ビューヒナー解読

―コロキウム形式による―

 

エーバーハルト・シャイフェレ/下程 息編

2006年(改訂版)

目 次

緒言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   下程 息  3

『ダントンの死』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  7


『レオンスとレーナ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30

『ヴォイツェク』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 45

『ビューヒナーの現代性―没後150年を記念して・・・・・・・・・・・・・・・  59


一作家によるビューヒナー受容の一範例・・・・・・・・・・・・・・・ 下程 息  69

現在のビューヒナー研究に対する所見(2002年)・・・・・・ ・・ E・シャイフェレ 82


初出一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  86

参考文献 T コロキウム関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  87

参考文献 U  1983年以降・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  92

後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 98



緒 言

                

外国文学科の授業にネーティヴスピーカーが必要であることは再言を要しまい。しかしなが ら、その授業が外人側の一方通行になったり、日本人側の理解が中途半端に終わる場合が少 なくない。このギャップをどう埋めればよいのだろう。まず必要なのは、教える側と教わる側との間の相互の信頼関係であり、その場にふさわしい雰囲気であろう。受講者が自然に溶けこめる雰囲気がなければ、授業は、学問的に如何に高度な内容のものであっても、コミュニケーションのない不毛なものに終わってしまうだろう。ネーティヴスピーカーは、語学教育の場の現状と受講者の能力を的確に理解し、自国の学問や文化を日本人に分かりやすく伝えねばならない。問われてくるのは外人教師の学力と人間理解である。ちなみにシラーはこう定義していた。「人間が人間そのものとなるのは、遊ぶときにほかならない」(Der Mensch ist nur dann ganz Mensch, wenn er spielt. .) 。この意味内容はここでおよそ以下のように敷衍できよう。人間は、正負両面から成り立っている、状況を的確に把握し、その場で具体的に対処しなければならない。それはもっとも本質的な意味での「遊び」となる。人間生来の能力を全面的に展開できるのは、このような「遊びをする(spielen) 」ときにほかならない。「遊び」は真の教育と文化を生みだす母胎とならねばならない。エーバーハルト・シャイフェレ氏は、こういう「遊び心」をもった、日本では数少ない外人教師の一人ではなかろうか。

このシャイフェレ氏が関西学院大学のドイツ文学科の大学院の非常勤講師としてわれわれに注入してくれたのは、ゲーテの名詩『湖上にて』の冒頭の詩句を転用するならば、「新鮮な養分と新しい血液」であった。拙い通訳をしながら、ときに会話の堪能な院生に代わってもらいながら、大学院生とシャイフェレ氏の授業に参加することによって、小生はドイツの文学と文学研究の方法について「生きたドイツ語」を通じて学ぶことができた。通訳を担当してくれた院生も、学問的に高度の内容をユーモアを交えながら分かりやすく教えるようつねに配慮していた、シャイフェレ氏の授業によって視野と知識の幅がほんとうに広くなったと回想していた。院生諸君の受講態度は真剣そのものであった。シャイフェレ氏との親密な交遊を通じて、われわれ関学の教員や院生はかけがえのない教示や刺激を受けた。教室と院生諸君の実情を的確に把握していた、義則孝夫氏の適切な援助にもよって20年以上も続いた、同氏の授業のなかで特記しておかねばならないのは、3年がかりでのビューヒナーの全作品の精読であり、各ゼメスターの終りに識者を外部から招いて仁川荘で行なわれた、一連のビューヒナー・コロキウムであった。A君はこうコメントしている。「シャイフェレ先生によるゲオルク・ビューヒナーの連続講義は、この作家と作品に対するアプローチや解釈に関して、非常に多くの示唆に満ちていました。シャイフェレ先生の講義では、作品の正確な読み込みを前提にして、数多くの周辺資料が提示されました。それらを多角的に分析しつつ、作品解釈が進められていくのですが、一方、私は先生がお話しになるのを聞き取るだけが精一杯で、作品読み込みの資料の分析も消化不良のまま、自分の力不足に呆然とするばかりでした。ただ、回を重ねるにしたがって、シャイフェレ先生が繰り返し指摘されるビューヒナーの創作手法の斬新さ、表現の革新性を感じることができたように思います。今振り返ってみて、それがどれほど知的刺激に溢れた、貴重な体験だったか、ようやく理解できるようになりました」。われわれ一同は、ビューヒナー文学の季節はずれの現代性、そのアクチュアリティ、この問題と密接に関連してくる、変遷する西ドイツの戦後文学の潮流、さらには、ドイツの学問の積年の伝統である「精神科学」(Geisteswissenschaft) の方法論、その継承と具体的適用の問題にかんする素晴らしい耳学問をすることができた。一同はいい意味でへとへとに疲れた。それだけに、授業終了後シャイフェレ氏を囲んで飲む、アルコールの味は格別であった。受講者B君はこう回顧している。「シャイフェレ先生の演習ではその内容の深さ、レヴェルの高さにはじめは驚くばかりでした。ドイツ語で思うように意見が言えない学生に辛抱強く耳を傾け、丁寧に補足説明してくださった先生の講義が今でも新鮮に思いだされます。演習を終えられても先生はすぐには帰宅されず、先生を囲んで飲食を共にしながら過ごす<水曜会>ともいえるような場を設けてくださいました。このようにして私たちはドイツ人のものの見方、考え方、研究方法などを自然に学んでいたと思います。私たちにとってかけがえのない貴重な時間をシャイフェレ先生は与えてくださり、今でも大変感謝しております」。C君によれば、緊張感に包まれた授業の後に飲む酒ほどおいしいものはない。その解放感は言葉には尽くせない。シャイフェレ氏が独酌しておられたときの楽しそうな表情が忘れられない。授業とアルコールの二重奏によって時間の停止を体験する思いがした。それは後の教師生活にとって貴重な教養体験となっていた。C君もB君とほぼ同じような感想を洩らしていた。立派な授業が受講者の後の人生に与える、地下水的影響の深さが痛感されてくる。

コロキウムを実りあるものにするために、放課後、授業内容と招待講師の学問の特色を考慮しながら、その下準備をしなければならなかった。ビューヒナーの個々の作品のメッセージ、問題性、構造、解釈の可能性などを的確に押さえた上で、各招待講師の学問のエセンスを引き出そうという方針の下に、招待講師の当該論文を予め読んで質問の内容を皆で検討した。質問のポイントとコンテクスト、就中、ビューヒナーの作品からの引用個所を示すための、ハンドアウトも作成した。それは骨の折れる仕事だったけれども、院生諸君はいやな顔をしなかった。コロキウムをむしろ楽しみにしていたと思う。本番のコロキウムは系統的に行われた。そのとき確認されてきたのは、学問の場における対話の本質的重要性であった。自発的な対話には字面からは期待できない生きた何ものかがある。和やかな雰囲気が醸成され、相手との間の壁はなくなり、血の通ったコミュニケーションが生まれてくる。有りがたいことに、その素地はすでに潜在していた。それは、ドイツ語会話面での荒木泰氏の長年の卓越した指導によって形成されたものであった。荒木氏のこの方面での功績を忘れてはならない。

このエーバーハルト・シャイフェレ氏が本年度を最後に本学に出講されなくなり、小生もまた昨年度定年退職したのであるが、教室の機関誌の掲載されている、ビューヒナー・コロキウムの各報告を関学のゲルマニスティクの一盛時の記録とて部分的修正の上この機会にまとめて刊行することにした。その際、ビューヒナーの著作からの引用箇所を明示するための底本の決定が必要となってきた。どれにしようか迷ったのであるが、シャイフェレ氏、義則氏と三位一体となって蓼科のビューヒナー・ゼミナールに参加したときのことをふと思い出し、このゼミナールの指定テクストとなっていた、1980年刊行のハンザー版の選集( 参考文献の欄参照) を選び、引用文の頁数を括弧つきの数字でもって本文中に記入することにした。

この作業を進めているうちに折りにふれ目に止まったのは、各質疑応答間の相互関連性であり、各招待講師の学問的特性であった。文学作品のコミュニケーションを専門領域としておられるクロイツァー教授は、ビューヒナーの受容と解釈の歴史、そのアクチュアリティと関連づけながら、『ダントンの死』にかんする包括的なプロスペクトを提示して下さった。入念至極、雄弁きわまりないクロイツァー教授の説明に参加者は圧倒された。この会合は、久山秀貞氏をコンビーナーとする、ドイツ文化研究会の方々の援助に支えられたものでもあった。余韻として残り続けた当日の体験が引き金になって、次回は畏友八木浩氏を招いて『レオンスとレーナ』と『ヴォイツェク』にかんするコロキウムを行った。八木氏との質疑応答によって照らし出されてきたのは、体制批判の詩人としてのビューヒナーであった。八木氏の関心はビューヒナーとブレヒトとの接点に向けられていた。それは、ブレヒト研究家である八木氏の学問の内的必然性であり、これらアンガジュマンの詩人に対する氏の捨身の情熱の発露と言えようか。ドイツは当時、東西分裂の問題を抱えていた。この問題に八木氏は折りにふれて言及されたが、このことが本コロキウムに歴史的価値を付与していはしないだろうか。ここでひしひしと伝わってきたのは、両ドイツの文化状況を公平に見ていこうという、八木氏ならではの倫理的良心であり、胸にたぎる平和への祈りであった。ビューヒナーの、ひいては文学作品の斬新な研究方法に対する、同氏の熱い関心は一同にとっては爽やかな新風であった。院生に対する応対は親切そのものであった。今は故人である八木氏の当日の姿を思い浮かべると、懐かしさのあまり胸が熱くなる。ビューヒナーの没後150年を記念して行われた最終コロキウムは、それまでのコロキウムの成果を踏まえた上での授業全体の総括となっていた。ここでとりわけクローズアップされてきたのは、政治面、文明批評面、言語面、形式面でのビューヒナーの「文学史的には説明しがたい現代性」( イェンス) 、就中、表現主義や戦後のドイツ文学に反映している、ビューヒナー文学のアクチュアリティであった。

コロキウム全体を通じて作用史的に確認されてきたのは、1930年代にフィエートアとルカーチによってそれぞれ発表された、左右対極的なビューヒナー論の歴史的・今日的な意義であった。宿命論書簡をめぐってビューヒナー文学を悲観論的・形而上学的に解釈するか、それとも、唯物論的・社会主義的に解釈するか、この二者択一性が根源的には以後の多種多彩なビューヒナー論の形成と展開の土壌となっていたことが、直接的、間接的に示唆されてきた。これは本コロキウムそれなりの成果だったと思う。けれども、クロイツァー教授を囲んでコロキウム行って以来、20年近い歳月が過ぎ去っている。以後のビューヒナー研究はその間どのように変貌してきたのだろうか。苦渋の策と言われても致し方ないけれども、この問題についてはシャイフェレ氏に補説というかたちで素描していただき、全体を今もいちおう一読に値する文献にするよう配慮した。

読み返してみると、本冊子は4楽章から構成された交響曲のようなものになっているようにも思われた。本書は結果的にはこのような統一的なものになっていたので、全体を学術報告としてより整ったものにしたいと思い立ち、コロキウムのプロセスを示唆するために各質疑応答の内容を集約していると思われる箇所には下線を付し、最後に当該の参考文献を年代順に列挙しておいた。そのことによってビューヒナー文学のプロスペクト、それともハンドブックのようなものが出来上がったのではなかろうか。もしそうであったとすれば、望外の幸せと申したい。本冊子を刊行するにあたり、八木夫人、多数のためにいちいち名前を挙げないが、コロキウムに参加した方々全員の事前了解を得ることができた。報告に修正の手を加えていたとき、大阪市立大学教授名誉教授南大路振一氏、元同僚の須賀洋一氏からうけた教示は貴重であった。大阪市立大学教授大沢慶子氏には、御多忙中にもかかわらず御好意に甘えて、校正に目を通していただいた。索引作成に際しては、大学院の最後のゼミ生、岸本明子、清田公美子、菊井佳代子、島田佐知、近藤悟の各氏の手を借りた。これらそれぞれ協力して下さった方々に御礼申しあげたい。

2002年薫風の候

                                  下程 息

付記  コロキウム参加者のなかで松本剛君と本田賀洋子さんは今はこの世にいない。松本君は神戸の震災によって、本田さんは不治の病によって若い命を落とした。松本君は内容をじっくりと考えながら訥々と、本田さんは林檎のような顔に明るい微笑を浮かべながらきれいな発音で質問していたのが、瞼に浮かんでくる。この場を借りて御両人の御冥福をお祈りしたい。



『ダントンの死』

―1982年9月24日―

義則孝夫 本日はジーゲン大学教授ヘルムート・クロイツァー(Helmut Kreuzer)教授をお招きしてビューヒナーの『ダントンの死』にかんするコロキウムを行います。質問に先立ちクロイツァー先生に先ずお言葉を賜りたく存じます。

クロイツアァー教授 お招き下さり有りがとう存じます。日本にまいりまして深い印象をうけました。大阪と京都で過ごしました日々は忘れられない思い出になりましょう。皆様方がドイツにおいでになったときには、尽力させていただきましょう。 

最初にことわっておかねばならないのですけれども、私はビューヒナーの専門家ではありませんので、皆様方の御期待にどれくらい沿えるか分かりません。ですから、専門家でないドイツの一学者として皆様方の御質問に対してどれだけのお答えができるか、今日はひとつ私をテストして下さい。私自身の学問の方法によってビューヒナーにかんする全体的な真実を解明できると確信していましたならば、私はすでにこの作家にかんする著書を出していたでしょう( ) 。けれども私は、ビューヒナーにかんする他のゲルマニストたちの1980年以降の研究書を持参しております。と申しますのも、新しいこれらの文献がどれくらい迅速に皆様方の図書館に届くのか、私には分からないからです。では、持参しましたこれらの文献を回覧して下さい。必要と判断されましたならば、メモをしていただき、お借りになる場合にはドイツの方へ後ほどごへんそう下さい。同時にまた、ビューヒナーにかんする新しい論文の抜刷のコピーをこれらの著作のいわば補足物として持参いたしました。ビューヒナーのアクチュアルな受容を示す例として、その作品の上演にかんする新聞欄での批評の切り抜きを、同時にその対比例としましては、ビューヒナーにかんするいちばん古い批評をひとつ持参しました。それは、1848年以降法王のように文壇に君臨していた批評家ユーリアン・シュミットのビューヒナー評であります。また、西ドイツ最高の文学賞であるビューヒナー賞を授与された、作家たちの謝辞として披露されているビューヒナー論をも持参しました。そのなかには西ドイツの保守的な歴史家であるゴーロ・マンの謝辞と東ドイツのラディカルな詩人フォルカー・ブラウンの謝辞が含まれておりますが、この二つは、今日の作家がビューヒナーとどのように対決しているかを端的に示す、両極端は例と申せましょう。これらの資料が皆様方のお役に立てば幸いです。ではコロキウムに入りましょうか。御質問をお願いいたします。

義則孝夫 では口火を切っていただきましょう。『ダントンの死』に登場する「民衆の問題」についての質問を佐藤君と田中君にそれぞれ出してもらいましょう。

佐藤和弘 この作品の第1幕第2場でありますが、民衆は貴族に対して本能的に激しい憎しみと敵意を抱いている、ラディカルな集団として描きだされております。この事実に基づいてパウル・ランダウはビューヒナーを自然主義の先駆者と見做しておりますが、先生はこの作家と自然主義との関係についてどのように考えておられるでしょうか、お聞かせ下さい。

クロイツァー教授 グツコーやヘッベルなどの同時代の二三の作家の場合を別にするならば、ビューヒナーのポジティヴな受容は自然主義の作家によって行われはじめました。当時はビューヒナーの作品はまだ上演されてはおりませんでしたけれども、ハウプトマンやヴェーデキントなどの1880年代、90年代の新進気鋭の作家たちはビューヒナーを読んで感激しました。ですから、彼らがはじめて発表した作品はビューヒナーの影響を受けております。この事実は、第一次世界大戦以前のビューヒナー研究ですでに指摘されております。1890年当時若い作家たちにとっては、ビューヒナーは彼らの創作と時代に対してどのような意義をもっているか、という問いが重要でした。彼らがビューヒナーを引き合いに出したているのは歴史的興味からではありません。ビューヒナーがきわめてアクチュアルな作家と考えていたからです。このことは同時にまた、第一次世界大戦当時の表現主義の世代についても言えることです。自然主義と表現主義は、対立していたにもかかわらず、双方ともビューヒナーに典拠しております。このことはさらには20世紀後半の文学の傾向についても言えることなのです。自然主義のパースペクティヴからビューヒナーを観察したとき、表現主義の場合とは別の観点が問題になってまいります。ビューヒナーの『ヴォイツェク』(Woyzeck) の捉え方が自然主義と表現主義とでは著しく異なっていることは、アルバン・ベルクの表現主義の歌劇『ヴォツェク』(Wozzeck) と自然主義の環境劇とを比較すれば、一目瞭然でしょう。けれども、両者にとって同じように重要なのは、『ヴォイツェク』では下層階級の人々が主役になっているという事実、ビューヒナーは革命家であって『ダントンの死』は革命をテーマにしているという事実、それにまた、ビューヒナーにおいては性欲がきわめて重要な役割を果たしているという事実でありました。短篇小説『レンツ』もまた自然主義的に解読できるでしょう。けれども他面、ホーフマンスタールのような印象主義、新ロマン主義の詩人にとりましては、『レオンスとレーナ』の方がはるかに重要な作品となっておりました。

だが、このような諸々の親近性が見出されるのは、傾向、テーマ、モティーフの範囲内だけに止まりません。形式面でもそうなのです。ビューヒナー固有の「開かれた形式」(die offene Form)が、自然主義の作家にとりましても表現主義の作家にとりましても重要になってきたのです。ここでいう「開かれた形式」とは、古典主義の伝統を具現している特定のドラマに見うけられる、「閉ざされた形式」(die geschlossene Form) に対立する史的様式なのです。古典劇の部分部分は厳密な機能性をもっており、その構造は終局に向かって収斂していっており、5脚の「ブランクヴァース」(Blankvers) で書かれ、5幕から成立しております。問題が最初に提示され、たとえば義務と心情との間の場合のような、価値をめぐる葛藤が中央部で起こり、悲劇的な、それともそうではない解決が最後の大詰めの場で見出されるという、軌跡を描いております。古典劇は五つの柱に支えられたアーチのようである、それとも、上昇、頂点、破局への急行下という過程を示していると申せましょう。ビューヒナーのドラマやハウプトマンの『織工』のような自然主義のドラマは、このような古典劇とは異なった形式を具現しております。これらの作品の場合、様々なエピソードや情景が組み合わされており、ある部分では歌が挿入されておりますために、全体としては相対的に独立した部分から構成されております。数々の場面は筋の展開に直接に関係しておりません。状況や人物の行動が解明されてくる手掛かりとなる、環境を示しているにすぎません。先にも触れましたが、「閉ざされた形式」を具現している古典劇の典型的な言語形式は、高雅なスタイルである「ブランクヴァース」でありますが、それとは反対の「開かれた形式」の場合、このよう韻律を踏んだ言語は使用されておりません。ビューヒナーに見られるような卑猥な言葉や、ハウプトマンに見られるような方言での会話のような、汚い言葉が好んで用いられております。ですから自然主義の作家にとりましては、ビューヒナー文学は言語面、形式面で模範となっておりました。形式の完結している古典主義の悲劇の場合、心と頭脳の営みが人間行動で中枢的な役割を果たしております。けれども、頭脳は下半身や胃には無関係に動いているように思われます。ビューヒナーの場合、自然主義の作家が舞台に登場させていた人間、具体的に申しますと、衝動に動かされている人間、性欲と空腹に左右されている人間がすでに登場しているのです。

ハウプトマンのドラマ『ねずみ』では自然主義の詩学がテーマになっております。この作品では役者を演じる役者たちが登場し、シラーの『メッシーナの花嫁』とゲーテのヴァイマルの演劇様式にかんする論争が展開されております。このドラマ自体のなかで提示されている、自然主義のドラマトゥルギーの一例から解読されてくるのは、自然主義の作家とシラーとの関係なのです。この関係が自然主義の作家とビューヒナーとを結ぶ絆となっております。シラーの古典劇はビューヒナーにとりましては理想主義者の原型でありました。つまり、彼が反逆の対象としていた劇形式の原型でありました。ビューヒナーは、古典主義者であり理想主義者である、シラーの対極に位置する作家であると自認しておりました。シラーに戦いを挑んだときに彼の証人となり援助者となってくれたのは、シェークスピアでした。自然主義者たちがシラーの古典主義の伝統や、19世紀後半の演劇界にシラーのエピゴーネンたちが及ぼした影響に対して挑戦したときに証人となり援助者となってくれたのは、ビューヒナーでありました。彼らが引き合いに出したのは、このビューヒナーだけではありません。若いゲーテであり、若いシラーでした。同時にまた、レンツとの関係で証明されているのですけれども、ビューヒナーもまた繋がりをもっていた、シュトルム・ウント・ドランクの劇芸術でした。

作者とその作品にかんする認識と評価は受容する人間の立脚点、着眼点、認識の好みにどれだけ左右されているか、それは文学の動静とビューヒナーとの係わりから明らかになってまいります。そしてまた、ゲルマニスティクの動向からも明らかになってまいります。1945年以降の西ドイツのゲルマニスティクの歴史をここで全体的に振り返ってみますと、その都度それぞれ異なった解釈の方向性が打ち出されております。それは4つの時期に区分けできるでしょう。別の方向性がいつも同時に共存してはおりはしますけれども、批評家やゲルマニストたちの関心の重点の置き所が明示されているという、事実は否定できません。こういう視点から戦後の西ドイツのビューヒナー研究の動向戦後の西ドイツのビューヒナー研究を見ることにしましょう。最初の動向としましては実存主義の文芸学が挙げられます。それはとりわけ1940年代、50年代にいわゆる「存在にかんする問い」  (Seinsfrage)を提起しております。その意図するところは、世界内における人間存在全般、人間の運命、人間の実存の根本状態について文学作品は何を語っているかを認識することでありました。『ダントンの死』にかんするこのような研究例の射程範囲は、レッシングからヘッベルに至るドイツ悲劇にかんするベノー・フォン・ヴィーゼの著作* 、フィエーターのビューヒナーにかんする著作を経てヴォルフガンク・マルテンスのこの作品の研究に及んでおります。こういう研究の場合、悲劇的なもの、ニヒリズム、ペシミズムなどに対するビューヒナーの関係、孤独と絶望を刻印しているビューヒナーの人間像、苦悩の宗教的意義にかんする問いがまず重視されております。

*以下参考文献の項目を参照されたい。

第2の動向は作品の美と形式に解釈の照準を合わしております。それは、先に挙げた動向と同時に起こったものでありますけれども、戦後20年が経過して以来主流となってきました。この動向は作品の芸術的資質に関心の目を向け、芸術の手法、構成、言語様式などを分析しております。その具体例とては、ヘルムート・クラップ、ワルター・ヘレラー、フォルカー・クロッツ、ゲアハルト・バウマンの『ダントンの死』にかんする研究が挙げられます。

第3に「社会にかんする問い」を提起した研究が挙げられねばなりません。それは60年代後半に台頭した動向でありますが、70年代に入ると共に主流となりました。ここでは作者の社会的地位が中心問題となっております。けれども同時にまた、創作の美学のみならず、受容の美学に対しても関心を注いでおります。それは基本的には作品成立の社会的前提条件とその背景の把握を眼目としております。社会や歴史の叙述のなから汲みとれる作品のイデオロギーを究明し、さらには、作品は誰のために書いたものなのか、そして作品はどのような社会的機能を果たしているのか、この複合的な問題を認識しようと試みております。けれどもその際、文芸評価の党派性を断念しようとしているわけではありません。このような社会性中心の研究は、当然のことながら、ビューヒナー文学の社会批評に、そのニヒリズムとの関係よりも共産主義との関係により強い関心を示しております。この範疇に入るものとしては、ゲールハルト・ヤンケ、トーマス・ミヒァエル・マイヤー、ヤーン・トールン=プリカーの仕事が挙げられます。これらの研究は、第三帝国時代の亡命文学の考察からを基点としている、ゲオルク・ルカーチやハンス・マイアーなどのビューヒナー研究の系列に繋がるものです。

ゲルマニスティクの最新の動向は、「新しい主観性」(Neue Subjektivitat)という、70年代に台頭してきた新しい文学の潮流との類似点があると、私は見ております。「新しい主観性」の文学が問い質しているのは、個人の具体的な自己実現、性や家族や政治社会との関係、病気、死の体験のような実存的限界状況、これらの場で個人が直面しているアイデンティティの危機や人生の意味性の危機等であります。ビューヒナーの研究面におきましても、レンツの苦悩にかんする新しい研究が文学のこの新しい動向にとりわけ近いところがありはしないか、と思っております。このような新文学の端的な例として先ず挙げられねばならないのは、ペーター・シュナイダーの『レンツ』です。この小説は、学生運動に参加した若者の人格の危機の経緯を描くことによって、ビューヒナーの同名の短篇をアクチュアルに再生した作品であります。      

田中 治 関連質問をさせていただきます。ダントンやロベスピエールなどの作中の主要人物運命を決定するのは民衆である、したがって、民衆は『ダントンの死』においてはギリシア劇のコーラスのような役割を演じている、とルカーチは解釈しております?                                         先生はこの作品における民衆の役割についてどのようにお考えでしょうか?

