寮生活を通してみた日本の社会構造について

本稿は1996年度の『地域研究方法論』の科目のレポート課題として書かれたものを、Tulipsのために構成し直したものです。

国際文化学部日本学科 3年 呉 瑾(ゴ キン)

 1994年春から95年春までの一年間、私は大学の女子寮に住んだ。それは学校以外でも日本人との触れ合いを多くするためであった。この女子寮は天理大学で唯一留学生を受け入れ、35年の長い歴史を持っている寮である。当時、留学生が20名、日本の学生が50名ほどいた。私は、集団生活が日本を理解する一つの道だと思い、観察しながら暮らしていた。入る前に、日本社会などについて少し勉強しておいたが、本の中の知識は現実では全く使えなくなってしまったのであった。
 寮は先輩、後輩にまずしっかりと分けられ、これに大変驚いたため、ここを出発点とし、日本の社会階層を調べようと思いついた。このような寮制度と管理の仕方はこの寮だけであろうか。それとも日本社会全体を反映しているだろうか。

寮生活と日本の階層意識

 寮は先輩、後輩の秩序がはっきりしている。先輩には敬語や丁寧な言葉を使わなければならない。小さな組織でありながらも、寮則や運営体系がある。役員を投票で選んでいる。社会の縮図を見ているようだ。しかし、あるところはあまりにも区別が強すぎて、私にはなかなか理解できなかった。
 例えば、食事をするとき、一、二、三年生は手前にある二つのテーブルしか使えない。一番奥にある食器棚に一番近いテーブルは4年生専用になっている。同じ食堂で同じ食べ物を食べているのに場所はなぜ分けないといけないのだろうかとずっと不思議だった。そしてお風呂は共同風呂である。そこにもきちんと決まっている場所がある。同じお湯の中に入り、どこが違うのだろうか?これらの現象は日本では普遍的であろうか?日本社会とはどんな関係があるのだろうか。

初めての寮生活

 寮に入る前に寮規則が厳しいとは聞いていたが、自由を失うほどの厳しさには大変驚いた。それには個人の信仰も関わっていた。寮は天理大学の女子学寮でありながら天理教信者の拠点でもある。日本人学生の入寮条件の一つは天理教信者であることだ。しかし、留学生達は信者である人とそうでない人がいるにも拘わらず、最初の一週間は毎朝集まって先輩のあとについて「朝づとめ」をしなければならなかった。これは皆差別なく、集団で活動すべきだから、ということであったが、疑問だったので答えてくれる人を探した。
 まず在寮の先輩、いわゆる二年次以上の学生にインタビューをしたが、誰もはっきりとは答えてくれなかった。大体が「どうだろう?」「分からない。」「普通じゃない?」「もう慣れた。」というような答だったので、チャンスがあると先生にも聞いてみた。先生は「集団生活には一定の秩序がなければ管理がしにくいし、学生達に対しては責任があるから、何かあったら、責任が大きい」などと説明してくださった。しかし、このような答は私の疑問とあまり関係がなかったため、満足できなかった。
 もし、これが「普通」だとすれば、日本社会もこのように見えるのではないかと思った。そして、もし日本社会のあり方が分かっていれば、この寮の現象も解明できると思い至った。「社会構造は日常生活の現実の本質的要素をなしている(長島信弘『日本の社会関係』p.185)」からである。そこでいくつかの本を読んでみた結果が、変わらない日本社会のタテ組織や場を強調する点、リーダーのあり方などである。あとで考えてみると、これらはみな私が生活していた寮にあてはまるものだった。

変わらないタテ組織

 戦後、日本人の生活形態は衣食住に見られるように、変わって来ている。しかし、日常の人々のつきあいとか、人と人とのやり取りの仕方においては、基本的な面ではほとんど変わっていないと指摘したい。寮においては、上、下級生の根強い区別があり、その他の分野にも同一集団内における上下関係の意識はあらゆるところに顔を出している。
 日本人は人と人との関係を何よりも優先する。これは宗教的ではなく、道徳的である。すなわち、対人関係が自己を位置づけるものさしとなり、自己の思考を導くのである。そのうえ、天理教は「親神」という抽象的なものを媒介として集団が成立しているので、いっそうこのタテ関係が貫かれている。寮は天理教の一部でもあるから、ことにこのタテ関係が保たれているのである。

