいてさえいない.わたしの言い分に疑いをもつ人は,SPENCER 1879, chh.11-14 を参照されたい).また,ハクスリーが優生政策に対する反対の理由としてあげた諸点の説得力も,共感を介した利害の考察によってのみはじめて明らかになる(例えば,優生的基準に従って好ましくないと判定された形質をあなたやあなたの家族がもっていたとしたなら,あなたはどう感じるだろうか?).
この共感を介した自他の利害の調停については,詳細にに立ち入るだけの紙数はなくなったが,要するにポイントは,この調停が可能だというところに倫理判断の正当化の可能性がある,ということである.簡単に言えば,自分の利害や選好だけを考慮に入れた指令的判断を下すのではなく,事実関係を正しく認識し,問題の事例においてかかわりのあるすべての人(たいていの場合,これは全人類に及ぶのではなく,身近な少数の人々である)の利害や選好を考慮に入れた上で,合理的に選択される指令的判断が正当化される倫理判断である(詳しくは,内井1996,196-220 を参照).
この判断の「倫理性」がどこからくるのかといぶかる読者がいるかもしれない.ダーウィニアンにとっては,答えはむずかしくない.ダーウィンの円熟期の道徳起源論でスケッチされたように,特有の道徳感情によって後押しされるかどうかという違いが,大まかに言えば「倫理的」判断とそうでないものとを区別する基準である.社会生活が不可欠であり,相互的利他行動の成立基盤を危うくするような行為に対して敏感にできている人間の心(長谷川 1997,249-251)においては,まさに前段落で言われた条件を満たすような指令的判断と行為が道徳感情によって支持され,ある特定の個人にとってのみ都合がよいような判断は,それを排斥する逆の感情を引き起こすと考えられる.
かくして,倫理的判断の正当化という,規範倫理学とメタ倫理学の最も重要な課題において,ダーウィニズムの知見は真に適切な関わりをもちうる.誤解されやすいので何度もくり返すが,この関わりのもち方は,ダーウィニズムの科学的知見から倫理的価値判断が論理的に導かれるというたぐいのものではない.そうではなく,指令的判断の正当化の論理は,価値判断や倫理判断の分析に基づくメタ倫理学の知見によって(わたし流に)再構成し,その正当化にはどういう要素が不可欠に関わっているかということを押えた上でダーウィニズムの知見を活用すれば,この知見がそれらの要素について適切な洞察を与えることが判明し,正当化のプロセスを解明することに大いに貢献する,ということである.とくに強調しておきたいのは,他者の選好や感情の認知から,自分のなかで対応する選好や感情を再現するという共感能力の進化的理解である.倫理判断の正当化を可能にするこの能力の起源を曲がりなりにも説明できるのは,今のところダ−ウィニズムしかないように思われる.この点をキャッチ・コピーふうに表現するなら、「である」と「べし」の間のギャップを飛び越えて倫理的規範の正当化を可能にしたのは、自然淘汰による進化である!
ダーウィニズムの倫理学に対する貢献はこれだけではない.古来,多くの哲学者や道徳家が「道徳的観点」をとり,その観点からなすべきこと,望ましいことを論じてきた.しかし,すべての人々の利害を考慮するという道徳的観点を,われわれはなぜとらなければならないのだろうか.あるいは,共感の行使が道徳のカギであることを認めたとしても,われわれはこの進化の産物をなぜ使い続けるべきなのであろうか.一言でいうならば,われわれはなぜ道徳的であるべきか.(この問題は,論者によっては違う言葉で述べられる場合もある.例えば,19世紀末の最も綿密な功利主義者として知られるシジウィックは,利己主義者に対して,なぜ博愛の原理に従わなければならないかを説得することはむずかしいことを認め,功利主義――これは博愛の原理に依存する――と利己主義との対立を未解決問題として残した.SIDGWICK 1907, 497ff. わたしの理解では,これは「なぜ道徳的であるべきか」という問題の一形態である.)
ダーウィニズムは,この問いに答える視点をも提供しうる.まず,ダーウィニズムの知見を取り入れた倫理学において,この問いは有意味な問いであることを確認しておきたい.なぜなら,共感能力とともに,自分のことを最優先するという利己性も進化の産物であることは間違いがないので,道徳性と利己性が一致しない場面でいずれに従うべきかは,未解決の問題だからである.この問いに対して,マイケル・ルースふうに,「道徳性が適応の結果であることがわかれば,正当化は可能ではないし必要もない」(RUSE 1986, 257, 1993, 152)というような答えで満足することはできないはずである.
わたしの見るところ,ダーウィニズムの視点からこの問いを扱うには,少なくとも二点が指摘できる.(1)一つは,普通の知性をもつ人間は,複雑な社会生活の個々の場面でいつも損得の計算をして行為決定を行なうような行動戦略は,利己的な観点からみてもとれそうにないこと.(2)もう一つは,道徳的であるか利己的であるかは,「すべてか無か」という形で一方をとるかどうかではなく,相対的な割合が重要な問題であること.
第一の点は,マイケル・ルース自身が雄弁に展開した論点とも関わりが深い.生物が行動する戦略としては,大まかに三つのタイプが分類できる.一方の極端は,本能という形で遺伝的に厳しく規制された行動パターンに従うこと,他方の極端は,個々の状況での情報をもとに知性による計算を行ない,先を見通して個別的行為を決めることである.しかし、これら両極端の間の中道策として,例外的な場合に対処できるようにある程度のフレキシビリティは残しつつ,一般的な規則や規範に従って行動を規制する方策がある(RUSE 1986, 221-222, 1995, 98-99).限られた知性しか持たず,不十分な計算しかできない状況のもとで行為決定を迫られるわれわれ人間の道徳は,まさにこの第三の方策の典型であり,円滑な社会生活のためには,多くの人々が習慣づけによりそのような規則や規範を「身につけて」,いちいち損得を計算しないで行動することが重要である.これは,倫理的徳の特質が習慣づけによって定着した性向(ヘクシス)にあることを強調した古代ギリシアのアリストテレスの洞察にほかならない.そして,もちろん,多くの道徳的規則や規範には,人間の過去の経験に基づく「知恵」が込められている.かくして,大多数の人間にとって,計算して有利なことがわかればいつでも利己主義に寝返る,という戦略をとることは(そのような計算の信頼性自体が危ういことが多く,しかも多くの場合習慣づけに依存して行為するという人間の「第二の本性」に反するので)きわめてむずかしい.
しかし,もちろん,われわれのうちにはいつも利己的な傾向が控えており(これを否定するのは偽善者である),道徳的な傾向のスキをうかがっている.そこで,第二の点が重要となる.いつも利己的にふるまう人が少ないのと同様,いつも道徳的に考え,ふるまう人も少ない.しかし、大多数の人が概して道徳的にふるまうなかで自分が利己的な戦略を貫徹することはむずかしい――とくに,人々に「タダ乗り」や「抜け駆け」に対する鋭敏な感覚が備わっている場合には.こういう事実を考慮に入れ,腰を下ろして自分の全体的な満足を最優先して考えるとき,どういう答えが出るだろうか.少々おおざっぱな言い方をすれば,「道徳的であるべし」という肯定の答えがいつも百パーセント成り立つ必要はない.「われわれは概して道徳的であるべきだ」と言える程度の指令的判断が正当化されるなら,道徳の正当化としては十分である.利己主義の抜け道を完全にふさぐような道徳の正当化はありえないし,その必要もない.これがダーウィニズムから得られる示唆である.