教養部教員紹介(系列・課程別2000年度在籍教員)


人文科学 池田士郎 小林正佳 神田秀雄 金子昭 三木孝子
社会科学 浅川千尋 伊藤義之 宇治琢美 小田健 角知行
自然科学 曽山典子 吉井恒雄 辻佳代子
外国語 榎本吉雄 太田耕軌 小林早百合 島田拓司 中井英民
保健体育 森井博之 藤猪省太 細川伸二
教職 赤塚康雄 千原雅代* 伊藤和男
図書館学 山中秀夫 吉田憲一


 

 教養部(『Tulips』の発行元)に所属する顔ぶれを紹介します。それぞれの研究分野や、研究に対する姿勢、最近思うこと、感じたこと、学生に伝えたいこと、などなどを記してもらいました。 


人文科学系列

 

風にゆれる葦   池田士郎(いけだ しろう)

 先日、ふと思い立って近くの川辺に散歩に出かけると、一面に葦の若葉がふきあふれるように茂り、新しい「いのち」の芽生えを感じさせられる光景に出会った。土手に腰を下ろして風にゆれる葦を見ていると、「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦(ロゾー・パンサン)である」というパスカルの断章を思い出した。若いときに感銘を受けた言葉は、いつまでも意識の地下水脈を流れているらしく、きっかけがあれば、すらすらと口をついて出てくる。

 パスカルの合理主義はどこかにみずみすしい情感をともなっており、それがデカルトの合理主義とは微妙に異なる色彩を出している。デカルトが最後まで合理主義の立場に立ったのに対して、パスカルが後に合理主義からキリストの神秘体験へと関心を移したのは、二人の情念に対する理解の差に原因があるのではないだろうか。大学院に入って間もないころ、指導教授にそんな自分の感想を話したところ、即座に「気分で哲学はできません」という指摘が返ってきた。そのあまりの厳しさに驚いて、自分に哲学の勉強など続けられるのだろうかと不安を抱きながら夕暮れのキャンパスを歩いていると、後ろから先生が声をかけてくださり、「パスカルを勉強する前に、ベルクソンを徹底的に読みなさい」とアドバイスしてくださった。その意味は、やっと今ごろになってわかるようになったが、指導教授がこれほど私の性格と環境を的確に把握し、助言してくださったことを今も感謝している。

 毎年、4月の新学年を迎えるたびに、今は亡き恩師の言葉を思い出すとともに、大学は知の体系を学ぶところであるが、知は人間の生と離れてあるのではなく、まさに知識人として存在する、という思いを新たにしている。そして、自分が教師として適切なアドバイスを学生諸君にしているだろうかと自問するが、風にゆれる葦のように右に左に首をかしげるばかりで、なかなか合格点はもらえそうにもない。しかし、それでも「ロゾー・パンサン、ロゾー・パンサン」と口ずさんでいる。

 

小林正佳(こばやし まさよし)

 

  学生たちの年令は毎年変わらないのに、こちらだけ一歳ずつ年をとる、そんな積み重ねの怖さにひるんでしまいそうな今日この頃。はじめて天理を訪れて二十五年。去年で、「勤続十年」になったとか。十年続けて勤めるのに二十五年かかった計算。四年のはずが四年で終わらない学生がたくさんいるけれど、七年かかった学生より率が悪い。

  それというのも、「大学教員」という時期にはさまって、宿帳に「舞踊家」と書いた時期、確定申告書に「陶芸家」と書いた時期があったから。宿帳の方は、半分冗談。少なくとも、半分は。

  「陶芸家」の方は、確定申告に続いて課税されたことがないから、通産省の役人ならそれを「職業」と呼ぶかどうか。

  どんなことにも興味を抱く質で、実際「教養部」の出身だし、いまだに専門は「教養」と言いたい気分。常に、心のどこかで、今の自分ではない何かへの変身を画策しているみたいなふうで、どうやら「この道一筋」は似合わない。

  とは言え、一筋に、とは違う、しかし一途に、プロのアマチュア(ただのアマチュアではない!)であることこそ大切であると考え、“アマチュア精神”で現在挑戦中のテーマは、「イヌイット美術」をはじめとする「民族芸術論」、どこの展示はおもしろくてどこの食堂はおいしいかといった点など含む、観客の視点からする「博物館学」、「オオカミ」を主とした「生態学」、北アメリカ、カナダの「児童文学論」、実践的北アメリカ「文化論」、そのほか、「ダンスセラピー」をはじめとする「芸術療法論」、などなど。

  一方、職業上「専門」と言うべき現在の担当科目は、「宗教学」、「身心相関論」、「教養講議3」。

  もちろん、何ごとも「広く、浅く」などというつもりはまったくない。できれば、もっと深く。そのために、もっと広く。年ごとにテーマが増えて、この夏から台湾に出かけて帰ってきたら、「中華料理論」などというのが、リストの中に入っているかも。

  著書は、『舞踊と身体の回路』(青弓社)、翻訳に、ジェイムズ・ヒューストン『北極で暮らした日々/イヌイット美術を世界に紹介した男の回想』(どうぶつ社)ほか。現在、「クマ」を主人公にした「神話や儀礼」の本の翻訳と、「舞踊論」を準備中。

 

歴史のリアリティーと人間的選択

−−自己紹介にかえて−−

神田秀雄(かんだ ひでお)

 

 最近放送された「NHKスペシャル 移住31年目の乗船名簿」という番組を紹介することと、それを見ての感想を記すことで、私の自己紹介にかえたいと思います。

 「移住31年目の乗船名簿」は、今年3月18日と19日の両日にわたって放送された、前編・後編各75分にもおよぶ長編ドキュメント番組ですが、雑誌でその放送があることを承知していながら、私は実際には、後編が放送されるのを見たのが最初で、ビデオも撮り損なったため、ブラジル学科のある先生が録画しておられたものをダビングしていただき、ようやくその全貌に接することができました。内容からいっておそらく再放送されるものと思いますが、ビデオは教養部人文科学系列研究室のほか、ブラジル学科にもあるはずですので、関心をもった人は申し出てみてください。

 さてこの番組は、相田洋(あいだ・ゆたか)というNHKのディレクター(番組制作当時。現在は慶応義塾大学教授)が30年以上にわたって南米移民の人々の人生を追跡した記録で構成されています。発端は1967年、「農民をパラグァイにつれて行き、理想の村をつくる」と言っている変な老人が岩手県にいる、という情報をたよりに、当時31歳の相田ディレクターが、パラグァイの広大な大地に惚れ込んでしまった伊藤勇雄(当時69歳)さんという老人を取材したことにはじまります。伊藤老人は翌年、近辺からは結局は一族だけで「あるぜんちな丸」に乗ったのですが、「あるぜんちな丸」には、岩手県以外からも多くの移住者が乗り合わせることが分かっていました。そこで相田氏は、伊藤老人が船に乗るまでを〈ある人生 移住〉という番組にして、南米に着くまでの船内での移住者たちの様子を記録した別の番組〈乗船名簿AR−29〉(「あるぜんちな丸」第29回航海の乗船名簿、の意)を制作したのだそうです。そして、「10年たったら来いよ」と移住者たちに言われたことが、その後、長編ドキュメントを制作するきっかけになりました。

 南米には、今日なら飛行機で2日程度で行けるはずですが、当時は49日もかかる船旅の中で、人々は何を考え、何をしながら移住するのだろう、という疑問を解くためと、単独番組では海外取材が許されなかった当時の事情とから、移民船内での人々の様子を取材したのが最初のいきさつだった(当時の相田氏の上司が、「日本の船の中は、国際法上は日本国内だ」というこじつけで企画を押し通してくれた)ようです。その後相田氏は、1978年には〈移住10年目の乗船名簿〉、1988年には〈移住20年目の乗船名簿〉と、10年ごとに移住者の“その後”を追ったドキュメンタリーを制作し、31年目の昨1999年、〈移住31年目の乗船名簿〉を完成させました。

 「一組の制作スタッフが日本人群像の運命を31年間にわたって凝視し、記録し続けた“大河ドキュメンタリー”だ。31年間同じ群像の運命を追った映像メディアは他に例を見ない」というのが、雑誌『ステラ』によるその紹介ですが、私がこの番組に関心を引かれたのは、そうした番組の性格も大いに関係してはいますが、もう少し個人的な事情もあります。というのは、最初の記録がなされた1968年という時期が、私にとってはちょうど高校卒業や大学入学の時期と重なっているからです。そして、その後の31年ということになれば、それはほぼ、私の成人から今日までということになるので、この番組は、「私なりの人生を選択してきたこの間に、こんな別の道を歩んだ人もあったのか。こんな生き方があり得たのか」という感慨を、私に抱かせることになったわけです。

