(C)TWO-WAY/俳句/正岡子規


柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

松本隆行(奈良県・TOSS法隆寺)

TOSS法隆寺(主宰=松本隆行)はTOSS大和の子サークルです。
以下は,正岡子規の俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の授業プランです。


藤原佳澄氏『文学史の授業でちょっと一息。名句「柿くへば・・」の誕生秘話』
http://www.d1.dion.ne.jp/~sunsun/kokugo-9.htm
の修正追試である。

 パゴちゃんです。斑鳩町のマスコットです。(斑鳩町HPより)
 帽子は,何というお寺の塔を表していますか。…法隆寺ですね。
 体は何を表しているのでしょう。…柿ですね。
 法隆寺・柿といえば…?
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
           (正岡子規)
正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。誰でも知っている有名な句ですね。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
  ( ? )
 じつは,この俳句には下敷きとなる句がありました。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」。
 作者は誰でしょう?
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
明治28年9月6日『海南新聞』
    ↓
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
明治28年11月8日『海南新聞』
 じつは,夏目漱石なのです。
 「柿くへば…」が発表されたのは明治28年11月8日『海南新聞』。
 「鐘つけば…」は,それに先立つこと2か月,明治28年9月6日『海南新聞』。
 当然,子規は「鐘つけば…」の句を覚えていて,「柿くへば…」を作ったのです。
 「鐘つけば…」は,ほとんど知られていません。
 が,「柿くへば…」は超有名な俳句になりました。
 さて,子規は漱石の盗作をしたのでしょうか?
子規の代表句は,漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵(ぐだぶつあん)における二人の友情の結晶だった。
坪内稔典という大学の先生がこう言っています。
読んでみましょう。
「子規の代表句は,漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵における二人の友情の結晶だった。」
 「愚陀仏庵」とは,松山における漱石の住まいのことです。子規は,ここに50日余り暮らしていました。つまり,漱石と子規は,いっしょに住んでいたのです。
 「柿くへば…」は,子規が松山から東京へ帰る途中,奈良に立ち寄ったときに作られました。この奈良行きが,子規にとっては最後の旅となりました。この後7年間,子規は病床に伏し,ついには亡くなるのです。
 この旅の費用を貸したのが漱石でした。つまり,「柿くへば…」は,元ネタも費用も漱石に頼っているわけです。


《解説》

 坪内稔典氏いわく

「鐘をついたらはらはら銀杏が散るというのは,これ,寺の風景として平凡です。はっとするものがありません。」
「「柿くへば鐘が鳴る」は意表を突く。あっと思うよ。」
(『俳人漱石』坪内稔典(岩波新書,2003年))

 正岡子規自身,次のように書いています。

「柿などヽいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので,殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。」
(「くだもの」明治34年)

 坪内稔典氏いわく

「子規の代表句は,漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵における二人の友情の結晶だった。」

 「愚陀仏庵」とは,松山における漱石の住まいのことです。子規は,ここに50日余り暮らしていました。つまり,漱石と子規がいっしょに住んでいたのです。
 「柿くへば…」は,子規が松山から東京へ帰る途中,奈良に立ち寄ったときに作られました。この奈良行きが,子規にとっては最後の旅となりました。この後7年間,子規は病床に伏し,ついには亡くなるのです。
 この旅の費用を貸したのが漱石でした。つまり,「柿くへば…」は,元ネタも費用も漱石に頼っているわけです。

「個人のオリジナリティをもっぱら重んじるならば,子規の句は類想句,あるいは剽窃に近い模倣作ということになるだろう。だが,単に個人が作るのではなく,仲間などの他者の力をも加えて作品を作る,それが俳句の創造の現場だとすれば,子規のこの場合の作り方はいかにも俳句にふさわしいということになる。」
(『柿喰ふ子規の俳句作法』坪内稔典(岩波書店,2005年))

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