場を強調する日本社会

 社会集団の構成要因は「資格」と「場」だと言われている。すなわち、集団構成の第一条件が、それを構成する個人の「資格」の共通性による場合と「場」の共有による場合がある、ということである(中根千枝『タテ社会の人間関係』p.30)。そして、日本の社会集団は場を強調する。日本人が外に向って(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは資格よりも場を優先するということである。ここではっきり言えることは、場、すなわち会社や大学などの枠が、社会的集団構成、集団認識に大きな役割を持っているということであって、個人の持つ資格自体は第二の問題となってくるということである。この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社、官庁、学校などを「ウチワ」、相手のそれを「オタクノ」などという表現を使うことにも現われている。
 寮を例としてみよう。大学にはいくつかの寮がある。それらの寮と並存しているこの女子寮は、まず一つの集団である。各寮の寮長は互いに自分の寮を「ウチの寮」と呼び、別の寮に対しては「オタクの寮」と呼ぶ。そして寮の中でも、本館と別館、学年と学年、同級生の間もがいくつかの集団に分かれ、集団と集団の間は互いに間隔をあけている。集団はグループでいるとき、他の人々に対して、じつに冷たい態度をとる。相手が自分たちより劣勢であると思われる場合には、とくにそれが優越感に似たものとなり、「ヨソモノ」に対する非礼がおおっぴらになるのが常である。

日本的社会構造のリーダー

 このように、個人は集団に属する。小集団が大集団に属する。そして結局、社会は底辺のない、大きい三角形のタテ集団になる。この集団においてリーダーの交代は非常に困難である。また、リーダーは常に一人に限られる。この構造では二人以上の者は決して同列、あるいは同位置に立てないのである。三角形の底辺がない、あるいは一見あるが如くに見えても、その関係がほとんど機能を持たない。一旦リーダーがいなくなると、集団が崩れる可能性がある。
 日本のこの、タテ構造を持つ集団組織においては、リーダーシップというものは非常な制約を受ける。リーダーは大変権力を持っているように思われているが、実に権限を制限される点が多い。その原因の一つはタテ集団の構造では、リーダーはすべての成員を直接ではなく、大部分リーダーに直属する幹部を通して把握していることである。これらの幹部成員は、ある意味でそれぞれの支配下にある成員の利益代表的存在であるから、お互いに相当緊張した力関係が生じる。さらに、リーダーと直属幹部成員との関係は(その他の成員のすべてにも共通した関係であるが)「タテ」の直接的人間関係であり、それによって招来されるエモーショナルな要素に支えられている。行動の決定は、直属幹部の力関係、リーダーとの人間関係に左右されることが多い。
 このリーダーの資格とは何であろうか。リーダーは「タテ」の人間関係を前提とした構造の頂点にある人に限られる。どんなに権力、能力、経済力を持った者でも、子分を情的に把握し、それによって彼(女)らと密着し「タテ」のつながりを持たない限り、良いリーダーにはなれない。天才的能力よりも人間に対する理解力、包容力を持つということが、何よりもこの資格である。
 日本は敬老精神がすぐれている国である。言い換えれば老人の天国である。能力があるかどうかを問わず、その道の権威と称され、肩書きを持って権力を使うのがリーダーである。そのようなリーダーがいるかぎり、どんなに能力を持っていても、その他の人は名実ともに輝かしい活躍をすることは出来ない。しかし、その人たちも欲求不満に陥らず、かえって多くの場合、喜々として仕事に従事する。これはやはり序列を守り、人間関係をうまく保っていくという意識を持っているからであろう。

終わりに

 女子寮での生活はフィールドワークと言えるようなものではなかったかも知れないが、とても興味を持っていた日本の上下関係などの研究の良い例になるのではないかと思った。暮らしているうちに、資料を調べて理解できなかったところもだんだんはっきりして来た。ここではまだ表面的にのみしか日本の社会構造を把握できていない。どうしてこのような構造が出来ているのかといった歴史的考察や、日本人の民族性などとはどういう関係を持っているのか、などを今後の課題としたい。