 ところで、私の専攻は歴史学ですが、学生運動の高揚等で騒然としていた1970年代の前半に大学を卒業した私は、他の道を選ぶ積極的な決断をしえないまま、結局、大学院に進学することにしました(というより、「進学することになりました」と言った方が正確かもしれません)。その時、指導教授からは、「決して(大学院進学は)すすめません。トンネルに入るようなもので、いつ花が咲くとも分からない生活が待っていますよ。訳も分からず研究に追われますよ」といった意味の忠告を受けましたが、とにかく当時の私には、もっと積極的な他の選択をすることはできませんでした。というと、あまりに消極的な選択をしたようですが、他方では、何か自分自身で納得のいく道を見つけたいと思っていたことも事実です。とはいえ、人間にとって二つ以上の道を選択できない(マルチ人間にはなりにくい)ことも間違いないので、その後の私は、そういう選択をしたツケを払わされながら、同時に多少の成果は上げてきたのだな、と今では思っています。

 その後私は、かなり長く大学院に在学することになり、養護学校教員、高等学校教員を経て天理大学に着任しました。以来、12年間天理大学に勤めているわけですが、多少の研究成果も上げたとは言え、「トンネル」から出る(かつての指導教授の言葉)ことができたのかどうかは、何とも言えないように思います。というよりも、大学の教員という職業は(おそらくそれ以外の多くの職種でもそうなのでしょうが)、いつも新たな「トンネル」に入っていつのまにかそれを抜けだし、また新たな「トンネル」に入っていくような生活の繰り返しなのだろうと、このごろは思うようになってきました。

 そんな生活をしている私にとって、「移住31年目の乗船名簿」はかなりショッキングな内容で迫ってくる番組でした。そこには、大学入学以来、教員ないしは研究者という公的な制度に乗る方向での選択を続けてきた私の場合とは、まったく違う人生の選択をした人々の姿がいきいきと描かれていたからです。とはいえ、うらやましくなるような幸福ばかりが描かれているのかというと、決してそうではありません。個々の登場人物(家族)の人生についてすべて覚えてはいませんし、くわしくはビデオを見てもらうほかないのですが、たとえばそこには、成功して広大な農場を経営している何人かの人の例が紹介されている一方で、アマゾンの奥地の開拓に失敗して都市部へ流れた人の例や、ニンニク栽培等の投機的な農業に失敗し、悲惨な運命をたどった人の例も描かれています。中でも特に印象的だったのは、移住にあたって各地の女子高校の校長先生あてに「花嫁募集」の依頼状を書き、実際に応募してきた女性と守備よく結婚して移住し、大農場の経営に成功していたある男性が、世界的な市況の悪化で財産を失い、さらには妻が病気(癌)になったために、働き者だったその奥さんの願いに応じて妻を射殺し、自分も死のうとして果たせずに殺人罪に問われた、という実話でした。

 このドキュメンタリーは、成人以来の私の生活と並行して進行していた実話であるという意味で、しばしば狭い日常生活に埋没してしまいがちな私に、大きな反省を迫るものをもっています。

 思えば1960年代以降のいわゆる「日本経済の高度成長」の時代から、次第に資源の枯渇が問題になりだした「石油ショック」の時代、そして80年代あたりの「安定成長」にいたるまで、私には、日本の、いや世界の歴史は、一見、あまりドラスチックには動かないもの、そんなに急激には変化しないもののように見えていました。そしておそらく、私だけでなく、多くの人々にもそのように見えていたのではなかったかと思います。さらに言えば、「バブル経済の崩壊」を経験した後、世界的な不況が長引くようになった今日でも、私を含めたかなり多くの人々は、命があること、明日の生活が続くことにあまり疑問を抱かずに日々を送ってしまいがちであるように思います。しかし、人類が大自然の猛威との闘いに明け暮れていた太古の時代とはかなり事情は異なるにせよ、「高度な資本主義社会」と言われる今日の社会も、決して無条件に明日を保証されたものではなく、やはり大きな危険と隣り合わせのものであり続けていることを、「移住31年目の乗船名簿」は気づかせてくれているように思います。そしてまた、人間というものは、何らかの危険と向かい合いながら一生を生きるものであることを、同時に訴えかけてくれています。

 人の生涯には、もちろん幸福な場面もあれば、不幸を堪え忍ばねばならない場面もあります。そんなことは考えてみれば当たり前なのですが、戦後日本の多くの人々は、世間で不幸とされていることから逃れようとして、本来、それに立ち向かう力をもっているはずの自分の可能性と対面することからも、次第に逃亡するようになったのではないでしょうか。そして私自身も、そうした「高度成長」期の社会の枠組みに馴らされてきた人間の一人だったのだと思います。

 ここ10年あまり歴史学を担当してきた経験からすると、戦争をはじめとする歴史上の人々の悲惨な体験は、しばらく前まで、なかなか学生諸君には実感しにくいものだったように思います。また同時に、私自身にとっても自らの実感を込めて語ることが容易でない次元でもありました。しかし、多種多様な犯罪が相次いで発生し問題化している今日の社会状況は、戦争のようなできごとが決して特別なできごとではなく、実はわれわれの身辺に起こっていることがらにも通じる本質をもっていることを、よく表すようになってきたのではないかと思います。その意味で私は、「最近の社会状況は、ことによると歴史をリアリティーをもって学びやすい環境をもたらしているのかもしれない」と、このごろ思うようになりました。

 「移住31年目の乗船名簿」は、そのような今日の社会の再認識に、たいへん重要な示唆を与えてくれている作品だと思います。

 

金子昭(かねこ あきら) 39歳教養部助教授

 

 倫理学(教養部所管)・天理教社会福祉論(人間学部所管)を担当しています。天理大学に勤めて11年目、最初の頃の学生は自分の後輩のような感じがしたのですが、今年度の新入生にいたっては、私が大学を卒業した1984年には3歳だったという学生が出てきて今更ながら、年月の経過に驚いています。

 天理生まれの天理育ちですが、専攻は倫理です。倫理学を学ぶにあたっては、私は「中間」に立って考えるという姿勢を大切にしています。

 これはトーマス・マンから学んだことですが、人間に関する重大なことがらは、たとえどのような決定であっても早急で尚早なものであると、彼は言っています。むしろ本来の解決は、どちらかの側に決定することではなく、互いに対立しあうものの調和です。したがってどちらの側にもくみせず、あえて「中間」に立つこと(彼の言葉ではアイロニー的な留保といいます)において、高次の統一をめざすことが大切だというわけです。それこそ真の意味での「人間性」という名前を冠するにふさわしいと、マンは言うのですが、非常に示唆に富む考え方だと私は思っています。

 人間の生き方を考える倫理学において、つねに私たちが生身の人間であり、まさに、その生身の人間であること(つまり人間性)を大切にしていかなければならないという視座にたちかえって考えていきたいと思います。

 主な著書: 『シュヴァイツァー その倫理的神秘主義の構造と展開』 (1995年)、

『天理人間学総説一新しい宗教的人間知を求めて』 (1999年)。

 

三木孝子(みき たかこ)

 

 「芸術論」を担当しています。

 この授業では西洋音楽(クラシック音楽)がどのようにして発生したのか、どのような社会背景のもとで発展したのかを学び、西洋音楽の歴史的変遷を名曲を通して鑑賞します。

 西洋音楽史の各時代に残された名曲には時代や社会情勢を背景として作曲家達のメッセージが凝縮されています。そのメッセージは時代を経て、民族を越えて演奏という形で受け継がれています。

 何百年も前に亡くなった大作曲家達とも音楽を通して心が通い、お話しすることが出来るかも知れません。

 学生さんの一人、一人が持つ悩みにも何らかのアドヴァイスや癒しや勇気を与えてくれるかも知れません。音楽は、人間の喜びや悲しみ、愛、苦しみ、憤り、物語や社会事象、自然現象等さまざまなことを語っています。

 本年度も多人数の「芸術論」受講の学生さん達とともに通年の授業を通して音楽の美しさ、素晴らしさ、感動を共有して授業をすすめていくことをとても楽しみにしています。


 

社会科学系列   ページトップへ戻る


 

浅川千尋(あさかわ ちひろ)


担当科目 法学、教養講義(ジェンダーと現代、行政法)

 長野生まれで長野育ち。大学から関西で生活している。正しい標準語を話せるという特技をもっている。趣味は、テニス(以前はテニスコートにいることが多かったが最近は少ない)。ドイツビールを嗜むことも趣味としている。趣味と実益をかねて、現在ドイツのマールブルク(Marburg)で在外研究をしている。

 研究テーマは、人権論(とくに社会的基本権論、たとえば生存権、環境権など)とそれを具体化する行政(社会保障行政、環境保護行政など)である。日本とドイツを比較しながら研究している。 最近は、フェミニズム法学へ接近しつつあり、セクシュアル・ハラスメントや男女平等論などへもアプローチしている。

 マールブルク大学の講義(法学部の)に2コマ参加しているが、教授が一方的に講義するだけでしかも黒板など使わない。それでもほとんど私語をする学生はいない。ケータイはドイツでも流行ってきていて学生でも徐々に持ち始めている。しかし、もちろん講義中や図書館では使用禁止である。こちらの学生はよく勉強する。図書館は法学部で通常夜9時まで開館している。日曜でも夕方まで開館している。学生はみんな黙々と資料を探索したり読んだりしている。私語をしていると注意される。この雰囲気は大好きだ。日本での学生時代を思い出すような雰囲気である。

