天理大学教養部発行キャンパス情報誌チューリップス
Tulips
-Tenri University Liberal arts Information Press with the aid of Students-
特集:Fフォーラム第4回講演会
(講演録全文)
セクシュアル・ハラスメント
−フェミニスト・カウンセリングの視点から
フェミニストカウンセリングとは
女性は二級市民?
社会を変える、自分を変える
セクシュアリティと性暴力
何がセクシュアルハラスメントか
セクシュアルハラスメント被害者のPTSD
PTSDの3症状
PTSDが人格を変える
男が作った強姦神話
抵抗の難しさ
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日 時:1999年6月8日(火曜日)16:30〜18:30 |
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場 所:24A教室 |
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講 師:井上摩耶子氏(ウイメンズカウンセリング京都) |
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録音テープ文字起こし:石川和美氏(人間学部宗教学科卒業生) |
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2000年7・8月合併号
(第7巻第3号、通巻54号)
Fフォーラム世話人より:本講演は1年以上前の1999年6月に開催されました。当初このような形で文字にする予定はありませんでしたが、今年になって講演のテープを聴いた石川氏がボランティアで文字起こしをしてくださいました。その労に報いるべく私たちは本稿をTulipsに発表する方向で検討し、講演者の井上氏に連絡を取ったところ、井上氏も快諾してくださり、さらに多忙な中、丁寧な校正を返してくださいました。あらためて両氏に感謝します。
皆さんこんにちは。ウイメンズカウンセリング京都の代表をしている井上といいます。今日は「女性と暴力」っていうことなんですが、セクシュアルハラスメントに焦点を当てて、私が実際にやっている活動からのお話ができたらいいなあと思っております。
まずはフェミニストカウンセリングっていう言葉から、「何かわからない」っていう方が多いと思うんですけれども、これは「フェミニズム」+「カウンセリング」です。
日本ではまだほとんど社会的に認知が無くて、こういう大学などでフェミニストカウンセリングがあるところは無いですね。それでだいたいはプライベイト、うちも私立のカウンセリングルームですけれども、プライベイトなフェミニストカウンセリングルームが全国で15カ所くらいあると思います。その他に女性センターが、このごろ男女共同参画社会を目指してっていうので、いろいろな行動計画を作っていますけれども、例えば京都府は「女性センターの相談窓口にフェミニストカウンセラーの配置」って書いているんですね。それでうちのスタッフも、大津とか箕面とか福知山とか亀岡とかの女性センター、あるいは行政の女性相談っていうところでカウンセリングをしています。そういうことで、まだまだ社会的認知がないですね。
フェミニストカウンセリングというのは今言ったように、「フェミニズム」+「カウンセリング」で、「フェミニズム」は20世紀の初めに女性解放運動ですけれども、私たちの先輩の女性たちが、参政権運動ですよね、そこから、職業、教育の平等を求めて運動してきました。これが私の言葉では「男女関係の社会的な対等性・平等性」を求めた第一波フェミニズム運動です。第二波フェミニズム運動は、1960年後半から70年の学園紛争、アメリカではベトナム反戦運動とか公民権運動が非常にもりあがった時に起こったフェミニズム運動ですね。日本ではウーマンリブと言われて、あまり草の根のレベルの女たちまでを組織した運動にいたりませんでした。マスコミなんかの報道も非常に揶揄的っていうか、一部の過激なうるさい女が集まってギャーギャー言ってるみたいな感じで終わってしまったんですね。そのことが今、非常に不幸だったろうなと思うんです。なぜ不幸だったというと、このセクシュアルハラスメントあるいは強姦、あるいは小さい時からの近親姦、父親から娘への強姦ですね、あるいは児童虐待、それからドメスティックバイオレンスと言っていますが夫・恋人からの暴力、こういうものの被害者のサポート活動っていうのは、どうみてもアメリカ・ヨーロッパから2、30年遅れですね。今やっと日本では、そういう性暴力が女性への人権侵害だっていう認識にいたったところ。だけど特にアメリカではこの第二波フェミニズム運動の中で、女たちは強姦救援センター、ドメスティックバイオレンス(恋人・夫からの暴力)のシェルターをつくってその中で、被害者を治療するカウンセラーやあるいは精神科医、そうして裁判を支援するというふうな活動が非常にもりあがったんですね。この第二波フェミニズム運動の中からフェミニストカウンセリングも生まれました。
第一波フェミニズム運動も第二波フェミニズム運動も、簡単にいえば「女性の自由と平等と人権」を求めてきました。だから私たちのフェミニストカウンセリングは、今までの「伝統的な男性中心のカウンセリング」とは違うところがあるんですね。私のカウンセリングルームにもたくさんのクライエントが来られます。クライエントっていうのは相談に来る人のことをクライエントって言っていますけれども、私のところは「女性による女性のためのカウンセリングルーム」っていっているので、お客さんは女性しかとっていませんけれども、その女性の問題、悩みはさまざまです。いろいろな問題があります。だけどその解決方法、どう解決するかっていうところで、今までよりももっと自由で平等で人権をきちんと手にした、そういうふうな方向での解決策を提供するのが、フェミニストカウンセリングだと思っています。そういう意味で、フェミニストカウンセリングっていうのは非常に政治的なところがあるわけですね。今までの伝統的なカウンセリングというのは、科学性・中立性を専門職として大事にしてきたので、カウンセリングプロセスの中に政治性は含まないというのが大原則、大前提なんだけれども、あえて私たちは「フェミニストカウンセリングは政治的なプロセスを含むのである」って言ってるんですね。どういうことかっていうと、簡単に言えば、女が自分を変えるというのは、イコール社会を変えるっていうこと、とつながっているんですね。自分だけ変わってもしょうがないところがあるんです。同じように社会が変わらなければ幸せになれない。だからフェミニストカウンセリングは、個人の意識変革と同時に社会変革を目指しているっていうところで、非常に政治的なカウンセリングだというふうに思っています。