クロイツァー教授 作家の民衆の描写と関連づけながら、劇場における民衆の描写の発展の歴史のなかにビューヒナーを位置づけることにしましょう。それから本論に入ることにしましょう。

では民衆がドイツのドラマのなかでいつ頃から中心的役割を果たすようになったのか、振り返ってみることにしましょう。すでにゲーテとシラーの作品のなかでこのことが決定的に実現されております。そしてしかも、シュトルム・ウント・ドランクのドラマにおいてのみならず、『エグモント』や『ヴィルヘルム・テル』などの古典期の作品においてもこのことは特別の効果をあげております。両者とも国民の自由のための戦いを扱ったドラマであります。ヴィルヘルム・テルもクレールヒェンも民衆に対立する個人ではなく、民衆を代表する人物そのものです。双方のドラマにおきましては、民衆はビューヒナーの場合よりもポジティヴに描かれております。ビューヒナー以後、民衆描写の面で最初の第一歩を記したのは自然主義の作家たちでした。ちなみにハウプトマンの『織工』という標題は、ビューヒナーの『ダントンの死』や『ヴォイツェク』の場合のように個人ではなく、階級としての集団を表示しております。『ダントンの死』の登場人物の番付けでは、主人公の名を最初に記してから制度を代表する多くの個人名が列挙されており、民衆はその後に記されております。ワイマル共和国の時代の革命劇には2つのタイプがありました。ひとつはポジティヴな革命集団を扱ったものです。トラーを例にとりますと、革命悲劇『群衆人間』と『機械破壊者』は後者のタイプの作品でありまして、どこかビューヒナーの『ダントンの死』を思わすところがあります。また、『ボイラーから火をかき出せ』というドラマは前者のタイプの代表例でありまして、その標題そのものが集団的・革命的行動を表示しております。このドラマでは行動の担い手である水夫と火夫たちは人物表の最初にまとめて番付されております。彼らはブレヒトのドラマ『母』や『カラールのおかみさんの銃』のなかに登場する革命家たちのように、名前をもってはおりますけれども、このブレヒトの場合と同じように、無名の民衆に対抗する個人ではなく、民衆としての役割を演じております。より正確に言いますならば、ビューヒナーの時代には巨大な集団としてはドイツにはまだ存在してはいなかった、革命的プロレタリア階級を形姿化したものとなっております。

以上申してきたことを念頭において本論に入ることにしましょう。『ダントンの死』のなかの民衆の描写はシェークスピア劇の民衆の場面と無関係でないことは明らかです。『ジュリアス・シーザー』を思い浮かべて下さい。このドラマでは政治抗争の場で雄弁家が四苦八苦して民衆を味方に引き込もうとしております。ですから、民衆はブルータスとマーク・アントニーとの間を右往左往しており、どちら側にも拍手しております。ビューヒナーの場合、民衆の賛同を得るために行われた、ロベスピエールとダントンの演説はこれに類似しております。民衆は荒々しい拍手でときにロベスピエールに、ときにダントンに賛同しています。ロベスピエールが勝ったのは、一考に値する根拠づけを行ったからです。しかしながら、両人にこのように振り回されている民衆は特定の政治的・物質的利害関係をもってはおりますけれども、明確な政治的意志も政治のプロセスに対する独自の洞察を持ち合わしてはおりません。民衆は節操を変えないポジティヴな存在として描かれてはおりません。異なった立場をそれぞれ代表している無名の民衆がいるだけです。プロンプターであるシモンと彼の妻のような、名前をもった民衆がいつもカリカチュアとして一役買っているだけです。しかしそれにもかかわらず、民衆の物質上の不満がこのドラマのなかではたしかに正当化されていると思われます。このような状況下ではビューヒナーがどの立場にもっとも近いのか、ダントンなのか、ロベスピエールなのか、それとも民衆なのか、今までのビューヒナー文献にはこの問題にかんする意見の一致は見られませんが、これは不思議でも何でもありません。第一の見解ではダントンが中心人物であって、ダントンの方がロベスピエールよりも好ましく、さらにはビューヒナーの手紙にも見られるような宿命論的世界観を体現しているということになります。第二の見解が示唆しているところによりますと、ビューヒナーは政治的にはダントンに味方していない、ダントン一派に向けられた、ジャコバン派の政治上の批判が全体の基調音となっているということになります。第三の見解によれば、物質上の安泰を求める民衆の欲求が、ロベスピエールとダントンの政治抗争を扱った、このドラマではすべてを決定する尺度となっており、ダントンが処刑されたのは民衆に対して敵対的態度を表明したからであって、もっとも重要な意義をもっているのは民衆であるということになります。この作品の政治的解釈をめぐるこれら三様の立場間の緊張関係は、従来のビューヒナー文献のなかにすでに見受けられます。ダントンを取り巻くジロンド党を、それとも、彼らに向けられたジャコバン党の批判を支持するのか、あるいは、両者とも民衆の利害関係に十分に対応できなかったので、いずれの党派に対しても距離をもって臨むのか、今後のビューヒナー研究書やビューヒナーのドラマの演出でもこれら三様の解釈が行われるだろう、と私は予測しております。この作品には様々な解釈を許容する余地があります。『ダントンの死』という作品は、これらいずれかの解釈に決めるよう個々の読者や演出家を挑発しております。

では私は『ダントンの死』のなかの民衆の場面をどう解読しているか、率直に申しましょう。けれども、私の見方を絶対化したくはありません。と申しますのも、私の学問的関心の対象は独立したテクストではありません。文学上のコミュニケーションのメディアとなるテクストであり、作者とテクスト、作品とその受容の方法との間の、異なった様々の空間と時代のなかでの相互関係なのです。そこでこの私の見解を申しあげますならば、民衆は比較的ネガティヴなイメージで描かれていると思います。ここに見られのは、気まぐれな殴り合いをする、野蛮な民衆の姿です。そしてその行動は気分次第でありまして、貴族の疑いをかけた通行人を縛り首にしようとする、けれども、その瞬間に機知溢れる応答を耳にすると即座に釈放しております。ビューヒナーが民衆を理想化しはいないことは確かです。むしろネガティヴに描き出してはいますけれども、民衆が物質上の諸々の権利を求めて戦う正当性を認めております。ビューヒナーにとりましては、物質上の正義は、他の人々が享楽的な生活が送れるようにするために、貧困に喘ぎながら働かねばならない人々の道徳的、文化的水準には無関係なものでした。このような物質上の正義こそは価値の中核となるべきものでありました。ダントンと彼の一派は物質上の正義を実現せずに革命を終わらせようとしたことが、このドラマから確認されてきます。ダントン一派は享楽的な生活をしておりますが、これも民衆の犠牲の上に成り立ったものでした。ロベスピエールは、ダントン一派が背徳的と人々に思われるよう仕向けるのに成功たが故に、民衆を自分の味方に引き込むことができました。ダントン一派は民衆が飢えているときに享楽的な生活をしていましたけれども、ロベスピエールは違いました。ダントンに対するロベスピエールの政治上の反論の骨子となっていたのは、「道徳」でした。しかしながら、道徳は享楽を禁止しても、それ自身疑わしいものですし、政治的には不毛です。道徳が民衆のために物質上の正義を実現するはずがないことを、ビューヒナーはここで認識させてくれました。ロベスピエールはギロチンに対して養分を供給しましたが、人間に対してはそうはいきませんでした。

個々の人物について以上申してきましたことは次のように総括できるでしょう。ビューヒナーの見てきたかぎり、フランス革命は貴族を打倒し、市民にパンを与えましましたけれども、ブルジョワジーの下層の人々に対しては正義を実現できませんでした。市民が期待していたのは、政治革命が社会革命というかたちで完成されることでありました。しかしながら、ダントン派もロベスピエール派もこの目標を実現できませんでした。民衆は両派の間に挟まれて動揺しているばかりで、自主的な政治行動を開始する能力を持ち合わしてはおりませんでした。革命はだから挫折します。したがって、以上の相互に異なった三つの政治上の立場は、いずれもビューヒナーその人の見解とは全面的に一致するものではありません。

『ダントンの死』は政治の次元だけで片づけられない作品であることを知るとき、民衆の意義は限られたものであることが判明してまいります。作品解釈の歴史が示してくれておりますけれども、この作品は「性格劇」(Charakterdrama)として、具体的に申しますと、ダントンの複雑な個性を扱ったドラマとして読むこともできます。『ダントンの死』はまた、現実の歴史上の事件を取り上げた歴史劇と見做すこともできます。すると、シラーの場合とは異質な、ビューヒナーの歴史の観方と描き方をこの作品を手掛かりにして研究することもできるでしょう。この作品はまた政治劇とも言えます。と申しますのも、ビューヒナーはここで自分の政治上の体験と意図をフランス革命の描写のなかに織り込んでいるからです。すると、ビューヒナーは何のためにアンガジェしたか、どの党派に組みしていたのか、このような革命の問題とどのように対決していたか、究明していかねばならなくなります。さらにまた、『ダントンの死』は哲学的ドラマとも言えます。宗教的色彩をもった言葉や宗教的観点がこの作品のなかに見つかるからです。『ダントンの死』が問題にしているのは政治や社会だけではなく、死と愛でもあります。『ダントンの死』はこのように多次元的な作品なのです。したがって民衆描写は、ビューヒナーの歴史解釈と政治的意図という

両局面にとって重要な契機にすぎません。

義則孝夫 では別の角度からの質問をお願いしましょう。

三宅博子 このドラマの一幕三場のロベスピエールの演説からも実証されてくるのですけれども、ビューヒナーは当時読んだ歴史の記録をこの作品のなかに引用しております。これは現代文学で頻繁に用いられている、モンタージュ技法を先取りしていると聞いておりますが、先生はビューヒナーのこのような斬新な文学上の実験についてどのようにお考えでしょうか?

クロイツァー教授 私の見るところでは、モンタージュ技法はティークやE.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』などのロマン派の作品ですでに使用されております。ここで目に付くのは、20世紀のアヴァンギャルドの後期の作品に見うけられるような亀裂です。この種の亀裂は、モンタージュが用いられたために生じたものであることは言うまでもありません。異質な素材が組み合わされたために、作品の有機的統一性は失われております。このようなモンタージュの伝統は造形芸術面ではアルチンボルディのマニエリズムまで遡るものであり、モンタージュを形式上の中心原理としていた、キュービズムにおいて第一次世界大戦前にすでに頂点に達しております。第一次世界大戦以後にアヴァンギャルドが用いたモンタージュを見ますと、亀裂や深い断層が目につきます。映画に例えますならば、個々の部分が異質な映像で構成されているのに気付くのです。ビューヒナーにおいても他の作品からの引用がモンタージュとして取り入れられておりますけれども、自分のテクストと他人のテクストが人目につかぬように縫い合わされております。このことは、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』や他の長編小説についても言えることです。マンもまた引用を頻繁に行っております。けれども、マンの引用技法、引用の他の出典について知らない読者にはこのことが分かりません。しかし『ファウストゥス博士』のなかでの引用の出典や出所は、たとえば、それがニーチェからなのか、シェークスピアなのか、その他いろいろと憶測することによって、作品を読む興味が倍増してまいります。と申しますのも、読者は引用が用いられているコンテクストについて、また、引用の選択、新しいコンテクストでの引用の改変とその機能について熟考するからです。けれどもビューヒナーは、形式面でのこのようなギャップによって読者に美的なショックを与えることを考えてはいませんでした。では、どうしてこういうモンタージュを行ったのでしょうか。この問題にかんしては推測しかできませんので、以下いちおうの仮定的根拠を若干挙げておくに止めておきましょう。

ビューヒナーはこのドラマを非常に迅速に書き上げました。ですから、作品のなかに取り入れることができると思われたものはすべて取り入れて、できるだけ迅速に作品を完成して、お金を稼ごうと思っていたと憶測されます。第二の理由として挙げたいのですが、ビューヒナーは現実の歴史にできうるかぎり接近ようと思っておりました。引用されている諸々のテクストはこのような接近を要請しております。事実、テクストの内容は部分的にはフランス革命に参加した人々の実際の言質に基づくものです。ビューヒナーと同時代の人々にはこの事実が分かったのでした。彼の事実への意志はわれわれの世紀におきましては、たとえば、60年代にはロルフ・ホッホフート、ペーター・ヴァイス、ハイナー・キップハルトたちが創始した、記録映画や記録演劇を規制するファクターとなっておりました。第三の動機として挙げられますのは美的性質のものです。振り返って見れば、フランス革命は際立って劇的な時期として歴史の舞台に登場しました。この時期、政治的実践の場で直接に強烈な効力を発揮する、修辞的テクストが多産されました。弁舌家が登場します。彼らは新しいローマ人であると自認し、古代調のパトスで演説します。政治集会や処刑場での大袈裟な所作、ドラマティックな挙動、芝居がかった場面が好きです。ビューヒナーは、このような諸々の契機を識別し、自分のドラマのなかに統合していくことにかけてはまさに達人でした。このことは、ビューヒナーの芸術家としての弱点や独創性の欠如ではなく、彼の芸術家としての卓越した能力を物語るものであります。他の著名な作家たちも、案出された素材のかわりに発見された素材でもって創作するのを好んでおりました。シェークスピア、ローペ・デ・ヴェーガ、ネストロイ、ブレヒトなどはその周知の例と申せましょう。

エーバーハルト・シャイフェレ 関連質問をいたします。じつは、この問題に授業で言及ましたときに、ケラーがハイゼに宛てた手紙を学生諸君と一緒に読みましたが、『ダントンの死』は、まったくの模倣であるが故に、「天才美学」(Genieasthetik) の立場からシラーの『群盗』とは正反対の低い評価が下されております。ところが今日では同じ理由からこのドラマが現代文学の先駆として高く評価されております。そして、ハイネの政治詩のように、ビューヒナーはドキュメント文学を意識的に使用しております。ビューヒナーは、この意味でハイネに似たところがあるが故に、高く評価されるようになりました。このビューヒナー場合、フィクションとドキュメントの境界がはっきりしていない、むしろ覆い隠されておりますがために、ドキュメントを組みあわしているとは言えても、コラージュ、モンタージュという概念規定は適応でないと思います。ビューヒナーのこのような方法に対してはどういう概念規定を用いたらよいのでしょうか?

クロイツァー教授 荒々しい断面の形成や異質なものの結合を眼目としている、キュービストやダダイストたちが言う意味でのモンタージュをビューヒナーは行っておりません。貴方の言われる意味での「組みあわしている」という用語はビューヒナーの「つぎはぎの技法」(Fetzentechnik) に対して用いてよい概念規定だと思います。ところでモンタージュにかんしては、対象を解体する場合と統合する場合との、二つの根底的に異なる技法があるということを念頭に置いておく必要があります。前者の伝統はロマン主義からシュールリアリズムへの道に、後者の伝統はビューヒナー文学から記録文学に通じております。三月革命と自然主義との間の時期の市民時代のリアリズムの詩学は、これら二つの伝統のいずれにも属しません。最初に触れたユーリアン・シュミットの論評は市民時代のリアリストたちのビューヒナー評のなかではまだましな一例です。シャイフェレさんが引き合いに出されたケラーの批評は、ビューヒナーの所属していた1848年以前の文学と、批評ではシュミット、物語作家ではケラーによって代表される1848年以降の文学との間に介在する深い溝を示す、好個の実例であります。市民時代のリアリズムの詩学は前の時代のワイマール古典主義に典拠しております。愛好されていたのは、完結した形式であり、個性的な存在である芸術家が責任をもって創作しなければならない、独創的なフィクションでした。けれどもケラーは他面、シュトゥルム・ウント・ドランクがビューヒナー文学のルーツであるという、正しい指摘を行っております。ビューヒナーはたしかにシュトゥルム・ウント・ドランクと現代劇との間の仲介者でありました。現代劇はリアリズムの時代の彼岸で発展し、われわれの世紀においてはブレヒトによってその頂点を究めました。ついでに申しておきますが、ケラーをはじめとする市民時代のリアリストたちの詩学は、過去の古典主義の美学に依存してはおりましたけれども、彼らの最高の作品はけっして古典主義の模倣ではありませんでした。

義則孝夫 では視点を変えて「歴史の宿命論」にかんする質問を出してもらいましょう。松本 剛 この作品の第二幕第五場でダントンは、「われわれはすべて目に見えない力に操られている人形のようなものだ。われわれ自身はそれこそ無、無なのだ! (37)、とジュリーに語っております。この虚無主義的な告白は婚約者宛ての宿命論書簡の内容と一致しております。と申しますのも、そのなかにこう記されております。「個人は波間に浮かぶ泡にすぎず、偉人も単なる偶然の現象であり、天才の支配もじつは人形劇のようなもの、宿命の鉄の法則に対する笑止千万な戦いにすぎない。この鉄の法則を認識できればそれこそ上出来、それを意のままに動かすなどできる筈がない」(256) 。従来のビューヒナー研究は主としてこの歴史の宿命論を中軸にして様々の解釈を行ってきたと思います。しかし近年、トーマス・ミヒャエル・マイヤーは次のような新説を披露し、ビューヒナー研究に貴重な一石を投じております。トーマス・ミヒャエル・マイヤーは、『ヘッセンの急使』が宿命論書簡のすぐ後に発表されたことを実証し、ビューヒナーの政治活動はこのようなぺシミズムの告白以後に開始されたものであって、『ダントンの死』執筆当時、ビューヒナーは変革への意欲を喪失してはいなかったことを力説しています。先生はこのデリケートな問題についてどのように考えておられるのでしょうか?

クロイツァー教授 私の見るところでは、ビューヒナーの政治的・革命的行動と宿命論との間に矛盾はありません。また、この宿命論のテーゼが意気消沈したビューヒナーの一時の心理状態によるものとも思っておりません。と申しますのも、このテーゼは、何といっても、『ダントンの死』のなかに取り入れられておりますし、ビューヒナーの一連の書簡のなかでも役割を果たしているからです。そしてまた、このテーゼが『ダントンの死』以外の彼の作品や手紙の何処かで反論されているとは見做せません。物事を定式化するとき、その形式や色彩が個々の状況に制約されておりますがために、微妙に変化するこがありますから、宿命論の様々の異なった表れ方が見受けられます。けれども、この宿命論のテーゼが彼の政治上の信条とどうし一致しないということになるのか、私にはその理由が分からないのです。                

「われわれの心のなかで淫売をし、嘘をつき、盗みをし、人殺しをしているのは一体何だろう」(37)という作品のなかの言葉。これは聖書の言葉を変奏させたものであって、じつは、キリスト教の伝統を源としている言葉なのです。しかしこの個所は、私の見るところ、真のキリスト教的意味をもったものではない、唯物論的人間像を表わすものであると思います。人間の行動を善いものにするためには、倫理的洞察と善意だけで十分であると、ビューヒナーが信じていなかったのは明らかです。人間が個人の洞察や意向よりももっと強い力に引きずりまわされている、ということをビューヒナーはよく知っておりました。性欲、飢餓、自己保存欲、これらは個人の範疇に属する契機ではありません。個人の力では制御できない、非個人的・原初的な力なのです。この力はわれわれの内部に存在しておりますけれども、騎士が馬に対するときのように、人間を駆り立てております。ビューヒナーの手紙のなかに次のようなくだりがあります。「少なくとも、悟性や教養ということにかんしては誰をも軽蔑しない。というのも、馬鹿にはなるまい、犯罪者にはなるまいと思っても、自分の力ではどうにもならない。と言うのも、われわれは同じ環境にいたら同じ人間になっていただろうし、環境はわれわれの領域外の存在だから」(253) 。この文言は『ダントンの死』のなかの次のダントンの独白を思い起こさせます。「そうあらねばならない、と呪われている手を呪おうと思うのは誰だろう」(37)。こういう状態から生れてくるのは総体的に受身の姿勢ではありません。愚かさや犯罪を容認してはならない、こういう社会関係を変革しようではないか、という内心からの呼びかけにほかなりません。ちなみにマルクス・エンゲルスの所信に従いますならば、人間が環境によって作りだされているならば、人間性に順応した環境が作られていかねばなりません。

 ビューヒナーに従いますと、社会のこのような諸関係を変革できないことは確かです。これが可能となるのは、歴史の法則性と一致するときのみです。私は以上この作家の宿命論の歴史的・政治的側面について説明してきました。ちなみにヘーゲルは、個人に奉仕する「世界精神」(Weltgeist)が歴史のなかで展開している、と定義しております。ここでは個人は「世界精神」の器官であって、歴史の発展の舵手ではありません。またマルクス主義者たちは、逆転できない歴史の必然的な経緯を知っておりました。彼らによれば、時代は封建主義から資本主義を経て社会主義に移行するものであって、個々の時代は生産力と階級闘争の段階によって制約されております。ビューヒナーはヘーゲル主義者でもマルクス主義者でもありません。歴史上の出来事はその根底で支配している「鉄の法則」(das ehrne Gesetz)によって規制されており、人間はこの法則を認識することしかできない、歴史を左右することなどは凡そ不可能である、と宿命論書簡のなかで告白しております。ビューヒナーは、ヘーゲルやマルクスとは異なり、目的論に対しては懐疑的でしたし、歴史の発展には理性が内在しているという信仰を持ち合わしていませんでした。しかしながら、ビューヒナーがこの両人と共有していたのは、歴史の全体的な歩みは個人の願望、欲求、努力に対しては無関心である、という確信でした。革命は思うように実現できはしない、可能なのは革命のための客観情勢が熟しているときのみである、という考えは彼の歴史把握のなかにも含まれております。このようなポジティヴな革命状況が見られなかったので、ビューヒナーは、ギーセンからの逃亡後、政治活動を止めたのでした。作中でのダントンの次の独白はこの事情についても言えることです。「われわれが革命を生みだしたのではない。革命がわれわれを生みだしたのだ」(29)。ダントン派は革命にとっては無意味な存在ではありません。ダントン派の人々の存在理由は、われわれこそ革命的状況の代表者であり革命の指導者であるという所信にあったのです。けれども、ダントン派の人々は与えられた状況を好き勝手に無視したり、変えたりすることはできません。彼らは集団運動特有の動力学を自由に操ることも、無効化することもできません。彼らは歴史を支配する人間ではありません。せいぜいのところ歴史を実践する人間にしかすぎません。彼らにできることと言えば、行動することしかない。状況の提供してくれる可能性に従うか、それに抵抗するかのいずれかです。彼らは自分たちの行為の帰結から逃れることも、彼らが招いた状況を無くしてしまうこともできません。しばらくの間ですけれども、ダントンは革命の波に乗って頭角を表わしていきました。彼は九月の大虐殺を行うことによって、革命を救い、促進してきました。しかしながら、このような虐殺行為にかんする道徳的呵責に耐えられなくなりました。個人はこのように自己自身と他人に対して倫理的判断を下します。彼の宿命論はこのことを無視してはおりません。個人は天才、享楽者、犯罪者、革命家等のいずれかになりうる環境を自分で選ぶことはできません。けれども、この事態においても個人の知的、倫理的、政治的見解の相違は無くなりはしません。カミューの言葉をみても分かるのですが、ダントン派の人々は悪漢と天使、馬鹿と天才を見分けております。彼らは自己自身に対して倫理的判断を下しています。ダントン派の一人であるラクロアは自分の仲間をやんちゃ坊主と呼んでおります。ビューヒナーは、たとえば、カミューとラフロットなどの登場人物の間に見られる、道徳的格差を明らかにしております。ビューヒナーは、人物を測定する一種の尺度を作中に取り入れております。けれども、ドラマのなかの大抵の人物は、状況が変わってくると必ずしも同じように善良であり、同じように邪悪であり、同じ見方をするとは限りません。この現実はビューヒナーのリアリズムと共鳴しておりました。したがってダントンもまた、受動的態度と能動的態度、享楽と絶望、革命のパトスと死への憧れの狭間で動揺しております。彼は自分の政治状況を悲劇として体験しております。革命は彼の政治的実存の内容のすべてとなっておりました。彼はこの革命のために虐殺を行うべきだと信じておりました。けれども、このテルミドールの大虐殺によって罪を犯したのではないか、と思案しはじめました。表向きには正当防衛と弁明してはおりましたけれども、彼は自分のこの行為に悩んでおりました。そして結果的にはその犠牲となりました。彼の敵対者ロベスピエールもまた同じように犠牲になり、ギロチンに上りました。両人とも、宿命論書簡に引用されていた聖書の次の文言を引き合いに出しております。「躓くことは必ず来るべし。されど躓きをもたらす者は禍いなるかな」(37)。これは裏切者のユダに対してキリストが言った言葉です。キリストが救世主として死ぬようにするためには、裏切者がいなくてはなりません。だが、裏切者になる人間はそれこそ「禍いなるかな」です。キリストは十字架に磔けにされました。しかしながら、十字架にキリストを連れていかなければならない人間は「禍いなるかな」です。これはキリスト教の歴史把握の逆説的観点にほかなりません。ダントンもロベスピエールも、革命の歴史のなかでの彼らの役割がこのような逆説に裏付けられていることに気付いておりました。彼らは自己自身をイエスと比較し、イエスよりも困難な役割を果たしていると主張しております。イエスは犠牲者にならねばなりませんが、殺人者や死刑執行人の役割には無関係ですので、ダントンは「十字架に磔けられた人間は楽をしていた」(37)という軽蔑の言葉を吐いております。血まみれの救世主を自任しているロベスピエールは「イエスは苦痛の快楽を、自分は死刑執行人の苦痛を味わっている」(28)  と告白しております。ダントンにはこのような役割をする気持はありません。だからこう言います。「人の首を斬るよりも自分の首を斬ってほしい」(29)  。ロベスピエールは死刑執行人の役割を引き受けておりますが、彼もまたこの役割の犠牲になりました。ロベスピエールは第一幕の終りで心中をこう吐露しております。「彼らはみな俺から去っていく― すべては広漠として空虚だ    俺は孤独だ」(28)。この独白から示唆されてまいりますが、ロベスピエールは、ダントン派を処刑する以前より処刑という行為に悩んでおります。けれども、政治の場での殺人行為は単なる政治から行われるものではありません。虚栄、権勢欲などの他の動機が混じり合っておりますがために、政治上の諸々の論点がドラマ化できるのです。ビューヒナーがここでこ提示したのは以上のような問題でした。「私の心の底のどっちがどっちを騙しているのか分からない」(25)。ロベスピエールのこの告白から伺われるような他の動機を具象化してくれるのがドラマです。この作品は以上のような観点をも具象化しておりますので、コーベルやヴィトコウスキーなどの研究者の解釈によりますと、『ダントンの死』は心理学的性格劇、リアリズムの歴史劇、政治上の問題劇だけには止まらない、一種の宗教的悲劇とも考えられております。大抵の解釈者はビューヒナーを無神論者と見做しておりますが、ヴィトコウスキーは、不可避な罪を犯したがために人間を裁く神の存在をもこのドラマのなかに見出しております。ところで無神論者の問題はどう解読すればよいのでしょうか。苦痛は「無神論の岩(der Fels des Atheismus)(44)という作中のトーマス・ペインのテーゼは誰のものなのか、トーマス・ペインのものなのか、ビューヒナー自身のものなのか、それとも、「苦悩を通じて神の身許へ」という、ビューヒナーが臨終に洩らしたといわれている言葉をヴィトコウスキーと共に真剣に受け止めるべきなのか、その決定がこの問題の解読を左右しております。

義則孝夫 この問題について関連質問がありますでしょうか。

北村次一 ダントンの悲劇は社会的次元の問題と解するべきではないでしょうか。と申しますのも、フランス革命は社会的コンテクストから把握されねばならないからです。この作品のなかでは、先に御説明されましたとおり、聖書から度々引用されておりますが、この種のキリスト教にかんする事項も社会的問題として取り上げるべきだと思いますが、先生はどのようにお考えでしょうか?

