
第十四夜 進化の謎
進化というと、どういうイメージがあるだろうか。一般的には、やはり進化していく先はイコール善というようなイメージではないだろうか。単細胞生物から徐々に進化し、水中から陸に上がり、という風に、高等化していくという捉え方だろう。では、高等化(人間が勝手に思ってるだけだが)していくと何か良い事があるのだろうか。1つには、生きていく上での競争に勝つということがある。他の生物、動物、同じ人間同士においてもである。
しかし、これは単に種の保存が目的だということで、なにも高等化しているという事にはならないのではないだろうか。例えば、手を使えたら便利であるというだけで、うまく使えない動物より高等だとは言えないと思う。ただ、何かを作るとか、手を使うという行為に限っていえば、より高等な状態にあるとは言えるだろう。
わたしは進化論というものが好きで、なんだかんだといろんな本を読んだり考えたりしているのだが、それのもとになった出来事がある。これを見ていただいている人のほとんどは知らないだろうが、わたしが小学生のころ「野生の王国」というテレビ番組がありました。そこでは毎週色々な動物や虫などの生態をナレーションを付けて放映していました。
ある日、その番組を見ていたわたしは、「ふ〜ん。なるほど」では終わらなかったのである。いまでいうなら「おいおい、ちょっと待ったぁ」というようなことがあったのです。
その時の番組の内容はこうであった。まず最初に登場するのは、クサリヘビの1種で正式な名前は忘れましたが、体の色が赤と黒で、ちょうど踏切の遮断機の棒の黄色を赤に変えたようなヘビが出てきます。
このヘビは毒ヘビなんですが、牙から毒を出すヘビではありません。その肉に毒があるという毒ヘビです。フグとか毒キノコとかと同じパターンですね。
フグもけっこう種類があって、よくキモを食べると死ぬといいますが、キモに毒のない種類もあれば、肉に毒があるフグもいます。では、肉に毒があるというのは、どういう意味を持つのでしょうか。つまり、外敵に対して、私を食べると毒がありますよというような意味になるのだが、毒ヘビにしては少々、消極的というか凄みに欠ける奴なのだが、ここが問題になるのである。
このヘビもそうだが、毒キノコなど一様に毒のあるものは派手な色彩のものが多い。毒々しいという奴である。ある見方からすれば、私には毒がありますよということを派出にアピールしているわけである。ところが、そこに幼い頃から屁理屈少年だったはわたしは、納得しなかったのである。
次に登場するのが、鷹か隼のような猛禽類で、ヘビなんかを捕まえては食べるやつが出てくるわけです。こいつが、いま言ったクサリヘビが地面を悠々と這っていても、全然狙わないわけです。他のヘビだと急降下してパッと捕まえては食べてしまうくせに。ここで解説のおっさんとナレーターの会話になるんですが、
「毒があるということを知っているんですね。」
「そうですね、だから、ヘビのほうも悠然としてますね」
「たいしたもんですね」
ここで、おいおいと、幼き屁理屈少年は思うのである。
疑問その1
鷹はいったいどうやってそのクサリヘビに毒があることを知ったのか。
そのむかし、鷹とヘビがお互いの事もよく知らぬ初心な頃
鷹「お、こりゃうまそうなヘビじゃないか。」
ヘビ「鷹さん、私をお安く見ないでね。食べると死ぬわよ。」
鷹「その手はくわないもんね。わし、腹減ってるけんね。むしゃむしゃ」
ヘビ「きゃー」
鷹「ううっ、苦しい」
ちょうど、そのあたりを通りかかった近所の鷹B
鷹B「おい!どうした、しっかりしろ」
鷹「ううっ、毒に・・・ヘビに気を・・つ・け・ろ ガクッ」
鷹B「おおーい、君の死は決して無駄にはしないぞ。(決心)」
てなことがあったのか。
いったい、鷹はその事実をどうやって伝達したのでしょう。たまたま、通りがかって見たことを学習したくらいの可能性はありますが、では、子供たちにはどうやって伝えたのでしょう。巣で教えているのでしょうか。
よく言われるのは「本能」という言葉です。なぜだか分からないけど、動物が本来持っている特性などを本能と称して片付けています。しかし、物事には始まりというものがあるはずで、最初に誰かが気がつかないと始まりようがないわけです。
ここまで読むと、やっぱり動物はすごいなぁと思ってしまうのですが、まだ続きがあるのです。
このあと第三の生物が登場してきます。
それは、クサリヘビと大きさ、形、色がそっくりなヘビです。ただ1点違っているところは、赤と黒の境目に細い黄色の縞が入っている事です。こいつは毒も何にも持ってません。こいつは毒が無いので、クサリヘビにそっくりになる事でハッタリをかましているわけです。
ここで疑問その2です。
え〜、便宜上このヘビをパチもんのヘビということでパチヘビとします。
順番で行くと、まずクサリヘビは自分を食べると死ぬので、鷹は自分を狙わないという事を知っている。
次に、鷹はクサリヘビを食べると死ぬということをしっているので、他のヘビしか襲わない。
ここに両者暗黙の了解が成立しているわけです。
というようなことを、パチヘビはどうやって知ったのか。「野生の王国」見てたんかい。となるわけです。しかも、パチヘビはクサリヘビに似せるように進化してるわけです。なおかつ鷹が毒のあるクサリヘビを認識する時にそのカラーリングに頼っているという事まで知っていなければならないのです。