それでレジュメみていただくと、女性クライエントの「心理的な葛藤」、葛藤というのは悩みですよね、それと「自己尊重感」っていうのも今の臨床心理ではキーワードですね。セルフエスティームということですが、セルフは「自己」ということです。エスティームというのは「見積もる」ということですけれども、「評価」っていうことですよね。日本語では「自己尊重」、自分を大事にする、尊重する、「ありのままの自分を受け入れる」そういうふうな感じに使っていますが、英語そのままでいえば「自己評価」ってことですね。女性は、やっぱり男性に比べて非常に自己評価が低い、自信がない。何か意見を言うときにも「こんなこと言ったら人にどう思われるだろうか」とかね、そういう自己尊重感の低さが、女性が非常に生きにくくなる元だというふうに考えているんです。そういう自己尊重感の低さ、あるいは非力感−無力感というとあまりひどいので−非力、自分が非力である、どうしたってだめだろうという感じ、そういうものが女性クライエントの個人的な欠陥、生まれつきの性格の障害だとか、あるいは生育歴、育ってきた環境が悪かったからそうなったんでしょう、というふうに考えるんではなくて、その原因は「男性中心社会における社会・文化的要因にある」と考えてるんですね。で、それは一つは女性差別があるということ、例えば天理大の教職員の数を見てもですね、やっぱり非常に、こうトップの方に男性がいて、女性がいて、学生がいて、女性職員がいてっていうこういう感じだと思うんですが、これは家父長制といわれている構造ですよね。そういう中で、こういう家父長制構造、あるいは家父長制家族を支えていたのは性別役割分業です。男は外で仕事、女は内で家事・育児・介護。このルールにしたがって生きていくのが一番幸せだというのが、この100年くらいの家父長制社会だったわけですね。それが今、この家父長制構造が経済的な面あるいは社会的な面で揺らいできた。今や女性労働がなしにこの社会はやっていけない。女は家で家事・育児・介護という生き方自体が、揺れてきちゃっているわけですよね。なのにまだ性別役割のステレオタイプっていうのは画一的な、女は家で家事・育児・介護してたらいいんだ、とずっと強制されてきた。あるいはアメリカ人、ヨーロッパの人はよく言いますが、セカンドシティズン(second-citizen)、二級市民扱い。混合名簿っていうのになかなかならなかった歴史があって、私は阪急の長岡天神って、長岡京市に住んでるんですけれども、教育委員長がですね、「長岡京市も混合名簿にせよ」と市民から議会に問題提起があったんですね。別に混合名簿にしたらいいと思うんだけれども、その教育委員長はそうしたらいろいろ混乱が起こると思っているわけです。やっぱりもうやった方がいいっていう動きが多くなって、混合名簿になって、半年ほどして「どうでした、学校現場、混乱してますか」って「いやー、男の子と女の子が入学式も手をつないだりしてなかなかええ雰囲気ですわ」って。だから困ったことはおこらないんだけれど、いつも男が1番で女が2番っていう、これはものすごく刷り込まれている、当たり前っていう感じなんですね。それをバラバラにするとか、女を先に男を後にっていうことが、その教育長が何かものすごいことが起こるんじゃないかと思うほど、私たちの意識の中に刷り込まれている。「そういうふうに扱われて来たことが女はしんどくなってるんだ」と、本気に考えているんです。
これはうちのリーフレットなんですが、何してるかってことが一寸書いてあるんですが、個人カウンセリングといろいろなグループワーク、それから右の下の方にはサポートグループをしているんですけれども、「素晴らしき女たち」っていうのはアルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症あるいは摂食障害ですね、食べたり吐いたりする摂食障害の思春期の女性が今うち一番多いですね。自助グループにカウンセラーがはいったサポートグループをしています。それと「グループ・ウェイブ」っていうのは夫・恋人からの暴力に、今さらされている人が相談にきはるグループですね。それと「障害をもつ人と生きる家族」っていうのは障害児・者とともに生きている家族の人のグループです。
こういうふうなことをしているんですけれども、上に「パーソナル イズ ポリティカル(personal is political)」というふうに「あなたの問題は私たち女性みんなの問題です」って書いているんですが、これは一寸、意訳で、パーソナルっていうのは「個人的なこと」っていうことですね、ポリティカルというのは「政治的なこと」っていうことなので、直訳すれば、「個人的な問題は政治的な問題である」っていうことなんですね。これは第二波フェミニズム運動のアメリカの女性たちが自分たちの活動のスローガンみたいにしてきたことなんですね。自分の悩みをみんなと一緒に語る意識覚醒グループがたくさんあったんだ。十人ぐらいのグループでね、テーマは何でも良いんです、恋だとか結婚だとか仕事だとか性暴力だとかセックスだとかなんでもいいんですが、そのテーマで非常に本音でしゃべるっていうグループなんですね。女だけで。でそのときに人がしゃべってる時にね「あ、それはその人の話。私とはだいぶ違うよな」と思って聴いてるんだけど、だんだん聴いているうちに「あ、それって私も同じように感じたことがある」「同じように腹立てたなあ」というふうに他の女がみんな共感していったわけですよね。ということは同じ生きづらさ、それがさっきの女性差別的に扱われたとか、あるいは女らしくせなあかんというふうに言われたとか、同じ共通のところでひっかかってきた、でこれはその人個人の問題じゃなくて、女みんなの問題だよね、女みんながこんなにつらいということは社会がやっぱりおかしいんじゃないかと、社会がおかしいんだったらそれは政治の問題だと、だから政治を変えなきゃ私たちは幸せにならないよねっていうので、「パーソナル イズ ポリティカル」というスローガンの下に第二波フェミニズム運動が非常にもりあがっていったんですね。私はそのころ、70年ぐらいにこの臨床の世界にでたんですけれども、私の一番初めの現場は知的障害の子どもたちとの現場だったんですね。それでウイメンズリブは私の友達はやってましたけれども、私は障害者運動の方にはいっていったので、ウイメンズリブをそれほど闘ってきたわけではないんだけれども、この女性の運動の特徴は、自分を変えること(自己変革)と社会変革が連動していた、結び付いていたところが非常にユニークだったと思うんですね。それまでの男の人の運動というのは、社会を変えようとはするけれども自分自身を変えようとはしてこなかったと思うんですね。私も障害者差別の運動をしてきたけれども、そこのリーダーはやっぱり男性だったんだけれども、障害者差別をする社会はけしからん、これを変えていこう、そこまではいいんだけれども、自分の子ども、重い障害をもった子どもを奥さんに預けっぱなしっていうかね、自分はほとんど子育てにタッチしないで「障害児差別はいかん」とこういう運動のスタイルですよね。そうじゃなくて、自分自身が障害児と家の中でどれくらい向き合ってるのか、これって性別役割で妻にばっかりさせてるんじゃないかってそういうふうなところがほとんど問題にならなかった。それに対してフェミニズム運動は、自分を変えること、すなわち社会を変えることなんだと、この自己変革と社会変革が連動していたところが、男性中心の社会運動とはすごく違っていたところだと思うんですね。