 翻って、日本はどうであろうか?天理大学はどうであろうか?ケータイ、私語、こんな言葉が「死語」になるような環境になって欲しいものである。


 

伊藤義之(いとう よしゆき)


ニックネーム:ヨッサン

好きな食べ物:安くて量の多いもの(何でも食べる)

これまでに見て最高に面白かった映画:「ブルーズブラザーズ(オリジナル)」

これまでに読んで面白かった本:「マーフィーの法則」

大学のときにやっていたスポーツ:サッカー(同好会でゴールキーパー)

好きな野球のチーム:阪神タイガース

好きなアメリカンフットボールのチーム:マイアミ・ドルフィンズ(NFL)

天理大学クラッシングオークス(関西学生連盟)

好きなカクテル:ベリー・ドライ・マティーニ
休日の暇つぶし:畑仕事、草引き

好きな歌手:レイ・チャールズ

好きな作家:星新一

人生の目標:最後に「ああ、面白かった」と言って死ぬこと

座右の銘:「継続は力なり」

乗っている車:プラッツ

好きなテレビのチャンネル:NHK(総合、教育、衛星放送第1、第2)

好きなラジオのチャンネル:FM Co-Co-Lo

好きな人:ウチダリョウコさん(NHKラジオ「子どもと教育電話相談」カウンセラー)

今の悩み:とくになし

学生に言いたいこと:睡眠不足は年とってからコタえてくるよ

学生に聞きたいこと:モーニング娘。って歴代合わせて何人いるの?

大学に言いたいこと:主役は学生だってことをいつも念頭に置いてね

大学に聞きたいこと:学生個人のメールアドレスはいつ発行されるの?

世界中の人に言いたいこと:「Keep smiling. 笑顔を忘れないで」

 


自己紹介と一言  宇治琢美(うじ たくみ)


 大学では、これといった目論見もなく法学部に入学したが、このいい加減な選択の当然の報いとして、法解釈に対する関心がほとんど皆無である自分を見出すに至り、四年間は、法学部といえども法学から全面的に遠去かり、ひたすら文学・哲学等の分野に入り込み(三、四年生の所属ゼミの名は『英米精神思想史』)、登校は平均週二日程度であった。したがって、学部における成績は、受講科目
43のうち、『優』(本学の『A』に相当)は、なんと8発。あとで聞いたが、この年、同学年六百数十名の卒業生の平均成績は、『優』2728発というから驚いた。

 それでも、大胆にも、否、厚かましくも、この成績にて大学院社会科学研究科を志望し、口頭試問では複数の担当教官に、「学部での成績は気にしなくてもよいのですよ、ただ、試験の成績だけを考慮しますからね」と、心暖まる励ましの言葉をかけて戴き、見事、合格した(ちなみに、大学院合格者の平均成績は『優』32~33発)。

 大手銀行や公務員志望でない限り、余り成績を気にせずとも、泰然自若として、我が研究に一意専心、努力していれば、何とか大学の講義くらい(私の如き雑学の場合だが)できるという事実の証明である。

 大学の授業などというものは、昔から、面白い訳がない。だから私も大いにサボった。サボり尽くした。しかし、自分が心底関心を持てる勉強は、精一杯やった。ここが本学のサボり常習犯との違い。天文学的数字に昇る脳細胞の大半を死滅させないように、日々思惟・思考に馴染むこと、これこそが肝要である。

 


小田健(おだ
けん)


 
先日、東京新宿のジャス喫茶に寄ってみた。それは日本におけるジャズの全盛期に音に聞こえた店で、今回久々に再オープンしたのだそうである。とはいえ、店内にかつてのような賑わいはないし、器械もレコードも全くもって貧弱そのもの。我が「せんちめんたるじゃーにい」の舞台装置としては不満が残る。しかし、学生時代ジャズ喫茶に入りびたった時分のことを想い出してみるには、それで十分だ。

 それにしても、ジャズ喫茶にはよく通ったものである。今日は新宿、明日は渋谷。店には昼前に入ったが最後、いつまでも出てこない。コーヒーを飲みながら、何をするというのでもない、ただジャズに聴き入っているだけ。毎日、毎日、コーヒーは1杯目、2杯目、3杯目。時間も浪費したが、金も浪費した。もちろん、その間にも大学の授業はあったはずである。そういえば、在学中まともに出た授業は、一つ、二つ、三つ、要するに十本の指で十分お釣りがくる。こういう「前科」の教師が、「てめえら、ちゃんと授業に出ねえか、バカヤロー」とわめいているのだから、とかくこの世は、石が流れて木の葉が沈む。それにしても、空虚な学生時代をおくっていたものだ。しかし、実に空虚なんだが、妙に充実してもいるところが、やはり「せんちめんたるじゃーにい」。 

 こういう怠惰でサンショウウオのような生活を送っていた人間が突如として「学問」を手始めるには、それ相応の事件や事情や不幸が重なっているわけだが、その一つに1冊の書物がある。何、大した書物というわけでもないのだが、岡義達『政治』岩波新書。これにはおどろいた。脳細胞のすべてが勃起した。あまりに興奮したので、読み終わった直後靖国神社へと参拝に走った(よーわからんが、やっぱり俺は「右翼」かな)。そして、この書物に追いつき追い越せ、というのが政治学という「業界」に入った主要な理由の一つである。

 こういう理由で政治学を始めるというのは、実に空虚である。実に空虚なんだが、あの書物に匹敵する書物が書けるなら、それはそれでやはり充実があったというべきだろう。それにしても、なかなかそれが出来ない。出来そうにない。しかし、だからといって諦めたわけではないその証拠に、今なお「政治学教師」の看板を恥ずかしげもなく掛け続けている。


かえりゆく夢
    角知行(すみ ともゆき)


 詩人の立原道造は、20歳の時にはじめて信濃追分を訪ねてから、生涯この地を愛した。浅間山の麓に広がるカラマツ林・白樺林の美しい風景もさることながら、堀辰雄や室生犀星等との交遊も想い出深かったのであろう。その思いを「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に……」と詠っている。

 私の夢がいつもかえっていくのは東京の西のはずれ、国立(くにたち)という小さな町である。武蔵野の面影が今も残るこの地で、経済学部の大学生として多感な何年かを過ごした。今ある生活の姿の大半は、ここから生まれている気がする。

 大学の授業というのは、いずこも同じ、その大半は退屈なものであった。しかし珠玉のような授業もいくつかあった。経済学説史の種瀬茂先生は、スミス、リカード、マルクス、ケインズ等を論じ、経済学が成り立つ根拠をわかりやすく教えてくれた。授業の初めに話される時事ニュースの解説−当時ウォーターゲート事件が発覚した頃であった−はニュースキャスターの解説よりもはるかに面白かったのを覚えている。社会調査論の石田忠先生は、被爆者の聞き取り調査の話をした。レポートの作成に『ヒロシマノート』『ヒロシマの証言』等の文献を読み、はじめて社会の不条理を知ったのもこの頃である。人権や差別の問題に今も関心があるのは、こんな所に淵源しているのかもしれない。

 ドイツ思想史に良知力(らち・ちから)先生がいた。経済学部生でありながら、数量化された理論に物足りなさを感じていた私は、そのゼミを聴講させてもらっていた。マルクスの『経済学哲学草稿』の原書がその年のテキストであったが、驚くべきことに一言一句の読解に何十分もかかる。原典を精読することをここから学んだように思う。香内三郎先生は、非常勤講師としてイギリスのジャーナリズムの成立を講義していた。その該博な知識は私たちを圧倒した。後に大学院でこの先生の下で学ぶことになる。

 授業よりももっと刺激的だったのは、何人かの友人たちとの研究会であり、輪読会であった。時々マスコミに登場する太田弘子さんもそのメンバーの一人であったが、仲間たちと社会を論じ、哲学を語ったものである。今思えば、粗雑な議論だったが、強い刺激を受けた。その後、大学院は別の場所へ移り、専攻も経済学から社会学へと変わった。しかし最もよく勉強をし、よく考えたのはこの時期であったように思う。かくして私の夢はいつもここへかえっていくことになる。

 いまこうして天理大学にいる自分を振り返る時、同じような真摯さをもって学問に向かっているのか、学問の面白さをよく伝えているのか、自問せざるをえなくなる。「かえりゆく夢」はその度に厳しい問いを私に突きつけもするのである。

 

 

外国語研究室   ページトップへ戻る



「映画と私」 榎本吉雄(えのもときちお)


 戦争(太平洋戦争)が終わったとき、国民学校(今の小学校)の4年生だった。戦時中は神州不滅(日本は滅びない)を唱える以外に、何の情報も入ってこない時代だったので、私もいっぱしの軍国少年だった。ところが戦争が終わってみると、何もかも一変した。昭和23年から男女共学となり、学校制度も大きく変わった。