クロイツァー教授 御意見に賛成です。ダントンとロベスピエールが自分の意向を表明するために行った、聖書からの引用は歴史的、社会的刻印を帯びた個人の意向の表明となっております。ビューヒナーの時代やフランス革命の時代におきましては、キリストとキリスト教をめぐる論争は重要であって、理神論にかんする問いが中心問題となっていました。『ダントンの死』でもこのことは、たとえば、エベール派に対する攻撃が行われている場面からも明らかになってまいります。ロベスピエールはエベール派と対立しております。対立したのは、エベール派の人々が無神論者だったからです。革命の党派内では政治や社会のみならず、神学や宗教が問題になっておりました。同じことがまたビューヒナーの時代についても言えるのです。彼の時代の文学の宗教的色彩のきわめて濃いものでした。キリスト教徒ではない作家たちも、聖書の文言やモティーフがしばしば出てくるがために、聖書の知識がなければ分かりにくい作品を書いております。ビューヒナー生誕と同じ年である1813年に神学者キルケゴールが生まれております。ヴァーグナーも生まれています。ヴァーグナーの作品においては多くの中世キリスト教のモティーフが展開されております。この年にはフードリヒ・ヘッベルも生まれています。彼の処女作『ユーディット』はキリスト教的テーマを扱っておりますが、作者は聖書を半分程は暗誦できたと言っております。ドイツの作家が聖書からどれほど多く影響を受けているか、キリスト教の反対者や無神論者であっても、この事情は変わらなかったということは、ブレヒトを研究してみても分かります。ブレヒトがギムナジウム時代に最初に書いたドラマは、ヘッベルと同じように、聖書の「ユーディット」を素材にしております。1920年代のことでありますが、ずっと以前から無神論者となっていたブレヒトは、文学上もっとも強い影響は何から受けたか、という質問に対してこう答えておりました。お笑いになるでしょうが、聖書です、と。キリスト教に反対であるや、否や、理神論者なのか、無神論者なのか、このことは別にして、ドイツの作家はキリスト教から離脱することはできませんでした。ですから、ビューヒナーの無神論、決定論は反宗教的なものなのか、それとも宗教的背景をもったものなのか、この問題についてはそう簡単に決着がつけられません。そういうわけでビューヒナーの研究は今後とも双方いずれかの立場をとるだろう、と推測しております。                 ところで皆様方の御質問を聞いておりますと、皆様方はビューヒナーについてどのようなイメージをもっておられるのか、私はますます知りたくなってまいりました。私の文学史の方法はテクストだけではなく、文学のコミュニケーションを問題にしております。私の学問的関心の対象は作品だけではなく、作品と人間とグループとの間の相互の係わりなのです。今取り上げている『ダントンの死』を一例としますならば、このドラマと20年代の研究者、もしくは今日の日本のゲルマニストとの間の相互の係わりなのです。でありますから、19世紀前半に書かれたこのドイツ語のテクストを自己の状況を基点にしながらどのように考察しておられるのか、また、このテクストを自己自身の状況と実存にどのように関連づけておられるのか、皆様方にお伺いしたいのです。私は解釈の権威としてではなく、文学のコミュニケーションの場での対話のパートナーという資格でこのコロキウムに参加し、ドイツのゲルマニストがこのドラマを読んだ場合の一例を提示しているわけですから。質問される方々はひとつの解答のようなものを念頭に置いておられるはずと思っております。それが私のお答えと一致するかどうか、お伺いしたく存じます。

義則孝夫 御配慮の行きとどいたお言葉に感謝します。今はとにかくクロイツァー先生から学ぶことにしましょう。ビューヒナーを研究対象にするときには、様々なパースペクティヴから観察していかなければならないことは言うまでもないでしょう。では別のパースペクティヴからの質問を順次出して下さい。

山口  先生もすでに触れておられましたが、この作品における性愛の問題についてお伺いいたします。事実、この作品をよむと猥褻な描写にしばしば出くわします。1960年代にラインホルト・グリムがビューヒナー文学における性愛の問題を本格的に取り上げるまでは、この問題はそれほど重視されてはいませんでしたが、作品の全体的把握という見地に立つならば、それは片手落ちだったと言えはしないでしょうか。また、先の歴史の宿命論にかんする関連質問なのですけれども、この問題にかんする新しい資料の発見についてコメントしていただけないでしょうか?           

クロイツァー教授 私の見るところ、ビューヒナー研究の数々の局面での新しい成果を今後期待してよいと思います。一例を挙げますならば、聖書からシェークスピアを経てロマン主義に至る伝統とビューヒナーとの関係を考察したものがあります。この局面での研究が如何に生産的であるかということを、ビューヒナーにおける性愛の諸形象にかんするラインホルト・グリムの論文は明示しております。『ダントンの死』の冒頭の文言は性愛の隠喩法の一例と解せます。愛の言葉や愛のテーマは、多彩なヴァリエーションを展開しながら作品を終始貫いております。それにもかかわらず、2、3年前までは愛の諸形象の研究の必要性はそれ相応に提唱されはしませんでした。この作品の言語が同時に聖書の形象や言葉によって規定されていることについては、先に御説明したとおりですし、『ヘッセンの急使』は聖書の形象を徹底的に使用していることはすでに指摘されております。ビューヒナーは、御存知のように、民衆の飢餓と宗教的ファナティズムこそ革命の唯一の起動力であると見做しておりました。だがそれにもかかわらず、このような形象面を注目しはじめたのは70年以降です。ビューヒナーの世界におきましては革命と宗教、宗教と性愛、性愛と革命は密接に結びついております。また、その他の重要な形象としましては、劇場、遊戯、仮面、人形劇の領域に属するものがあります。象徴、隠喩法、形象の諸領域の相互の組み合わせにかんする、体系的な研究が行われるようになりますならば、さらに新しい成果が生まれてくるでしょう。

次の御質問にかんしては一つの示唆というかたちで付言させていただきましょう。ビューヒナー文学の歴史的基盤の研究面で開拓すべき分野があり、それなりの成果が期待できることは、トーマス・ミヒャエル・マイヤー、ゲールハルト・シャウプ、ハンス=ヨアヒム・ルックヘーブレの業績が証明してくれております。彼らの仕事は、多くの未知の出典や主として歴史的資料に照明の光を当ててくれた70年代の例であります。新しいビューヒナー像の確立の指針となる、これらの資料は今や正当に評価されるようになりました。また、ビューヒナー受容の歴史の研究も70年代にはとりわけ盛んでして、新しい資料が発掘されました。ビューヒナー受容の歴史の研究にかんしては、今までは文芸学者、批評家、作家、劇壇人による受容の問題に限られておりまして、観客や専門家でない読者の現実体験に基づく受容の研究はまだ行われていないという現状です。

飯森信哉 このドラマの最後の場面にかんしてお尋ねいたします。最後の場面でカミーユの妻であるリュシール はギロチンの下に座っておりましたが、パトロールしていた人間に呼び止められたとき、『国王万歳』68)と叫びました。このとき彼女は王党派とみせかけて夫と運命を共にする覚悟を決めておりましたが、フィエートアはこの結末を古典劇の範疇に属する場面と解釈しておりますけれども、他の解釈の可能性はないのでしょうか。

クロイツァー教授 「国王万歳」という、このドラマの終末でのリュシールの叫びは、もちろんのこと、ビューヒナーが王党派に組みしたことを意味してはおりません。それにまた個の問題ついては異なった意味づけが行われていると言えましょう。リュシールは夫カミューの投獄と死によって狂気と紙一重の状態に陥っており、非理性的に振舞っていたことが指摘されるでしょう。心理的に解釈すれば、このように言えるでしょう。

中心問題として次に重要なのは、このような人の意表をつく結末がこの革命劇に強烈な効果を与えているという構成であります。このような構成によってこの場面はまさに審美的機能を果たしております。愛は感動的な終末に到達します。リュシールは、ジュリーと同様、夫に従い共に死のうとしております。彼女の叫びは決定的に確実な自殺の手段になっております。彼女は夫と共に断頭台に登ろうとしていたことは明白です。そのときには、死刑にしてくれるよう挑発する方が自殺するよりも容易です。このようなモティーフはヘッベルの『ユーリア』や『ヘローデスとマリアンネ』にも見受けられます。『ダントンの死』の最初の部分を規定している、性愛のテーマがリュシールの愛の死によってその終結部を規定しているところが、私には重要と思われます。こうして性愛のテーマは政治行動に枠組みを与える手筈となっております。初めの部分ではこのテーマはトランプ遊びに結びつくことによって、それ自体遊びの性格を、結びの部分では死と結びびつくことによって、きわめて厳粛な性格を具現しております。こういう構成によって、初めの部分と結びの部分との間の空間で愛のヴァリエーションというスペクトルが展開されております。ビューヒナーは、数人のダントン派の人々と売春婦たちとの関係を規定している、物象化した野蛮なセックスを読者の眼前に突きつけております。性はこの場合ダントン派の人々にとっては、性を生計手段にして両親と自分自身を養っているシモンの娘たちの場合と同じように、商品であり労働なのです。その対極をなしているのが、理想化されているとも言える、マリオンの「自由恋愛」、具体的に申しますと、享楽と自然という非個人的な性愛であります。そしてもう一つの対極となっているのは、自ら進んで夫の死に従う、リュシールとジュリーの絶対的な夫婦愛です。これらの愛の行為が示唆しているところに従いますならば、人間は政治動物に尽きるのではけっしてない、愛の場では人間の生死が問われ、人間のもっとも高い境地の快楽ともっとも深い意味での幸福の可能性が啓示されてまいります。作中の愛の行為という見地からすれば、『ダントンの死』はクライストの『ペンテジレーア』とヘッベルの恋愛悲劇の中間に位置づけられる作品と言えます。これらの作品は、古典主義の伝統を基盤としている、恋愛劇からはかけ離れております。しかしながら、人間の動物性、衝動性、肉体的性欲を特別のテーマとはしてはいないけれども、厳粛な愛の感情や理想的な愛の圏外にある、性愛の領域に鋤を入れていた、このビューヒナーの姿勢こそはクライストやヘッベルよりもはるかにラディカルでした。こうしてビューヒナーは、性愛と神の絶対愛であるアガペー、非個人的で生理的な衝動と男女の衷心からの結びつき、これら対極的な双方を包括する愛の全体的可能性を提示してくれたのです。

クロイツァー教授 残り時間も少なくなりました。個々の問題にかんする質問はいちおうここで打ち切り、様々な局面でドイツの現代作家たちにとってもっとも身近な存在となっている、ビューヒナーを現今の文学研究の場でどのように位置づけていくかという、アクチュアルな問題に論点を移して質問を2つだしてもらうことにいたしましょう。

新宮 潔 先生の論文『60年代の西ドイツの文学概念』を読ませていただきましたが、先生の文学理論におきましては文学の受容、コミュニケーション、有効性の問題がとりわけ重要であることが分かりました。ビューヒナーがきわめてアクチュアルな作家であることを、先生はお答えのなかで実証してこられました。ビューヒナー文学のアクチュアリティについて先生は自己の文学理論に基づいてどのように考えておられるのでしょうか?

クロイツァー教授  ビューヒナーの受容にかんしましては、二つの方向性があります。一方はこの異色作家のアクチュアル化を、他方はその歴史化を眼目としております。60年代にはゲオルク・フォン・モーゼルが『レンツ』を映画化したり、ガストン・サルヴァトーレのドラマ『ビューヒナーの死』、ペーター・シュナイダーの小説『レンツ』のように、ビューヒナーを文学作品の主人公にすることによって、ビューヒナーのアクチュアルな再創造が行われました。ペーター・シュナイダーは、レンツの心理学上の問題を政治問題に関連づけることによって、ビューヒナー文学をアクチュアルに活性化しております。60年代におきましては『ヘッセンの急使』の作者ビューヒナーがとりわけアクチュアルな存在でした。70年代に入ると知識人たちはノイローゼや精神分裂症などの精神病的危機に直面し、疎外と人生の意味の発見が彼らの切実な課題になってまいりました。すると、『レンツ』に対して熱い関心の目が向けられはじめました。ペーター・シュナイダーの創作したレンツは、反体制運動に参加しましたけれども、疎外という苦境に陥入りました。当時の多くの文学作品の主人公と同じように、恋人に捨てられ、コミュニケーションの欠如という危機体験に日夜悩み続けておりました。やがて、イタリアに旅行することによって蘇生しようと試みました。現代の作家たちは自己の実存の状況をビューヒナーに投影し、その作品のなかに自己の体験や問題意識を再発見しております。ビューヒナーをアクチュアルに再生しようとする試みはまだ終わってはいない、現在は言うまでもないが、自己自身にかかわるものと思われる芸術上の形式や問題意識は、今後ともビューヒナーの世界のなかに見出されるに違いありません。ゴルトシュニックは、1880年から1975年までの期間においてビューヒナーがアクチュアルに再生されていく過程を叙述しております。ゼングレのビーダーマイアー時代にかんする大著のなかでは、ビューヒナーの持続的な影響は問題にされてはおりません。王政復古と革命との緊張関係が続いた時期である1830年代におけるビューヒナーの位置づけという、別の問題が取り上げられているだけです。ビューヒナーをどのようにアクチュアルな存在にするかという、問題について示唆した後に取り上げねばならないのは、ビューヒナーの歴史的位置づけであり、ビューヒナーはどのような形姿で彼の時代に属していたかという問題です。すると、その時代に典型的だった、以下のような一連の諸現象がビューヒナーにも見出されるのに気付くのです。19世紀においてはフランス革命は著作家にとりましても、劇作家にとりましてもけっして異常な素材ではありませんでした。今日われわれにとっての第二次世界大戦の場合と同じように、フランス革命はビューヒナーにとりましては40年前の出来事でありましたけれども、1830年の七月革命によって再びアクチュアルな問題となってきました。さらにまた精神史的観点が加わってまいります。階級的対立という社会問題は産業革命の初期に先鋭化されてきました。ビューヒナー生誕と同じ年に、ハイデガー、ヤスパース、サルトル、カミューたちの実存主義に深い影響を与えた、キルケゴールが生まれております。キルケゴールは40年代にイロニー、不安、恐怖、退屈、審美的快楽、形而上的絶望にかんする著作を発表しております。キルケゴールはキリスト教の信仰の逆説によって絶望を克服しようと試みました。同じ年にマルクスは、資本主義社会における「人間性の自己疎外」、「哲学の貧困」、「プロレタリア革命による世界の変革の必然性」にかんする草稿をパリで作っております。1848年には『共産党宣言』が発表されました。二十世紀において実存主義と呼ばれているもの、マルクス主義、それとも唯物論の哲学、社会主義的、共産主義的革命など、これらのプログラムの端緒が開かれたのは、ビューヒナー没後の時代でありました。1939年にはチャーチスト運動がイギリスで行われはじめ、フランスではフーリエ、ブランキなどによって社会主義的、共産主義的思想の伝統が確立されました。同じ時代にドイツでは、ビューヒナーが読んでいなかった、フォイエルバッハが唯物論の哲学と宗教批判の哲学を論拠づけておりますが、それは異なったかたちでマルクスによって継承されていきました。感覚主義と心霊主義、無神論とキリスト教、肉の解放と道徳の対立の問題との対決は、当時の作家たちの、とりわけ「若いドイツ」の作家たちの焦眉の関心事となっておりました。また同時代の大学におきましては現代の自然科学の立場が確立されました。ビューヒナーが学び、現代科学の始祖であるユストゥス・リービヒが自然科学の分野の指導者となっていた、ギーセン大学でもそうでした。オーケンのロマン主義的な自然哲学に依存して、実験を行っている医師は『ヴォイツェク』のなかで皮肉に戯画化されていますけれども、ビューヒナーは文学や哲学に止まらず、自然科学に対しても関心を抱いておりました。ビューヒナーはまたドイツ国内のみならず、フランスの論説も調べております。ヘッセン地方のみならず、アルザス地方やスイスでも政治的、社会的体験を重ねておりました。ヴィクトル・ユーゴーなどのドラマを翻訳しております。ビューヒナーとミュッセとの間のパラレル関係もすでに実証されております。『ダントンの死』や『レオンスとレーナ』のなかで点描されている、「倦怠」(ennui)、「世界苦」(Weltschmerz) 、包括的な意味での退屈の苦しみなどは、レオパルディやレーナウなどの同時代の作家たちに共通する問題でもありました。古典主義の伝統に対する美的形式面での反逆は、何もビューヒナーにのみ見られる現象ではありません。彼より前に生まれたグラッベの作品にも見受けられます。ビューヒナーの喜劇『レオンスとレーナ』は、グラッベの喜劇『冗談、風刺、皮肉および一層深い皮肉』と同じ標題にしてもよかったであろう作品でした。ビューヒナーと同年輩の青年ヘッベルは『ダントンの死』に感心しております。彼もまた性や社会の問題を「三月革命前」の時代のドラマで扱っております。そして1848年以降はじめて、イアンボスの韻律を踏む雅文という古典劇の伝統を更新しようと試みました。市民時代のリアリストたちはこういう方法でドラマの分野で古典主義の伝統の世界に復帰しておりました。

政治面でも世界観の面でもビューヒナーにもっとも近かったのは、「若いドイツ」の作家たちでありまして彼らの一人であるグツコーとビューヒナーの接触はとりわけ緊密でした。けれども、「若いドイツ」のリベラルな知識人たちは言葉を政治や宗教批判の武器としておりました。このように啓蒙主義の伝統を受け継いでいる彼らは、社会の変革を実現するのは言葉の力であり、教養ある人々へのアピールであると考えておりました。けれども、ビューヒナーは別でした。ビューヒナーは上からの革命に不信感を抱いており、下からの革命を望んでおりました。社会革命の中核となるのは教養人ではなく、大衆にほかならない、そして、社会革命に梃入れをしてくれるのは教養人の文学ではなく、無教養な大衆の飢えと宗教的ファナティズムにほかならない、と確信しておりました。この局面からすれば、ビューヒナーは「若いドイツ」、啓蒙主義、リベラリズムの伝統を超えており、後期のマルクス主義や今日の第三世界での革命に至る方向性を示唆しておりました。けれども、ビューヒナーの革命の概念は今日のように産業社会の現状に適用できません。飢えと宗教的ファナティズムが革命に梃入れをしてくれる唯一無二のファクターであるならば、今日のように産業化された国々に革命が起こるとは到底考えられません。産業社会のシンドロームとして問題になってくるのは、疎外現象であり、意味性の欠如にほかなりません。このことは同時にまた、革命運動に身を投じ、危機状況からの脱出を計っている知識人についても言えることです。飢えてもいないし、宗教的ファナティズムをも持ち合わしていなかった、ビューヒナーについても言えることでしょう。

ビューヒナーはつねにアクチュアルに再生されております。その素因は、彼の時代の諸々の問題や矛盾が現在もわれわれの時代に関係してくる、という事情から説明できましょう。ビューヒナーはその時代を生きぬき、現代もなおアクチュアルな当時の時代体験と緊張関係を芸術作品のなかに形姿化しておりました。だからこそビューヒナーは、歴史上の人物としてではなく、われわれの時代の人間として受け入れられることができるのです。ゲーテとビューヒナーの革命劇を並べるよりも、ビューヒナーとペーター・ヴァイスの革命劇を並べた方がわれわれには説得力があるでしょう。シラーの『鐘の歌』の革命描写などはここではおよそ問題になりません。フランス革命にかんするドラマを書いたペーター・ヴァイスは、ビューヒナーの世界に意識的に戻っていくことによって、60年代に劇場で最高の成功を収めてた作品『マラーの迫害と暗殺』を書きました。このドラマは、引用による問題提起という意味で『ダントンの死』に繋がっております。サド候爵、革命家マラー、民衆との間の対立はビューヒナーの場合とよく似ております。社会革命を貫徹しようとしたマラーに作者が味方していることは一目瞭然です。しかしながら、革命が世界と人生を変えることはできない。したがって、生に対する嫌悪感から自己を抹殺することこそは、人間が自己の実存的閉塞状態から抜け出す最終の帰結となる。形而上学的懐疑主義者であり厭世主義者であるサド候爵はこう明言しておりますが、マラーに対するこの反対意見に十分に対決できる、形而上学的反論はこのドラマでは披露されてはおりません。

本田賀洋子 では最後の関連質問をさせていただきます。文学のコミュニケーションを専門領域としておられるクロイツァー先生は、ビューヒナーをどのように文学史的に位置づけづけられておられるのでしょうか?

クロイツァー教授 私はペーター・ヴァイスの例を挙げて、ゲオルク・ビューヒナーの受容と影響の歴史はまだ完結していないことを指摘しましたが、貴方の御質問の内容はこのことに関連しております。まずビューヒナーの著作活動をしていた1830年代を振り返ってみましょう。ビューヒナーは長年誤解され、後の時代に再発見されたというのが、文芸批評一般の通説です。これはそうなのですが、ほんとうに正しい定式化であるとは申せません。生前は軽視され死後始めて評価された、芸術家を扱った小説や映画に付随するステロタイプ的な見方、言い換えますならば、ロマンティックなイメージが少し混じっているからです。では事実はどうだったのでしょうか?若いある男、一人の学生が処女作を同じ年代ではあるけれどもすでに著名なある批評家に送りました。この受取人はこの見知らぬ人間のためにできるかぎり尽力しました。ビューヒナーの作家としての力量を認めていたからです。自分よりもすぐれた作家と見做し、同世代の作家のなかでもっとも高い地位を与えました。この批評家は「若いドイツ」の指導者の一人だったカール・グツコーなのです。彼はこの作品が出版されるよう取り計らいました。この作品の政治のモティーフではなく、セックスにかんするモティーフを理由に出版社が難色を示しました。グツコーはビューヒナーと一緒にこの作品に手を加え、出版されるようにしたいと思いました。というのも、文学上の根拠からも、政治上の根拠からも『ダントンの死』を出版することが重要である、と判断したからでした。ところがビューヒナーはこの作品を修正しませんでしたので、グツコーが手を加えた上で新聞紙に掲載され、その後単行本として出版されました。この本は論議を巻き起こしました。出版社は売れ行きに満足しました。ビューヒナーは、他の作品はどれひとつ出版されぬ間に、24才という若さで他界しました。1848年以降、文学の新しい動向が台頭してきました。「若いドイツ」や「三月革命前」の文学は手厳しく批判されはじめました。1850年にビューヒナーの作品が新たに出版され、ユリアーン・シュミットが批評しましたけれども、以後10年間ビューヒナーは事実上忘れられておりました。

したがって、ビューヒナー再発見の道が開かれたのは70年代の中頃、自然主義台頭以降のことでありました。1879年、ユダヤ人のカール・エミール・フランォースガ、未完のドラマ『ヴォイツェク』をはじめて取り入れた著作集を出版しました。以来、ビューヒナーは先の申しましたような影響を及ぼしはじめました。

しかしながら、ビューヒナーが表現主義の最盛期に上演され、その名が広く知られるようになるまでには、少なくとも30年はかかっております。以後ビューヒナーの名声は急速に高まっていきました。その際、革命家ビューヒナー、現実主義者ビューヒナー、それとも、人生に悩む芸術家ビューヒナー、具体的に申しますと、幻視家ビューヒナー、雰囲気の芸術家ビューヒナー、厭世主義者ビューヒナー、これらのいずれかの形姿が歴史状の状況や、演劇人、批評家、研究者たちの基本姿勢に即して強調されております。これらの受容は、当然のことながら、テクストという複合体を全体的に把握してはおりません。しかしながら、舞台で上演するときにはテクストの全体的把握はできません。反面、研究面では解釈の可能性の射程範囲を考慮し、様々な解釈の可能性を客観的に認めなければなりません。しかし演出となりますと、ひとつの解釈に照準を合わさねばなりません。善玉をダントンとするか、ロベスピエールとするか、それとも、民衆の苦境と定見の無さを強調するか、リュシールの逮捕を共和国の名において冷酷に描くか、さらにまた、「国王万歳」という彼女の叫びを政治的抗議と、それとも愛と死と見做すのか、これらの解釈のいずれを取るかによって、ビューヒナーの後世への影響は決定的に変わってまいります。

けれども、ドイツ文学研究の場でビューヒナーを取り上げるときには、一義的な解釈を手軽にすることはできません。この事態は個々の作品が複合体となっていることによるものですけれども、それだけでは片づきません。次の事情が付随しているからです。ビューヒナーはきわめて寡作な作家でありまして、なかには断片的な作品しかなく、その日記も紛失しており、作者のほんの僅かな注釈しか残っておりません。はるかに長生きをし、はるかに多くの作品を書いた他の作家の場合には、いろいろ比較できます。その諸々の作品の相互関係を解明できます。けれども他面、『ヴォイツェク』や『レンツ』などの作品は、未完であるが故にこそ様々な解釈を可能にしております。だからこそ、未完のテクストの影響力がそれこそ強烈なものとなり、現代作家に特別の刺激を与えたのです。もしも『ヴォイツェク』が完成されていたならば、このような大胆な形式をもったものにはたしてなったでしょうか?具体的に申しますならば、明白な因果関係のない多くの場面をもち、表現主義の作家たちが駆使したような「断片の美学」の技法によって構成される結果になったがために、未解決のまま終わる作品となったのでしょうか?このことについては何も申せません。けれども、こういう未完の形式の作品となっていたからこそ、この『ヴォイツェク』という作品はブレヒトのような現代作家にとっては魅力的だったのです。                            けれどもまた完結した作品は、『ヴォイツェク』の場合とは反対の手筈で影響を与えております。多くの読者にとりまして『ダントンの死』は革命を描いた作品ではなく、革命的な作品だったのです。社会革命というかたちで政治革命を貫徹するよう、訴えた作品と解読されたのでした。けれども、ダントン派の人々もジャコバン派の人々も「革命のごろつき」として描き出した、ビューヒナーの強烈なリアリズムは同時に反革命的にも作用しておりました。同じことがまた『レオンスとレーナ』についても言えるのです。レオンスは貧乏人の汗と労働によって生きております。するべき仕事がなく、政治的状況をそのまま維持することしか考えておりませんので、退屈しております。この作品を封建主義を風刺した作品と解釈するならば、レオンスは王子のカリカチュアと考えられるでしょう。同時にまた、レオンスのメランコリーのなかにビューヒナーのメランコリーを、そして、その退屈のなかに、例えば非条理演劇が浮彫りにしているような、空虚な世界における人間の苦悩を読みとることもできるでしょう。ですから『レオンスとレーナ』は、社会風刺劇、それとも非条理演劇という、これら二様の解釈に基づいて実地に上演されております。

