教養部解体と憲法研究者の独り言

社会科学研究室 浅川千尋

 

  この3月をもっていよいよ教養部は解体する。 チューリップスでもすでに吉井先生(200145月号)、榎本先生(20011112月号)によって、教養部の歴史やポスト教養部の教養教育のあり方について、熱く語られている。

  これらの諸先生方とは、世代を異にする若手中堅教員(?)の代弁者として、教養部解体にあたってなにか書かせていただくことにした。 編集委員の特権(?)をフルに利用させていただいたのであり教養部の皆さんに感謝したい。

 教養部解体が「大学改革」の効果の1つであることはいうまでもない。 それが大学内の正規の手続を経て、教養部も含めて大学が自らの意思として決定したのだから、教養部解体には、形式的には正当性がある。 憲法研究者としては、憲法23条、学校教育法59条などに根拠づけられる「大学の自治」に基づいて大学が決定したのであれば手続上の問題はないといわざるをえない。 したがって、形式的には教養部解体に異を唱えるつもりは毛頭もない。 要は、ポスト教養部解体をどう考えていくのかが、すなわち教養教育をどうしていくのかが今後の重要な課題であろう。

  ここで、筆者が身を置く法学界に目を転じてみよう。そこでは「司法制度改革」が行われようとしている。 その詳細は省略させていただくが、改革の目的の1つには、国民・市民に開かれた司法制度を創造することがある。 たとえば、裁判員という市民から選ばれた素人裁判官が、職業裁判官とともに裁判を行う、ということも提案されている。 また、弁護士をはじめとする法曹人口を増加させて国民・市民が利用しやすい司法制度にすることが目指されている。 段階的に司法試験の合格者は、増加させられていていまは毎年1000人にものぼっている(以前は500人程度であった)。これを3000人まで増やすことが決定されている。 

 

  「司法制度改革」と「大学改革」、どちらも「改革」であるが、現行のそれはその目的がだいぶ違うような気がする。 「大学改革」には、国民・市民に開かれた大学を創造するというような視点はきわめて弱いといえるのではないか。18歳人口の減少、大学のサバイバル、自己点検・評価、学生サービス、市場原理の導入、などというタームが並んでいる。そこでは、原理的な意味で「大学」を問い直す発想が欠けているといえる。  

  同世代の知り合いの憲法研究者の言葉を紹介しておきたい。 筆者もこれに同感する。「われわれは、戦争を知らない世代といわれたベビーブーム後の世代である。大学紛争のあとの挫折感と無力感が広がりつつある時代風潮の中で、われわれの世代はシラケの世代だとも呼ばれた。 燃え上がるような情熱で社会を改革しようとしても、結局何もできないことを切実に感じられた時代である。」(松井茂記『日本国憲法』1999年有斐閣、4頁)

  「シラケ鳥飛んでゆく南の空へ、みじめみじめ」なんていう歌が流行った時代に学生生活を送っていた世代である。 でもわれわれの世代は、ベビーブーム世代(団塊の世代ともいわれている)とは異なって、「さめた目」で世の中を眺めていた分、客観的に冷静に物事を洞察できたかもしれない。 われわれの世代は、通説とか常識とか権威とかをそのまま受け入れるのではなく、一歩下がって「さめた目」で眺め、相対化して把握できるのかもしれない。  足りないのは、「情熱」、「怒り」であろう。「怒り」を「情熱」に変え、かつ客観的冷静に何事にも取り組んでいくことが、筆者の世代には求められているのであろう。 

   教養部解体にあたって、憲法研究者の独り言を述べさせていただいた。 最後に、教養部のみなさんには心から感謝したい。11年間、好きなことを言わせていただき、若輩者・未熟者の批判にも忍耐強く耳を傾けていただいた先輩の諸先生、また同世代のみなさん、若手のみなさん、本当にありがとうございました。

 
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