 さて敗戦は俄か民主主義をもたらした。当時の先生たちは本当に当惑したであろう。昨日まで教えていた価値が全く役に立たないどころか、聞違っていたとされたからである。

 私たち悪童は先生たちの当惑と混乱を尻目に、「アメリカン・デモクラシー」の恩恵に大いに与かったのである。まず大量に流れ込んできたアメリカ映画の凄かったこと。何が凄いと言ったとて、見るもの聞くもの、信じられないほどの衝撃であった。カルチャー・ショックなんてものではなかった。いままでの天動説が地動説に変わったようなものである。こちらは三度の食事もままならず、寝る所も怪しいときに、目もくらむような物質生活をスクリーンを通して味わった。

 昭和23年の学校制度の改変で、新制中学、新制高校となった。当時の学校は、文化活動の一つとして、名画(多くは外国物)を全校生徒に「鑑賞」させたものであった。このおかげで沢山の映画をただで見ることができた。「我等の生涯の最良の年」、「邪魔者は殺せ」、「陽の当る場所」、「第三の男〕、「ハムレット」などいま見ても懐かしい。こうして私たちは占領軍の文化政策に、いとも簡単に取り込まれてしまった。

 天理市にも東京オリンピック頃まで、映画館が3つもあった。中学生の頃、今日は映画鑑賞日となると、朝から落ち着かず、映画開始を知らせるベルがなると、どういうわけか、またもやオシッコに行きたくなったりした。盆と正月には大変な人が押し寄せ、押し合いへし合い、喧騒の渦であった。後年アメリカで、座席が満杯になると入場を制限するのを知って驚いた。映画は人いきれの中で見るのが楽しい。

 大学へ入ってから、私の映画熱はひどいものとなった。連日先輩との映画館通いである。50円2本立てをよく見た。ミュージカルは特に好きだった。この映画館通いの副産物は、英語の聞き取りが多少上達したことであろうか。「好きこそ物のなんとやら」で、シナリオ訳シリーズを買ってきて、おさらいをしてから映画を見に行った。そのうち、洒落たセリフをノートに記し、暗記して大いに得意がったこともあった。好きなことは、いくらやっても飽きることはない、というのは本当である。

 フランス映画にも随分お世話になった。実に洒落た、小粋なセリフが魅力的だった。「天井桟敷の人々」、「パリの空の下セーヌは流れる」、「望郷」、「ヘッドライト」、「リラの門」など題名を書き出せばきりがない。フランス映画にはシャンソンがつきもの。いまでも当時のシャンソンを研究室でときどき聞いている。ドイツ映画ではもっとも印象的だったのは「08/15」という3部作である。ナチスの勃興から没落までを、ナチズムに翻弄された純朴な青年の短い生涯をどうして描いている。いい映画だった。若い人たちに是非見てもらいたい。「西部戦線異常なし」は余りにも有名。だが私は「08/15」の方を薦めます。イタリー映画は「自転車泥棒」が定番だったが、私はなんと言っても「道」(ジェルソミーナ)。これも是非見てほしい。

 これまでに見た映画を振り返ってみると、映画は社会の鏡だということが、よくわかる。楽観的だったアメリカ映画は、1950年代の後半から変わり始めた。ベトナム戦争の頃には「ソルジャー・ブルー」など、アメリカ社会の現状や歴史を間い糾す作品が現れた。

 最近はもっぱらテレビで映画を見る。東南アジアの優れた作品に出会うことがある。題名が思い出せないのが情けない。台湾の作品で、田舎の貧しい姉弟を扱った作品が記憶に残っている。姉弟とも小学生で、母はもういない。弟は絵の才能がありながら、病死してしまう。やがて弟の作品が認められ表彰されるが、全校生徒の前で姉が父に代わって挨拶する。「父は標準語が話せないので、私が代わりに挨拶いたします」。コトバに関わる者として、この健気な少女の言葉は、いまも私に重くのしかかっている。

 映画は書物と同じように思索の糧になり得る。


 

太田耕軌(おおたこうき)                           


現住所    奈良県天理市富堂町76-7

電話(研究室)0743-63-1515(6125)

Fax        0743-63-2357

担当授業科目 英語1、英語2、英文法、英語科教育法

課外授業科目 アメリカ手話

担当クラブ  レスリング部部長、競技ダンス部顧問

趣味     フラメンコダンス

 

現在関心のあること

現在勉強していることはアメリカ手話と英語の点字です。アメリカ手話はひとつの言語であるということがようやく最近理解できました。アメリカ手話は、アメリカとカナダで200万人以上の人々の間で使用されている言語で、使用人口でいえば、アメリカでは4番目になります。もちろん、アルファベットは英語を基本としていますが、すべてアルファベットでコミュニケーションするわけではありません。たとえば name という手話は両手の人差指と中指を交差させ「X」という形を作ります。これは、以前、アルファベットを書けない人々が署名するときに「X]と書いたことが name の手話の語源となっています。文法も英語とは異なります。英語の語順はだいたい主語、述語、目的語ですが、アメリカ手話では主題とコメントの関係により変化します。冠詞、時制も英語とは異なった表現方法があります。where や why のような wh-question は最後に来ることもあります。疑問文は眉毛を上げることで疑問文となり、クエスチョンマークは必要としません。顔の表情も手話のひとつです。英語とアメリカ手話を比較研究することは英語を別の面からとらえられることにもなります。

 

英語の点字は、外国語ではなく英語を表現するひとつの手段です。しかし、多くの略字、略語が使用され、そのルールを覚えなければ点字で読み書きできるようにはなりません。たとえば、about という単語は a と b の点字を組み合わせるだけで about と読みます。アルファベット以外に、the を表すような点字も多くあります。こういった略語、略字を使用することにより、点字の読み書きのスピードがあがり、点字用紙の節約にもつながります。コンピュータの発達により、英文を英語点字に変換してくれるソフトウェアも存在しますし実際に私も使用しています。音声入力のソフトの性能が良くなれば、当然音声から点字へ変換してくれるマシンも登場するでしょう。

アメリカ手話は語学教育センターの課外講座で開講されています。あと3人程度余裕があります。ご関心のある方は是非登録してください。英語の点字講座は、来年4月から開講する予定です。

 

フラメンコについて

「フラメンコにはまるな」という言葉があり、いったんフラメンコの世界に入ると簡単に抜けられなくなるそうです。私もその一人です。セビヤナという曲を終え、現在アレグリアスという曲を練習しております。最初は運動不足を補うためでしたが、いつのまにか天理大学にフラメンコクラブを作るという夢に変わってしまいました。意欲は誰にも負けないつもりですが身体がなかなかついていきません。それでも、その夢から抜け出せずに何とか頑張っております。最近カスタネットの音「タリラリラ、タリラリラッタタリラリラ」がだせるようになりました。半年かかりました。感動しました。フラメンコダンスに関心のある方は是非研究室にお越し下さい。

 


小林早百合(こばやしさゆり)


 人は見かけによらない、それがささやかな私の人生で最初に身につけた人生哲学の一つであった。私は、物心つくや否やの子どもの頃から、凛々しいお坊ちゃんに間違われた(確かにショートカットで、冬はズボン姿が多かったが)。小学校ではクラス替えの度、運動オンチなのにクラスのリレー選手に選ばれて散々な目にあい(色黒の痩せ型体系が誤解のもと)、中学で高校生、高校で先生に間違われる(老け顔はともかく、制服がなかったのも非常に災いした)という人生を送った。見かけで判断されていい思いをしたことがなかった私は、ついに大学のESSの新人スピーチコンテストでこう訴えた。「人は見かけによりません。見た目にとらわれず、勇気を出して話しかけてみて下さい。せっかくのチャンスを逃さないで。」19年間蓄積した怨念のおかげか、このスピーチにはハートがある、という評価を得、めでたく1等賞は私のものとなった。(ここに「どんな経験もそれなりに意味がある」という新たな哲学を得たのだが、それはまた別の話。)

 私の人生を支えてきたこの一つの信念は、ある日、実にささいなことから覆される。

きっかけは、大学卒業直後のOL時代(通訳として採用されながら、ほとんどがお茶出し業務の秘書だった)の同期入社のサラリーマンとの、十年ぶりの再会であった。何の思い入れもないこの人物との再会には、何の感慨も覚えなかったが、その第一声に驚いた。「あれっ?整形手術した?」この失礼で不適切な(しかも事実無根な)発言に腹を立ててから数日後、久しぶりに自分のアルバムを開いた私は、子どもの頃から最近までの写真を並べて見て、驚いた。特に大学卒業後の、顔の変わり方が著しい。高校2年の夏以来、身長も体重もほとんど変化していないにも関わらず、である。そこに見える変化は、成長した、年をとったというレベルを超えていた。それは、結局その時々の私の状態が、単なる表情を超え、顔の作りすら変えてきたとしか説明がつかないのものだった。