ビューヒナーが影響を与えた素因としてさらに挙げられるのは、その人生そのものから発する魅力です。それはある意味ではヘルダーリンやクライストの場合と似通っておりますので、この両詩人にかんする作用史はビューヒナーのケースと様々な局面で比較することができるのです。ヘルダーリンの狂気、クライストの自殺、ビューヒナーの夭折、これらの事実はこれら各作家の自伝を非凡なものにしております。ビューヒナーの短い人生においては革命家としての活動、詩作、自然科学の研究が結び合っておりましたが、この特殊事情はドイツ文学史上異例な現象となっております。こういう特殊な人生を過ごした、こういう特殊な作家ビューヒナーは、他の作家にとって有難いことには、詩、小説、劇作のテーマとなっていたのです。すでに1841年にヘルヴェークがビューヒナーの追悼詩を書いておりますが、この詩はポピュラーなものとなりました。われわれの二十世紀では、例えばオーストリア人のフランツ・テーオドール・チョコア が1962年に、カージミル・エートシュミットが1966年にビューヒナーにかんするドラマと長編小説をそれぞれ発表しております。

最後にジョークとして次のような感想を述べさしていただきたく存じます。残された作品がほんの僅かだったことによる、ビューヒナーの影響は取り上げるに値いしないとは申せないのです。ビューヒナーは寡作だったので、ドイツの高校生や大学生にとりましては試験の際に選ぶのに好都合な作家となっております(笑い)。この作家の廉価版が出ております。『ヴォイツェク』は短い作品なのですぐに暗誦できますし、複雑な舞台を必要としませんので、学生たちにとってはじつに上演しやすい作品となっております。このことは、ビューヒナーの作用史という観点からすれば、相対的には些細なことではありますけれども、けっして無視できないファクターとなっております。シャイフェレさんの大学院の授業で『ダントンの死』を講読されている皆様方もビューヒナーの作用史に貢献されることになりましょう(笑い)。

義則孝夫 残念ながらもう時間になりました。その他の質問は夕食のときにしていただくことにして、本日のコロキウムをいちおう終わらせていただきます。ビューヒナー解読の基本問題を総合的な文学史と作用史の観点から懇切に御教示下さった、クロイツアー先生に参加者一同の名において厚く御礼申しあげます。通訳の労をとってくれた下程君、参加者の皆様方、本日はどうも御苦労さまでした(拍手)。



『レオンスとレーナ』

―1983年6月29日―

下程 息 八木浩さんは、ブレヒトを中心にドラマと詩の領域での民主主義文学の系譜の研究を自己の専門領域とすることによって、体制を批判する学問の確立に専念しておられる方です。4年ほど前のことですが、京都大学を定年退官後われわれの大学で教鞭をとってこられました、私の恩師吉田次郎先生の退職を記念して『ビューヒナーと現代』という論集を八木さんと私が編者になって出版しました。この論集には『「レオンスとレーナ」の喜劇性』とう八木さんの論文が掲載されておりますが、今年度の大学院の授業でシャイフェレさんは『レオンスとレーナ』を講読されましたので、本日は八木さんを招待講師にしてコロキウムを行い、どちらかと言えば軽いものとして今までそれほど重視されていなかった、ビューヒナーのこの作品に対する、さらにはビューヒナー文学全体にかんする認識と理解を深めていくことにしたいと思います。

皆様方は八木さんのこの論文をすでに読んでおられると思いますが、コロキウムを始めるに先立ち、その要旨を私の方から紹介しておきましょう。

八木さんは先ず、このドラマの社会性をどう把握するかという観点から、従来の当該の主要な業績の特質と問題点を素描しておられます。八木さんの御指摘によりますと、わが国でいちはやく『ダントンの死』を翻訳した新関良三は、政治と文学とのかかわりを全然考えずに、この喜劇をシェークスピアの流れを汲む作品と見做しております。また、グンドルフはビューヒナーをロマン主義の作家の系列に入れております。グンドルフのビューヒナー論におきましては、この特異な作家は自己の詩的イマジネーションを微細な感情や印象のなかに、つまり瞬間の気分のなかに融解しているが、自我のこのような斬新な表現という面ではビューヒナーは『若きヴェールターの悩み』の作者ゲーテを凌駕しているところがある、という所論が披瀝されております。これに対してランダウは、貧しい人々への共感を描いたビューヒナーを自然主義の先駆者と見做しております。また、フィエートァはこの作品のなかから「世界苦」(Weltschmerz) という主題を抽出し、不可解な運命の操り人形とならねばならない、人間の悲しい宿命という問題を解釈上の基本視点としております。以上挙げてきた三人の解釈は一面的であるという批判的観点から、八木さんはマイヤー、モースラー、ヤーンケ、ポシュマンなどの作品の社会性中心の立場からの解釈に対して関心の目を向ける必要性を説かれておられます。

先ずマイヤーの解釈ですが、『レオンスとレーナ』という作品の基調音は社会に対する作者の悲しみと怒りにほかならない、だから、このような社会批判はビューヒナーの革命思想と関連づけて考察していかねばならない、とマイヤーは考えております。モースラーもマイヤーとほぼ同じような見方をしております。この作品のモティーフとなっている「狂気」(Wahnsinn)やメカニズムは初期資本主義社会の症候であるが、労働のない国というかたちでここで待望されているユートピアには、具体的内容の裏付けがない。ビューヒナーのこのような歴史的限界は、肝心な問題の把握がすべて機械論的唯物論の段階に止まり、唯物論的弁証法に論拠づけられていないところにある、とモースラーは結論づけております。またヤーンケとポシュマンは、茶番劇というかたちで行われている作者の社会の現実との対決をこの作品のなかに見極めております。

以上のような作品の歴史性・社会性中心の解釈に依拠しながら、八木さんは『ヘッセンの急使』の社会告発の精神がこの作品をも貫いていることを論証し、バウマンやマルテンスの場合のように、どれほど詳細緻密な解釈であるにせよ、言語表現やレトリックの分析のみに止まるならば、その解釈は片手落ちな結果に終わってしまう、したがって、この喜劇はアクチュアルなコンテクストから考察されねばならないことを力説しておられます。この作品の隠されている本来の意図は軍人、警官、大臣などの権力者に対する痛烈な風刺であり、また、この作品で直視されているのは、イタリアへ逃亡しても、またもとの場所へ戻ってこなければならなくなる、厳しい現実にほかならない。ヴァレーリオが人々をロボットのように操っている個所も、喜劇の次元でもって単純に片づけることはできない。そこには作者ビューヒナーの鋭い社会批判の目が光っている。作品の作用史的記述や作品内在的解釈では到底把握できない、このような作品の社会性をもっと突っこんで考えていかなければならない。歴史は二度繰り返される、最初は悲劇であり、二度目は喜劇である、われわれは喜劇でもって過去と訣別しなければならない。これこそ、理性に訴える歴史の喜劇の笑いである、とマルクスは言っている、ビューヒナーはこのようなマルクスの変革の思想をいち早く先取りしていた、と八木さんは解読しておられます。そして最後に、このような社会主義的な構想に基づいて、ビューヒナーの作品をわが国の現実に飜案した演出も考えられはしないだろうか、という実践的な問いでもって八木さんは論文全体を結んでおられます。

八木さんの論文はおよそ以上のように要約できるでしょう。ではこのような論旨を踏まえて質問を出して下さい。

勘造真二 ビューヒナーはこの作品には飢餓に苦しむ、貧しい抑圧された人々への共感が表明されており、この点ではビューヒナー文学はロマン主義の詩学を超えたとろがある、とランダウが述べていることに先生はこの論文になかで注目しておられます。このことについてもう少し詳しく説明して下さい。

八木 浩 ビューヒナーがここで駆使しているリアリスティックな表現は、その原典となっている、ロマン派の詩人ブレンターノの作品『ポンス・ド・レオン』には見られない、近代作家としてのすぐれた力量を物語るものであることを、ランダウは強調しております。このランダウの論文が発表されたのは1909年でした。ビューヒナーの作品の上演の歴史を振り返ってみますと、『ダントンの死』は1902年に初演されております。この『レオンスとレーナ』は1895年に初演されておりますけれども、そのときはほとんど問題にされませんでしたので、実質的上の初演は1911年に行われたと言えましょう。このことを考えますと、ランダウはこの喜劇をこのように理解していたことは高く評価してよいのではないでしょうか。このことに関連してこの機会に申しあげますと、私にとりまして興味深かったのは、この論集のなかで吉田次郎先生が新井白石の『折りたく柴の記』について述べておられるくだりでした。それは次のような場面です。貧乏な父親が、二人の娘を売りとばすために、関所破りをし、見つかり、裁判にかけられて、悶死し、その細君も病死します。白石はこのような貧しい人を罰するのは非条理である、という感想を洩らしています。このような悲惨な運命に苦しんでいる人々への白石の同情は、『ヴォイツェク』を書いたビューヒナーの気持に一脈通じるところがある、と吉田先生は述べておられます。早くも1902年にこのように『レオンスとレーナ』を考察している、ランダウの論文はビューヒナー研究史上重要な位置を占めていはしないでしょうか?

下程 息 このランダウの論文をシャイフェレさんはどのように見ておられるのでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ では私なりの意見を申しあげます。なるほどランダウは、ビューヒナーがティークやブレンターノよりも現実の世界にはるかに密着していることを洞察しております。この点では八木さんの言われる通りです。しかしながら他面、ランダウがこのドラマを次のように観察しているのを見逃してはなりません。レオンスは、憂鬱家であり幻視家であるにせよ、この作者が造形した狂気の詩人レンツよりもはるかに健全で透明な人物となっている、ここでビューヒナーは、世界苦の気分が蔓延していた彼の時代を病いの治癒という、健全な高い見地から微笑みと余裕をもって観察している、と。このような観点からランダウは、このドラマにおいてビーダー・マイアーの理想がひとつのユートピアとして形姿化されていると断定しております。けれども、もう少し詳細に吟味しますと、ランダウにとってはこの作品の社会的側面はじつはそれほど重要ではなかったと思うのです。私はランダウのこのような作品解釈には賛成できません。この喜劇においてもやはり、ビューヒナー文学特有のリアリスティックな側面が窺われます。この作品のなかにちりばめられている、機知や諧謔味の豊かな言葉の遊戯も、社会風刺をその本来の意図としていたということを忘れてはいけません。要するに、ランダウはビューヒナー固有の社会風刺のパトスを十分理解していないと思うのです。

下程 息 では次にこの作品における女性像についての質問を出してもらい、八木さん、シャイフェレさんにそれぞれ答えてもらいましょう。

佐藤和弘 八木先生が引用しておられますフィエーターの説によりますと、『レオンスとレーナ』にはレオンスを中心にした筋の展開と王を中心にした筋の展開があり、双方が交錯しており、前者にかんしては、『ダントンの死』の場合と同じように、女性だけがポジティヴな形姿として、後者においては王侯が容赦なくカリカチュア化されて描き出されております。ビューヒナーにおける女性像ナービューヒナーにおける女性像の造形と筋の設定にかんする、フィエーターの見解についてどのようにお考えでしょうか?

八木 浩 フィエーターの見解はこう敷衍できるでしょう。『ダントンの死』ではジュリーとリュシールの永遠の愛が、すべてを崩壊させる革命という闇のなかに射しこんでくる唯一の光となっていた。『レオンスとレーナ』でも、やはり同じように、レーナという女性がもっともポジティヴな形姿となっている。このようなフィエーターの見方に対して渡辺哲雄さんは全く反対の見解を表明しております。渡辺説によりますと、この作品ではじつは男性だけがポジティヴに描かれており、レーナという名前が標題で掲げられてはいるけれども、それほど重要ではないというわけです。私の見るところでは、レーナという女性は、好きな人と結婚したいという、彼女の告白から判断するならば、一見ポジティヴな人物のように思われますけれども、じっくりと観察しますと、何処か受身で焦点がぼけてるような気がします。『ダントンの死』のなかの女性像のようなリアリティも迫力もありません。フィエーターによりますと、月の美しさに見惚れたり、蟋蟀の鳴き声にじっと耳を澄ましたりするというような、ロマンティックな面でこの女性はポジティヴに描かれているということになるのでしょうか。なるほどそう言えもましょう。しかし同時にまた、体制や世の中を批判している人物がこの作品のなかでポジティヴな役割を果たさないわけがありません。私見を言わしていただきますならば、レオンスと国王、国王と庭臣立ち、レオンスとレーナ、レーナと家庭教師などの多くの人物が多彩な関係を繰り広げているところにこそ、この作品のユニークな面白さがあると思います。二つの筋の交錯については、どちらの方が重要なのか、あまりはっきりと断定するのは危険ではないでしょうか。ところでロシア文学研究の領域では、たとえばトルトイやドストイェフスキーを取り上げてみても、人物像の考察がじつに行きとどいています。ドイツ文学研究の場合、それとは多少異なり、人物像を真正面からではなく、側面から考察することによって或種の成果を収めているのではないでしょうか。このような現象はビューヒナー研究にもカフカ研究にも見られます。この間送っていただいた中村英雄先生の論文からも啓発されたのですけれど、以上のような視点を光源にしてビューヒナーの女性像を照らし出していくならば、実り多い成果が期待できると思うのです。事実、その伝記から明らかになってきたのですけれども、女性はビューヒナーにとっては重要な関心事となっております。この問題についてどのようにお考えか、シャイフェレさんの御意見をお伺いしたいのですけれども。

エーバーハルト・シャイフェレ 多感であるが故に悩んでいるレーナという女性は、ロマン主義の立場から見れば、重要人物となりましょう。事実ハンス・マイアーが指摘しているのですが、ビューヒナーはこのような感傷的で非現実的な女性を形姿化することによって、ロマン主義の発展に寄与しました。だから『レオンスとレーナ』が、当時のホーフマンスタールのような新ロマン主義者たちの間で評価されていたのは、十分に頷けるのです。けれども他面、このドラマではロマン主義的な意味での愛は形象化されていない、という事実に目をふさいではなりません。御存知のように、レオンスがレーナと一緒に川に向かって身投げをしようとすると、レーナは驚いて飛び上がり、逃げていきます。そのとき、ヴァレーリオはレオンスに自殺を思い止まらせます。ロマン主義の文学の場合でしたら、この自殺の瞬間こそは、そのキーワードである「愛と死」が成就される崇高な場面となるでしょう。ですから、作者ビューヒナーがロマン主義の中心主題である「死への憧れ」を茶化していることが、ここで解読されてくるわけです。このように観察していくと、レーナという女性は、『ダントンの死』のなかのジュリーやルシュールのような情熱的で一途な女性ではないことが判明してきます。ですから、レーナには、八木さんが言われるように、『ダントンの死』のなかの女性のような迫真性はありません。

この女性像の問題に別の側面から関連してくる問題なのですけれども、昨年クロイツァー教授を招いて『ダントンの死』にかんするコロキウムを行いましたとき、ラインホルト・グリムというアメリカのゲルマニストが、ビューヒナーにおける「性愛」(Erotik)の問題をテーマにした論文を1879年に発表したことが話題になりました。この性愛はきわめてアクチュアルな問題を包括しているだけに、この局面が今まで無視されていた事態についてドイツのゲルマニスティクは反省しなければならないという、ビューヒナー研究の現状が指摘されました。この意味で八木さんの問題提起は当を得ておりますね。

下程 息 ではもう少し視野を広げまして、ビューヒナーをどのように解釈するかという問題についての質問をお願いします。

松本 剛 先に触れられましたことにも関連しているのですが、先生はこの論文のなかで次のような個所をハンス・マイアーの著作から引用しておられます。マイアーの見解によりますと、完全に無意味化した社会、機能はしないし恩寵も訪れない社会、発展や変革を意志しない体制がここに提示された。右往左往のみで、中心をもたないドイツの支配層の具体像がここに描き出されております。マイアーのこの観察はたしかにこの作品の急所を突いている、そしてまた、マイアーの基本姿勢もここからも端的に窺われるように思われますが、先生はマイアーのこの解釈について全般的にどのようにお考えでしょうか?

八木 浩 グンドルフのような見方に対して反対や批判の意を表していた研究者たちは、今までそれほど問題にされていなかった、この作品を重視しはじめました。このような立場からのビューヒナー研究の歴史を辿っていきますと、大きなメルクマールとなっているのが、70年代のビューヒナーの研究です。モースラー、クナップ、ヤンケ、ポシュマン、ヒンデラーなどの研究例を見ますと、作品の政治性、社会性、歴史性という観点からルカーチとマイアーが取り上げた問題をもう少し詳細に究明していこう、という姿勢が顕著なように思われます。社会の動きに敏感に反応しながら、ビューヒナーの研究方法は変わってきております。この意味で70年代を区切りにしてビューヒナーの形姿はアクチュアルに再生され、そのアクチュアリティがこのほかクローズアップされはじめた、と私は見ております。では、70年代とはどういう時代だったのでしょう。それは経済の高度成長期の終り頃でして、社会民主党の政権獲得や学園紛争などで西ドイツの社会が激しく揺れ動いた時期でした。当時は、ひとつ暴れてみれば何でもやれるという風潮でした。日本の学園紛争でも多少そういうところがあったと思うのですけれども、教授を追い出したら自分も教授になれる、と誰しもいちおう考えることができたのではないでしょうか(笑)?このような時代のラディカルなアクティヴィズムは当時のビューヒナー研究に反映していたのじゃないでしょうか。

しかし、80年代に入ると共に事情は異なってまいります。バウマンやマルテンスなどの言語の現象学的分析の方法を継承し、さらにそれを押し進めているように見受けられるのです。最近の研究家たちは修辞学的に、あるいはコミュニーション理論でもってビューヒナーの言語表現を詳細緻密に分析しております。私はよく知らないのですけれども、ツェラーという人などは、ビューヒナーにおける言葉の反復、「余計な話し言葉」(Redundanz) 、主文と副文との順序関係、言葉の遊戯、階級間の言葉の相違などの問題に分析のメスを入れはじめたとのことです。

私が興味をもっている作家の一人であるカフカを引合いに出しますと、カフカの研究ではsuspensiv という述語が頻出しております。suspensiv とは、事に決着をつけず、提起された問題を問いそのものとしてじっくりと考えさせるのが、カフカの作品であることを確認させるテルミノロギーなのです。ビューヒナーの作品についても、このsuspensiv というテルミノロギーが適応できないでしょうか。ですから、ルカーチの解釈に賛成であるとか、マイアーの解釈を支持するとか、簡単に言い切ることができないところが、ビューヒナーの作品にはあるように思われます。言語を最終の拠り所として分析していく方法はこの面で有効かも知れませんね。

ごく大雑把ではありますけれども、以上のようにビューヒナー研究の歴史を見てまいりますと、研究とは研究史であると言われているのも頷けるのです。では、このような視点からマイアーの解釈についてどのように考えているのか、ここでお答えいたしましょう。マイアーの解釈は基本的にはマルクス主義の立場に立っております。ルカーチはこのマイアーの解釈よりももっと強くマルクス主義を打ち出しております。この双方に共通している左翼思想は、ビューヒナー研究の場合、プラスにもマイナスにも作用していると思います。両人の場合、世界観としての左翼思想が作品解釈とその政治的・社会的影響関係において如何に有効に作用するか、という問題が中心の論点となっていると思われます。すると、マルクス主義者でない人も左翼思想をビューヒナー解釈のためにある程度援用できるのではないか、という想定も十分に成り立つのではないでしょうか。では、その実例を挙げてみることにしましょう。ビューヒナー百年祭が挙行された頃、折りしもナチスが政権を掌握しました。このときルカーチは、フィエーターのビューヒナー論をそのアクチュアルな意味と役割という観点から徹底的に批判しました。ルカーチの見解によりますと、フィエーターの宿命論やぺシミズム中心の解釈は社会主義革命や反ファシズム闘争に対してシニカルにも否定的にも作用し、曲解されると、ファシズムを陰に陽に援助する反動のイデオロギーに変身してしまいます。だから、歴史の創造としての反ファシズム闘争に主体的に参加する道は閉ざされてしまいます。このような作用史的な観点に立ちますならば、マルクス主義が如何に生産的な力となっていたかということが、自ずと理解されてきはしないでしょうか。

下程 息 フィエーターのビューヒナー解釈に対する反駁の筆鋒となっていた、ルカーチのこのビューヒナー論は、反ファシズム闘争にペンを武器にして参加することによって、焦眉の歴史的使命に答えようとしていたと言えますね。

八木 浩 この場合は文学研究におけるマルクス主義のプラス面と言えますね。ファシズムの脅威に直面したときには、別にマルクス主義者でなくてもプラスに作用する場合もあります。当時のわが国のゲルマニスとのなかでも、成瀬無極とか、吉田次郎先生などはそうです。成瀬無極よりも吉田先生の方が進歩的でしょうけれども、ともかくお二人ともヒューマニストでした。人間的な暖かさをもっておられ、権力や軍国主義に迎合されませんでした。こういう方々の研究は社会的にプラスに作用していたことを忘れてはなりません。新関良三はそれは卓越した学者で、とりわけ演劇論の分野ですぐれた業績を残しておりますけれども、ナチスの全盛時代には久保栄に敵対し、日本の新劇を弾圧する側にまわりました。これは、すぐれた業績が社会的・歴史的にはマイナスに作用した例と言えましょう。

下程 息 八木さんは70年代のビューヒナー研究の現状に言及されましたけれども、この頃の東ドイツのビューヒナー研究は全般としてどのような傾向を示していたのでしょうか。

八木 浩 東ドイツ(旧ドイツ民主共和国 DDR)には西ドイツ(旧ドイツ連邦共和国BRD)のように多くのビューヒナー研究家がいないのではないでしょうか。他面、東ドイツでは、とりわけ注目したいのですが、「三月革命前」の文学の研究というかたちでハイネやビューヒナーなどの当時の重要な文学現象をもっと総体的・体系的に考察しており、多くのすぐれた業績が発表されております。先に触れましたポシュマンのビューヒナー研究も『「三月革命前」の文学の論点』という大著のなかに収められたものなのです。ですから、東ドイツではビューヒナー研究がとくに進んでいる、とくに多いとは言えないのではないでしょうか。しかしながら、私の見たかぎりでは、ハイネやブレヒトにかんする科学的・体系的な研究はじつに行き届いております。

ここでついでに東ドイツの学問研究全般の特色について付言しておきますが、この国では様々な部門の研究が、社会主義という国家体制の発展という全体のプログラムのなかに体系的に統合されております。ドイツ文学の研究も、この総合的全体のなかの一分野として組織的に位置づけられております。

下程 息 では、八木さんの御説明のなかでもとりわけ重要だったと思われた問題に関連づけながら、『レオンスとレーナ』の解釈の可能性についてシャイフェレさんにお聞きすることにしましょう。何か補足すべきところがあれば、この際に遠慮なく御指摘下さい。

エーバーハルト・シャイフェレ この作品においてビューヒナーは人間を機械仕掛の人形のように扱い、愛を一つのメカニズムと仮定しております。このような状況設定の下でしばしば「言葉の遊戯」(Wortspiel) が行われております。八木さんの言及された言語分析の問題にかんしては、私はとりわけ「言葉の遊戯」に注目したいと思います。レオンスとヴァレーリオは当意即妙な「言葉の遊戯」を楽しんでおります。それは何のために行われているのか。ほかでもありません。退屈をまぎらわすためです。この状況と関連づけて校長と農民の「言葉の遊戯」を検討しますと、農民は退屈ということを知りません。どうしてでしょう。飢えているからにほかなりません。ビューヒナーのこのような社会批判の目がこの作品中の「言葉の遊戯」の背後で光っているからです。八木さんが先程挙げられた、 ツェラーの言語分析はこのような意味連関において重要な文献なのです。ツェラーはここで作品中しばしば目につくRedundanz に、具体的に申しますならば、何ら新しい知識や情報を提供しない、余計な話し言葉を詳細に分析しております。たとえば、第一幕一場、第三幕二場、第三幕三場の言葉のやりとりに注目して下さい。家臣や従僕たちは主人の言った言語内容をRedundanz のかたちで繰り返しております。何故でしょう。身分の低い人間は目上の人たちに反対できない立場に置かれているからです。しかしながら、主人不在のときには同一人物とは思えないほど機知溢れる冗談を言っております。第三幕二場でも校長は機知豊かな「言葉の遊戯」を「言葉の遊戯」自体として楽しんでおります。このように、それぞれの人物の置かれている社会的境遇や状況によって「言葉の遊戯」の内容や方法が違ってきております。ですから、作中の「言葉の遊戯」はけっして単なる遊びやかけ合い漫才に留まるものではありません。作者は社会批判という明確な目標をもっております。こう見ますならば、この『レオンスとレーナ』という喜劇は、『ヴォイツェク』と内的な繋がりをもった作品であることが判明してきます。ハンス・マイアーはこの喜劇を『ヴォイツェク』に至る道程での「イローニッシュな幕合劇」と定式化しております。まさにその通りですが、作品に対する言語面での分析をまったく行っておりません。この意味でツェラーの言語分析は、ビューヒナーの研究史上新しい領域を開拓したものと言わねばなりません。

下程 息 では、この作品における言語の問題についての質問を出してもらいましょう。         久下泰弘『レオンスとレーナ』では深淵の上にぶらんこのように飾られ、表層と深層という二重構造をもった言葉が人物を形成していくという、バウマンの観察に注目された後、このバウマンの言語分析は作品の一面しか把握していない、と先生は批判され、言語の社会性の問題を考慮していく必要性を示唆しておられます。このことに関連してお尋ねしたいのですけれども、「言葉が人物を形成していく」という創作の内的プロセスは、現代劇が直面しているアポリアにもかかわってくる問題ではないでしょうか?