アメリカの女たちは、ここから、この運動からさっき言ったように性暴力被害者救援、これはほとんど男性中心のカウンセラーとか精神科医とかそういう人に性暴力の被害者が自分の苦しみ悩みを訴えてもほとんど聴いてもらえなかったんですよね、で、そういうものを自分たちの手でつくらなきゃっていうのでレイプ・クライシス・センターみたいのを創ってきました。もうだいぶ前になりますが『告発の行方』っていうジュディ・フォスターの映画があって、レイプされた彼女がタクシーに乗ってパーッとかけつけたところが強姦救援センターで、そこにいくとカウンセラーもいるし医者もいるしケースワーカーもいるし、それから裁判するというんだったら法的にはどうしたらいいよっていうふうなことをアドバイスしてくれる人がいる。医学的・心理的・法的ケアが全部そろったような救援センターがあるんですね。だけど日本ではほとんど、今、ありません、まだ。むしろ私たちのようなプライベイトなところの方が進んでいるくらいで、ほとんど被害を受けたときに、まだどこへ行ったらいいかわかんない。でもアメリカなんかのちょっとした市にいくと、こういう紙にガーッとリストアップされていて、24時間の強姦被害者のホットライン、ドメスティックバイオレンスの被害者のホットライン、あるいはシェルター、あるいはそういうグループはここでやっていますよ、とかね。はじめ女性がやっていたそういう所が−そこはアメリカのなかなかいいところですけれども、助成金・補助金がバッとでるんですよね。私的な運動に対して−今ではほとんど公立のものになっていますね。
ちょっと話は前後しましたが、この第二波フェミニズム運動は私の言葉では「男女関係の心理的な平等」、20世紀初頭からの第一波フェミニズム運動は社会的平等を目指したとしたら、心理的平等を目指したと思うんですね。第二波フェミニズム運動は「ジェンダー」さっきの「性別役割」という言葉を発見したし、それから「セクシュアリティ」という言葉を発見したんですね。セクシュアリティというのも非常に難しいんですが、性行動に対する観念とか感じ方、こういうものの総体みたいなものですよね。たとえば、同性愛か異性愛か、同性の人を好きになるか異性の人を好きになるかはこれはセクシュアリティの問題なんですけれども、今まで女性があんまり自分のセクシュアリティについて語ったことはなかったんですよね。だけど、性暴力は本当にセクシュアリティという概念っていうかそういうものがないと、なかなか説明がつきにくいんですよね。第二波フェミニズム運動は、今までなかったことに名前をつける、今まで名前のついていなかった現象に名前をつける。「セクシュアルハラスメント」っていうのはそうです。これはフェミニストがつくった言葉なんですよね。「性的嫌がらせ」「性的虐待」っていうふうに訳されている。だいたい言葉っていうのは男性によってつくられてきたので、女性がつくったこのセクシュアルハラスメントという言葉は男性にはなかなか難しいんですよね。矢野事件がおこって、京大にもしゃべりにいったことがあるんですが、学生課の人が「自分は女子学生にたくさんであうから、どういう行動がセクシュアルハラスメントなのかリストアップしてくれませんか」って言われたことがあるんだけれども、こういう考え方がやっぱり非常に困ると思うんです。同じ行動でも、今日の洋服が非常にセクシーっていうふうなことを口で言う。それは恋人同士とかね、まあ夫婦で言うかどうかわかりませんけれども、そういう場合ならOKです。だから相手が嫌がらなければ、相手の意に反してなければセクシュアルハラスメントではないんです。同じ行動でも。でも大学で、男性教職員が女子学生のホットパンツとか、ミニスカートをニヤニヤジロジロ見て、それに対して、すごい色っぽいとかって言うのはセクシュアルハラスメントなんですよね。でこれは私たちの男女関係のなかで、セクシュアリティみたいなものがほとんど相互に理解されていないっていうところからくる問題だろうと思うんですね。
ドメスティックバイオレンス、ドメスティックっていうのは家庭内ってことなので家庭内暴力なんですけれども、日本で家庭内暴力っていうと、思春期の子供から両親へのっていう言葉ではやりましたけれども、アメリカでは圧倒的に夫から妻への暴力を指していたんですよね。ここ1、2年日本でもドメスティックバイオレンスが非常にはやって、DVとかって略して言う人もいるんですけれども、夫・恋人からの暴力。これも昔はね「夫が殴るのはしつけ」や。妻をね、しつけるためだというふうに言われていたんだけれども、それは女性の人権侵害なんだ、暴力なんだ、というふうに名前をつける。あるいは、しつけではなくて暴力ですよ、というふうに「再定義する」と言いますが、同じ現象でも言葉の定義の仕方で内容が変わってくるわけですよね。だからフェミニズム運動、あるいは女性学は女性の視点から全ての社会的現象を再定義、あるいは今まで名前のなかったものに名付けすることだと思うんですね。そのこととこの性暴力の問題は非常に密接な関係がある。女性はそれは性暴力だってすごくわかってるんだけれども、なかなか男性にそれを理解してもらいにくいところがあるんですね。
下のところに「アドボカシー(advocacy)役割」って書いてますが、フェミニストカウンセラーは、女性個人の問題は社会の問題であるというふうにはっきり思っているので、部屋の中で一対一のカウンセリングを私もしていますけれども、そのことをね、クライエントに代わって代弁する活動。アドボカシーっていうのは「代弁」あるいは「擁護」。擁護機能と言われてるんですけれども、そういうふうな機能も果たすのが、フェミニストカウンセラーの役割だとされているんです。アメリカの女性がすごくやってきたことなんですが、私も強姦、セクハラ被害者を、カウンセリングルームの中で治療的な、次に言いますけれどもPTSDからの回復のための治療をするだけじゃなくて、彼女たちのおこした裁判で、法廷で証言したり、あるいは意見書を書いたりして被害者に代わる代弁・擁護活動をしているんですよね。最近は意見書書きがもう山のように降ってきて、一昨日までこの二月から5、6本書いて、一寸へとへとになっているんですけれども。
一番初めは金沢の事件だったんですが、これは社長からお手伝いさんへのセクシュアルハラスメント事件。
2番目が京都大学の矢野暢っていう教授から女子学生、それから秘書への強姦・セクハラ事件だったんです。この京大の矢野事件で性暴力の裁判は非常に転換点というか、変わったと思います。私は甲野乙子さん−偽名ですけれども。プライバシーがあるので、偽名ですけれども−、矢野(私は呼び付けになるんですが)の強姦被害、学生時代に強姦されて、それからずーっと意に反したセックスを強要され続けてきたんですね、数年にわたって。そこから告発できたのは、またもっと後です。全体からしたら10何年かかっているでしょう。彼女の裁判が始まったころからのカウンセラーです。それと甲野乙子さんが矢野に強姦されたときの心理、「そんなに長い間いやだったら何故逃げなかったの?」とみんなに言われているわけですよね。「大の大人で、鎖で括られているわけでもないのに。」何故逃げられなかったのかっていうことを意見書で説明したわけですね。裁判も非常に男性の視点から成り立っているんですね。だから逃げなかったという行動結果だけを見て、「逃げなかった」イコール「お前も良かったんやろ」「合意やろ」「矢野さんが好きやったんでしょう」こういうことになっているわけですよね。でも「逃げられなかったんだ」と。甲野乙子さんは「『何故、逃げられなかったの?』と聴いてくれたら、一万理由でも答える」ってすっごい怒ったんですよね。「何故逃げなかったの?」って言われたときに。で、逃げられなかった理由を私が説明しているわけですね。それが通った。このへんから性暴力裁判は非常に変わってきました。