 サラリーマン氏に会わなかった十年の間に、私は、それなりに楽しく充実していたOLの仕事をやめ、そこでどんな言語が話されているのかすら知らなかったオランダに行き、大学生となり、帰国して大学院に入り直した。再会当時は、修士論文に追われていたのだが、そうしたすべてが、自分にわからないうちに、しかし人にはそれとわかるほど、私の顔を変えていたのだ。それ以来、街中で、電車で、たまたま見かけた、数え切れない人の観察は言うに及ばず、また、縁あって、日常生活をどこかで共有する人との日々を通し、こう実感するようになった。瞬間に表れる表情は、ホンの一瞬のものなのに、その後ろにある心は消えずにそこにとどまり、その積み重ねが、1週間、1ヶ月、一年となって、まるで年輪のように、顔に刻み込まれ行くのだと。

 毎日の洋服、髪の色、アクセサリー。それが雄弁に語りかけることがある。ファッションは記号であり、装う本人が意図したことを表すと同時に、意識にのぼっていない意味すら、見る人に語りかける。従って装うことは、もちろん大切な自己表現であり、見かけの大きな要素となる。

ただ、洋服やアクセサリーや髪の色は瞬時に変えることが可能だ。一方、それをまとう私の顔、姿は、自分の日々の積み重ねを明らかに映し、気づかないほどゆっくりした、しかし確実なテンポで澱のようにとどまって、私そのものを変えて行く。自信のないうつむき加減の背中、期せずしてひそめた眉やつまらなさそうな唇、取り繕って浮かべた表面的な笑い。それらは瞬間に表れ、消えるかもしれない。しかし、その時々の生の感情、思いは、時の流れにも消えず、確実にそれをまとう自分自身になる。なんと恐ろしい、なんておもしろく素敵なことだろう。

 そんなこんなで、私は今こう考えている。誤解を恐れず言おう。「人は見かけだ。見かけにすべてが表れている」と。それはまだ道の途中にある自分自身への叱咤激励なのだが、これからどんどん変わっていく顔を持ったあなたへのエールになるかもしれない。ただし、見かけに何を読み取るかは、見る方の目にもかかっている。そこにあっても、見ようとする意思と力がなければ見えないものが、たくさんあるのだから。

 とすると、あなたの目に見える私はいったいどんな人間なのだろう。そして、私の目に見えてくるあなたは、どんな姿なのだろう。そう考えることも、恐ろしく、素敵なことだと私は思っている。

 


島田拓司(しまだたくじ)


専門はコミュニケーション学ですが、授業は主に英語1、2を担当しています。天理大学に来て3年目ですが、それまでは、いろいろな事をしていました。ここでは、私の職歴を紹介することで自己紹介に代えさせていただきます。

 

大学を卒業してすぐにアメリカの大学院に留学、帰国してからしばらくは、フリーで翻訳の仕事をしていました。フリーで翻訳というとかっこいいというイメージがあるようですが、実はフリーターと何ら変わらないわけで、生活を安定させるのは大変です。ある翻訳事務所を通じて、本田技研工業の狭山工場の作業工程マニュアルを日本語から英語に訳すことがメインの仕事でしたが、モデルチェンジがあると仕事が一気に増え、1日15時間労働も当たり前、起きている間はほとんど仕事をしているという状態でした。そういう忙しい時には月に100万円以上の収入を得ることができました。当時25歳の私にとって、100万円は大金です(もちろん今でも大金です)。ところが、こういうときは、本当に一時的で、大きな仕事が終わった後は、3−4ヶ月全く仕事がないという状態でした。他にいくつかの翻訳事務所から仕事をもらっていましたが、とても生活を安定させることはできなかったので、新聞の求人広告で見つけた英語の専門学校に応募して、専門学校教員になりました。入社?試験もあり、90分の翻訳の試験とTOEIC、それに英語圏出身の外国人教員8名の前で質問に答えるというものでしたが、何とかクリアできました。私の教員生活はそこからスタートしています。

 

その専門学校は、ファッション界で有名な文化服装学院と同じ法人が経営する学校で、奇抜な格好をした学生さんがたくさん通っていました。新宿駅から徒歩7分、都庁から5分という大都会の真ん中にあり、埼玉県大宮市から新宿への毎日の通勤はまさに痛勤でしたが、仕事を終えて帰宅する時に見る新宿の夜景がとてもきれいでした。

 

その専門学校は、学生数が200250人程度の小さな学校でしたが、教員の8割が英語圏出身者で、授業はほとんど全て英語で行い、研究室(職員室?)でも公用語が英語でした。今思えば、ここでいろいろな英語を見聞きし、生活で使う英語を覚えたような気がします。特に面白かったのが、アメリカ人とイギリス人の使う英語が誤解を招くほど違うことがあるということ。例えば、イギリス人が、I'll knock you up at 6 tomorrow morning.(明日6時にドアを叩いて起こすよ)という英語が、アメリカ英語では、(明日の6時にあなたを妊娠させるよ)という意味になったり、Can I borrow your rubber?(消しゴム貸して?)という英語がアメリカ英語では、ちょっと違った意味になるということ(興味のある人は調べてみてください)。

 

また、日本でもお馴染みのVサインのジェスチャーが、手の甲を相手に向けてVサインをすると、イギリスでは、非常に悪い意味になってしまうことなど、同じ英語圏でもずいぶん違うものだと感じました。

 

この専門学校では結局7年間お世話になり、その後、同じ法人の文化女子大学に移籍し、そこで4年間勤めた後、天理大学に移ってきました。

 

今考えてみると、自分の人生結構いろいろな事をしてきたなと感じています。実を言うと、アメリカから帰国した直後、2年前に自主廃業に追い込まれた某証券会社が国際業務拡大のため、100名規模の中途採用募集をしたことがあり、その入社試験を受けたことがあります。結局、最終面接で落とされてしまいましたが、もし合格していたとすれば、どんな人生だったのかなと思います。


中井英民(なかいひでたみ)



 ムムム、「Tulips」編集長から自己紹介文を今週中に提出せよとのきつい仰せあるものの、何を書けばいいのかさっぱり出てこん。(締め切りを迫られる流行作家の気分)それも「堅い話はだめよ、工夫しなさい」とは、そんなご無体な。只今、中井はあれやこれやで疲労困憊、バイオリズム最低。あれもせなあかん、これもせなあかん。いつものことながらパニック。器の小さい自分がいやになる。そこで自己紹介がわりの自己分析を一席。私は授業中よく次の話をすることがあります。人間には3つのタイプがあると思うのです。さてあなたはどのタイプ?別に高尚な心理分析の理論ではありません。まあ自己流 folk psychology といったところで、あてにはなりませんが。(臨床心理専攻の学生諸君、このいい加減な性格分類法の誤りを学術的に看破しなさい)では始めます。

 宿題でも仕事でも何でもいい、どうしても自分にしなくてはならないことが山積みになった時、人はどんな反応を示すでしょうか。これまで苦節20数年、同僚や学生を観察・分析した結果、私は人には3つのタイプがあることを発見したのでした。

 タイプ1人間:宿題、仕事の締め切りを遙かに余し、涼しい顔でこなしてしまう人。何でそんなに計画的にできるの?うらやましい。そんな秀才タイプいるでしょう?あぁ、あやかりたい、かやつりたい。でもこのタイプは本当はプレッシャーに弱く、それを隠すために早く済まさなくてはとの強迫観念を持っている場合が多い。結局は「生きるのがしんどい、もろいタイプ」。(と決めつけて、自分を慰めている私です)

 タイプ2人間:「締め切り?そんなもん、気にもならん」と本当にいい加減。締め切りで催促されても、あまりこたえない。「まあ、今さえよければいいさ」と、あまりプレッシャーにも感じない。ある意味無責任。でもいるんです、職場にも。(前の職場のことと、ことわっときます)フリーター志向の若者に多いかもしれません。教室で尋ねると、必ず一人二人このタイプだと手を上げる人がいて、妙に周りが納得するものです。

 さて最後に、タイプ3人間:(私はこのカテゴリーに入ります)気が小さくプレッシャーに弱い。いつも愚痴る。「あれもせな、これもせな」と度量が小さい。締め切りばかりが気になる。そのくせ基本的には怠惰です。結局、直前に取りかかる。しかし火事場の何とかで猛烈に一夜漬けする。英語では burn the midnight oil と言います。(自己紹介:私は教養部の英語教員です)何とかこなして一安心。でも短期記憶に優れたこのタイプは、何をやったかすぐ忘れる。で、また次の締め切りばかり気にしながら、ぎりぎりまで何もしない。あーいやになる。こんな自分を呪いたい。