八木 浩 たしかに、私はこの論文でバウマンの言語分析の限界を批判的に示唆してはおります。しかしながら、顕微鏡で観察したように微細なその言語分析には感心しました。バウマンは、この作品における言語技法、言語に内在する対位法的相対性、言語の表層と深層を精妙に分析しております。またマルテンスも、並列、四句交差、矛盾語法、比喩、類似比較、対置結合などの言語上の問題をこのドラマから抽出し、分析しております。現今の研究の動向を見ますと、真実が相互に理解されなくなったり、失語症に陥ったり、共通の言語がどこか通じ合わなくなった、現在の状況を解明する際に、最近のコミュニケーション理論や言語社会学はすぐれた成果をあげているのではないでしょうか。バウマンやマルテンスがビューヒナーの言語分析で取り上げたような問題をこのような方面から究明してくのも、面白いのではないか、そしてまた、そのような具体的可能性が事実開けてきたのではないかとも考えているのですが、如何でしょうか。

私はブレヒトの演劇を中心に現代劇を研究領域としております。現代劇が直面しているアポリアは、どのようにして言語を充実させていくかとう問題にほかなりません。十九世紀末から現代に及ぶ演劇の根深い危機の根は、充実した対話、聞き手をよろこばす対話が成立しなくなったところにあり、ブレヒトは叙事詩的演劇によってこの危機からの突破口を開いたということを、ソンディは、彼の代表的著作である『現代演劇の理論』21のなかで指摘しております。このような現代劇のアポリアをビューヒナーはいちはやく予見していたように思われるのです。『ダントンの死』や『レオンスとレーナ』を読みますと、ドラマを通じて時代と対決するためには、充実した対話を活性化していかねばならないことを、ビューヒナーはすでに洞察していたような気もしてまいります。『レオンスとレーナ』には事件の派手な面白さはありませんけれども、この喜劇は言語の特異性に読者や観客が魅了され、驚嘆するよう意図的に作られて作品ではないでしょうか。

下程 息 シャイフェレさん、八木さんの詳細なお答えに対する関連発言をお願いしたいのですが。

エーバーハルト・シャイフェレ 八木さんが指摘された現代演劇のアポリアのアポリアに関連して、私はとりわけビューヒナーの作品の形式の問題に注目したいと思います。クロイツァー教授も昨年のコロキウムで強調されましたけれども、ビューヒナーのドラマは、現代劇の場合のような「開かれた形式」(offene Form) で書かれております。この面ではビューヒナーは現代劇の先駆者と言えることはたしかです。では、『レオンスとレーナ』はどういう形式の作品なのでしょうか。このドラマは「閉じられた形式」(geschlossene Form) で書かれておりますけれども、その形式の閉ざされ方は非常に誇張されております。ですから、この作品の形式は「誇張された完結性」(ubertriebene Geschlossenheit)と言い表わすのがもっともふさわしいと思うのですが、興味深いことには、これは現代劇にしばしば見うけられる特質なのです。では、この作品の終りの部分を見てみましょう。皆同じことを言っております。そして仮面を取りますと、それぞれ理由は異なっているにせよ、皆一杯喰わされたことを知ります。すべては、自分自身を見出すための無意味な戯れのように見えますけれども、同時にまた、全体はすべてこうなるように手配されていたようにも思われます。

この喜劇の紛本となっていたブレンターノの衣裳劇『ポンス・ド・レオン』は、様々な陰謀が絡み合いながら展開されていく、ロマンティックな喜劇です。ブレンターノもティークも古典の陰謀劇をきわめてロマンティックなものに変貌させておりました。それに対してビューヒナーのこの喜劇は、全体の筋の発展はロマン派の作品のように緊迫してはおりますけれども、雑然としてはおりません。二三の陰謀らしきものが行われるだけで、全体の骨格は抽象的な明晰さを身につけております。ですから、この喜劇はロマン派の陰謀喜劇とは異質な作品なのです。この作品では対話はお互いに噛み合わず、すべて空虚な空間で展開されております。しばしば出くわすのは、何を話しても通じる相手がいないがために、空しい独白に終わってしまう場面です。でありますから、誇張されているにせよ、形式がいちおう完結しているので、ビューヒナーの作品のなかでは因襲的と思われる『レオンスとレーナ』も、じつは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』のような現代演劇に通じる側面を内在させていることが、判明してくるのではないでしょうか。

八木 浩 たしかにこの喜劇には非条理劇に一脈通じるところがありますね。それと同時に、この作品の「金言」(Sentenz) について考えてみる必要がないでしょうか。それが何を言おうとしているのか、立ち止まって考えるよう促していると思われます。そうしないと先に進めません。たとえば「三角帽子は獣の角」(112) と言われても、何を意味しているのか、立ち止まって吟味し、その意味を理解しないと先に進めません。このような奇妙な文言がビューヒナーの作品にはよく出てきます。この種の「金言」(Sentenz) はまた、ブレヒトの叙事詩的演劇にもしばしば見うけられ、異化効果を生みだすファクターとなっております。と申しますのも、ブレヒトのドラマトゥルギーによりますと、立ち止まって考えさせるために、全体を停滞させることによって、ドラマは叙事詩的になるからです。このように視野を拡大して見ていきますと、ビューヒナーの作品にはどこか叙事詩的なところあると言えないでしょうか。

エーバーハルト・シャイフェレ 古典主義のドラマの場合、筋道のすべては論理的な全体秩序のなかで因果律に基づいて段階的に展開されております。『レオンスとレーナ』全体の形式は、先に申した意味で完結したものではありますけれども、同じような問題が繰り返されたり、並列的に羅列されているだけで、古典主義的な意味での筋の展開はありません。因果関係もあるようですけれども、じつは見せかけのものにしかすぎません。無いも同然です。このように見ていきますと、ビューヒナーの作品のなかではもっとも因襲的な作品である『レオンスとレーナ』も、間接的な意味で叙事詩的と言えるでしょうね。

下程 息 パースペクティヴを以上のように拡大していきますと、ビューヒナー文学のモダンな特性が確認されてまいります。今度はパースペクティヴを逆に絞り、テクストそのものに密着した質問を順番に出してもらうことにしましょう。

山口 勝 この作品の冒頭にアルフィエリのE  la  Fama?ゴッツィのE  la Fama

という文言が作品の見出し語として各々掲げられておりますけれども(91)、独訳すれば前者はUnd der Ruhm? 、後者はUnd der Hunger? となりますけれども、これら双方いずれにアクセントを置くか、その選択によって作品解釈の着眼点が変わってくるのではないでしょうか。と申しますのも、der Ruhmの方に重点を置きますと、この作品は夢や絶望を扱ったドラマになりましょうし、der Hungerの方に重点を置きますと、この作品の眼目は社会批判のドラマになりましょう。八木先生はそのいずれの解釈をお選びになりますか?こん作品の機微に触れる問題について御説明願います。

八木 浩 ゲーテが『ファウスト』について言っているのですけれども、人間は、対立している両人いずれに軍配を上げるかということよりも、どのようにして対話を充実させていくか、ということについてじっくりと考えていくようになります。先に申したように、suspensiv な状態で芝居の構想を練り上げていくというのが、作者の実際の姿ではないでしょうか。このビューヒナーは、『ダントンの死』のなかのロベスピエールとダントンとの対決の場面を見ればすぐ分かるでしょうが、何はさておいても充実した対話を書き上げることに心血を注いでおりました。言い換えますと、すぐれた文学作品を書くことを第一目標としておりました。ですから、E la fama?der Ruhmと、それともder Hungerと解釈するか、その選択は読者の判断の問題となってくるのではないでしょうか。そしてまた、このドラマを演出するときには、全体の方向性を明確に打ちださねばなりませんから、これら二つの解釈のいずれをとるのか、決着を着けなければなりません。ですから、この選択は究極的には作品の受容の問題となってくると思います。

このことを前提にしてお答えいたします。私は自身はder Hungerの方を重視しております。と申しますにも、ビューヒナーという人は、民衆のパンの問題をいちはやく真剣に取り上げた作家であるからこそ、私はこの作家に共鳴しているからです。

三宅博子 先生はこの論文のなかで、レオンスとヴァレーリオが特殊な可笑しさを醸しだしていると指摘しておられますが、もう少し具体的に説明していただけないでしょうか。

八木 浩 ここで先ず考えなければならないのは、主人と召使との間の関係です。と申しますのも、ここにもビューヒナーのこの喜劇の面白さを解く鍵のひとつがあるように思われるからです。こういう人物設定は、シェークスピアには勿論のこと、わが国の能や狂言にも見られますし、現代のドイツの演劇ではブレヒトの『プンティラと下僕マッティ』やマルティン・ヴァルザーの作品にも取り入れられております。振り返って見ますと、主人と召使という人物設定は、たとえば『ドン・ジョヴァンニ』を見ても分かりますように、ヨーロッパの演劇の主要な伝統となっておりました。召使は主人のロボットのような存在として登場します。『レオンスとレーナ』の場合、この関係が逆転しております。主人レオンスの方が機械人形のようにヴァレーリオに背後で巧みに操られております。このような機能逆転のなかにこの喜劇特有の新鮮な面白さが見られはしないでしょうか。

エーバーハルト・シャイフェレ たしかにそうですね。十八世紀までのヨーロッパの古典劇では下僕がコミカルな人物として舞台に現われ、貴族である主人はコミックの圏外にいるという状況設定になっておりました。主人は礼儀正しく、格調のある言葉を話し、服装も立派だし、振舞も上品です。このことは、たとえばモリエールの芝居を見ればすぐに分かるでしょう。こういう人物設定は古典劇の伝統的なパターンだったのです。ビューヒナーのこの喜劇においては、八木さんがおっしゃるように、主従関係が逆転しております。主人は他人に操られる機械人形のような存在にしかすぎません。人間も愛情もメカニズムに動かされており、起こるのは同じことの反復のみです。ですから、全体はメカニズムによって生じた喜劇となっております。ここでベルグソンの理論を援用しますと、喜劇が発生するのは、人間が特定の状況においてその状況を踏まえて反応しないで、ただ機械的に反応しているがために、いつも同じような失敗や過ちを重ねているからです。生命力を失い、機械化してしまった喜劇という定式は、『レオンスとレーナ』の場合、国王やペーターのような社会的地位の高い人々に適応できるでしょう。そしてさらには、下僕や召使にも適応できましょう。この側面からもビューヒナーの斬新な現代性が窺われるのではないでしょうか。

下程 息 では次の質問をお願いします。

岡田泰子 この作品のなかでは女家庭教師が人物として面白いと思いました。先生はこの女家庭教師が中和剤の役割を果たしている、とこの論文のなかで指摘されておりますけれども、この中和剤という言葉はどのような意味で使われたのでしょうか?

八木 浩 それは、絶望にせよ、ロマンティックな夢にせよ、両極端に走らない、つねにバランスを維持するという意味で使った言葉です。シャイフェレさんはこの女性についてどのようにお考えですか?

エーバーハルト・シャイフェレ この女家庭教師は教育者として理想主義的教育を行おうとしております。けれども、彼女は現実主義者でもありました。実践に照らして物事を見ようとしています。レーナが空想や夢の世界に溺れているときには、忘れるように仕向けております。レーナの相手が王子だと知ったときには、結婚するよう仄めかしていますけれども、そうでないときには、道に迷った王子に会えるといったような、ロマンティックな夢を捨てるよう忠告しております。この意味では八木さんの言われたとおりだと思いますが、このことに関連して少し捕捉させて下さい。

先ずヴァレーリオという人物を見ることにしましょう。それは機知縦横、当意味即妙に発言できる人物です。八木さんが使われた用語を借りますならば、すべてに対していわばsuspensiv な態度をとっております。一口で言えば批評家です。ですから、彼の言動は権威に対しては否定的です。ポシュマンは次のように観察しております。このヴァレーリオの反権力的、反体制的姿勢も、大臣になりたいという彼の願望を見れば分かりますように、最後には尻尾を出してしまうのですから、見せかけのものであって、この人物は言葉の遊戯でもって社交界にひとつの娯楽を提供しているにすぎません。ヴァレーリオはじつは機会便乗主義者だったにです。人物たちが作品のなかで果たしている機能と階級的位置をこのように見てきますと、女家庭教師とヴァレーリオは、広い意味で共通の特性をもった人物群としてレオンスとレーナに対置させることができるでしょう。この作品の人物設定をポシュマンのような視点から見ていくのも、なかなか面白いと思うのですがどうでしょうか。

八木 浩 そのとおりだと思います。ポシュマンの観察は肝所を押さえておりますね。この女家庭教師は人物像としてたしかに面白いですね。

エーバーハルト・シャイフェレ この機会にもう少し補足させていただきましょう。この喜劇での第二幕一場でのレーナと女家庭教師との対話を見てみましょう。レーナはロマンティックな幻想や夢幻的なメルヒェンの世界のなかに没入しております。このとき女家庭教師は、羊飼い、修道院、隠者などのロマンティックな光景は全然見えないと言って、会話に水を差します。この女家庭教師は本気でそう言っているのです。皮肉な気持からではありません。けれども、このような過去の回想によって浮び上がってくる、ロマン主義の文学特有の詩的世界がイロニーによって相対化されているのを、敏感な観客や読者は察知できるでしょう。また、第二幕第四場を見てもそうなのですが、レオンスがレーナと入水自殺をして、死の世界のなかに愛のよろこびの極致を見出そうとしたときに、皮肉なヴァレーリオは、青年将校式のロマン主義はもう卒業するよう忠告しております。すると作品の筋の展開そのものは空転し、無意味化してきます。ロマン主義の幻想的な世界をイローニッシュに描写しようという、作者の意図は歴然としています。啓蒙主義者としての作家ビューヒナーの批判的知性の声をここに聞きだせはしないでしょうか。作者はこのような方法でロマンティックな心情の深さを嘲笑しております。

このコンテクストにおいて是非とも付言しておきたいことがあります。レオンスが身投げをしようとしたとき、レオンスは「沈め、神聖な盃よ!Hinab, heiliger Becher! (110) と叫びますが、この言葉はゲーテの『ファウスト』でグレートヘヒェンが口ずさむバラード『トゥーレの王』のなかの冒頭の以下の詩句を皮肉に暗示しております。Es warein Konig in Tuhle/gar treu bis an das Grab,/dem sterbend seine/ Buhle einen goldnen Becheragab.(2759-2762)ビューヒナーは、「愛の死」というロマン主義の観念をこのようなモンタージュを思わすような手法でもって揶揄し、その迷妄を暴露しています。ビューヒナー文学のユニークな面白さはこういう痛烈さにあるのではないでしょうか。

八木 浩 では、私も別の方面から補足させていただきましょう。先程の御質問で出てきました中和剤という言葉なのですけれども、ここでまたこの言葉を使わせていただきましょう。言葉というものはほんとうに便利なものですね( ) 。結論を申しますと、このドラマは当時の文壇において中和剤となっていたと思うのです。「三月革命前」の演劇全般の動向を見ますと、ハルム、エヒトリツ、パイファー、ベネディクスなどの、われわれのまったく知らない、当時のエピゴーネンの作家たちは、Ruhrstuck とか、Hohenstaufendrama と呼ばれていたドラマを、わが国の言葉で言い表わしますと、お涙頂戴劇を書いて、ベルリーンの中流階級の間で人気を博していたとのことです。またオーストリアでは、ネストロイの作品もこの系列に入るのでしょうか、Besserungsstuckとか、Lokalposseと呼ばれていた小市民的な演劇が流行していたとのことです。このような文学的状況の下で、ビューヒナーは『レオンスとレーナ』のような作品を意識して書いたのではないでしょうか。具体的に申しますと、レオンス、ヴァレーリオ、レーナ、女家庭教師などの登場人物はいずれも最後のところでは感傷的にならずに、現実を踏まえて巧妙に折り合いをつけております。だからこの作品は、当時の文壇にとっては、過熱化していた流行を和らげる、中和剤となっていたような気もするのですけれども。

下程 息 このコロキウムからも確認されてくるのですけれども、ビューヒナー文学は種々様々な解釈の可能性を内在させております。こういう作家はドイツ文学史上ほかに見当たらないでしょう。どの解釈を選ぶかは、ハンス・マイアーが言うように、読者の世界観の問題に帰着すると思います。ところでビューヒナーの作品を実際に上演する場合、クロイツァー教授も前回のコロキウムで指摘されましたが、ビューヒナー文学のどの側面にスポットを当てるのかということが、演出上決定的になってきます。演出家は自己の特定の解釈を打ち出さなければ、ビューヒナーの作品を舞台に乗せることはできません。最後に演出の方面からの質問をお願いします。

大島浩英  この喜劇は西ドイツと東ドイツではそれぞれどのような解釈の下で上演されているのでしょうか。両ドイツの演出の間に何か顕著な相違があるのでしょうか。具体例を御存知ですならば、インフォーメーションをひとつ提供して下さい。

八木 浩 残念ながら、私は東ドイツでも西ドイツでも『レオンスとレーナ』の上演を見ることができませんでした。けれども、東ドイツでその上演を見た友人から次のような面白い話を聞きましたので、これを披露してお答えに替えさせていただきます。

 先ず前置きとして申しておきたいことがあります。東ドイツでは、ブレヒトがつねに批判の対象としていた、古典に対する萎縮を除くことを演出全般の主眼としております。具体的に申しますと、萎縮するとすべて因襲的になってしまうので、古典が成立したときのエネルギーの高揚とその状況内でのポジティヴな意義を再現しようと尽力しております。それに対して西ドイツではじつに大胆な古典の演出が行われております。ゲーテの『イフィゲーニエ』の演出はそれはモダンなものでしたし、『アンティゴーネ』の場合などは役者がサラリーマンの服を着たり、ハイヒールを履いて舞台に現れたりすることもありました。このようなところに東西の演出の著しい相違が見られるのではないでしょうか。

 ところで友人から聞いたところによりますと、この『レオンスとレーナ』という作品は東の社会主義の国では驚くほど新しい作品として受容されていたのではないでしょうか。このドラマは非条理劇のように演出され、言葉の節々にイローニッシュな意味が含まれていたとのことです。たとえば、「イタリアへ行こうよ」(103) とレオンスが言う箇所にくると、東ドイツにはオレンジがないからだ、という解釈が観客の間で提示されたり、また、真っすぐ行けば西ドイツだ、という台詞が挿入されると観客がゲラゲラ笑いだしたそうです。これに対する東のライナー・ケルンドルフの、あるいはユルゲン・ゴッシュの批評は手厳しいものだとのことでした。この作品の斬新さが警戒されているふしがあります。カフカの作品が社会主義国家でなかなか受け入れられなかったのと同じような事情が、この作品についても当てはまるような気がするのです。

エーバーハルト・シャイフェレ この機会に八木さんに伺っておきたいのですけれども、西ドイツでは演出家は絶対君主でして、ピランデロでもシェークスピアでも自由自在に好き勝手に演出できるのですが、東ドイツでも西ドイツと同じような状況になってきたのでしょうか?

八木 浩 本題から少しはずれるのですけれども、ブレヒトを例に挙げてできるだけ御質問の趣旨に沿うようにいたしたいと思います。「ドイツの惨めさ」を主題にしているブレヒトのドラマに『家庭教師』という作品がありますが、これを少しでも改変して演出しようとしたとき、古典を損傷していると非難されました。その当時は萎縮しないことと損傷しないことが、東ドイツの演劇界の基本方針だったのです。これは50年代のことでしたが、ブレヒトの友人のアイスラーがファウスト博士を冷静に観察した歌劇を書こうと思っておりました。そして、この歌劇の台本が出来上がったときに、それが猛烈に批判されましたので、上演は言うまでもなく、作曲さえもできなくなったといういきさつがありました。50年代から60年代にかけては演出家や創作家の自由はこのように著しく制限されておりました。しかし近年変わってきました。今ではアイスラーの『ファウスト博士』は上演されておりますし、また、ハイナー・ミュラーのように、60年代にその作品の上演が禁止された人の作品も舞台に上がっております。これを見ても分かるように、東ドイツの事情も徐々に変わってきています。西ドイツはなるほど自由です。けれども、あまり自由すぎると頽廃してしまい、逆に生産的ではなくなるというアイロニーもありはしないでしょうか。こういう見方をしますと、東ドイツで統制が行われたことが、マイナスの方向のみに作用したかというと、それが思わぬ成果を上げていたという結果となっていはしなかったかとも思うのです。と申しますのも、萎縮しないことと損傷しないことという、この二つの基本原則が東ドイツの演劇活動を非常に生産的にしていたのではないか、と思うのです。ビューヒナーの演出の問題もこのような総合的な観点から今後考えていかねばならないでしょう。

下程 息 もうそろそろ時間になりました。ビューヒナーは、その文学活動がきわめて短かかったにもかかわらず、今日にもなお通じるような、それどころか、今日においてこそ取り上げられねばならない問題を驚くほど時代に先んじて提起した作家である、とハンス・マイヤーは総括しておりまた。またイェンスは、ビューヒナーの「歴史的には説明がたい現代性」を強調しておりました。このことが本日のコロキウムを通じて確認されてきたのではないでしょうか。八木さん、シャイフェレさん、それに大学院の皆様、本日はどうも有難うございました(拍手)。



『ヴォィツェク』

―1984年2月23日―

下程 息 振り返ってみれば、われわれは一昨年はジーゲン大学のヘルムート・クロイツァー教授を、昨年は本日ここにお見えになっている大阪外国語大学の八木浩教授をお迎えして『ダントンの死』と『レオンスとレーナ』にかんする各コロキウムを行いましたが、一同大いに啓発されましたことは、記憶に新しいことと存じます。このたびも昨年と同じようなかたちで八木さんと共に、ビューヒナーの未完の問題作『ヴォイツェク』について討論し、その記録を残すことにしました。これでビューヒナー・コロキウムも三回目になりますが、それだけに、柳の下のどじょうを二匹ではなく、三匹にしたいと存じます。ではその手順ですけれども、先ず個々の場面やモティーフにかんする質問を順番に出してもらい、それから作品の解釈の問題に入ることにしたいと思います。では最初の質問をお願いします。

大島浩英 この作品におきましては、マリーとヴォイツェクとの間に生まれた子供、その他、別の子供たちが登場する場面がありますが、これらの場面が私に与えた印象は一種異様なものでした。これらの子供の場面はこの作品ではどのような機能と意義をもっているのでしょうか?

下程 息 では最初に八木さんに答えていただき、それからシャイフェレさんに補足していただくという方法で議論していくことにしましょう。

八木 浩 この作品についてはそれほど勉強していないので、このたびはオブサーヴァーぐらいの気持で出席させていただいたつもりでしたのに、また中心人物にされてしまい弱りましたね(笑)。ともかく私なりにお答えすることにしましょう。

ここでは男女関係が扱われておりますので、その間にできた子供は一見脇役に廻っているように思われます。しかし、この子供がいなかったならば、男女関係はこれほど緊迫したものにはならなかった筈です。内縁の妻マリーが浮気をしているときに無邪気な子供の姿を見ると、ヴォイツェクは怒り狂い、マリーを刺殺してしまう、そして、最後の場面では子供たちが竹馬に乗って遊んでいるという、筋の展開になっておりますね。ですから、子供はドラマの主要場面には直接出てはきませんけれども、副次的人物である子供をどう取り上げていくか、これは研究上重要な課題になってくると思います。と申しますのも、子供という存在がないと、夫婦関係というモティーフは生きてこないからです。ドラマの前後関係から判断しますと、この子供は明らかにヴォイツェクとマリーとの間にできたものです。鼓手長の子供ではありません。マリーが子供があるにもかかわらず鼓手長に犯されたという事態は、このドラマの展開上重要なモメントとなっております。子供はこの意味でドラマを深い所で動かしていると思います。

エーバーハルト・シャイフェレ 今指摘された子供の問題は、今まで無視されておりましたけれども、子供はこの作品における非常に重要なモメントとなっております。この作品は未完であるがために、子供の登場する場面が版によって異なっております。このことに先ず注目しなければなりません。レーマン版では子供と阿呆はいちばん最後に登場し、父親であるヴォイツェクから顔をそむけ逃げだそうとします。このように編集されると、この作品のグロテスクな側面が強調されてきます。また、エルンスト・ハルト版2ではいちばん最後に裁判の場面がくるようになっております。このように編集されると、ヴォイツェクの殺人行為をめぐる社会問題が強調されてきます。ですから、子供の場面はこの作品のなかでの非常に重要な構成要素となっていると言えましょう。

次にマリーと子供が登場する場面を見てみましょう。マリーは権威ある親として子供を教育しようとしております。子供を眠らせようとしているときの言葉遣いなどはじつに高圧的です。親の権威で脅しさえすれば、子供を言うことを聞くと思っております。ではヴォイツェクはどうでしょうか。ヴォイツェクは、マリーの耳に鼓手長からプレゼントされたイヤリングを見ると、嫉妬しますけれども、子供の顔を見ると態度は一変し、父親らしい人間になります。そのとき、教育の問題に対して頑迷な偏見にとらわれている、マリーの姿が対照的に浮かび上がってきます。マリーはゲーテの『ファウスト』のなかのグレートヘヒェンと比較されることがよくありますけれども、こう見ますと、グレートヘヒェンの方がはるかにポジティヴに描かれていることが分かってきます。マリーはけっして理想化されてはおりません。ではヴォイツェクの方はどうでしょうか。アンドレースと一緒に藪のなかで杖を刈っている場面を見てみましょう。幻視に取り憑かれたヴォイツェクは、世界の終末のヴィジョンを見ます。それは同時にまた、彼のフーメースンにかんする固定観念と偏見の告白となっております。

以上総合してみますと、貧しい人間は社会によってこのような偏見や固定観念にとらわれるよう宿命づけられております。この生々しい現実がここでは中心問題になっております。作者ビューヒナーの風刺のリアリズムが鋭く打ち出されています。

岡田泰子 ヴォイツェクの妄想についてお尋ねいたします。先程シャイフェレ先生が触れられた、藪のなかで杖を刈る場面ですけれども、ヴォイツェクは幻視と幻覚に悩まされているので、友人のアンドレースはびっくりします。別の場面で医師はヴォイツェクを精神錯乱と診断しております。また、テクストの後半の兵営の場面を見ますと、不眠症にかかったヴォイツェクは、目を閉じるとヴァイオリンが次のように言っているのが聞こえてくる、とアンドレースに言うくだりがあります。「もっとやれ、もっとやれ、・・・刺せ!

! (172) 。この台詞は明らかに後のマリーの殺害を暗示しております。ですから、先の精神錯乱という医師の診断は、全体的に見れば、主人公の犯罪行為を予示するための伏線となっているように思われるのですが、如何でしょうか?ヴォイツェクの妄想はこの作品のなかでどのような意義をもっているのでしょうか?