疑問その3
鷹も、そんだけ分かってたら黄色い縞がある無いくらい見分けつかんか。
パチヘビがそんだけの認識を持ってクサリヘビの特性を利用する知恵があるなら、鷹は縞の認識ぐらいできそうなもんやと思うのですが。
もう1つ、パチヘビもそこまでできんねんやったら、なんで縞の1つもよう消さないかということです。
以上のような疑問がわいてくるわけです。このことについてはすべて本能とか習性とかいう言葉で片付けられています。
じつは、この3者の関係は進化していく上での本質的な問題と、どのようにして形態が変わるかという問題の両方をはらんでいます。この答えはいまだに出てませんが、わたしは記憶と意思というものがある種の形態をとって認識できるのではないかと思っています。これはこれでややこしくなるので、詳しくは書きませんが。
それと、もう一つ。ハナカマキリというのをご存知でしょうか。テレビCMなどにも使われた事があるので知ってる方も多いと思います。薄桃色の蘭にそっくりなカマキリです。
進化論的には、蘭の花に擬態することで、花にやってくる虫などを捕食しやすくなるという事と外敵からも発見されにくくなるという事で適応しているという事になっています。
しかし、ハナカマキリに進化する前のカマキリがいったい何時、「ああ、あんなキレイな花のような体があればなぁ。」と思ったんでしょうか。そして、徐々に変わっていくと言いますが、その中間では、逆になんのカモフラージュにもならない危険な状態が続く事になるのです。これは1つの賭けです。
学者でもなんでもないわたしの、たわごとですが、進化するのは、1世代か2世代であっというまに変わってしまうんじゃないかと考えます。普通のバッタが飛行バッタに突如変異するように。
意思が遺伝子のスイッチを入れるというか、なりたいと思えば花にでもなれるんじゃないかと思います。
ここで突然競馬の話しになるんですが、競馬に勝つというのも、ある種へたから上手に進化していくというような過程を踏んでいると思います。最初の両生類が陸に上がった時の息苦しさを耐え抜いて新天地を開いたように。
実は、最近ものすごく調子がいいというか、負けなくなりました。1つには回収率の問題もあるのですが、それがすごくあがってるんです。
データーの話しになるんですが、いままで書いてきたのは予想につなげる為のデーターの話しでした。もう1つ、パーソナルなデーターもあると思うんです。
どういうことかというと、わたしは競馬を再開してからノートに全レース予想と実際の買ったレースを付けています。全レース予想といっても、ケンするとかいうのも含めてと、簡易な予想で、そこから買うレースはもう少し突っ込んで予想するので、その前の段階程度の物ですが。
それで、そのノートを見ていて、ちょっと集計してみたわけです。
わたしの買い方はやはり、買い方というか張り方というのが博打の王道というか、駒の上げ下げは絶対必要というのが信念ですので、勝負レースにドンといくというパターンです。
そこで、自分の的中率、回収率といったことと別に、今回わたしが、集計しなおしたのは、勝負レースと決めてやったレースの的中率と回収率です。これは野球に例えるなら、得点圏打率みたいなものだと思います。
結果は思わしくありませんでした。的中率というよりも、勝負レースではずした分を他のレースで回収しなければならないので、他の投資金額の少ないレースの的中が無駄になってる部分が多いわけです。
そこで過去の買ったレースを、1レースの投入金額を均等にして計算して見たら、驚くべき結果がでました。いかに勝負弱いかということかもしれませんが、1日の購入レースが4、5レースあったとしたら、その中からこれだと選び出せるほどの力量がないと言う事だと思います。3勝1敗でも負けてる日があるということです。ただし、わたしが過去に買ったレースがすべて買い目期待値が300%を越えていたわけではないので、厳密には少し違うと思います。
今の自分を客観的に見れば、的中率が基準ラインにあって、買い目期待値が300%以下は絶対買わないということで、十分すぎるほど勝てるわけです。
事実、3レースしかやれるレースがなかったら、1つ取れば負けは無いわけですから、メンタル面でも楽になります。当たり前の事のようですが、失業している状態でまがりなりにも競馬をするということは絶対負けられないわけでキッチリ、カッチリやらないといけないんです。そのせいか改めてそのあたりの事を再認識しました。
そして、1つの壁があるということも。
ここから先にいくには、絶対馬が見れないとダメだと思いました。やはり、師匠のようなレベルというのは、明確な意思をもって上がろうと思わないと上がれる世界ではありません。自分が蘭の花になろうと思うくらいの決心がいるのではないかと思います。
わたしは、当分このスタイルで行けるとこまで行ってみようかなと思っています。競馬は記憶のゲームと言われますが、記憶と意思のゲームでもあると思います。
ただのカマキリがいつかハナカマキリになることを決心する日がくるのかどうか。
あっ、師匠は鼻カマキリやった。