 つらつら考えてみるに、一番生きるのが楽なのはタイプ2の人です。プレッシャー少なく一生を終えられたらどんなに幸せでしょう。でも、なろうと思ってもなれない。また私はタイプ1にも、なれないしなりたくもない。だって涼しい顔してても、本当は内心しんどい人たちだと知っているから。しかしそれにも増して、タイプ3人間は一番生きるのがへた、しんどい、醜い、中途半端。では、自分を含めたこんな人たちにアドバイス。パニックになった時、自分に合った呪文の言葉をかけましょう。私の場合、Take it easy. It's gonna be all right. (ジョン・レノンがよく言ってましたっけ)。何でもいい。ケセラセラ、明日は別の日よ。最近好きな言葉は「Every problem has a solution !」(「どんな困ったことにも解決策はある」とは、映画「フィラデルフィア」でトム・ハンクスがパニくった時に言う台詞)。ただしタイプ3の人だけ使ってね。本当にケセラセラの人がこれらの呪文を唱えると、ただの無責任にしか聞こえません。本当に気楽じゃないから Take it easy.、どうしようもないと思うから gonna be all right と言うのです。今日も私は自分に呪文の言葉をかけながら、次なる仕事の締め切りを呪っております。

 忙中閑あり、我が研究室の窓の外には図書館の大木あり。不思議な気分。私がここの学生だった20数年前、研究棟のあたりは野球グランド。図書館の大木の周りの芝生は、学生たちが座り、寝転がり、授業棟を眺めてる憩いの場でした。ここは今も昔も私の一番好きな場所。恋人達の場所でもありました。(遠くを見つめる私の目。昆布茶がほしい。私も老いたものだ)もうここに座る学生は皆無になりました。自分が一番みずみずしかった頃を思い出させてくれる環境にいる、これ以上ない幸せを噛みしめ、母校で働けることに感謝する私でした。

 自己紹介文になりましたっけ?(Will this do? )ねぇ、編集長?

 

自然科学研究室   ページトップへ戻る


曽山典子(そやま のりこ)


ニックネーム: てんちゃん

(典子の「典」が辞典の「典」ということで中学1年生の時に友人が付けてくれました)

趣味:バイクでツーリング(最近時間がなくてあまり遠距離には行けなくなりました)

コンピュータと戯れる(時間を忘れてついつい寝不足・・・)
ハイキング(だらだらおしゃべりしながら歩きます)
蝶のようにいろんな場所に飛んでいって、いろんな人と戯れる(浮気性なのかしらん)
音楽を聴く(本当はTVを観るのが大好きなのですが、いったん付けると途中で消すということができない性格のため、ここ10年ほど持たないで生活しております。ゆえに寂しいので、BGMとして常に何か音楽を流しているのです)

特技: 過ぎた事は後悔しない(たぶん記憶力がないのですぐに忘れるからでしょう)
なぜか周囲に優しい人が集まる(これでかなり我が儘な人格が形成されたと思います)

短所: 笑いがないと生きていけない(笑いがない会話が続くと寝てしまいます)

将来の夢: 珈琲しか出さない喫茶店のママか会員制おでん屋のママになりたい(忙しいとゆっくりとお客様とお話できないでしょ)
藤山直美の付き人になりたい(友人は影武者になれると言ってくれます)
世界一周貧乏旅行をしたい(バイクでテントかついで気の向くままに・・)

天理大の学生さんへのメッセージ:
人間無駄には歳を取らないものです(やっとこの歳になってわかってきました)
時間を忘れるくらい夢中になることを探しましょう(夢中になれるって気持ちいいでしょう)
パソコンは戯れる時間と比例して上達しますよ(騙されたと思って一日2時間戯れてみてごらん)
大学(施設&教員)を大いに利用しましょう(学費分しっかりと元を取ってね)


吉井恒雄(よしいつねお)

年を重ねると、過ぎ去っていったことを懐かしむものだ。これを老人という。

 思い返せば、この大学にお世話になった頃、「大学での研究は基礎研究」と決め込み、石炭の化学構造を解明しようと、あの地下の2階で、独りでで楽しんでいたのが、とても懐かしい。

 ある大学生の卒業研究を指導していたときのエピソードが思い出される。彼らがフッシャー・トロピッシュの反応を利用する実験を行ったところ、予期しない現象が起こった。それはオートクレープの攪拌羽根の表面に異常が起き、触媒を加えなくても異常に高い反応収率が得られ続けた時のことだった。この結果は何回繰り返しても同じであった。その本体は不明であったが、合成法は確立していたので、その物質を
Saecholと命名し、合成法を特許にするとともに論文として発表したところ、誰かが「魔法の羽根」と化学雑誌で皮肉った。ある企業がその特許に関心をしめし、研究室に来て貧弱な実験室とそのスタッフを見て、しばらく話をした後、こんな実験室で出来るはずがないと言わんばかりの手振りで“マユツバもの”と。

 そのことも今では一つの思い出だ。Saecholの化学構造は今なお不明のままである。そのうちにと思いながら年月が経過し、その間に状況も随分変わってしまった。もう今ではその物質を解明するエネルギーも、石炭の研究を再開する若き日のあのエネルギーも失くなってしまったが、今は感謝と無念のみが残っている。心から信頼し、敬愛できる友を与えて貰ったこと、こんな金のかかる研究でもやれたこと、いろいろなところに遊びがあったことを…。今ひしひしと感じている「研究は継続だ、そして余裕を感じられなくなった今は。」と言えば、あーあ、老人になったかなー!

 いや、そんなことはない。私には、大学の外に違った遊びがある。それはGMPが問題になり始めた頃からできた地域企業との関わりだ。地場産業の一つである配置薬の分析の相談だ。この仕事は大学の教育研究と違って、即結果が出るという点で面白い。また、「時は金なり」という企業家の姿勢にはついて行けなかった。我慢するのが辛かった。しかし、開発に協力した商品が製品化され、店で販売されているのを見ると、何か奇妙な自己満足を感じる。ここには燃えるものを感じる。この分野で自分の感性を生かし、後輩を育て、年を重ねるのも一つの生き方だ。「遊び」は自分にとって生きるエネルギーの源であるから。

私はもともと畑でからだを動かすのが好きだった。これも私の遊びだ。

 しばらく足を向けなかった田地の隣に、昨年ワンルームマンションが建った。これを契機に、田地に土を入れ畑に換えた。3分の1には野菜、残りには果樹を植える決心をした。この夏休みは、ツルハシで大きな石を掘り上げ、スコップで土をすくい、耕作の準備に、汗を流した。そしてこの初秋、この新しい畑に白菜、ニンジン、大根、ほうれん草などの種を蒔いた。雨不足のあとの大雨で新芽を出した植物は雨に洗われ、ほうれん草は腐って全部消滅。大根、ニンジンは根がピンポン玉のように丸くなって真っ直ぐに伸びていない。白菜は一株に二つの玉が育っている。なんとも不思議な現状である。植物は足音を聞いて育つと祖母から教えられた。それを信じ、鍬をもって、畑に向かう毎朝であるが、収穫するときには果たしてどんな姿の野菜が食卓に上るのやら。スーパーで買ったほうがはるかに安くて、楽だ。でもやめられない魅力がある。今植えた果樹は、何年か後にはきっと四季のおりおり果実を与えてくれるだろう。

 さらに、私には今一つ大事な遊びがある。海釣り。それもボートの上からの釣り。魚を釣るというより、育てていると言った方が正確なのかも知れない。いつか大きく育った魚が竿を曲げてくれるだろうと、毎月同じところへ通っている。最高の贅沢は、親船に引かれて、放たれたボートの上からの東の朝の空の色相と潮の香りだ。非日常の世界。そしてあすからの活力源だ。

年を重ねながら、私にはこんな独りだけの“あそび”を大事にしている。

辻佳代子(つじ かよこ)

 

趣味:音楽。ピアノ、ヴァイオリンの演奏。将来はチェロ、バンドネオンも弾けるようになりたい。
子供の頃なりたかったもの:ターザン、スーパーマン。
   (でも彼等の生活は疲れるだろうと思い断念)
今一番欲しいもの:自由な時間
すきな作曲家: ラヴェル、バッハ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、イザイ
すきな演奏家: グレン・グールド、マルタ・アルゲリチ、スコット・ロス、ヘンリク・シェリング


保健体育研究室    ページトップへ戻る

助教授 森井博之(もりい ひろゆき)

  天理幼稚園、天理小学校、天理中学校、天理高等学校、そして天理大学、オール天理の学歴を持つ天理大学の教員は、少ないのではないでしょうか? それが私です。

 
天理大学に奉職して早13年、気が付けば年齢も42歳を越え中年の域に達してしまいました。42歳は厄年といいますが、目まぐるしい忙しさで走り抜けた30代を振り返ってみて、年齢的な衰えを少し感じる今日この頃です。

  最近、私が大学院時代にアルバイトで水泳を教えていた教え子から、突然手紙が届きました。大学院の学生時代、学費と生活費を稼ぐために小学校低学年や幼稚園児に水泳を教えていた私ですが、気が付けばあれからもう18年、その子は立派に成人して社会人になったとういことでした。先生、覚えていますか? 私も両親もずっと先生のことを忘れずにいます。年に一度は家族で先生の話をし、先生がオリンピックの飛込で活躍しているのを遠くで見て応援していました。」という内容の手紙でした。