八木 浩 ヴォイツェクは少なくとも最低の生活をするためのお金を稼ぐために、医師の実験のモルモットになっております。社会的地位の低さ、それによる貧困が、悲惨な生活条件下に主人公を追い込んでおります。主人公の幻覚は、その困窮しきった生活状況と、貧乏人を科学の実験使う非人間的な社会状況を示す機能を果たしていると思います。

下程 息 ヴォイツェクはこのように医師の実験道具になったり、大尉の散髪をしたりして、最低限の生活をしております。このような社会的環境がヴォイツェクの犯罪行為の原因である、とハンス・マイアーは解釈しております。八木さんの今のお答えはこのマイアーの解釈に基づくものなのでしょうか?

八木 浩 とくにマイアーだけに依存したわけではありません。先程の子供の問題に戻って全体の文脈から説明しましょう。マリーは家のなかではいつも子供を守り育てております。ですから、マリーと子供の関係は緊密です。しかし鼓手長が割り込んできますと、ヴォイツェクとマリーとの関係は不穏になります。同時にまた、ヴォイツェクと子供との関係も別の理由から不穏になっております。このヴォイツェクと子供との関係は、母親であるマリーほどには親密なものではありません。このような複雑は人間関係によってヴォイツェクの幻覚症状はますます悪化し、挙句の果てにはマリーを殺害する破目になったのではないでしょうか。ですから、主人公ヴォイツェクの幻覚症状はその社会的境遇を暗示し、さらには家庭内での悲劇を予示するという、二重の機能を果たしていると考えられはしないでしょうか。双方個々の機能はここでは相互補完的に作用しております。このように解釈していきますならば、主人公の幻覚症状の原因は悲惨な労働条件にあったと言えるのではないでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ ビューヒナーは同時にまた、このヴォイツェクを医学的現象として扱っております。医師はヴォイツェクに対して「局部性精神錯乱」(aberratiomentalis partialis) (168) いう診断を下しております。それは、医学的観点からすれば、ヴォイツェクはこの当該の病気以外の部分では正常である、ということになります。現実の人間ヴォイツェクは、担当医師の精神鑑定の結果、神経過敏ではあるけれども、刑の引責能力ありと診断され、死刑になりました。この歴史的事実を考慮しますと、じつは精神病のために罪の引責能力のないヴォイツェクを極刑に処した、ライプツィヒでの裁判に対する、作者のプロテストをここに読みとることもできます。このとこ以外に注目しなければならないのは、このドラマのなかで作者ビューヒナーが試みた、言語上の大胆な実験であります。作者は固定観念や幻覚症状などの人間の魂の闇の世界をここで照らし出しておりますが、これは後の表現主義の世界を先取していると言えましょう。このような広い観点から見ていきますと、先に引き合いにだされました、主人公の「もっとやれ、もっとやれ、・・・刺せ! 刺せ!(Immer zu, immer zu....stich! stich!(172) という独白などは驚異的に斬新な言語創造です。一瞬閃めくようなこの言語は異様な衝撃力をもっております。ここでまた見逃してはならないのは、聖書の問題です。それは登場人物の社会的素性に関連しております。幻覚症状に陥ったヴォイツェクは、聖書のなかの黙示録に仮託して世界の終末のヴィジョンを見ております。このグロテスクな場面から判明してくるのは、このドラマの素材となっていた歴史上のヴォイツェクの教養は、聖書しか知らぬ程度のきわめて低いものだったという事実です。また、不倫を犯したマリーが良心の呵責に悶える場面の台詞にも聖書からの引用が見られます。ビューヒナーの言語創造は同時にまた、歴史上の人物ヴォイツェクが生活していた当時の教養基盤となっていた、キリスト教の背景ぬきには考えられません。

ついでに申しておきますが、過酷きわまる労働条件が主人公の狂気の素因となっていると、八木さんは先程結論づけられましたが、この問題は作品の主要なモティーフとなっております。

八木 浩 先程の話題に戻りますけれども、主人公の幻覚症状は後の犯罪行為を予示しているという問題になりましたが、本来ドラマにおきましては現在の出来事や対話を中心にして筋が展開されております。ジャンル別に見ていきますと、予示とは本来小説のなかでの機能を表わす概念規定でありまして、正真正銘のドラマでは第一義的な機能を果たしてはおりません。すると、幻覚症状に予知の機能を与えている、このドラマは叙事詩的演劇に近いところがありはしないでしょうか。こういう見方が学問的に妥当かどうか、早急には申せませんけれども、わが国のゲルマニストのなかには異化効果とか叙事詩的演劇という概念を導入してこのドラマを考察している人がおりますね。

下程 息 ビューヒナーのドラマには叙事詩的なところがありはしないかということは、昨年のコロキウムでも話題になりましたね。シャイフェレさん、この問題についてどう考えておられるでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ 「ヴォイツェク事件」はザクセン地方では非常に有名になりました。ですから、この事件をドラマにするかぎり、未知の事件を扱った場合のように、作品に劇的緊迫感を通わし、作品をできうるかぎりポピュラーなものにする必要性はありませんでした。このドラマのなかに歌が挿入されておりますけれども、これはロマン派の作品にしばしば見うけられる事例です。しかしながら、ここで歌は、ロマン派の作品の場合のように、雰囲気を醸しだしたり高めたりするために用いられてはおりません。マリーの歌は子供を軽蔑した内容のものです。また、マリー殺害後にヴォイツェクが居酒屋で女の子と歌う唄は、貧民の置かれている社会的境遇を語ったものです。ここでは唄は、ロマン派の場合とは異なり、状況を特徴づけたり注釈したりしております。この作品で披露されている説教は反説教に、メルヒェンは反メルヒェンに変容しており、本来の機能は逆転しており、本来の内容は否定されております。これらの局面に注目しますと、この作品のなかには異化効果的な影響を与えている因子がたしかに見出されます。

八木 浩 踊り、音楽、軍隊の太鼓、シャイフェレさんが指摘された唄の機能などをつぶさに観察していきますと、ドラマの進行を停止させる、異化効果を思わす場面がこの作品には多くあります。ブレヒト全集に目を通しますと、20世紀を代表する、このドイツの劇作家がビューヒナーに言及しているところがあまり見当たりません。けれども、ブレヒトはビューヒナーについて多くのことを知っていたに違いありません。どうしてなのでしょうか、不思議に思うのですけれども、数えてみれば、ビューヒナーについて語っている所は13箇所あります。そのうち半分ほどは『ヴォイツェク』を対象にしております。そのすべては、この作品は技術的には完璧に近いと言った調子の短評ばかりです。そして、『ヴォイツェク』を評価し、この作品から学んだ形跡が見られます。ここでブレヒトの方に目を転じますと、『夜打つ太鼓』という彼の初期の作品には『ヴォイツェク』とどこか似通ったところがあります。ブレヒトはおそらくアウグスブルクで『ヴォイツェク』を見て彼なりに勉強したと思うのです。このことは『バール』についても言えましょう。両作家の間の親近性のようなものが今後論証されてくるのではないでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ 忘れないうちに、岡田さんの質問に関連して是非ともここで補足しておきたいことがあります。ヴォイツェクの病いという医学上の問題は、1920年代にはきわめてアクチュアルだったのです。真剣に取り上げられておりました。西ドイツでは今は死刑制度はありませんけれども、当時は死刑の当否死刑が大きな問題となっておりました。ですから、『ヴォイツェク』はしばしば上演されていましたし、変質的衝動に突き動かされて人殺しをした人間を死刑に処すべきかどうかという、広い意味で『ヴォイツェク』と同じような問題を取り上げた、フリッツ・ランク監督の野心作『M』という映画が巷の話題を呼びました。ビューヒナーは、先にも申しましたけれども、死刑判決を下した、当時のライプツィヒの裁判所をこの『ヴォイツェク』という作品でもって告発したのです。この作中の医師は、当時ヴォイツェクの犯罪引責能力を証明した医師クラールスのパロディーではないかと、このような観点から考えております。

下程 息 この作品のなかで展開されている重要なモティーフを手がかりにしてビューヒナー文学について今まで論議してきましたけれども、ビューヒナーを取り上げるときにはどうしても避けて通れない、この作品の形式にかんする問いを次に出して下さい。

山口 勝 『ヴォイツェク』は古典主義のドラマのような「完結した形式」の作品ではありません。個々の場面や形姿を見ていきますと、観衆は、何の脈絡のない個々の状況の真只中に、何の予告もなしに投げ込まれたような印象を受けます。事実、その作劇術を見ましても、個々の場面はそれぞれ独立したものになっております。ですから、『ヴォイツェク』は「開かれた形式」の作品と言われております。2年前に『ダントンの死』についてのコロキウムを行ったとき、ビューヒナーの作品は「つぎはぎの技法」(Fetzentechnik)でもって作られている、とクロイツァー教授は言われましたが、ビューヒナーの作品においては、映画を思わすような、20世紀演劇特有の技法が先取されているようにも思われます。けれども同時にまた、場面の展開のプロセスを子細に観察していきますと、そこには明白な因果関係が存在しているのが判明してきます。このことについてはシャイフェレ先生が授業のときに実証されました。たとえば、ヴォイツェクはナイフをユダヤ人から買いますが、その前に鼓手長と喧嘩しております。それ以前の場面でも幻覚症状に陥り、眼前にナイフがちらついている、と言っております。さらにそれよりも前に「牝狼を刺し殺せ」(172) という不気味な言葉を吐いております。すると、ナイフを買う行為と彼の犯罪行為とを結ぶ、一本の赤い糸があることが、この作品の草稿から解読されてきます。このことをシャイフェレ先生は授業で証明して下さいました。このように個々の部分をより綿密に検討していきますと、相互の意味関連性をもった部分と独立した部分がこの作品では並存しているように思われてきます。このことは、手書きの原稿しか残されておらず、作者ビューヒナーはこの作品の決定稿を書かなかったという事態と密接に関連しているのではないか、と考えられます。私は、授業のときに読まされた、アルブレヒト・マイアーの論文から学んだのですが、『ヴォイツェク』という作品の個々の部分はその全体の本質的な一断面になっており、作品のなかの個々の「空所」(Leerstelle)や空白はじつは意識的に作られたものにほかならない。だから、『ヴォイツェク』のなかの個々の場面を読者が省察によって繋ぎ合わしていくならば、全体は意味関連的に再構成されていくのではないか、とアルブレヒト・マイアーは考えております。このような見解もあることを考慮しますと、この作品がはたして「開かれた形式」の作品と言えるのか、疑問に思われてまいります。先生はこの問題についてどのようにお考えでしょうか?

八木 浩 難しい問題ですね。この作品のレクラム版のなかのヴァルター・ヒンクの解題を見ることにしましょう。そのなかでヒンクは次のように総括しております。自然主義や表現主義の演劇、非条理演劇、それとも記録演劇をも含んでいる叙事詩的演劇、これら十九世紀以降のほとんどすべての演劇は様式面ではビューヒナーに繋がっている。ビューヒナーのドラマは開かれた演劇、非アリストテレス的作劇術、写実主義の作劇術の伝統の圏内に位置している。二十世紀の演劇に至る道はビューヒナーの演劇を通過点としている。「開かれて形式」の演劇を共通項にして現代演劇とビューヒナーの演劇とを様式面で関連づけて考察していこう、とヒンクは提案しております。その形式が開かれたものなのか、それとも、完結したものなのか、その判定はじつに難しい課題です。作品の形式にかんする問題は、へーゲルの弁証法によりますと、同時に作品の内容にかんする問題となってきます。作品の形式が開かれているのは、矛盾や疎外が鬱積し深刻化してきた、社会の現実を完結した形式のなかに形姿化するこができなくなってきたからです。開かれた形式は文学的状況のこのような歴史的変貌を明示しております。開かれた形式のドラマは、解答を与えてはくれない「空所」をここで作ることによって、社会や人間の矛盾について省察するよう読者を促しております。このように考えますと、すべて「空所」ばかりではなく、解答のはっきりしている個所もあってよいわけで、すべてはこの両者の二者択一の論理では片づけることはできません。双方は意味関連的に相互に機能し合っている筈です。重要なのは、「空所」が重視されはじめたという、新しい文学的状況ではないでしょうか。未完結性と完結性の双方の混合は、ビューヒナーだけではなく、グラッベ、ヘッベル、クライストなどの十九世紀の作家たちにも見受けられる共通現象と言えましょう。たとえば、ヘッベルの『マリア・マグダレーナ』は完結した作品のように見えますけれども、同時にまた、市民社会の矛盾や疎外の現象について省察と批判を迫っている作品です。この点では「開かれた」ところのある、未完結な作品ともなっております。だから、この作品は「空所」があるのも当然です。とりわけ注目すべきことには、イプセン、ストリンドベリー、ハウプトマン、メーテルリンクたちが活躍していた十九世紀以降、表現主義を経てブレヒトに至る演劇の歴史の歩みにおいて、如何に危機が深刻化してきたか、それに伴う問題の複雑化に歩調を合わせて、作品の「空所」が増大してきております。その具体的プロセスをソンディは鋭く分析しております。「空所」の増大は、したがって、社会の危機の深化とパラレルな関係にあると思うのです。

エーバーハルト・シャイフェレ 『ヴォイツェク』のなかに見られる『空所』はそもそもビューヒナーその人の本来の意図によるものか、結果的に「空所」が生じたのか、決めかねます。全体の意味関連性を踏まえて観察しますと、ビューヒナーが始めから計画的に設定したと思われる「空所」はたしかに散見されはします。しかしながら、非常に凝縮されたかたちで展開されるダイアローグを観察しますと、この作品には古典的完結性を具現しているところにも、言い換えますならば、伝統的なところもあることに気付くのです。じつに綿密に書かれている、医師と主人公の対話の場面などはその端的な例と申せましょう。このドラマの筋の展開は特定の目標に向かって整然と展開されており、全体は首尾一貫している、そのドラマトゥルギーの古典的完結性は『ダントンの死』以上のものである、とさえランダウは言っております。敷衍換しますと、『ヴォイツェク』という作品は始めから「開かれた形式」のフラグメントとして書かれたものではない、古典悲劇として完成できなかった、トルソーに終わってしまったという主旨になるでしょう。

ではこのことと関連してマウトナーのこの作品の言語分析に注目したいと思います。これはじつに重要な文献です。ここでマウトナーは、緻密な網のように相互関連的に組み合わされている、諸々のモティーフや意味の層から成立している、この作品の言語構造に分析のメスを入れております。その結果、主人公の精神病と発狂をドラマにしているこの作品においては、「もっとやれ、もっとやれ、・・・殺せ、あの牝狼を刺し殺せ」(172) という、主人公の独白は、全体の諸々の契機を因果的に動機づけていく関連点になっており、言語面から考察していくと、この作品には比喩的な連続性が見られる、ということがここで論証されております。

ですから、ドラマにおける「開かれた形式」が問題の中心となってきたのは、ソンディがブレヒト論を発表して以降のことなのです。この仕事がドラマ研究の分野での新機軸となったことは言うまでもありません。

以上のように総合的に考えてさしずめ結論を申しますと、この『ヴォイツェク』というドラマには、先に言及されましたように、完結している個所と未完の個所とが共存しておりますので、「開かれた形式」と同時に「閉ざされた形式」のドラマと言えるでしょう。このドラマは、ヴォイツェク事件をテーマにしたドキュメントと見做すならば、本来は完結した形式の作品となるべき筋合いのものだったと言えるでしょうし、当時の矛盾した社会を告発することによって観衆に省察を促す作品と見做すならば、「開かれた形式」の作品と言えるでしょう。

下程 息 この作品が内在化させている個々の問題をどう解読すればよいか、ということについて両先生からいろいろ学ぶことができました。この作品は、異なった光を放つ様々な切り子面によって構成されていると言えばよいのでしょうか。その解釈がまことに多種多彩その解釈になってきます。だからこそここで問われてくるのは、解釈者のアプローチの方法や問題意識、ひいてはその世界観でありましょう。これからこの問題を軸にして順番に質問を出してもらいましょう。本来ならば、各質問に対して両先生から答えていただくようにしなければならないのですけれども、時間の制約がありますので、司会者である私がこれらの質問群を最後に整理し、両先生がお答えやすいようにしたいと思います。

勘造真二 フィエートアによれば、『ヴォイツェク』という作者の基本思想である「歴史の宿命論」を具象化した作品ということになります。このようなペシミスティックな解釈について先生はどのようにお考えでしょうか?

佐藤和弘 ハンス・マイアーは、周囲の社会的環境が人間の運命を決定づけるという、唯物論的観点からこの作品の歴史的意義を解明しておりますけれども、このマイアーに代表されるような、作品の社会性、歴史性中心の解釈について両先生はどのようにお考えでしょうか?

飯盛信哉 先の質問内容に多少関連してくるのですけれども、マイアーは大尉と医師を上層階級の類型、ヴォイツェクやマリーを下層階級の類型という区分けをして考察を進めておりますが、このように図式化してしまうと、ヴォイツェクを生身の人間として具体的に把握できなくなるのではないでしょうか?別の見方もできるはずです。たとえばイェンスは、下層の人間ヴォイツェクを、「考えすぎる」という点では、最上層の人間であるレオンスとレーナ、市民階級の代弁者であるダントンと共通した性格の人間と特徴づけております。ヴォイツェクは魂の深層部の未知の力に操られ、内界と外界の区別のない不気味な空間をさすらっております。ですから、このヴォイツェクはグロテスクなドラマの主人公とも見做すこともできはしないでしょうか?カイザーやバウマンはこの面ですぐれた研究成果をすでに発表しております。このような別の観点からの解釈についての見解をお聞かせ下さい。

三宅博子 マリーと『ダントンの死』のなかのマリオン、これら二人の女性は共に卑猥な言葉を吐いておりますけれども、子細に観察しますと相違点が見られます。マリオンの言動は終始自由奔放ですけれども、マリーは不倫故に良心の呵責を感じ、聖書を読みながら自己の罪を悔いております。作者はここでマリーのー罪を非難してはいない、彼女の置かれている社会環境を非難していると思うのですが、如何でしょうか?

もう一つ別の角度からの関連質問なのですけれども、マウトナーの解釈によりますと、マリーは社会に対する自分自身の欲求不満を卑猥な言葉で発散し解消しようとしている。だから、淫猥な言葉は代償満足のための手段になっているとのことです。このマウトナーの解釈をどうお考えでしょうか?

松本 剛 このマリーという貧しい女性は庶出の子を生んでおりますけれども、指輪をもらうと、贈り主である鼓手長の肉体の虜になり身を委ねてしまいます。彼女のこのような不倫の原因をその貧困な境遇から説明するだけでは不十分であって、人間の魂の闇の部分に潜んでいる、非合理なもの、無意識的なものの恐ろしさをも同時に考慮していかねばならないと思うのです。この問題はまた、マリオンがダントンに打ち明けた、彼女の半生からも明らかになってきます。彼女は包み隠しなく性の告白をしております。このような観点に立ちますならば、ビューヒナーは、社会批判だけでは解明できない、人間の魂の深層の部分、性というデモーニッシュな領域に認識のメスを入れた作者と言えはしないでしょうか?

下程 息  お答えしていただくに先立ち、以上の質問を私なりに整理し、先ず問題の所在と焦点を明らかにしておきたいと思います。皆様方の御質問は、ペシミズム、宿命論、社会主義、言語分析、深層心理学などの立場からのビューヒナー解釈の可能性にかかわるものでありました。繰り返すようですけれども、ドイツ文学史上ビューヒナーほど様々な解釈を可能にする作家はほかにないでしょう。ビューヒナーの作品をある角度から解釈するや否や、別の角度からも解釈するよう挑発しております。ビューヒナー文学のユニークな面白さはまさにここにあると言えましょう。このデリケートで懐深い問題をできるだけ全体的に把握するために、ここで私の方からも補足しておきましょう。

皆様方が先に挙げられた解釈以外に、信仰告白をビューヒナー文学の負の世界のなかに垣間見ている、マルテンスやミュラーなどの形而上的・宗教的解釈も忘れてはなりません。注目するに値すると思われる、諸々のビューヒナー解釈はこれでもっていちおう出揃ったのではないかと思います。一昨年クロイツァー教授が力説しておられましたように、ビューヒナー解釈は、それぞれの時代の文学的状況を反映しながら、いろいろと変貌してきましたし、この特殊な事態は今後もおそらく続くでしょう。ビューヒナー文学の機微はまさにこの点にありはしないでしょうか?両先生の見解をお伺いすることにしましょう。

八木 浩 ビューヒナーと同時代の作家として先ず思い出すのは、「三月革命前期」の文士ハインリヒ・ハイネです。ハイネは伯父の家の娘アマーリエに恋をしましたが、彼女はハイネを捨てて別の金持の男性と結婚しました。ハイネは以後も女性にしばしば裏切られました。このときの苦い体験が彼の恋愛詩のなかに如実に反映しております。女性の不実や言行不一致がいろいろ槍玉に上げられておりますけれども、各々の詩を熟読しますと、全体はむしろ女性讃歌になっていると思うのです。女性の感覚的・官能的美しさが各人の身分を問わずに謳歌されております。ここで察知されてくるのは、当時の支配的風潮であった「感覚主義」(Sensualismus)です。

ここでビューヒナーに戻りましょう。『ダントンの死』のなかに娼婦マリオンの次の台詞に注目して下さい。「でも聖書だけは勝手に拾い読みをしたわ。この御本はどこを読んでも清らかなのね。でもよく分からないところがあったけど、誰にも尋ねたくなかったわ・・・・」(19)。ここでマリオンは、自分の言動が聖書の内容とそれほど矛盾してはいない、ときには聖書の精神と一致しているとさえ思っております。『ヴォイツェク』のなかでも聖書が引用されております。マリーは夜蝋燭の明かりの下で「ここでパリサイ人ら、姦淫のとき、捕らえられた女を連れてきたれり・・・・」(173) という聖書の文言から読みはじめ、「イエスは言いたまう。我も汝を罪せじ、行け、再び罪を犯すなかれ」(173) という個所にくると、「神様! (173) と言って、両手を額に押しあてます。彼女は聖書のこの意味はそれほど分かってはいないけれども、自分は神によって許される存在と信じているように思われます。ここでは社会の営みと官能の営みとははっきりと分けて考えられてはおりません。むしろ、官能は人間のレゾン・デートルであり、官能の自由は社会の解放であるという、新思想がここからも読みとれるように思われるのです。このように全体的に観察していきますと、感覚主義がハイネの文学においても、ビューヒナーの文学においても、共通の思想となっていると言えはしないでしょうか。これら二人の文士の間には包括的な意味で共通の類似点があるのではないかと、私は日頃から思っているのですが、如何でしょうか?

では本題に入りましょう。ビューヒナー文学の解釈、それは難しい問題ですので、ひとつの示唆のようなものしかできません。1928年にトウイヤーノフとヤコブソンの構造主義のテーゼが公表されましたが、このテーゼを継承した、プラーハの構造主義は文芸学独自の領域を開拓しました。それに触発されて以来、作品受容の理論、記号論、テクスト言語学など、これらを柱とする新しい文芸学が確立されていく機運にあります。このことを念頭に置きますと、『ヴォイツェク』に対する次のような新しいアプローチの可能性も考えられます。たとえば、金やセックスを記号化すると、この作品も記号論理学的に分析することもできるでしょう。この作品のなかには「金」という言葉が頻繁に出てきます。たとえば、主人公ヴォイツェクはこう言っております。「われわれ貧乏人は。つまり、隊長殿、金、金なんです。金をもたない人間」(165) 。マリーもこう言っております。「きっと金だわ。私たちは肩身の狭い暮らし。鏡もかけら一つ・・・・」(163) 。職人も次のような言葉を吐いております。「俺の魂は焼酎臭いや。金でさえも腐って散ってしまう」(171) 。金をここでひとつの形式的な記号と考えて、作品の構造を把握していくならば、ビューヒナー解釈の新しい道も開けてくるのではないでしょうか。事実、このような方法はカフカの作品の解釈にも適応されております。振り返ってみますと、スターリンの独裁下のロシアでは、文学が国策である社会主義の路線に忠実であるかどうか、厳しく監視されておりましたが、知識人はこのような文化検察官の統制に内心では抵抗しておりました。ナチス時代のドイツでは、国家社会主義に忠誠を誓うか、それとも、左翼かヒューマニズムの陣営に入って抵抗するか、この二者択一は作家の生死にかかわる問題でした。30年代から40年代にかけてソ連もドイツもこのような試練の時をくぐりぬけてきました。だからこそ構造主義が徐々にクローズアップされてきたのではないでしょうか。

下程 息 シャイフェレさん、関連発言をお願いします。

エーバーハルト・シャイフェレ 問題が大きくなりましたね。では私の見解を申し上げますと、『ヴォイツェク』が様々な解釈を可能にするのは、作品自体の多層性によるものです。たとえば、この作品のなかのメルヒェンは哲学的にも、宗教的にも、社会主義的にも解釈できます。どの解釈に最終的に軍配を上げるか、そう簡単には言えません。いや、言えないでしょう。ですから、作品から提起されてくる個々の問題とは全体のコンテクストを踏まえて総合的に取り組んでいかねばなりません。解釈の個々の例について私の所見を述べながら、問題を提起していきたいと思います。

トーマス・ミヒャエル・マイアーは、ビューヒナーはけっして諦めてはいなかった、挫折体験後も変革の情熱を失っていなかったことを文献学的に実証し、ビューヒナー文学を「歴史の宿命論」から解釈してはいけない、という新説を披露しております。ビューヒナーの宿命論やニヒリズムのみを強調するのは問題です。しかしながら、ビューヒナーは、二年前のコロキウムでクロイツァー教授が言われたように、『ダントンの死』以来、人間存在の負の領域とつねに対決してきたことに対しては、反論の余地はありません。トーマス・ミヒャエル・マイアーのように、一元論的にその宿命論を否定することはできません。先にも申したとおり、全体のコンテクストから問題の所在を客観的に把握しなければなりません。

先の飯森君の質問のなかで、社会の下層の人間であるヴォイツェクも、最上層の人間であるレオンスやレーナと同じように、考えすぎるふしがある、というイェンスの見解が例示されました。ここでふと思いだしたのですけれども、ハシェクの『勇敢なる兵士シュベイクの世界大戦での冒険』のなかでも、下層の人間は教育を受けていないけれども、よく考えるという、大尉がヴォイツェクに言ったのと同じような見解が披瀝されているのでないかと思うのです。ハシェクはビューヒナーの影響を受けたかどうか、私は知りません。けれども、双方とも基本的にはよく似た考え方をしておりますね。八木さんはどう思われますか?