一番新しいのは、この間の東北大のセクシュアルハラスメント事件。これは助教授から大学院生への強姦・セクハラ事件でした。キャンパス・セクハラでは750万っていう損害賠償が通りましたから、一番高かったんですね。今のところずっと連勝記録を伸ばしているので、がんばりたいと思うんですが……。
意見書書くっていうのも、本当に被害者と同じ気分になるもんで、時にもう、なんか本当にこう、しんどいっていうかね。
もうひとつ書いているのは、ドメスティックバイオレンスのはてに妻が夫を殺しちゃった、これは奈良の事件なんですね。去年の12月におこった事件ですけれども。それは「鬼のような女が夫を殺したんだ」というふうに、もちろん刑事裁判ですからもうタンタンタンと終わりそうになってたんだけれど、弁護士さんが気づいた。一寸前に研修があって−弁護士も、だから、知らないんです。こういう概念を。女性弁護士に「ドメスティックバイオレンスを知らない弁護士なんか弁護士じゃない」ってバーンって言われて、この国選弁護士、国選でこの人についたんだけれど、その調書を読んで「あっ、これってドメスティックバイオレンスなんちゃうんやろか」っていうので、私の事務所に電話をかけてきて、「そりゃそうですよ」って私が言ったので、「もうすごいひどい女や」ということで裁判もタンタンタンと終わりそうになってたんだけれど、ちょっとこれはドメスティックバイオレンスということだから、彼が彼女と面会をして、意見書書くから待ってくれ、というので裁判が今ちょっと保留になってるんですね。それでこないだやっと意見書書いたんですが、これは本当に厳しい事件で、もう、途中でやっぱなんかもう自分で燃え尽き症候群ってことだと思うんだけれど、なんかもう書く気力が無くなってくるほど、彼女の身の上、中3と中1の女の子がいるんですけれど、その2人のことなんか思うと、もう筆がすすまない、そういうふうな感じだったんです。このドメスティックバイオレンスの被害者も警察官も刑事さんも、ドメスティックバイオレンスという言葉も知らなかったのです。だからDV被害者も説明できないんです。相手にそういう枠組みが無い時に、話そうと思っても聴いてくれないからね。話にならないんです。調書を取られますけれども、それは刑事さんなら刑事さんがつくった物語「ひどい鬼のような女が−借金がちょっとあったんだけれど−借金返せなくなって夫を殺した」っていう物語通り自供させられていく。でもこれは誘導尋問だと思うんですけれど。で「それは違うんじゃないか」っていう被害者側の代弁活動をしています。
今日はセクシュアルハラスメントの話なので、簡単に。これはまあ「キャンパス・セクシュアルハラスメント」でいいと思うんですけれども、定義をするとすればセクシュアルハラスメントとは、教師と女子学生との間のセクハラが一番多いですね、今まで。でも職員間もありますし、同僚間もありますし、それから男子学生と女子学生。キャンパスでおこるセクシュアルハラスメントはみんな、いろんな形態があるけれども、一番多いのは男性教官から女子学生へのセクシュアルハラスメントですね。教師/女子生徒関係は教育指導の手段として存在する関係だと、なのにそこに公的な権力格差、だから教授っていうのはやっぱり点数をつけるということで学生よりずっと権力を持っているわけですね。そういう権力差を使って、性差別、性的な言葉をかけたり、あるいは「デートしよう」とか「セックスをしよう」とか、そういうふうな性的要求をしたり、もっとひどい性的な要請を、その関係の中にそういうものを強要することによって、その手段的関係を性化(セクシャライゼーション)する。「本当は教育・指導関係なのに、それを非常に性的な関係に曲げてしまうのが、キャンパス・セクシュアルハラスメント」だっていうことですね。
内容としては、一つは権力乱用の問題です。教授それから学生間にそういうふうな権力を乱用しちゃいけないんだけれども、そういう問題。支配/服従みたいな関係ですよね。それと教育環境の問題、環境上の問題。それともうひとつはセクハラ行動の問題、どんな行動がセクハラなのかというふうな行動の問題がありますね。
去年から人事院と労働省がつぎつぎに勧告を出しましたので、今はいろいろな大学でガイドラインと相談窓口をつくっていってますね。天理大学はこれから取り組もうとしていらっしゃるところらしいんですけれども。この人事院勧告っていうのはすごくいい勧告ですね。労働省の一応「対価型と環境型のセクシュアルハラスメントがある」。これはよくきいている話だと思うんですけれども、自分の性的な欲求に応じなければ単位はあげないとか、点を悪くする。これは「対価型」ですよね。あるいは大学院生だと助手に推薦しないよと、その辺りをちらつかせながら、セクシュアルハラスメントをするのが「対価型」。後はすごく女子学生がいやだなと思うような環境、ヌードポスターが貼ってあるとか、いつもいつもそういう卑猥な冗談ばかり聞かされる。そういうふうな「環境型」のセクシュアルハラスメントがある。それから人事院勧告は、結局、意識をね、さっきの「何がセクシュアルハラスメントなのですか。リストアップして下さい」っていうのはやっぱり情けないんですよね。男女関係の中で、どういうことをしたら女性の意に反するのか、いやなのか、歓迎しない言動っていうのはどういうことなのかっていうことを、意識的に、敏感になってほしいってことですよね。人事院勧告では「意識の重要性」って書いているんですね。これは「セクシュアルハラスメントしないようにするためには、職員(って書いてあるんですけれども)職員ひとりひとりが次のこと、事柄の重要性に充分、意識しなければならない。「1、お互いの人格を尊重し合うこと。2、お互いが大切なパートナーであるという意識をもつこと。3、相手を性的な関心の対象としてのみ見る意識をなくすこと。4、女性を劣った性として見る意識をなくすこと。」って書いてあるんですけれども、結局のところは、やっぱり意識変革が無いと、いくらガイドラインつくったり罰則つくったりしても、なかなかこの問題は終わらないんだろうな、とそういうふうに思います。
さっきもちょっと言ったけれど、どんな行動がセクハラかっていうことで、「意図的あるいは意図せずにおこなわれる性的あるいは性差別的な言葉と身体的行為、それが相手から歓迎され求められたものではなく、(これは相手の意に反したっていうことですね)一方的なもの」である。
この表、棒グラフみたいのがありますが、これは神奈川県の女性センターがセクハラの調査をしたんですよね。事例収集結果報告書っていうことで職場と学校と地域でセクハラをうけた人、でどんなセクハラだったかっていうことで、グラフになっているんですが。非常に多い、高い山をつくっているのは職場ですね。学校はこの四角のですから、でも学校の一番左側「ブス・チビ・大根足なんて言われた」っていうのはものすごく高いですよね。学校の女子学生が、すごく悩んでいること、それが60、65パーセントくらいいっていますね。その次の20パーセントちょっとしたのところに「からだ・下着のサイズ、色など聞かれる」。それから20パーセントの辺で「『今日はデート?』など言われる」っていうの。それから真ん中あたりで15パーセントくらいでしょうかね「擦り寄られたり、触られたり、手を握られる、髪に触られる」。それからちょっと右の辺に「抱きつかれたり、キスされる」。一番右の方、端の方では「『○○は誰某とできている』とうわさを撒き散らされる」というふうな、ここらへんにダーッとあるようなことが一番、みんながセクシュアルハラスメントとして女性が訴えている行動だということですね。「強姦」とかっていうのもまんなかのちょっと下の方にありますよね。「強姦未遂」……。