  その当時、水泳を教えていた子供達と一緒に撮った数枚の写真があるのですが、それを久しぶりに見返して見ました。確かに記憶はあるのですが、残念ながらいったい写真に写っている子供のどの子が手紙をくれた子なのか思い出せません。

  もちろん、返事は出しました。しかし、そういった訳で、手紙での再会を喜ぶというような力強い内容とはほど遠いものになってしまいました。それくらい私にとっては、大学院時代が遠い昔の話になってしまっていたのです。

  このことは、当時大学教員になる事をひたすら夢見て、勉強とアルバイトと飛込の練習に明け暮れていた私の姿を久しぶりに思い出させてくれました。本当に若かったなあ。

  ずっと前ばかりを見て走って来た私ですが、そろそろ後ろを振り向くゆとりを持つべき年齢に達したのかもしれません。少し肩の力を抜き、ペースを落としてゆったりとした教員生活を送ってみようかなと思っています。

藤猪省太(ふじいしょうぞう)

 

 天理大学を卒業してはや28年、そして50歳になり、時の流れの速さを感じさせられる年齢に達したと思う今日このごろです。

 常に前しか見ない性格ですが、もうそろそろ過去も少しは振り返りながら前向きに人生を送らなくてならない年齢であることも自覚し、良い仕事ができるよう努力しようと思っています。

 天理柔道にあこがれ強くなりたい一念で、高校から天理にお世話になり大学卒業までの7年間柔道中心に学び、卒業後、18年問は天理を離れ色々なことを私なりに経験してきましたが、やはり柔道を中心に多くのことを学ぷことができました。

 そして、天理大学に奉織して10年になりますが、柔道以外で多くのことも学びますが、柔道に開連することで学ばせられる印象はやはり強く、柔道家であることを常に自覚させられます。

 今後も柔道中心に学んだことを例えてながら教員生活に生かし、人生勉強をしていきたいと願っています。

 私は教員でありますが、柔道家であり教員であると思っています。

 今後も柔道のことを中心に学び、柔道家であり教員である気持ちで天理大学にあったアドパイスを学生にしていきたい。

 趣味は、柔道、読書(特に歴史書、歴史小説)です。

趣味も広げたいと思っています。


細川 伸二(ほそかわ しんじ) 

専門は柔道

 1960年1月2日  兵庫県出身

 

 天理大学に奉職してからすでに14年が経過しました。その間、1年間の在外研修と4年間のJOC出向という格別の配慮をいただき、今日を迎えています。常々、好きな柔道とやり甲斐のある仕事に恵まれ、非常に充実した日々を送っています。

 学生時代はこの天理の地で柔道に明け暮れ、「いかにすれば強くなれるか」「チャンピオンになるためには」といったことだけを考えて日夜稽古に励みました。振返ってみますと、決していい学生ではなかったように思います。しかし、柔道という自分にとっての生き甲斐があり、「チャンピオンになりたい」という大きな目標があったからこそ、苦しい稽古や規律のある寮生活に耐えることができ、そして、学生生活を充実したものにすることができたと信じています。もちろん、「もっと稽古していたら」「もっと節制して勉学もやっていたら」等々、後悔することも数多くあります。けれども、「1つのことをやり遂げた、あるいはやり遂げている」という達成感と満足感の方が大きく、これからも目標に向かって猪突猛進していきたいと思っています。



教職課程研究室     ページトップへ戻る

いま、こんなことをしています

赤塚康雄(あかつか やすお)


 論文作成と採点で苦闘しています。時間がありません。申し訳ありませんが、最近の新聞記事を通して、いまこんな仕事をしています、という意味で自己紹介にかえさせて戴きます。

痛々しい肉声収録

国民学校の証言集を出版

(埼玉新聞20001114日)

 太平洋戦争中や戦後、統廃合などで消えた大阪市の国民学校(小学校)の実態について関係者数百人に取材、まとめた証言集がこのほど出版された。

 この本は赤塚康雄天理大教授(日本教育史)がまとめた「続 消えたわが母校 なにわの学校物語」(つげ書房新社)。

 五年前に出版した証言集の続編で、今回は写真や証言で四十八校を紹介。満州開拓団に加わった少年の体験談や、体力づくりのためと女生徒が上半身裸で運動場を行進させられた訓練の様子など、痛々しい肉声でつづっている。

 同教授によると、国民学校の記録はほとんどなく、所在地すら不明となっているケースも多い。戦時下の学校の悲惨な状態を知る上で、貴重な資料となりそうだ。

 終戦直前の一九四五年春、市内に二百七十七校あった国民学校は翌春、百八十八校に激減。特に軍需工場や港湾施設が集中した港区の空襲は激烈で、多くの学校が再開できないほどの甚大な被害を受けた。

 学校ごとに割り当てがあったためか、教師による「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」への強引な勧誘もあった。帰れなかった子どもが多い一方、捕虜になったり野戦軍に加わるなどして命を永らえ、五〇年代になり、ようやく帰国できたとの証言も。

 赤塚教授は「証言者の多くは高齢者。取材半ばで亡くなる人もいて、あせりながらまとめた。痕跡すら消えた学校の同級生同士が連絡を取り合えるきっかけになれば」としている。

---------------------------------------------------------------

(追記)戦後教育改革の資料探索に国会図書館へ通っていた青年時代、恩師から夜は図書館は開いていないだろう、折角の東京の時間が勿体無い、夜は改革に関わった人物を訪ねなさいと指導されました。改革を推進したかつての教育刷新委員の南原繁、天野貞祐、城戸幡太郎各氏や田中耕太郎、日高第四郎氏ら文部省の元高官からうらばなしまで聞くことが出来、研究の財産になったことを思い出しています。若さゆえにやれたこと、いまからだったらできるかどうか。そのときの方法論がこの年齢になっても生きているようです。学生諸君、ゼミの教師から人生の指針を得ておくことも必要かと思います。

 

 

千原雅代(ちはら まさよ)

 

 *都合により非掲載

 

伊藤和男(いとう かずお)

 

神田さん(写真右)も私も、戦後のベビー・ブームの頃に生まれた「団塊の世代」。どう数えるのかは知らないが、現在の人口のうち800万人ほどがこの世代にカウントされている。何をするにもずいぶん競争の激しい世代で、おたがい押し合いへしあいしながら生きてきた。大学に入ったのは1960年代の終わりころ。ちょうど経済の高度成長のピークが重なって、大学がはっきりと大衆化していく時期だった。いまではもう死語になったようだが、そのころはまだ「五月病」ということばが生きていた。それまで程度の差はあれ大人たちが敷いたレールの上を走ってきた高校生が、大学に入ったとたん、今日からおまえは自由だ、といわれ、何の準備もないまま唐突に自由という重荷を担わされるはめになったことからくるストレスに悩む症候群のことだ。そのころの学生のファッションで覚えているのは、大きなショルダー・バッグ。たぶん重い本が何冊も入っていたのだろう。いま振り返れば、何か重りがなければフワフワとどこかへ飛んでいきそうな自分を現実につなぎとめる重石のように思えてくる。私もまた人並みに大きなショルダー・バッグを、どこに行くときも手放さなかった。そのバッグの中身が頭に入ったかどうかは定かではないが、重いものを歩いて運ぶ体力だけは確かについた。それに比べていま学生をしている皆さんは、いかにも軽やか、しなやかだ。すくなくとも、「自由という重荷」などに悩む自意識過剰の事大主義とは無縁に見える。

大学は教育学部に入ったのだが、確かなことを学びたかったので歴史(教育史)を専攻することにした。「授業をしているのではなく、大学の軒先を借りて塾を開いているのだ。」と広言していた指導教官のゼミは、2時半から始まって8時すぎまで続くのが普通だった。ある日、風邪でゼミを休んだら先生から電話がかかってきた。熱は何度ある、と尋ねられたので、37.5度は超えていた体温計の目盛りを答えたところ、それぐらいで休むなら大学を辞めてしまえ、と叱られた。どれもむちゃくちゃな話のように聞こえるだろう。でも、大学の先生はどこか取り澄ましたタイプが多かった時代に、こんな先生と出会ったことは生涯の幸いだったと思っている。テーマをもって研究するようになってからつくづく思い知らされたのは、自分の視野の狭さだった。自分では精いっぱい正確かつバランスのとれた見方をしたつもりでも、まったく違った視点や発想からその偏りを指摘されたりする。また私が切り取った歴史上の現象は、それとは一見無縁に見える他の分野の出来事と深いところでつながっており、その関わりを解きほぐさないと、部分的には妥当な分析であっても、全体から見れば一面的でありうるということに気づかされたことも少なくない。ひとことでいえば教養の不足である。これは単に研究生活に限った話ではない。計量的効率性を重視する産業社会では、そもそも計量不能で、しかもいつ役に立つかもはっきりしない(もしかしたら一生役に立たないかもしれない)「教養」は、これまでのどの時代にもまして不人気である。あるフランス人のように「教養とは、あらゆる知識を忘れ去ったあとになお残っているもの。」などと禅問答のようなことを言われると、よくは分からないがとりあえずは敬して遠ざかっておこうという気にもなろう。だがしかし、いま自分の目の前にあるリアリティ、自分の世界にこだわることが、自分の外にも別の世界が広がっており、そこにはまた別のリアリティがあることに対する想像力の欠如につながるとすれば、私(たち)は、かつてプラトンが「洞窟の比喩」を用いて憐れんだ魂の奴隷の世界で、勘違いしたまま生涯を終えることになる、と自戒している。