八木 浩 そう言われればそうれすね。シュベイクは戦争に連れていかれないようにするために、四苦八苦しておりますね。

エーバーハルト・シャイフェレ またここで思い出すのですけれども、ランダウはヴォイツェクを下層階級出身のハムレットと特徴づけております。この例を見ても、一つの問題点が様々な観点から把握されてくることが分かるでしょう。ビューヒナー文学においては問題は先ず広い意味連関から解読されていかなければなりません。

次に三宅さんの質問に関連してくるのですけれども、マリーの言動はすべてセックスのみから解き明かしていくことはできません。彼女は罪の意識に苦しんでおります。ですから、多層的、多次元的に観察しなければなりません。二三年前、毎年蓼科で行われる、日本独文学会・ゲーテ・インスティテュート共催のドイツ文化ゼミナールに義則さんと下程さんとが三位一体となって参加しましたとき(笑)、グツコーとハイネに共通する基本思想は、先程八木さんが指摘されました、感覚主義であることが確認されました。この感覚主義をビューヒナーも共有しておりました。ビューヒナーも時代の子でした。しかしながら、当時の風潮であった感覚主義を具現している、マリーとマリオンとの間には相違点があります。マリーは自分の置かれている境遇を意識しております。この点、マリオンよりも社会的な考え方をしております。けれども、自己自身に目覚め、女性解放運動に参加しようとはしませんね(笑)。このことはさておき、マリーが鼓手長に「私にさわってごらん(Ruhr mich an!) (166) に言う場面がありますけれども、これは聖書のなかの「私に手を触れるな」(Ruhr mich nicht an! Noli me tangere!) という文言を下敷きにし、それを逆の意味に転用したものです。このような人間性の原始的・官能的な側面は、当時、知的次元では論議されておりましたけれども、文学作品のなかでこのように赤裸々に言語化されたことは今までありませんでした。これはビューヒナーの作品にのみ見られる現象です。ビューヒナーはまた、陳腐な日常語を作品のなに取り入れておりますが、これはシュトゥルム・ウント・ドランク期の文学にその先例を見出すことができます。しかしながら、三月革命前期の時期におきましては、日常語は文学用語と見做されてはおりませんでした。このような文学的でない言葉を使うと、当時の文壇の大御所であったユーリアン・シュミットによって手厳しく批判されました。ラウベやグツコーも文学的な言語を使用しております。この面でビューヒナーはほんとうに例外でした。たとえば、先に八木さんも指摘されましたけれども、『ヴォイツェク』では「金」という言葉がしばしば出てきます。当時の通念からすれば、「金」は詩的言語にはなりません。バロック文学においてもそうっでしたけれども、たとえば「金」を言い表わす場合、「光る金」といったような言い方でもって比喩的に表現するのが普通でした。ですから、当時忌避されていた、野卑な日常語の文学作品内での使用は、ビューヒナー文学のユニークが現代性を物語るものと言えましょう。

では、ビューヒナーが照明を当てた人間性の原始的・官能的な側面についてもこの際もう少し補足しておきましょう。ランダウは、マリーや鼓手長を自由奔放な動物のような人間として描いた、作者ビューヒナーを高く評価しておりますが、これはニーチェの哲学に影響された結果と申せましょう。人間性の非合理的でデモーニッシュな領域に鋤を入れたビューヒナーは、ニーチェを始祖とする「生の哲学」(Lebensphilosophie) の立場から積極的に評価されるようになりました。なるほどランダウは、ビューヒナー文学における官能と性の解放を高く評価してはいますけれども、この問題を政治運動に結びつけている、今日の女性解放運動とは無関係だったことは言うまでもありません。それぞれのモティヴェーションは根本的に異なっております。

「若いドイツ」によって代表される当時の知識階級の社会批判、時代批判の矛先は、封建主義と貴族階級に向けられておりました。『ヴォイツェク』におきましては、狭義の市民道徳の世界を代弁していると言える、医師と大尉がカリカチュアとして描き出されております。より具体的に申しますと、作者ビューヒナーは当時一般の知識人とは別の視点から市民世界の道徳を否定し失墜させております。ビューヒナーの批判精神のこのような独自の尖鋭さは、「若いドイツ」の作家たちの水準をはるかに超えて時代先取的であったことが、ここからも立証されてまいります。

従来のゲルマニスティクの風潮からすれば、「作品解釈」(Interpretation)、「作品分析」(Analyse) 、「文芸学」(Literaturwissenschaft) 、「言語学」(Linguistik)は個々別々の学問領域と見做されておりました。けれども現在では、先に八木さんも触れられましたけれども、これら個々の領域が相互に協力し合って、文学研究の対象を総合的に考察しなければならなくなってきております。先に引き合いに出したのですが、「もっとやれ、もっとやれ、・・・刺せ! 刺せ!(Immer zu, immer zu....stich! stich !(172) というくだりの、マウトナーの言語分析は「作品内在的解釈」のきわだった一例と申せましょう。これに対して最近の「テクスト言語学」(Textlinguistik)におきましては、『ヴォイツェク』という作品のいわば関節となっている「金」という言葉を例にとりますと、芸術の範疇外のこの言葉を当時の社会全体とのかかわりというコンテクストから分析しております。この「金」とか、医学用語などの、詩的でない発話言語が、このような「社会言語学」(Soziolinguistik) の方法によってその時代のコンテクストのなかに位置づけられ、当時の社会問題との関連性という視点から詳細に分析されるようになってきております。たとえばアルベルト・マイアーは、この作品の個々の場面を当時の社会全体のシステムとの関係という視座から分析しております。私はこの研究家の創意を認めるにやぶさかではありませんが、批判的でもあります。何故か、その理由を申しますと、アルベルト・マイアーは問題をいささか単純化したきらいがあるからです。一例を上げますと、医師は台頭した市民階級を、大尉は凋落していく封建社会をそれぞれ代表するタイプである、と定義しておりますけれども、子細に観察しますと、大尉の方が医師よりもはるかに好感がもてる人物であることが分かります。医師ほど戯画化されてはおりません。ですから、この大尉が非人間化した封建主義社会を代弁する人物と単純に公式化してしまうことはできないと思うのです。たしかに大尉は封建主義社会に仕えております。だが、ヴォイツェクもまた一兵卒として封建主義社会に仕えているではないですか。このように具体的に見ていきますと、このアルベルト・マイアーの把握には、公式主義や図式主義がともすれば陥る抽象化の弊害が見られはしないでしょうか。

下程 息 今御説明があったような共同作業が文学研究にとって必要になってきたことはよく分かります。八木さんに対する質問をもかねて、ビューヒナーの作品、思想、生涯を統一的に考察している、ハンス・マイアーの研究について先に言及しました。そのとき左翼の研究のプラス面が確認されました。このことについて私なりに少し補足しておきたいと思います。今日の目から見れば、マイアーのこの著作がもう古典化してしまったことは確かです。しかしながら、ビューヒナー研究史上残した、彼ならではの営為を忘れてはならないと思うのです。このビューヒナー研究を通じて浮かび上がってくるのは、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』の中心問題としていた、政治と文化の関係があまりにもアンバランスな国「近代ドイツ」の特殊状況ではないでしょうか。それは、生命を賭けての飛躍、無から有を生むという天才的な方法によるしか解放の道がない、後進国家ドイツの生身の現実にほかなりません。このマイアーがここで作家の「詩と真実」として浮彫りにしてきたのは、解放のためのアンガジュマンの過程においてドイツの作家や知識人がつねに遭遇しなければならなかった、悲痛な受苦の体験だと思うのです。これは、ビューヒナー研究上避けて通れない基本問題ではないでしょうか。

八木 浩 同感です。ハイネも同時代の詩人としてこのドイツ問題と悲痛な対決をしてきましたね。ここで現代ドイツ・オーストリアの演劇に目を向けますと、クレッツ、フライサー、ホルヴァートなどの作品には『ヴォイツェク』のモティーフがしばしば出てきますし、クレッツはこのドイツ問題を男女関係によって具象化しております。

ここでさらに全体的な観点から見てみますと、『ヴォイツェク』は日本の演劇のモティーフをも形姿化していることが判明してきます。この間労演で『越後つついし親不知』という、柏崎界隈の悲劇を扱った芝居を見ました。それはこういう荒筋でした。夫婦がそれは貧しい暮らしをしております。夫が京都へ出稼ぎに行った留守の間のある冬の日のことです。妻は見知らぬ男に目をつけられて襲われます。妻はこの男と関係をもつようになりますが、妻が寝取られたことに気付いた夫は、出産が予定日よりも一月早いので、子供は妻が密通した男の種ではないかと疑います。事実そうだったのです。妻は自殺しようとしますが、身籠もっている子供のことが気にかかり、死ぬのは出産後にしようと決心し、思い止まります。その結果、家庭内の悲劇的状況は刻々と深刻化し、夫は妻を絞殺し、その葬式が行われた翌日、妻の情夫を刺殺します。新潟県を舞台にして市井の貧民の悲劇を扱っている、この芝居は『ヴォイツェク』を彷彿させるところがあります。一口で言えば、ヴォイツェクにマリーとその情夫である鼓手長を殺害させたような作品ですね。また、『レオンスとレーナ』について書いた論文のなかでも触れておいたのですけれども、中村吉蔵の『剃刀』という作品も、『ヴォイツェク』を思わす作品です。主人公は剃刀で客の髭を剃る散髪屋で、美貌の妻を娶っております。彼の仲間の一人は出世して、東京で代議士になります。ついには大臣にまでなって、故郷に錦を飾ります。この大臣は散髪屋の女房に手をつけようとしますが、この散髪屋は大臣の髭を剃っているとき、剃刀で喉を突いて大臣を刺し殺します。これも『ヴォイツェク』によく似た内容の陰惨な芝居です。『ヴォイツェク』というドラマは、ドイツでも日本でも以上のような意味で非常にアクチュアルな作品と言えるのではないでしょうか。

エーバーハルト・シャイフェレ 『ヴォイツェク』は東西両ドイツでも度々上演されているそうですね。この作品のアクチュアリティは今後とも生かされていくのではないか、と思います。

下程 息 残念ながらもう時間になりました。『レオンスとレーナ』を取り上げました昨年のコロキウムのときと同じように、本日の会におきましても、イェンスが指摘していたビューヒナーの「歴史的には説明しがたい現代性」がこの未完の作品の様々な局面から確認されてきたのではないでしょうか。これは貴重な成果と思います。シャイフェレさん、八木さん、学生諸君、本日はどうも有難うございました。



ビューヒナー没後150年を記念して

―1987年3月28日―

下程 息 質問を出してもらうに先立ち、この十九世紀の鬼才ビューヒナーの現代性についてシャイフェレさんに全般的に説明していただきましょう。

エーバーハルト・シャイフェレ われわれはその都度年度の終りには、ジーゲン大学のヘルムート・クロイツァー教授、忘れることのできない友人、故八木浩さん等、外部から識者を招いてコロキウムを行ってまいりました。本日のコロキウムをもちまして私の3年間の授業の総括を行いたいと存じます。

まず注目せねばならないのは、ビューヒナー評価の目まぐるしい変遷であります。十九世紀におきましてはビューヒナーはそれほど評価されておりませんでした。ときの文壇の法王であったユリアーン・シュミットは、この詩人の才能を認めてはいましたが、余りにもラディカル、政治的、非文学的と見做していました。その主たる理由を申しますと、ビューヒナーは当時のカノンとなっていた「天才美学」(Genie-Asthetik) に反対していたからです。十九世紀の詩人観は本質的にはシラーの美学を継承しておりました。だから、詩人はすべてに冠絶した存在でなければなりません。現実を詩的に美しく描かねばなりません。グツコーやヘルヴェーグのような政治的な詩人でも、政治を扱うときには形式を堅持した美しい作品を書こうとしておりました。また、十九世紀の詩的リアリズムの代表者オットー・ルートヴィヒやテオドーア・フォンターネなども、詩人は現実を取捨選択し、美的調和と完結性を具備した作品を書かねばならない、と確信しておりました。

以上のような十九世紀の規範的美学にいちはやく反対していたのが、ビューヒナーでした。ディドロ、レンツ、ゲーテを範例としているビューヒナーの美学によれば、短篇『レンツ』のなかで主人公に告白させているように、芸術家に求められているのは生々しい「生と現存在の可能性」(76)にほかなりません。その美醜を問題にしてはなりません。このような赤裸々なリアリズを「芸術の唯一の尺度」(76)と見做していたビューヒナーは、犯罪、狂気、病患等、従来の伝統的美学からは文学の領域外と見做されていた、生の負の世界を描き出しております。十九世紀の表現作法には見られない、医学、自然科学の専門用語から成るメタファーを用いております。そのためビューヒナーの作品の形式は、古典文学の場合のように完結しておりません。開かれており、未完の状態を止めております。この作家特有の「開かれた形式」はその美学と切り離して考えられません。このビューヒナーの美学は、ハウプトマン、ズーダーマンの自然主義、ヴェーデキント、シュテルンハイムたちのブルジョワ批判の文学、表現主義に大きな影響を与えました。これらの文学作品は、性、犯罪、狂気などの人間性の負の世界を共通の題材としていたからです。

ビューヒナーは手法面では二十世紀の美学を先取しておりました。まず『レンツ』を見てみましょう。ここで作者は「全知の語り手」になることを終始断念しております。事態や状況の背後に身を隠しております。そのため、現代小説の場合のように、作品のパースペクティヴがときに目まぐるしく、ときに非連続的に変化しております。そして同時にまた、シュトゥルム・ウント・ドランク期の詩人レンツの発狂にかんする、オーバーリンの報告を作中に取り入れております。また『ダントンの死』のなかにも、ロベスピエールやダントンの演説などの、フランス革命にかんする記録がそのまま取り入れられています。『ヴォイツェク』でも、狂人である犯人の引責能力をめぐって当時巷の熱い話題となっていた、ヴォイツェク事件にかんする法律文書が素材となっておりました。ビューヒナーの時代におきましては、このように詩的でない手法は創作本来の領域ではないと考えられていたことは、言うまでもありません。たとえばケラーは、ハイゼ宛の手紙のなかでおよそ次のように述べております。詩人は模写するだけであってはいけない。素材を加工して、形式を具備した美しい作品を創作しなければならない。ケラーの目からすれば、ビューヒナーのドラマはシラーの『群盗』のような独創的な作品ではありませんでした。けれども、この問題を現代文学に関連づけて観察していきますと、まったく別の評価が生まれてきます。現代文学では、このビューヒナーが用いたような、モンタージュ技法がしばしば駆使されております。またイエンスは、狂人、売笑婦、犯罪者等、社会の末端に追いつめられた極端なタイプの人物が登場するところに表現主義の顕著な特質を見ておりますが、このような人物設定はすでにビューヒナーの作中に看取できます。 

次に言語の問題ですが、ビューヒナーは言語表現の領域を計り知れないほど拡大しております。この作家は、方言、日常会話、医学用語、意識下の言語等、今まで文学の言語とは見做されていなかった言語を作中に取り入れています。たとえばヴォイツェクは、社会で極度に疎外されておりますがために、正常な言葉が話せません。またダントンは、他人をほんとうに理解しようと思うならば、頭骸骨をかち割って脳の繊維を引っぱり出さねばならない、と言っております。『レンツ』のなかにはは空を「愚かな青い目(ein dummes

blaues Aug) (82)に譬えているくだりが、また、『ヴォイツェク』のなかには主人公が黙示録的な幻視に取憑かれる場面がありますが、これらデフォルメされたメタファーや黙示録的情景は表現主義においてとりわけ特徴的な文学現象なのです。ビューヒナーの世界には表現主義を彷彿させる言語表現がこのように随所に点在しております。

したがってビューヒナーは、自然主義以降、二十世紀文学の旗手たちにとっては先駆者だっただけに止まらず、同時代の作家に等しい存在でありました。では、その具体例を挙げていきましょう。ハウプトマンの『線路番ティール』、トラーの『ヒンケマン』は『ヴォイツェク』の影響を受けております。ビューヒナーの影響が見られる作品としては、デーブリーンの『ベルリーン・アレキサンダー広場』、ボルヒェルトの『戸の外』が挙げられます。ペーター・ヴァイスの『マラー= サド劇』は『ダントンの死』のなかのロベスピエールとダントンの論争をさらに展開させた作品と言えましょう。

ここで同時に忘れてならないのは、この作家やその作品を素材にして、また、そのテーマさらに進展させたかたちですぐれた創作が発表されてきたという事実です。音楽の分野ではアルバン・ベルクが『ヴォイツェク』(Woyzeck) を『ヴォツェク』(Wozzeck) という標題の下に、フォン・アイネムが『ダントンの死』をそれぞれ歌劇に作曲しております。文学の分野でまず挙げねばならないのは、ペーター・シュナイダーの『レンツ』という同名の小説です。この中編小説は、西ドイツでの反体制運動に挫折した若者の悩みという、当時のアクチュアルな問題にメスを入れたものです。ここではビューヒナーの問題意識が現代の焦眉の問題に関連づけて再創造され、ビューヒナーの『レンツ』の負の世界は陽転されています。ビューヒナーの『レンツ』はまた、ジョージ・ムーアによって映画化されました。最後にビューヒナーと彼の周囲の人物を形姿化した作品を挙げましょう。そのなかでとりわけ重要なのは、以前表現主義者であったカージミル・エートシュミットの『ゲオルク・ビューヒナー ドイツの革命』という長編小説です。この作品の各章は、各々の登場人物のパースペクティヴから描き出されております。当時のヘッセン州の大公であり大学の裁判官であった、ゲオルギーをその内面から観察することによって、どうしてこのように酷白非情な人物になってしまったのか、その具体的経緯が解明されてくるという手筈になっております。その他、ビューヒナーの最後の日を描写した作品が二つあります。ガストン・サルヴァトーレのドラマ『ビューヒナーの死』とペーター・シューネマンの中編小説『二つの国』です。いずれも一読に値する作品と思います。

次にビューヒナー研究の問題に移りたいと思います。ビューヒナー受容にとって決定的だったのは、この方面での文献学の発達です。ビューヒナーの作品は1879年にカール・エーミール・フランツォースによって出版され、1922年にはベルゲマン版が、1972年から73年にかけてレーマン版がそれぞれ出版されました。ベルクの歌劇の標題が『ヴォツェク』となっているのはベルゲマン版を採用したからです。だから、ビューヒナーの全集は以後改訂されねばなりませんでした。そして近年、トーマス・ミヒャエル・マイアーの監修の下にビューヒナー協会から『ビューヒナー年鑑』が発行されて以来、ビューヒナー研究は文献学的に緻密化され、国際化されてきました。これはビューヒナー研究の決定的な転機と申せましょう。

以上のような背景の上に成立し展開されてきたビューヒナー研究は、その姿勢はじつに種々多彩なものではあるけれども、最終的には、個々の研究家の世界観の問題に帰着すると思います。ビューヒナー研究は時代の動向にきわめて鋭敏に反応しております。その重要な一例と思われるのは、一1934というナチス台頭期に発表されたフィエトアの解釈です。ここでは実存主義的ペシミストであり宿命論者である作家ビューヒナーの形姿がクローズアップされております。それとおよそ対照的なのが、フィエトアとほぼ同じ時期に当たる、1937年に発表されたルカーチの社会主義的解釈です。そして、その衣鉢を継承しているのが、1946年という第二次世界大戦終結直後のハンス・マイアーのビューヒナー解釈です。ルカーチもマイアーも、ビューヒナーを唯物論的弁証法形成の前段階である、初期社会主義の時期の思想家であると見做す点において見解を同じくしております。それに対して、トーマス・ミヒャエル・マイアーは1982年に発表した緻密きわまる論文のなかでビューヒナーは初期社会主義のみならず、初期共産主義者であったと断言しており、またコーベルは、1974年に上梓した著書のなかでビューヒナーはキリスト教徒だったと言っております。

このようにビューヒナーは、時代の推移に密着してじつに多様な解釈を許容する作家です。では次にビューヒナー賞という制度を見ることにしましょう。その元を正せば、1923年にビューヒナーの故郷であるヘッセン州に設定されたものであり、受賞者はヘッセン州内の作家に限られておりました。当時のもっとも著名な受賞者と言えば、カール・ツックマイアーでありましょう。この制度は、1933年から1945年まで休止されていましたが、ナチスの倒壊後、政治問題に煩わされなくなったために復活の機運が高まり、1951年、ドイツ語で作品を書く作家を受賞者に選ぶ、西ドイツの制度として再発足しました。ここでとくに注目すべきことは、この賞が作風を異にするきわめて多くの作家に授与されているという事実です。それは何を意味しているのでしょう。この問題をまず見ておかねばなりません。ちなみにドイツ文学には、フランス文学の場合のような、伝統の連続性が希薄です。裂け目、飛躍、矛盾、一言で言えば、非連続性がしばしば目につきます。これは、とりわけ現代ドイツ文学を際立たせている徴候です。そのため、戦後のドイツ文学全体を総称することは不可能です。ビューヒナー賞は、このような文学的状況を反映して、今日西ドイツでもっとも声望の高い賞になっております。ですから各受賞者は、受賞演説を行った際に、ゲーテ、シラー、ブレヒトではなく、このビューヒナーに仮託して、あるいは関連づけて自己の文学観を披瀝しております。

では、どのような作家が受賞の栄誉に浴しているのか、概観することにしましょう。最初の受賞者は反アンガジュマンの詩人ゴットフリート・ベンでした。以後、きわめて政治的な作家ペーター・ヴァイス、極度に自己閉鎖的詩人パウル・ツェラーン、メタファーを用いずに現代の問題を扱っているウーヴェ・ヨーンゾン、保守的な作家ジークフリート・レンツ、イローニッシュなコスモポリタン、ヘルマン・ケステン、反体制の詩人ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、ビューヒナーと一緒になってキリスト教民主同盟と闘うと宣言した、ギュンター・グラース、トーマス・マンの子息、西ドイツでもっとも保守的な評論家ゴーロ・マン、これら作風や資性を異にする作家が受賞者になっております。その理由としましては、先に申したことに関連してきますが、ビューヒナー文学にかんしては多種多彩な解釈が可能であるという事態、こういう多面性がこれら個々の受賞者たちの想像力にそれぞれ強く訴えかけていたという事態、さらには、受賞者たちが現代や現代文学の問題にそれぞれ的確な理解を示していたという事態が挙げられましょう。

ビューヒナー賞が西ドイツの文壇でこれほど重きをなすようになった理由がもうひとつあると思われます。それは次のようなドイツ特有の文化の状況です。二つの世界大戦がドイツの敗北に終わった結果、ドイツにデモクラシーが移植されました。就中第二次世界大戦後、ドイツは勝利国の制度であるデモクラシーの道を歩まねばならなくなりました。けれども、ドイツには「共和主義」( Republikanismus ) を育成する精神的風土がありませんでした。だから、フォルスター、ハイネ、ベルネ、ジャン・パウル、ビューヒナー、ハインリヒ・マン、トゥホルスキーなどの民主主義文学の系譜が重視されはじめました。ビューヒナー賞という制度の成立にはこのような政治的背景もあったのです。

さらに注目すべきことに、受賞者たちの国籍は西ドイツのみに限られておりません。ペーター・ハントケのようなオーストリア人、マネス・シュペルバのようなフランス人、マックス・フリッシュのようなスイス人、クリスタ・ヴォルフのような東ドイツの作家、ペーター・ヴァイスのようなスエーデン人が受賞者となっております。この事実はビューヒナー賞のインターナショナルな性格を物語っていると言えましょう。

各作家は受賞演説のなかで自己とビューヒナーとの関係を語っていますが、その内容は以下の3つのグループに大別されます。ベンやグラースのようにビューヒナーを自分の同僚と見做す作家たち。ゴーロ・マンのように自分とビューヒナーとは違うことを明言している作家たち。カシニッツやバハマンのように自分はビューヒナーの足下にも及ばない、と謙遜している作家たち。これら以外の極端な場合はカネッティでありまして、ビューヒナーは自分の人生を変えたと告白しております。けれども、これら様々な受賞者たちには次のような共通点があります。彼らはいずれもビューヒナーを学問的にではなく、自己の問題意識の光に照らして捉えております。ここでビューヒナーの個々の作品が取り上げられた頻度を指摘しますと、『レンツ』、『ヴォイツェク』、『レオンスとレーナ』、『ダントンの死』という順になります。このことについて少しコメントますと、『レオンスとレーナ』は非条理演劇の全盛期にしばしば上演されましたが、その時代はもう終りました。『ダントンの死』は1920年代には上演されておりましたけれども、この作中の政治的パトスが嫌がられはじめたために、現在ではほとんで演目に上がらなくなっております。『ヴォイツェク』の上演も稀になってきております。。ケストナーは現在この作品を上演する意味がはたしてあるのか、というラディカルな問いを突きつけております。学生の反体制運動が挫折に終わった結果、保守的風潮になり、諦めの気分が蔓延しはじめておりますために、現在もっとも読まれているのは『レンツ』です。

ビューヒナーはクライストやヘルダーリンのように死後評価された作家です。このビューヒナーは、以上指摘してきましたように、その時々の文学的状況に応じて様々な評価が下されてきました。現代作家にとっては手本になったり、問題意識の展開の足がかりとなっております。クライストやヘルダーリンにはこのような現象は見られません。ドイツ文学史上ビューヒナーほど特異な作家はおりません。これがビューヒナーの「現代性」なのです。

下程 息 どうも有り難うございました。全体の要所を的確に押さえた、シャイフェレさんの以上の総括に対する関連質問を順番にしてもらうことにしましょう。

安部恵理子 医学、自然科学、政治などの、当時文学に無関係な領域を作中に取り入れることによってビューヒナー文学が体現している「全体性( Totalitat ) は、同時代の作家ハイネやグラッベの場合とはおよそ比較にならないほど大きい、とハンス・マイアーは言っておりました。イェンスの指摘する、ビューヒナーの「説明しがたい現代性」はまさにここにあると思いますが、この「全体性」についてもう少し補足していただけないでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ  ゲーテやシラーの「全体性」には限界があった。ビューヒナーはそれを超えた「全体性」を確立していた。ビューヒナーの「全体性」はまた、グツコーなどの「若いドイツ」の作家たちのそれをはるかに超えていた。というのも、「若いドイツ」は文学と政治を区別していた。ビューヒナーは、その手紙から明らかとなってくるのであるが、こういう区別をしなかった。ハンス・マイアーは1897年2月13日の『新チューリヒ新聞』のなかで以上のように述べております。ビューヒナーの「全体性」が、精神科学の対立概念である自然科学をも取り入れていたのは、彼の家柄と密接な関係があったということをここで忘れてはなりません。彼は医師の家に生まれたことが、非常に大きなウエイトを占めていると思います。