それで私はカウンセラーなので、セクシュアルハラスメントをうけた被害者の、さっきから心理状態あるいは後遺症を意見書に書く、証言するって言ってたんですけれども、それについてちょっと説明したいと思います。
4のレジュメの「セクハラ被害者の外傷後ストレス障害(PTSD)」。「PTSD」というのは「Post-traumatic stress disorder」の頭文字なんですね。ポストは「後」ということです。トラウマティックっていうのは「心的外傷」っていうことですね。一生涯忘れることができないような心の痛手っていうのをトラウマと言っています。心的外傷。ストレスは「ストレス」ですね。ディスオーダーは「障害」です。だから「一生涯忘れられないようなトラウマがストレスになって起こる障害」っていう意味ですね。このPTSD概念は、神戸の阪神大震災後非常にはやった。はやったって言ったら変ですけれども日本に一気に広まった言葉ですね。だからグラッときて最愛の人が家の下敷きになって死んでしまった。とか、それと地下鉄サリン事件、あの時もPTSDってすごく言われていましたけれども、朝電車に乗っていたらサリンがパッて撒かれて、前の人がバッて倒れて死んじゃった。とかそういうのを見て、大震災の被災者だとかあるいは地下鉄サリン事件の被害者、あるいは目の前で子供が交通事故で自動車に轢かれた、それを見てた母親、なんてのはみんなPTSDを発症するんですけれども、セクハラ被害者もそういう障害に悩まされるというふうに考えられています。
これは1994年のアメリカ精神医学会のDSM−W、今はこれが一番新しいんですね、これは世界中の精神科医が見ている診断マニュアル、手引き書です。これを見ると、こうこうこういう症状がでていたら、この人はPTSDを発症しているとみたらいいという診断基準が書いてあります。1980年代に初めてPTSDという言葉が、診断名としてこの診断マニュアルに載ったんですね。今はDSM−Wを今使っているところなんですね。これは不安障害の中に分類されている診断名ですね。
日本語では外傷後ストレス障害ていうふうに言っていますけれども、これはアメリカで非常に発達してきた診断基準ですけれども、ベトナム帰還兵の研究、ベトナムに行って帰ってきた帰還兵が本当にドラッグというか、薬漬けになったり、ほとんど人格崩壊みたいな人が一杯でて、すごい社会問題になったわけですね。ベトナムで弾に当たって友達が死んだ、あるいは自分が人を殺してしまった。そういうふうなトラウマ、心的外傷から立ち直れない人がすごくたくさんでたわけですね。その研究から、外傷後ストレス障害という概念が精密なというか、洗練されていったわけですね。
一昨年、そのレジュメの2のところの参考文献のところにジュディス・ハーマン(Judith Herman)『心的外傷と回復』(“TRAUMA AND RECOVERY”)って書いていますが、彼女が来日しました。ハーバードの準教授だから助教授ですね。だけど彼女は非常にラディカルなフェミニスト精神医学者なんですね。フェミニストでハーバードにいる。東大みたいなところに…、上野千鶴子はいるけれども。アメリカのフェミニズムがどれだけ社会に浸透しているかってことも、日本とは全然違うと思うんですが。ハーマンのこの『心的外傷と回復』っていう本はすごく良い本です。専門書でありながら、これぐらいおもしろい本はないと思うんですけれども。彼女はユダヤ人。彼女のおじいちゃんはナチスの強制収容所の中に容れられて、非常なPTSDを発症していた、その辺の問題意識からPTSDの研究に取り組んでいった人ですね。8000円ほどする本なんだけど、日本で翻訳された途端に8刷にまでなった。あっと言う間に売れていって、それでPTSDという概念も非常に広まったんですが、この中にはドメスティックバイオレンスの被害者の回復過程、あるいは強姦被害者がどう段階をふんで回復していくのか、サバイバーのグループとかね、たくさんの例ででてきますけれども。非常に良い本ですね。
そのハーマンさんがPTSDの3症状と言っているんです。それをちょっと説明しようかなと思うんですが。@、A、Bと、この症状がPTSDの主要症状だと言ってるんですね。
@「過覚醒(hyperarousal)症状」っていうのは、アドレナリンが出っぱなしという感じ。ものすごく警戒しているという感じですね。「強姦という恐怖と、また強姦されるのではないかという不安のために、過度に警戒し、いつもびくびくし、リラックスできない状態」。この熊本県会議員のセクハラ事件というのは、熊本県議から国体級の運動選手へのセクハラやったんですよね。その運動選手に、プライバシーのために何の運動っていうのは言わないんですけれど、その協会の委員長がこの県会議員やったんです。で前から−すごいきれいな人なんですよね−絶対ねらってたと思うんだけど、「激励したい」とか言って、彼女をひっぱりだして、お酒を飲ましてだまくらかして、ホテルに連れていって、強姦しちゃったんですね。彼女はだけど誰にも言えませんでした。次の日もちゃんと練習のために体育館にでていったんですよね。だけど、今にも、体育館の後ろのドアからその県会議員がきて襲いかかってくるんじゃないかというので、すごい警戒してるんですね。前向いてプレーをしてるんだけれど、神経はいつも後ろにある。ついに、それをずっとずっとしている間に腰をひねっちゃったんですね。変な姿勢になるでしょう、そりゃあ。それで彼女、ほとんど体の故障のなかった人なんだけど、整体の人に「お前どうしたんや。この腰は変や」と言われたときに、「実は」って「こういうことがあった」っていうのを打ち明けたのが初めてだったんですね。そこからまた裁判を決意するまでは3年ぐらい彼女もかかっています。彼女は恋人と別れ、仕事を辞め、だからスポーツ選手もやめ、全てを捨てて裁判をしました。これは私が証言したんですけれども、勝ちました。またすぐに相手から控訴されて上にいっていましたが、一週間くらい前に、前、350万の損害賠償だったんだけれども、同じ額で和解勧告で和解したという事件なんです。彼女も「いつもいつもやられるんじゃないか」ってびくびくしているんですね。これはもうたいていの被害者がそう言います。新潟で、それは塾の経営者から常勤の塾の講師だった女性への強姦・セクハラなんですが、彼女はね、今、それは2年ぐらい前の事件で違うところに勤めているんですけれど、大学に勤めてるんですね。校内で、なんか加害者と同じ体格の人に会うことになった。それだけでワーッてくるわけですね。すれ違うときに、これはよく似ているけれど違う人やと、思ってるんだけど、もしかして化けてるのかもしれん、あの人が。それですれ違うときにね、「今や」っていって自分の方からものすごい殺気をおくって警戒してる。こういう変なこと、ちょっと聞くと変でしょう。だけど、自分も思ってるんですよ変だって。だけど体がもうそういうふうに動いちゃって、それぐらいびくびくしてるし警戒している。ドメスティックバイオレンスの人も、タクシーなんかのドアのバーンっていう音で飛び上がるぐらい、驚愕反応っていうんですが、びっくりするんですね。でいつも怒鳴られたり、殴られたりしていますから、怒鳴り声ぐらいなもんでも、ヒヤーッて、冷や汗がでてきたりね。そういうふうな過覚醒状態、神経の亢進状態になります。だからいつもものすごい緊張してるから、眠れないんですよ。寝ててもどっかで寝てない。だからもし今度そういう事態になったら逃げなきゃって、どっかでいつも「ヨーイ、ドン」の時の感じになって寝ようとしてるから、目が覚めて寝れないんですよね。すぐに目が覚めるし。それと外傷性の悪夢。すごい怖い夢を見るんですよね。新潟の人は、で「あの人がひどいねん」ってなんか説明しようと思ったら、加害者がニヤーッてドアを開けて見て「なんや」って言う夢をみたりとかね。あるいは強姦されて死んでしまった夢を見て、ぱって見たらそれは自分だったと。で夢の中で「致命傷はここなんです」って一生懸命説明してる、とかね。もうだからこういう夢を見ていたら、本当に、寝た気がしないわけですよね。そういう状態になる。
