「ソラリスの陽のもとに(原題『Solaris』)」 
    スタニスワフ・レム 飯田規和訳 ハヤカワ文庫SF

  惑星をおおう海自体が1個の知的生命体であるという驚くべき惑星「ソラリス」が発見されて100年以上、人類はさまざまな方法で接触を試みてきたが、それらはすべて失敗に終わっていた。心理学者ケルビンは、3人の研究者が残り研究を続けているソラリスステーションに派遣される。ステーションに着いてみると、そこは乱雑に散らかったまま放置され、3人のうちの一人で旧友のギバリャンはすでに自殺していた。他の二人、スナウトとサルトリウスの様子も尋常ではなく、さらにステーション内にいるはずもない黒人女性が歩いているのを目撃する。混乱するケルビンにも、疲労困憊した後の眠りから覚めると、10年前に2人のあいだのすれ違いから自殺してしまった妻ハリーが現れていた....。 話はミステリアスな、緊迫した雰囲気で始まります。そのためか「ソラリス」をSFホラーだという人もいるようですが、それは全く的はずれだと思う。ホラーの定義によるのかもしれないけれど、少なくとも「ソラリス」は人を怖がらせる目的で書かれたものではないから。「ソラリス」は、未知の知的生命体との驚異に満ちたコンタクトの物語であり、また悲しいラブストーリーという風にも読めます。僕はどちらかというと後者に心惹かれる方ですが、レムはそういう読み方だけをされるのはたぶん望んでいないのだろうと思う。これ以上は、あまり書いてしまうと読む楽しみがなくなってしまいそうなのでここまでにしておきます。かわりに、あとがきで訳者が引用している、レムがロシア語版に寄せた序文を、少し長いですが引用しておきます。(引用が多くてすみません。)

  「作家は自分の作品に対して原則として「まえがき」のようなものを書くべきではないと私は思っている。しかし、ここではあえて二、三の弁解じみた話をすることを許していただきたい。...(中略)...私の物語がどれほど説得的であるかは私にはわからない。しかし、私が何を欲したかということ、つまり、私がこの作品のなかで何を語ろうとしたかということ、別の言葉で言えば、この作品のなかで私にとって何が一番重要であったかということなら私は知っている。
  現在、われわれ人間は遠い宇宙に飛び立とうとしている。人間が他の惑星の
理性的存在と出会うようになるのはいつかということはまだわからないが、しかし、いつかはかならず出会うであろう。
  SFは、ことにアメリカのSFは、この問題について非常に多くの作品を生み出していて、そこにはすでに、他の惑星の理性的存在との接触のありうべき可能性について三つの紋切型ができあがっている。その三つの型を要約して言えば、相共にか、われわれがかれらに勝つか、かれらがわれわれに勝つか、という定式になる。もっとくわしく説明すれば、それは、われわれが宇宙の他の理性的存在と平和的に協力関係を打ち立てるようになるか、でなければ、これも同じ程度にありうることではあるが、両者の間にまさつが起こって、場合によってはそれが宇宙戦争にまで発展し、その結果、地球人が「かれら」に勝つか、あるいは「かれら」が地球を征服するようになるか、という三つの可能性である。しかし、私に言わせれば、このような定式はあまりに図式的である。それは、地球的な諸条件---つまりわれわれがよく知っている諸条件---を宇宙という広大無辺な領域に単に機械的に移しかえたものにすぎない。
  星と、星の世界への道は、単に長くて困難なものであるだけでなく、さらに、それは、われわれの地球上の現実が持つ諸現象とは似ても似つかない無数の現象に満ちていると私は思う。宇宙は、「銀河系の規模にまで拡大された地球」では決してないであろう。それは質的に新しいものである。
  相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似が
存在しなかったらどうなるか?ふつう、地球の文明と地球以外の惑星の文明との
差は、量的なものにすぎない(つまり、「かれら」が科学・技術その他においてわれわれよりも進んでいるか、でなければ、その反対に、われわれが「かれら」よりも進んでいるかのどちらかである)と考えられている。しかし、「かれら」の文明がわれわれの文明とは全然違った道を進んでいるとしたらどうだろうか?
  それはとにかく、私はこの問題をもっと広い立場から解明したいと思った。
そのことは、ある特殊な文明を具体的に示すことよりはむしろ、「未知のもの」
をそのもの自体として示すことのほうが私にとって重要であったということを意味する。私はその「未知のもの」を一定の物質的現象として、物質の未知の形態以上のものとして、人間のある種の観点から見れば、生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態をもちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きたかったのである。
  その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。その問題を、暴力によって、たとえば、未知の惑星を爆破するというような方法によって解決しようとすることは無意味である。それは単に現象の破壊であって、その「未知のもの」を理解しようとする努力の集中ではない。「未知のもの」に遭遇した人間は、かならずや、それを理解することに全力を傾けるであろう。場合によっては、そのことにはすぐに成功しないかも知れないし、さらに、場合によっては、多くの辛苦、犠牲、誤解、ことによっては、敗北さえも必要とするかも知れない。しかし、それはすでに別の問題である。
  『ソラリス』は星の世界を目指す人類と未知の現象との出会いの一つのモデルケース(私は精密科学の用語を使っている)である。私はこの作品によって、宇宙には思いがけないことが待っていること、すべてを予見し、すべてを前もって計算に入れておくことは不可能であること、星の世界の「菓子」の味は実際にそれをかじってみること以外に知る方法がないことを語りたかったのである。実際に、宇宙では何が起こるかわからない。...(後略)」