図書館学研究室 ページトップへ戻る

山中秀夫(やまなか ひでお)

 

 「Tulips」目下最大の目玉・大型連載記事「教養部所属教員・私を語るシリーズ」の最終回を飾る(?)原稿締め切りが遠に過ぎ,西国あたりに逃亡していましたが,編集長様より複数のメール・アドレス宛に同時にでかい赤丸印の「督促メール」を頂戴し,ついに観念,徒然なるままにつたない文章で失礼します。

 

担当と部屋:

 図書館司書課程および学校図書館司書教諭課程のいくつかと「コンピュータ入門」。いつもは研究棟北棟3階南向き独居室(日当たり良好,会議室直近,廁牀やや遠方)

 

成立過程:

 生まれは河内ですが,小学2年から天理に住み,高校1年から桜井に移住,なぜか入れた大学の4年間は東遷,あっという間に時が過ぎ,Uターンして天理大学に奉職。はじめは大学図書課に在籍,2年で天理図書館に配置換え,木星1周12年が過ぎて再び大学に舞い戻り現在の場所にやっと3年おります。

 

性格:

 自分で申告するのであてにはなりませんが,一応…。血液型A型のキャッチフレーズとして(大学時代の恩師のマネで),「謹言実直質実剛健,日本を支えるA型」。自分でも感心する性格は,「Optimist」であること。よい面で機能すればいいのですが,悪い面で機能すると朽索にすがってずるずると…。でも,結局は忘却の彼方へ。

 

雑を大切に:

 何かを分けようとするとき,(例えば新聞の切り抜きやコピーであったり,図書であったり)項目として作っておけば大変便利なのが「雑」という項目です。多くの図書館で資料をその内容によって分類するときに用いられている「日本十進分類法」にはありませんが,近い項目はあります。この「雑」という項目に入るモノには,なにか楽しげな,ワクワクさせる魅力を感じます。何かに依らない,分けきらない,しかし単独で魅力的な何かを持っている,とてもいいと思いませんか? 「雑」をつかった言葉として,昔からお世話になっている「雑巾」,みんな本当は大好きな「雑言」,コンビニでも人気のある「雑誌」,いつも不思議な発見がある「雑書」,そして「雑学」など。字書(漢字源)によると,「雑」には,「いろいろなものがひと所に集まって入りまじる。入り乱れる。集めていっしょにする。」という意味があります。また違う字書(新字源)によると,「いろいろのいろどりの糸を集めて衣を作る,ひいては「まじる」意をあらわす」とあります。

 「雑」は総体として不思議な何か(チカラやイロ?)を発揮しますが,それを構成する個々も各々不思議な何かを,小さいけれども他とは違った何かを本来は持っていると思います。それらを個々が磨けば必ずその総体も磨きがかかって,より一層何かを発揮することになると思います。

 

 いろいろなひとが寄り集まって様々なグループが構成されます。その中で交流(コミュニケーション)すること,お互いをこすり合わせることで自然と磨かれていくモノもあると思います。これからも大いにいろいろな人と交流したいと考えています。

 

 最近のマイブームフレーズに,金子みすずの「わたしと小鳥とすずと」の一節,

  すずと、小鳥と、それからわたし,

  みんなちがって、みんないい。

 

 自分とは違うみなさんと,雑の一人として私も‘ひたすら’,何かを見つけて磨かねば思う,今日このごろ……。

 

            朽木糞牆といわれる前に,不惑男の密かな自戒を込めて……

                                              yamanaka@sta.tenri-u.ac.jpでした。

 


吉田憲一(よしだ けんいち)

 

 もう10年近くも前になるが,1992年秋に13回構成のテレビ番組「はじめてのパソコン」がNHKでスタートした。全国的なパソコン人気が,放送界でもこんなにまとまった入門シリーズを実現させたのだろう。講師を担当された教育工学が専門の赤堀侃司氏は,最初の回に「読み・書き・パソコン」と語られた。そろばんの現代版,道具としてのパソコンがもつ役割が印象的な番組であった。

 また出版界では,最新情報を提供してくれる新聞に「週刊読書人」がある。この雑誌が,新しい世紀の第1号で「パソコンと新書」(「新書にはパソコンがよく似合う!」)を特集した。実際,90年代に入ってパソコンを使った情報の整理や組織化に関する図書が,新書等で次々と刊行された。今までになかったことである。その中では,時間軸を整理の基本とする『超整理法』(野口悠紀雄著 1993 中公新書)や,昨年秋にNHKの「クローズアップ現代」にも登場して立花隆が一方的な非難を浴びせた(文藝春秋200012月号)『捨てる!技術』(辰巳渚著 2000 宝島社新書)がパソコン時代に乗じてベストセラーになったりした。いずれも「整理技術」を個人の体験に置き換えた勝手な解釈で,読者の危機感に訴えた皮相的な興味をそそる内容,とてもこのテーマにきちんと取り組んだ本とは思えないのだが,ミリオンセラーを達成している。パソコンやインターネットが時代のキーワードとなり、膨大化する情報の洪水を交通整理することに社会の眼がむけられてきたことによるのだろう。私の研究分野は図書館情報学だが,このような時代にあって、様々な情報を適切に整理・組織化して,きちんと主題検索できるシステムに興味をもっている。

 次に私の趣味の将棋界では,といってもここ10年くらいは人との対局をしたことはなく,もっぱらパソコンとの対戦なのだが。この世界には「竜王」という最高のタイトルがある。お茶の間のコマーシャルにも登場して,皆さんも名前だけはご存知かと思うが,羽生善治五冠王が挑戦者となって,藤井猛竜王に挑戦したタイトル戦の第1戦が,昨年10月に上海で行われた。この上海では,子供達に将棋が人気になっていて,小学校の教科に採用されている学校がいくつもあるそうだ。大阪府でもそのような話があるようですが。またゲームの種類は異なるが,韓国では囲碁が少年少女に大変な人気で,囲碁のチャンピオンはヒーロー扱いされているそうだ。一方,ヨーロッパで人気のチェスは,囲碁や将棋に比べると,一手の自由度が極めて小さいこともあって,IBMのスーパーコンに,世界チャンピオンが負けてしまった話題が,数年前,新聞紙面を賑わせた。しかし本当にコンピュータは世界チャンピオンに勝つほどに世界最強の力をもっているのだろうか。現在のノイマン型コンピュータには,必ずしもそのような能力はないようで,この世界チャンピオンに勝ったコンピュータが,彼より少し弱い相手に勝つかというと,そうはいかないようです。しかし新世紀に入って経験獲得型の新たなコンピュータが出てくれば,さらなる飛躍が期待される。人間のチャンピオンなどとても相手にならなくなるのであろう。楽しみなことです。

 一方,将棋や囲碁の世界では,残念ながら実力はまだまだだ。5年位前までの将棋の実力は,アマチュアの4・5級程度だった(それでも結構な実力ですが)。ところが,今や毎年行われるコンピュータ将棋選手権の出場者(ソフト作成者)も急増した成果として,昨年優勝したソフト(現役東大生らが制作した「東大将棋」が昨年優勝した)の実力は,アマチュア2・3段位の腕前をもつまでにアップしてきた。詰将棋に至ってはプロ顔負けの実力である。こんなこともあって,プロの将棋界にも数々の話題を提供している。先の竜王戦の前夜祭では,竜王や五冠王が,コンピュータが将棋のチャンピオンを越える日が何時やってくるのか話題にされていたとのこと。

 将棋のようなゲームは,物事を論理的・系統的に考えていく(つまり情報を整理・組織化する)力を磨いてくれるのではないかと思っている。ゲームの対戦では、ひとつの目的(相手の玉を詰めること)を実行するにおいて,そのプロセスでは、様々な考え方は自由にできるが,必ず結果からの厳しい「返礼」(敗戦)を受けることになる。つまりその考え方や発言の責任を,結果から厳しく問われることとなる。近年,一方的で無責任な発言が一人歩きして、結果の責任が問われないことが多い現代社会への挑戦とも言える醍醐味が大変に面白いと思っている。

 情報の組織化や図書館情報学に興味を持つ方,将来,図書館員になってみたい方,あるいは,(パソコン)将棋に興味のある方,研究室をお訪ね下さい。研究室は,研究棟3階の354室ですが,共同研究室(370)にいる方が多いかと思います。