2番目は、A「侵入(intrusion)状態」って言いますが、これはフラッシュバックというような言葉の方が、一般的かも知れません。事件の生々しい再体験ですね。その強姦シーンが、こういうところで話を聞いていても、電車に乗っていても、もう思い出したくないって思うのに、それは入り込んでくる。もう振り払っても振り払ってもそのシーンが頭に浮かんでくる、という状態ですね。覚醒時、起きている時のフラッシュバック。それから寝ててもそのことが外傷性の悪夢となって夢の中に出てくる。
3番目は、これはなかなかちょっと難しい概念なんですが、B「狭窄(constriction)症状」あるいは「解離(dissociation)」って言われてるんですが、強姦されたということは被害者が完全に無力化された、もうグッと押さえ込まれて、いろいろ抵抗したけれども全然だめだった、無力な状態で強姦されているわけですね。どんな抵抗も無駄という経験をしたこと、である。被害者はこの状態に対して、恐怖と怒りを感じないように無意識的に防衛的なマヒ状態をおこす。金縛りの状態。解離とも呼ばれ、無感覚なマヒ状態によって外傷体験を意識から締め出す。だからね、あんまり怖いんですよ、強姦されるシーンは。シーンというか強姦されることが。そのときに無感覚にするっていうか、聞こえない、見ないっていうか、金縛りって呼んでもいいでしょう。意識を非常に狭めちゃって、見たり聞いたり感じたりしないようにする。それを感覚を全開にして見たり聞いたりしてしまったら、狂いそうになるんですよね。カッーってなってどうにかなりそう、人格崩壊になりそうだから、防衛、これは無意識におこってるんです。その人がしようと思ってるんではないんだけど、無意識的な防衛規制として、この金縛り状態にすることによって、守るんですね。だからそれ以上の苦痛はもう受け付けないように、なっちゃう。だからなかなか人間の体っていうのは、巧くできている。誰かが言っていましたけれど、自分が強姦されているのを、ヒャーッて天井の上からね、抜け出しちゃって自分から、上から見てるっていうふうな感じ。だからあんまり痛いとかってそういうのがないわけですよ。解離して、そういうふうに見ると。矢野事件の人もそうだったんですが、熊本の人も、強姦された日がどうしても思い出せないんです、裁判で。手帳やら見ると、3日間くらいのところにどうもあるらしいと、熊本の人はね、強姦されて帰ってきてそれからどうしたかがほとんど記憶が無いんです。強姦されてるときもちょっととびとびになってるんだけど、お風呂に入ったのか、時計を見たのか、もう全然覚えていない。それはものすごく、やっぱり、苦痛な状態だったので、聞かない見ない、さっき言った解離をおこしてるもんだから、後で思い出そうとするんだけれども、そこの記憶が飛んでるんですよね。これを外傷性記憶喪失だとか、あるいは心因性健忘というふうに呼んでいます。非常にいやなことだったから後からもそんな強姦なんかなかったことにしようというふうな心理が働いて、日付を忘れようとするわけですね。それは抑圧というメカニズムなんですが。裁判では、被害を受けたのは何月何日って特定しなきゃならないのに、できない。そうすると相手方はですね「そんなあんたが『ものすごい大変やった』という日を忘れるなんて、そんなはずはないでしょう。あんたは嘘を言ってるんだ」とか、あるいは「それほど、たいしたことじゃなかった、ささいなことやったから忘れたんでしょう」とかね、そういうふうに言われてしまうわけですね。だから意見書なんかの活動は「こういうPTSDによる外傷性の記憶喪失で、それは無かったんでもないし、嘘ついてるんでもないし、たいしたことじゃないから忘れたっていう、そういうようなことじゃないんです」っていうふうなことを説明しているわけですよね。熊本も京大の矢野事件もそれは、きちんと認められたんですね。
それで、近親姦のような、父親から娘への暴力なんていうのは一回限りの強姦じゃないんです。ドメスティックバイオレンスの被害者も一回だけじゃないんですよね。ずっと長期にわたって、この殺されそうな心的外傷体験が続くわけですね。そういう場合には、まだちょっとこの診断マニュアル、DMSでは認めれらてはいないんですが、ハーマンさんは「複雑性PTSD」という概念を、それこそ新しい概念がいる、名付けなければならないと言ってるんだけれども。
「複雑性PTSD」というのは、一回限りのそういう強姦被害というふうなことではなくて、反復・継続してそういうトラウマティックな暴力にさらされると、もっと複雑なことになって、それは人格−心理学では人格、性格みたいなものですが−人格そのものを変えちゃう。あるいは人間関係みたいなものを、ほとんどもう人なんて信じられなくなるんですよね、不信感。それと加害者に対する感覚みたいなものも非常に変わってきちゃって、そのさっきの奈良のドメスティックバイオレンスの夫殺害の人なんかも、復讐みたいなことにすごくこう没頭するっていうか、没入するとかね、そういうふうなこと。あるいは矢野事件の被害者の人は、矢野先生をすっごい恐れてたんですよ。たしかに矢野先生っていうのは権力があるし、時には研究室に警察の人呼んだりしてね−なんか、言い出すと長ったらしい話になるんだけれど−「あいつがけしからんから逮捕せい」みたいなことを言ったりした。そういうことも聞いてるもんだから、本当に怖いと思ってるんですよ、矢野先生が。でもね、私たちっていうか、第三者が聞くと「そりゃ矢野も権力もってるけれども、神様ではないんだから、そんな全部お見通しで、裁判なんかしたらすぐに来て復讐されてって、そんなこと大丈夫や」って言っても、もう矢野さんっていう人は全能の人だっていうふうに、非常に非現実的なイメージをその加害者に対して持っちゃう。ものすごい復讐にかられるのも、ものすごくなんでもできる人っていうふうに思うのも、ちょっと変なんですよ。でもそういうふうな、人への「当たり前の」「普通の」感覚っていうものを失っていく、だからいろいろな生活上の困難がでてくるわけですね。そういうふうな複雑性PTSDという診断名が、長期にわたる暴力に対しては要ると、今、検討されているところです。参考文献は、そのようなものがあります。で、まあこの辺でやめろってことだったのかなと思うんですが、もうちょっと聞いて下さい。