  僕が最初にこの本を読んだのは、大学に入ったばかりの頃で、隣室の航空工学を専攻する先輩から勧められたのでした。「砂漠の惑星(原題『無敵』)」とこの本はそれまでスペースオペラのようなSFしか知らなかった僕には衝撃的で、以後レムの大ファンになりました。(少し読んだだけでレムのファンだというのもおこがましいのですが、好きなものは好き、です。)「エデン」や「星からの帰還」「捜査」「枯草熱」など他の作品もいくつか読みましたが、僕にとってはこの2冊「ソラリスの陽のもとに」と「砂漠の惑星」がレムの最高傑作のように思えます。博学多才なレムには、「虚数」や「完全なる真空」(最近購入したけどまだ読んでいない)など、毛色の違う著作が数多くあり、むしろ文学的にはこちらの方を高く評価する向きもあるようです。
  レムの序文にもありますが、アメリカ人が描く宇宙の生命体との接触を扱ったSFは相手が敵対的であれ友好的であれ、ほとんどが、お互いに共通の認識的基盤に立っていることを前提としています。はっきり言えば、「銀河系の規模にまで拡大された地球」というよりは「銀河系の規模にまで拡大されたアメリカ」という感じで、きっと彼らは自分たちの価値観が宇宙でも普遍的に通用するのだと(素朴にも、あるいは幼稚にも!)信じ込んでいるのではないかと思われるほどです。我が家は、スタートレック・ボイジャーのシリーズが好きで、ほぼ全編を録画して何度も見ていますが、これに出てくる宇宙人はほとんどがヒューマノイドで、たとえ言語翻訳機があるにしても、あらゆる概念がお互いに理解可能なのですね。これはこれで楽しいのですが、アメリカ人のメンタリティーが随所に現れていて非常に興味深いところでもあります。そこでは、地球人以外はどこか滑稽だったり、凶暴だったり、野蛮だったりで、なかには日本人を戯画化しているのではないかと思われる(被害妄想?)、強欲でスケベなフェレンギ人というのも出てきます。その中で地球人が、正義と公正と民主主義のような価値観を振りかざして問題を見事解決していくというわけです。これを見ていると、アメリカが地球上でも、イスラム教をはじめとする異文化に対する理解力を極端に欠いているのもうなずける気がします。そのアメリカが宇宙でもアメリカンスタンダードを押しつけようとしているのですから...*Sigh*
レムのSFは、そういう、楽しいけれども幼稚なSFに比べれば遙かに知的で内省的です。
  アンドレイ・タルコフスキーが映画化した「惑星ソラリス」は、ソラリスステーションの出来事を比較的原作に忠実に描いているように思いますが、最初に原作にはない地球のエピソードを付け加え(これがまた長い)、また最後にも余分な映像を付け加えたため、レムは気に入らなかったようで、「タルコフスキーが作ったのは『ソラリス』ではなく『罪と罰』だ」とコメントし、以後作品の映画化の話は拒否し続けているているそうです。僕としては、少し退屈ではあったけれど、ナタリア・ボンダルチュクがきれいだったし、背景に流れるバッハのコラールプレリュードも印象的で、好きな映画です。
  今回公開のスティーブン・ソダーバーグ監督の「ソラリス」は、ソラリスの海についての解説などは大胆に削っており、登場人物も原作とはかなりイメージが変わっています。原作を読んでいない人が映画から受ける印象は原作とはかなり異なるのではないかと思います。異質な文明との接触という視点は希薄になり、ラブストーリーのほうが前面に押し出されている点、また最後に救いとなるような余分な場面をつけくわえたところなど、やはりアメリカ映画だなと思いますが、僕としてはラブストーリーとしても原作の描写のほうが優れているように思いました。映像はきれいだったけれど、なにか中途半端な感じがしましたね。一見の価値ありとは思いますが。
  レムの翻訳は最近はほとんど絶版になっていて入手困難なものが多いですが、「ソラリス」は文庫本が手に入ります(早川SF文庫)。特に、今は映画が公開された直後なので、書店でも平積みにされています。おそらくこの時期を逃すと書店からは消えてしまうでしょう。興味のある方はお早めに。また、この秋には国書刊行会から、ポーランド語版原書からの翻訳が出るそうなので楽しみにしています。「砂漠の惑星」は残念ながら入手困難なようです。