それでセクハラ被害者の、今のは後遺症、かなり精神医学的な後遺症だったんですけれども、もっと一般的な苦しさっていうのがあるんですよ。
「強姦神話」っていうのがありまして、「女のノーはイエスのサイン」ってね。裁判自体がこの強姦神話を下敷きにしてなされているとしか言いようがないんですよね。「女のノーはイエスのサイン」で、女っていうのは本当は強姦されたがっているんだと、心の中で。強姦されて、性的なエクスタシーを得たいと、思ってるんだから、いややって言うけど、あれはOKのサインよっていうね、神話があるんですよね。
でこれももっと考えれば、そういう言葉を、フロイトっていう人が、私たち臨床心理の元祖になる20世紀の天才と言われている、精神分析を創った人ですよね。フロイトが「女の本性はマゾヒズムだ」って言ってるんですね。サド・マゾのマゾです。嗜虐性。いたぶられて快感を感じるっていうふうなこと。だからフロイト自身も男性ですから、女性の心理が本当にわかってはいないんですね。だから多分私たちのフェミニストカウンセラー、フェミニスト心理学は、もっと男性がたてた、心理学自体を変えていくことが、もうちょっと野心的な目標としてはあるわけだけれども、フロイトがそういうふうに言うもんだから、もうそりゃ「女のノーはイエスのサインよ」っていうこの強姦神話が社会的に広まっていったんですよね。
それから、男の性欲はコントロールできないんだから、誘った女がいかん。挑発した女が悪い。あるいは隙を見せた女がいかん。「ミニスカートはいてた、透けたブラウスを着てたでしょう」と、女の落ち度を裁く強姦神話ですよね。
それと今度は女性を2分してですね、強姦とかセクハラにあうのは、そういうある種のふしだらな、性的にルーズな、そういう女がセクハラや強姦の被害者になるのよっていう神話。
それと、これは本当に裁判でいつもものすごく困るんですけれども、名誉ある女性なら死ぬまで抵抗するはずだ。強姦なんかされるぐらいだったら、死ぬまで抵抗するはずだっていう神話があるので、どれだけ抵抗しましたかっていうことを聞かれるんです。セカンド・レイプという言葉を知っているかどうかしりませんが、一回本当のレイプにあって、非常にショック、傷ついてボロボロになっているのに、裁判でもう一度、だいたい相手側の反対尋問によることが多いんですけれども、辱めを受ける。法廷の中で。これが2度目のレイプということでセカンド・レイプと言っているんですが、この間の新潟の裁判は、本当に、もう、それ。途中で泣いてしまって、被害者はしゃべれなくなったんですけれども。男性はね、なかなかその強姦シーンが分からないんですよ、被害者の心理も、どうなっているのかっていうこともね。そのときに、彼女はね150センチぐらいで40キロくらいなんですよ、ものすごく小柄でちっちゃい人でね、男の方はね183センチくらいあって80はないけど77、78キロなんですよね。だからほぼ倍の体重の人が、急にです、なんかソファで塾の話をしようとかいってやってて、もちろん二人きりのときにですが、バーッとこうのしかかってきて、ソファに押し倒されて強姦されたっていうときなんだけど、そこにね「あなたはそのとき、あなたの手はどこにいっていましたか」「どういうふうにはたきましたか」「蹴ったというなら、何回ぐらい、どこを蹴りましたか」。そんなこと覚えてられないわけですよ。経営者だっていう人が急に強姦魔に豹変してですね、襲いかかってきた、それも自分の体重の倍ぐらいあるその重さでですね、のしかかってきて、それで脱がされていったんだけれど、「そのときのあなたの手、あるいはどこを蹴って、どういうふうに抵抗したか」なんていうことを聞いてくるのがね、本当にイマジネーションがないなぁと。もしね、男性だって、2メートル近くって−小錦までいったらちょっと大きすぎるけれども−120、130キロの男に、ガーッて上に−プロフットボールのアメリカ人選手のああいう−大きな男性にのしかかられてレイプされるっていうときにね、そんなに冷静に、どこをどういうふうにされてどうしました、なんていうことは言えないんじゃないかっていう、そのイマジネーションがどうしてこんなに無いのか。
私たち女性は、痴漢に遭ったり、いろいろとね性的な嫌な経験ってやっぱり多いんですよね。そういうときに、本当に嫌ですよね。ものすごい気分になる。男性にはああいう、性的な被害にあうという経験がほとんどないから、やっぱりそこらへんがずれるんだなというふうに思うんですが、この強姦神話っていうのは、全部「被害者に落ち度があった」っていう神話。
男のつくった物語なんだけれども、これは男性が信じているだけじゃなくて、女性も信じているところがあるんですよ、自分も。だからやっぱりね、「あそこで、ああしなければ…」って、矢野事件の甲野さんも、矢野先生がホテルのロビーで、人類学なんですよ、あの先生は、それで人類学の話をして、教育をしてはったんですよね、そっちの道にすすみなさいって、それでもう延々と食事が終わってもしゃべり続けて、なんか矢野先生はすごい売れっ子でしたから、ホテルにいつも缶詰になって勉強してはったんですよね。で「上に部屋があるから、ちょっと疲れたから、そこでこの続きを話そう」と言われたときに、「帰りたい」ってやっぱり男性の部屋に一人でいくのは…、ってものすごい警戒信号、赤信号はついてるんだけれども、ごちそうになったし、こんなに矢野先生が、ものすごい尊敬してるんですよ、本読んで彼女は。「私のためにこれだけ一生懸命指導して下さっているのに、ここで帰るっていうのは悪いんじゃないか…」っていうふうに思ってついていったんですよね。で部屋につくなり、バーンって暴力が始まって強姦されちゃった。ずーっと後まで、なんであそこでついていったんやろうって彼女は自分の落ち度を非難していましたね。だから自己非難、自責感、罪悪感、それと汚れてしまったとかね、そんなとこについていった女やって、自己評価が非常に下がってしまうっていうところが辛いところですよね。それで自己評価が下がるし、こんな恥ずかしいことを、人になんか相談できない。だからなかなかこの被害を友達にも親にも相談窓口にも言いに行けないんですよね。
それで5番目のところに、セクハラっていうのははっきりと性的自由、性的自己決定権の侵害なんだけれども、なかなかね大学なんかでも、障害者差別とか部落差別とか、ここまでは割にみんなも「そうやいかん」って分かっているんですよ。だけど、女性差別に対しては非常に甘いんですよね。それで「あんまり無い」っていうふうに思っているところがあるんですけれども、セクハラを含む性暴力は、「部落差別、障害者差別、いじめなどと同じく“望ましくないもの”」とは仮定されていない。ましてや女性の人権侵害、性的自由、性的自己決定権の侵害という社会的認識はない。ちょっと説明すると、セクハラ状況を女性は脅威的に捉えるが、男性は好意的、「ちょっと可愛いからいうてるんや。からかってるんや。潤滑油や、会話の。あんたをなんかしようと思ってんのとちゃう、好意や」というふうに思っているんですよ。あるいは「そんなん違う」って言われたら、「ちょっと行き過ぎたかな」とかね、あるいは「ちょっとした不適切行動やったかな」っていうふうに捉えているわけですよね。女性の人権侵害、性的自己決定に…、ものすごく嫌なんだっていうようなことは、ほとんど思っていない。「なんでそんなぎゃーぎゃー騒ぐわけ?」って感じで、「もし、そんなことをされて嫌だったら、断固として拒否したらいいでしょう」ってこう言うんです。これは裁判でも、新潟の塾の人の場合も「そんなに嫌なら…」これは裁判長まで言っていましたね。「そんなに嫌なら、何で仕事、辞めなかったんですか」って。でも彼女はね、いろいろ事情があって、一家の稼ぎ手だったんですね。弟はまだ大学生で、だから辞められなかったんです。辞められるなら、辞めてますよ。セクシュアルハラスメントは、学生は学生を辞められない、職場に勤めている人も仕事を辞められない、そこを使ってやられてるわけですからね。辞めてもいいんだったら、すぐに辞めちゃうんだけれども、彼女ももうものすごく仕事辞めたかった。お母さんにも相談した、でもセクハラのひどいところまでは、言えなかったんですよね。それでお母さんは、今、家はものすごい大変やから、もうちょっとそこで辞めないで勤めてくれって言った。そう言われて、彼女は責任感の強い真面目な人です。「じゃあしょうがない」っていうので、勤めてたら、だんだんセクハラがエスカレートしていったわけですよね。そんなところで、断固として仕事も続けながら、学生も続けながら、その先生の授業をとりながら、その先生のセクハラを断固として拒否するなんていうことは、私たちにはできないですよね。だけど、それを求めるんです。非常に非現実的なイメージ。だからこそ「いやだったらもっと抵抗したらいいでしょう」「抵抗していないのは、良かったからだ」…。
だから結局、死ぬまで抵抗せよっていうことなんですよ、どう考えても。でも、セクハラや強姦で死ぬ必要は全然ないと思うんですね。生きて欲しいし、サバイバーと言いますが、サバイブ(survive)生き残って欲しいわけですよね。
アメリカでは調査がいろいろあります、強姦時にどうなるかっていうような。そういうのも引用して意見書書いてるんですけれども、身体的抵抗をする人は3分の一くらいですね。全体の。強姦されてしまった人の中の内訳ですけれども、あとはもっと言語的、あるいは頭でね、あんまり抵抗して怒らすともっとひどいことになるから、もうそのままされるままにして、強姦されちゃおうっていうふうな頭脳的判断をしているんです。それも抵抗の一つなんですね。あるいは身体的にすごく抵抗してるけれども、大抵の人がこれ以上やっても無駄やって。力は全然違うんですよね、途中で抵抗をやめる。抵抗することが相手を喜ばせるだけやなっていうことがわかってやめる。だから身体的抵抗さえすれば「すみませんでした」って加害者が帰るもんじゃないんですよ。だけどまさに裁判は、そういうことを女性被害者に要求しているんですよね。だから、沖縄の小学校5年生の子供が米兵に強姦されました、4人に、輪姦だったんですよね。あの場合はみんなすんなりと「これは強姦だ」って認めたんですよ。小学校5年生で別にふしだらな女ってわけではないし、相手も4人もいて、体にすごい傷を受けてたわけですよね。そういう場合は強姦被害者ってわかるんだけれども、皆さんぐらい、あるいはもうちょっと歳いっててセックスの経験があって、強姦されたって申し出ても、嘘でしょうって、そこからもう強姦神話から始まるんですよ。どれだけ抵抗したのですか、それほどしてなきゃたいしたことないでしょう、みたいな話になるんわけですよね。
セクハラでも一緒で、嫌ならなぜ逃げなかったの、なぜ告発、なぜ言わなかったの、という質問がいつも男性から被害者へ投げかけられます。でも女もいちいち職場や学校で「それはセクハラですよ」とかね、やっぱり言えないっていうところがあって、だまって耐える。とか、それとなく「やめてくださぁい」みたいな、それとなくの言葉で。女性はね、相手との関係を壊さないってことをすごく大事にするように育てられてきているんですよね。これは「女らしさ」っていうやつなんですが、気配り、優しさ、こういう女性の心理的特徴が、このセクハラ状況では裏目にでちゃうんですけれども、そこで「なんや」っていうふうになかなか言えないんですよね。そこでだまって耐えてると、後で、やっぱり合意だったんでしょ、あんたも歓迎してたやろ、あるいはささいなことやったんや、というふうに言われる。あるいはもう成り行きまかせで「もうしょうがないやって」いうふうに多少それにのったような反応なんかをしていたら、後でけしかけてたとか、先導した、とかそういうふうに言われる。無視したり、何もしないでいたり、されるがままにしておくと、後で、なんで言わなかったの、逃げなかったの、って言われるんですね。だからここでの被害者イメージは田嶋陽子とか、私も割に言うと思いますけれども、ものすごい強いフェミニストみたいな人を想定しているんですね。いやならなぜそこでノーと言わなかったの、でも普段はそういう女ってだいたい大嫌いなんです、男性は。だけど強姦裁判とかになると、そういう女性を想定して、セカンド・レイプまがいの質問をする。さっきも言いましたけれども、被害者に受け身的な対処行動をとらせる原因っていうのは、「女らしさ」なんですね。さっきの性別役割の規範がかかっていて、他者優先性っていうのは、良妻賢母規範みたいなものです。自分よりも夫に尽くす。子供に尽くす。他者優先なんですね。自分の感情、自分の欲求を押さえてでも、相手に尽くすのが女らしさやと、それが優しさや、気配りや、というふうに育てられてきているもので、ついそういうセクハラ状況でも加害者の方に気を使ってるんですよね。それも大抵の場合、加害者は見知らぬ人じゃなくて、ようよう知ってる人ですからね、上司であったり、教授であったり、近所の人やったり。そういう人に対して強いことが言えないというところがあだになる。
なかなか告発できないのは、社会的なサポートシステムが不備だっていうことからですね。天理大学でも、ガイドラインとか相談窓口をつくって欲しいと思いますが、そこで相談にあたる人は、やっぱりセカンド・レイプにならないように注意するということと、それと学校の中で本当に被害が明らかになった場合には、被害者救済という文脈で動いて欲しいと思うんです。京都大学をみてても、矢野事件がおこったときに、組織を防衛しようとしたんですね。女性有志の人が、京都大学に「矢野の研究室で変なことが行われている、調べて下さい」って言ってるのに、全然、動かなかった。女性職員有志が男性弁護士をたてて、彼が文部省にそれを言った、そのとき赤松さんっていう女性の文部大臣だったんですね、それで赤松さんが京大に「何してるんや、調査せい」って言ってやっと動いたんですね。だけど京都大学でこんなことがおこってるなんていうことが明らかになるのは格好悪い。中にはね、被害者の人に「矢野先生はいろいろ問題があったかもしれんけれども、文部省からたくさん金を持ってくる人−本当に何億って科学研究費をとってきてはったんですけれども−そういう人やから、なんとかこう公にしないで、やってくれないか」っていう人までいたわけです。いつも男性はそういうところで、かばいあってるんですよね、加害者をかばっちゃう。それで被害者救済っていうところがまるでとんじゃう。だけどこの労働省の男女雇用改正均等法も、人事院勧告もこれは被害者救済にたっているルールなんですよね。そこのところをやっぱり忘れないようにして頂いたらいいかなと思います。
編集注 このあとに質疑応答がありましたが、各質問者に掲載の許可を得ることが出来ませんでしたので、本稿から質疑応答の部分はカットしました。質疑応答も含めて、このときの講演会のテープがあります。貸し出しを希望される方はFフォーラム世話人にお問い合わせください。