池田遊魚 フライヒラートは、政治的詩人ではありましたけれども、文学と政治を区別しなければならない、という超党派的な立場を表明しておりました。ヘルヴェークは、ビューヒナーに捧げた詩『党派』のなかで次のような比喩でもってこのフライヒラートに反対しておりました。今まで詩人ダヴィトは竪琴を弾いて歌い、王サウルは槍をもって闘ったけれども、今ではこの関係は逆転した。王が詩を書き、詩人が闘うようになった。ビューヒナーはこの論争についてどのように考えていたのでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ ヘルヴェークとフライヒラートのいずれが正しいのか、それは革命の時代に生きるか、王政復古の時代に生きるか、この二者択一によって決まりましょう。ビューヒナー賞に倣って言うならば、ヴァイスのようなアンガジュマンの詩人か、ツェラーンのような詩の美的自立性を堅持する詩人か、そのいずれが受賞の栄誉に輝くのか、それはその都度の文学的状況によって決まりましょう。いずれにせよ、どちらの立場にも正当性が認められるのではないでしょうか。

ところでヘルヴェークはここで提起していた問題は、当時きわめてアクチュアルだったのです。たとえばハイネは、バイエルンの王ルートヴィヒ一世やプロイセンのフリードリヒ四世が芸術家を庇護したことを痛罵しております。では、ビューヒナーはこの問題をどう考えていたのでしょうか。ビューヒナーがこの論争について書いた資料は今のところ発見されておりません。ですから、グツコー宛のビューヒナーの手紙(1836 ) による憶測でしかお答えできません。この論争はビューヒナーにとっては文学論争にすぎなかったのではないでしょうか。インテリの遊びか、文学と政治にかんする抽象的、観念論的な論議でしかなかったでしょう。ビューヒナーは、貧乏人と金持との宥和不可能な対立こそ歴史を動かす原動力である、と確信しておりました。だから、「民衆の飢餓と宗教的狂信」(282) のみが革命の起爆力であることを、ビューヒナーはこの手紙のなかで力説しておりました。この論争は、社会の底辺で生活する人間の悲惨な実情を顧慮しておりません。ですから、これに対してビューヒナーはおそらく拒否的な態度をとっていたでしょう。

下程 息 ビューヒナーが三月革命前の時期にこのような唯物論的洞察を示していたことは、とりわけ重要だと思います。今のシャイフェレさんのお答えは檄文『ヘッセンの急使』の内容と密接に関連してくる筈です。このような観点から松本君と新宮君に質問してもらいましょう。

松本 剛 ビューヒナーは、御指摘のように、金持と貧民との対立こそ革命の起爆力であるという認識に基づいて、『ヘッセンの急使』を起草しましたが、同志のヴァイディヒは「金持たち」( Reiche) を「お偉方たち」( Vornehme) と書き換えました。どうしてこんなことをしたのか、それは戦略上の問題だったでしょう。ビューヒナーがはじめに書いたようにすると、金持ちであるブルジョワジーを貧乏な農民の敵にまわさねばならない、すると、当面の敵である封建貴族に対する農民とブルジョワジーとが連帯できなくなってしまう、これでは闘いの見込みがなくなってしまう。このようにヴァイディヒは考えたでしょう。しかしながら、双方の政治的立場の相違はっきりしていると思います。ヴァイディヒは問題をブルジョワ革命の範疇でしか考えていなかったかれども、ビューヒナーは、貴族と同時にブルジョワジーに対しても闘いを挑む、社会主義の立場に立っていたと思うのですが如何でしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ 大筋はそうです。ではもう少し詳しく説明しましょう。「金持たち」という言葉でビューヒナーが念頭に置いていたのは、富裕なブルジョワジーであり、また、富裕な農民でもありました。それを「お偉方たち」と書き改めると、これら富裕な人々に対する攻撃の矛先が鈍ってしまうかわりに、反封建貴族の立場がはっきりと打ち出されてきます。ヴァイディヒはブルジョワジーの立場から貴族に対する闘争を貫徹しようと思っておりました。ビューヒナーの立場は、それに対して、当時のフランスの状況認識に近かったのではないかと思います。と言いますのも、当時フランスでは貴族に対する闘争は終わり、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級的対立が歴史の基軸となっておりました。けれども、ドイツでは階級としてのプロレタリアートは未形成に近く、封建制度の残滓が目立つという、きわめて前近代的な状態でした。この局面ではヴァイディヒの方がドイツの特殊な歴史的・社会的状況をビューヒナーよりもリアルに把握していたとも言えます。これが従前からの一般の見解となっておりました。それに対して真向から反対したのが、受賞者の一人であるエンツェンスベルガーでした。ヴァイディヒによる改変は、ビューヒナーの打ち出していた毅然たるラディカリズムを抹殺してしまう、とエンツェンスベルガーは主張し、階級闘争にかんする双方の間の認識の相違を現代のアクチュアリティの立場から論評しておりました。

では、ヴァイディヒの立場をもう少し詳しく見ていきたいと思います。ヴァイディヒの考えは、本質的には、「ブルシェンシャフト」( Burschenshaft ) のイデオロギーに基づくものでした。「ブルシェンシャフト」はラディカルな共和主義を標榜してはおりましたが、その中核となっていたのはドイツの民族主義でした。だから反フランス主義、反ユダヤ主義を打ち出していました。問題はきわめてデリケートだったのです。ですからヴァイディヒは自由主義者であり、愛国主義者だったのです。ドイツの統一の実現をつねに待望しておりました。ドイツ民族の再生を夢見ていました。ですから、彼のいう「民衆」( Volk) という概念はビューヒナーが考えていたような、社会の最下層の民衆という概念はその範疇に入っておりません。ヴァイディヒの場合、「民衆」とは封建諸侯に対して闘う人々でした。けれども、反封建諸侯ではあっても、反皇帝ではありませんでした。ヴァイディヒは、搾取しない皇帝に対しては反対しておりません。皇帝の下でのドイツの統一と再生を願っておりました。ドイツの共和主義はこのように複雑だったのです。ビューヒナーにはドイツの統一と再生など眼中にありませんでした。ヴァイディヒが「お偉方たち」と書き改めた背景には、じつは、こういうドイツの特殊事情があったのです。

ここでついでに指摘しておきたいのは、十九世紀の王政復古の時代と二十世紀の今日では同じ言葉でもその意味が全然違うということです。今日、保守的という言葉は反動的、国家主義的と同義語になっております。メッテルニッヒの時代では、国家主義的であることは、同時に革命的ということを意味しておりました。メッテルニッヒは国家という考えに反対しておりました。その理由は何故かと申せば、当時のオーストリア・ハンガリー帝国は20以上の諸民族から成り立っておりまして、ここで国家という理念を掲げられますと、ハプスブルク王国は崩壊してしまうからでした。ところでヴァイディヒのいう「ドイツ帝国」という観念は、多くの諸候の支配によって四分五裂していたドイツの統一と再生を願う、国家主義に基づくものでありましたが、当時ではこのような方向こそじつは革命的だったのです。

新宮 潔 革命劇『ダントンの死』は基本的には実存主義的に、それとも社会主義的に解釈されてくることを、先生は授業中に指摘されました。双方いずれかの選択は、革命に対する情熱を失い、虚無主義的になったダントンの立場か、それとも、革命の理念を狂信的に貫徹しようとするロベスピエールの立場か、そのいずれを作品の中心理念に据えるか、それは解釈者の判断事項となりましょう。民衆に蜂起するようアピールするために、ビューヒナーは檄文『ヘッセンの急使』をヴァイディヒと共に起草しましたが、このときの痛切な政治体験がこの革命劇に反映してはいないでしょうか?『ダントンの死』と『ヘッセンの急使』はどのような関係にあるのでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ 『ダントンの死』にかんするこの二通りの解釈はとりわけ演出の際に焦眉の問題として尖鋭化してまいります。ロベスピエールとダントンをどう捉えるか、前者を厳格狭量な道徳家として、それとも理念の純粋な信奉者として、後者を享楽的な非道徳的なニヒリストとして、それとも有為な天才として舞台の登場させるか、演出家はこのような二者択一的決断を迫られます。演出の苦労はまさにここにあります。『ダントンの死』と『ヘッセンの急使』の関係を把握するために、この檄文においてビューヒナーはどのような具体的な問題に直面していたか、先ず見ておかねばなりません。ドイツの政治的無関心を克服するためにどうしても必要だったのは、広汎な大衆の動員でした。だから、下層の民衆の心をつかむ有能なアジテーターが必要です。ドイツの農民のなかには文盲の者やフランス語の分からない者が多くいました。下層の民衆に分かるのは聖書の言葉だけでした。ビューヒナーとヴァイディヒ、この二人の知識人は、ルターの聖書の言葉をしばしば引用することによって、この檄文の内容がとりわけ農民層に分かるよう努力しておりました。アジテーターとしてのビューヒナーは、革命当時のフランス事情に通じておりました。ビューヒナーはドイツの革命運動に失望したのか、そうではなかったのか、私には分かりません。ここで考えねばならないのは、ビューヒナーは『ダントンの死』のなかでこの当時の体験を基にして民衆にどのような役割を演じさせていたか、という問題です。ロベスピエールもダントンも「世界精神」( Weltgeist ) としての民衆の操り人形にすぎません。運命の掟の執行者ではありません。ダントンは、飢餓に苦しむ民衆のために闘わなくてはならないのに、虚無的になり快楽に耽りはじめました。このダントンを没落させたのは、ロベスピエール個人ではなく民衆です。この点にかんしては私はルカーチの社会主義的解釈に賛成です。ビューヒナーは、フランス革命にかんする資料や記録を活用しながら、ヘッセンで政治活動をしていた当時に知った、民衆の実体をこの革命劇のなかで描いたのではないでしょうか。

下程 息 では少し角度を変えて、ビューヒナーの受容にかんする関連質問を出してもらうことにしましょう。

三宅博子 レンツの発狂過程の医学的・病理学的描写や作品のパースペクティヴの非連続的変化は、ベンやハイムの世界に類似したところが見られはしないでしょうか。ビューヒナーは表現主義の作家にどのような影響を与えたのか、もう少し詳しく説明して下さい。

エーバーハルト・シャイフェレ ビューヒナー独自の医学的・病理学的描写はたしかに表現主義に強い影響を与えております。ハイムの短篇小説集『泥棒』に収められた作品は明らかにビューヒナーを手本にしております。またデーブリーンの長編小説『ベルリーン・アレキサンダー広場』のなかに「屋根が頭に向かって落ちてくる」とか、「自動車は人を殺す動物のようだ」という、言語以前の領域を言語化した表現が見られます。ビューヒナーの影響がここにはっきり読みとれます。グンドルフのビューヒナー論はもう古いので、現在ではそれほど問題にされてはいません。けれども、ビューヒナーの作品は魂の内面の深層を照射した点においては『若きヴェールターの悩み』を凌ぐところがある、という注目すべき指摘が行われています。これは急所を押さえた観察です。またヴォイツェクは魂の深層で蠢いているものを抑制できなくなり、こう叫んでおります。「あそこでも聞こえてくるのかな?風もものを言っているのかな?俺にはいつもこう聞こえてくる。もっとやれ、刺し殺せ、刺し殺せ!」(172) 。こういう断片的でショッキングな言葉は今日でいう『意識の流れ』」を表現したものと言えましょう。はじめに触れたことですが、『レンツ』のなかの「空は愚かな青い目」といった風のメタファーは、表現主義やツェラーンなどの二十世紀の抒情詩にしばしば見受けられます。ビューヒナーはこのように言語の表現領域を驚異的に拡大しております。

たしかにビューヒナーの現代性は、イェンスの言うように、「文学史的に説明しがたい」としか言いようがありません。彼と同時代の詩人グツコーと比べてみましょう。グツコーもビューヒナーと同じように革命家でした。しかし、グツコーの文章は美しい教養ある言葉で書かれておりました。ハイネが弾劾の矢を放ったとき、美しく書くことはたしかに二の次になっておりました。けれども、その言語はじつに洗練されており、美しく響いておりました。このように美しく書くということはビューヒナーには問題外でした。ビューヒナーのような作家を同時代に見出すことはできません。

下程 息 私の方からも質問させていただきましょう。今から四年前にジーゲン大学のクロイツァー教授を招いて『ダントンの死』についてのコロキウム行いました。このときクロイツァー教授は、形式が古典劇のように完結していない、開かれている、そのためこのドラマの筋の展開には因果関係に裏付けられた発展がないということを指摘されました。また、その翌年友人の八木浩さんを招いて『レオンスとレーナ』にかんするコロキウムを行ったときにも、このことが問題になり、この作品には立ち止まって考えなければならないところがある、いわゆる「叙事的」( episch) な部分がある、ブレヒトのテルミノロギーを借りるならば、『異化』しているところがあるということが話題になりました。これはデリケートな問題ですが、シャイフェレさんはどうお考えでしょう。

エーバーハルト・シャイフェレ ブレヒトは「異化効果」( Verfremdungseffekt) という新しい技法をドラマに導入しました。そのため、劇の流れは中断され、今までわれわれに馴染みだったものに距離を置き、別の角度から観察しなければならなくなります。すると問題が新しい認識の光の下に照らしだされてきます。これがブレヒトの発案した「叙事詩的演劇」の理論です。ですから、ビューヒナーのドラマは厳密な意味で「叙事詩的演劇」とは言えません。けれども、古典劇のように、歩一歩目標に向かって筋が展開していくという構成にはなっておりません。たとえば、ある人物が登場して詩をうたう、このことによって今まで抱いていた特定のイメージが壊されてしまいます。『ダントンの死』、とりわけ『レオンスとレーナ』では様々な人物が操り人形のように現れては消えていきます。これはすべてカルカチュア化か、パロディー化の手段になっております。ここでは「異化効果」が行われていると言えます。ですから、ビューヒナーのドラマには、八木さんが指摘していたように、「叙事的」なところはあると思います。

下程 息 ではビューヒナー受容にかんする最後の質問をお願いします。

山口 勝 グラスやエンツェンスベルガーたちの左派の場合、知識人の社会批判という面があまりにも強く出すぎたために、それに対する反作用が起こり、作家は目を社会に対してだけではなく、個人の内面に向ようとしはじめ、「新しい内面性」( Neue Innerlichkeit) の文学が生まれました。1960年代の学生の反体制運動を主題にしている、ぺーたー・シュナイダーのビューヒナーの作品と同名の小説『レンツ』はその代表作と言えましょう。1973年にこの作品が発表されて以来、14年の歳月が過ぎましたが、この間、政権はSPDからCDUに移り、西ドイツの風潮は保守的になり、左派の作家ちは政治の実践面から遊離していきました。近年、自然と人間の調和を目指して人間の新しい共同生活の実現を提唱する政党「緑の党」( Die Grunen) が新たに結成されました。変貌したこの社会情勢の下でビューヒナーの受容にかんして何か新しい現象が見受けられるでしょうか?

エーバーハルト・シャイフェレ ビューヒナーほど疎外の問題を見事に描いた作家はいない、とハンス・マイアーは『新チューリヒ新聞』( Neue Zuricher Zeitung ) のなかで述べておりました。振り返って見ますと、1950年代、60年代にも疎外の問題が取り上げられておりました。当時は、人間が科学技術の操り人形になってしまう側面に熱い関心が寄せられておりました。ホーホフートの『神の代理人』は、アウシュヴィツの強制収容所で人体実験をした医師に仮託して、この疎外の問題を取り上げておりました。ですから、医師の実験道具となっている、貧しい一兵卒を主人公にしている『ヴォイツェク』が当時はもっともよく読まれておりました。けれども、今日事情は一変しました。進歩と啓蒙による自然支配はじつは自然を殺してしまい、結局、自殺行為になることが明らかになってきました。このような人間の自然からの疎外を直視したとき、西ドイツの左派の知識人たちも、技術の進歩によって将来階級のない社会を建設できる、と楽天的に言えないことに気付きはじめました。核兵器によって自然が完全に破壊されるのではなかろうか、という不安と取り組まなければならなくなりました。原子力の脅威によって深まりゆく危機感は、日本とはおよそ比較にならないほど深刻です。このような新しい危機状況の下でもっともよく読まれているビューヒナーの作品は『レンツ』です。

下程 息 ビューヒナーにかんする4年前からの授業をこの作家の没後150年という記念の年にこのコロキウムでもって締め括ることができたのは、ほんとうに有意義でした。皆様、どうも有り難うございました。



補 論

作家によるビューヒナー受容の一範例

エートシュミットの長編小説『ゲオルク・ビュ−ヒナー ドイツの革命』

                                                  下 程  息

序 言

現在ではほとんど話題にされていないし、今日の目らすればもう古いと思われる、上掲の作品を今日この場で取り上げることにした動機を先ず明らかにしておきたい。出版界で健筆を振るっておられる浜本隆志氏は、多忙中であるにもかかわらず、『世界文学』(N0 98 2003 ) 誌上で冊子『ビューヒナー解読  コロキウム形式による』にかんするじつに好意的な書評をして下さった。そのなかでゲルマニスティクの、就中、ドイツ文学科の大学院の実情について歯に衣を着せずにこう述べておられるのに注目したい。「・・・ドイツ文学の大学院は国公立私立を問わず、どこでも閑古鳥が鳴いているありさまである。かつての院生たちがもっていた、ドイツ文学の将来に対する熱気は、いまや将来の展望が開けぬ不安と絶望感に変容している。教員も同じく、ドイツ語履修者やドイツ文学専攻学生の減少にあせりを感じ、将来展望が開けぬ閉塞感におちいっている」1。ゲルマニスティクの現今のこのような閉塞状況を見据えた上で本コロキウムを「ゲルマニスティクがまだ光輝いていた在りし日の記録であり、最後の教養主義の伝統にもとづく学問成果を示すものである」2 と評され、「かつての教養主義や伝統を継承しながら、それを近い未来にどう展開するのか、ゲルマニスティクの再生はいかにあるべきか」3 、「このコロキウムをも契機にして真剣に考えるべきではないか」4 と提言しておられる。現状を的確に把握していると同時に前向きの牽引力をもっている、この問題提起に先ず賛意と敬意を表したい。この過分の讃辞はいささか心苦しいけれども、本冊子は「関学のゲルマニスティクの一盛時の記録」であったことは確かである。こういう類の仕事は「教える側と教わる側との間の相互信頼関係」、約言するならば、「和やかなコミュニケーション」によってはじめて可能となる。このコロキウムはシャイフェレ氏の素晴らしい学識と人間性ぬきには考えられない。シャイフェレ氏は、現在に至るビューヒナー文学にかんする種々様々な解読の可能性を入念に検討し、広い視野からその長所と問題点を指摘しながら、この作家の個々の作品の構造を具体的に把握し、その意味内容を精神史的であると同時に作品内在的に解釈されていた。シャイフェレ氏の現象学的解釈においては対象に対する感情移入の精神と偏見なき批判精神がバランスよく同居していたが故に、氏の論議や問題提起は誰しも納得のいく公分母的ポイントをつねに押さえていたと思う* 。そして学生に質問されるときには、個々人の能力をその素質に応じて引き出すよう配慮されていた。こういうシャイフェレ氏ならではの学者的・教育者的美徳は、ドイツの精神科学の元祖ディルタイの正統な後継者であった、氏の恩師オットー.F.ボルノー教授の薫陶の賜物だったと申したい。このことはこのビューヒナ・ーコロキウムの記録からも推知されてきはしないだろうか。また、畏友義則孝夫氏の理解ある助言と援助も忘れてはならない。堂々とした体躯の碩学である義則孝夫氏の存在はシャイフェレ氏にとって有形無形の支えとなっていたと思う。シャイフェレ氏は関西在住中は毎週、東京移住後は隔週に大学院で教鞭を取られたが、「水曜会」とも言われている授業終了後の談話会 もちろんアルコールぬきではない! のアットホームな雰囲気は、こう生産的な「対話の場」を育む土壌となっていた。だが、集中講義になって以降のシャイフェレ氏の授業は、時間的、技術的制約のために、同氏の「一方通行」とならざるをえなかった。相互のコミュニケーションが不可能に近くなったせいだろう、授業は以前のような生気も活力もないルーティンワークに終始し、通訳をしていても以前のような心地よい疲れは感られなかった。再度確認されてきたのは、授業、とりわけ外人教師の授業には相互の対話が如何に必要であるかという、教育上不動の体験的真実であった。それだけに、本コロキウムは古き良き時代の「理想的な日独共同作業」5の記録となっていたと、シャイフェレ氏と共に申したい。同氏と共に真剣かつ楽しく過ごしてきた時期は、独文教室の最後の盛時ではなかったろう?本学の文学部は改組されドイツ語は凋落の一途を辿っている今日、シャイフェレ氏の出講の終りでもって本学ドイツ文学科の創設以来の歴史の幕は閉じたのだろうか?ドイツ語の前途は多難である。ドイツ語を今後生かしていこうと思うならば、時間的空間的な広い意味での大局観をもって過渡期の混迷に対処していくのが何よりも必要であろう。その場その場の誤魔化し的方策、対症療法的な一時の応急処置、すぐに成果を求める短兵急な処理では将来の展望は開けてこないだろう。

ところで本コロキウムは、ビューヒナーの全作品を取り上げ、この作家の解読と受容にかんする多種多様な可能性について検討したものであったが、そのなかで「この作家や作品を素材にして、また、そのテーマをさらに進展させたかたちですぐれた創作が発表された」6 という、ビューヒナー受容史上刮目すべき事例が指摘され、その代表例として今は二十世紀の音楽の古典であるアルバン・ベルクの歌劇『『ヴォツェク』( Wozzeck 1925)とエートシュミットの長編小説『ゲオルク・ビューヒナー ドイツの革命』が挙げられていた。このときの記憶が脳裏に深く刻みこまれていたので、定年後の自由な時間を活用してこの小説を読んだのであるが、文学史の記述では洩れている、それとも末端で言及されているにすぎなない、この作品は立ち止まって考えねばならぬ問題をいろいろ含意していることに気付いた。この新鮮貴重な読書体験を基にして『世界文学』誌上にこのビューヒナー小説にかんするエッセイ7を掲載したのであるが、締切日を迫られて書いたために、後で読み直すと見落しや構成上の欠陥が目についた。同時に重要な問題が新たに浮上してきた。だからこのエッセイはしたがって色々と修正や補筆を必要としていた。この紙面で今度は論文というかたちでその責務を果たす機会が与えられたのは幸いであった。以下の本論はこういう経緯の上に成立したものであるが故に、必然的に、前述の「ビューヒナー・コロキウム」のひとつの「補論」(Exkurs) となっている。このコロキウムがなかったら本論は到底書けなかったと思う。

*本論の執筆に際してはエートシュミットのこのビューヒナー小説の底本としては下記の文庫本を選び、そのなかからの引用箇所については頁数を括弧内に数字で示すことにした。                

Kasimir Edschmid: Georg u c hner Eine deutsche Revolu-
t ion
. Frankfurt 1980(=suhrkamp taschenbuch 616). 530S.zuerst 1966  

                    


ドイツは19世紀においてもフランスとは異なり近代化のための社会的、政治的地盤を欠いていた。フランス革命の主体となった市民階級は形成されていなかった。こういう前近代的停滞状態にあったドイツでは警察政治による検閲と言論統制が想像を絶して厳しかった。啓蒙と自由の精神の胎動は軍隊と官憲の力によって制圧されようとしていた。理想と現実との間のギャップはあまりにも大きかった。ビューヒナーが活動の拠点としていた、ヘッセン地方の行政はポーランド、ロシア、プロイセン、オーストリア等の周辺諸国の出方に影響されていたがために、政情は日々不安定であった。自由のために戦うヘッセンの若い知識人の反体制運動も、参加者の見解や方針がそれこそ個々まちまちだったため、組織的な統一戦線を結成できず、迷走と挫折を繰り返していた。革命の国フランスから学んだ、アジテーションによって飢えた農民に真実を知らせるために、ビューヒナーとヴァイディヒが檄文『ヘッセンの急使』( Der Hessische Landbote 1834年)を当時の下層階級にも分かる聖書の文体で共に起草したとき、ウァイディヒはビューヒナーの草稿のなかの「金持ちたち」(die Reichen)という文言を「お偉方たち」(die Vornehmen) と変えてしまった。ビューヒナーはこれに激怒した。自分の「心臓の血」(189)でもって書いた文面全体の鋭鉾が鈍ってしまうと判断したからであった。本紙面で取り上げるエートシュミットのビューヒナー小説は、ヴァイディヒとビューヒナーという両活動家の行動と運命を対位法的に主題化した長編である。ここでエートシュミットは自己の文学の原点であった表現主義を捨てている。その手法は写実主義的と言えよう。この長編はそれ故二十世紀の小説としては新鮮味がない、通俗作品にすぎないと言われるかも知れない。とにかく作品の筋は巧みな話術と平易な文章によって劇的に展開されているので、読みやすく面白い。反面、そのなかには作者自身の思い入れや想像力によって脚色されている部分もあるために、文献学者や実証主義者から批判されねばならない面もあろう。だが、エートシュミットは創作家であって、研究者ではない。何はさておき読者を引きつける作品を書かねばならなかった。したがって、小説家の歴史解釈には創作の自由な遊戯の場があっても、ある程度は許されはしないだろうか?だからこそエートシュミットは、「三月革命前」(Vormarz) という時代とその運命下の青春群像を臨場感溢れるフィクションとして描き出すことができた。こういう迫真的な描写はアカデミックな研究からはまず期待できない。作中人物は、政治の修羅場でぎりぎりの生き方をせざるをえなかった、生身の人間として活写されている。その緊迫感は格別である。とりわけヴァイディヒとビューヒナー両人の臨終の場面は肺腑をえぐって止まない。裏切者、スパイ、世故にたけた人間たちの暗躍、つねに逮捕の脅威の巷で敢行されている地下運動、亡命生活の苦渋、青年革命家たちの孤独と焦燥を描く作者の筆致は生々しい。ヴァイディヒをはじめとする政治犯を拘置していた、当時の監獄内の克明リアルな描写を目にすると、誰しも背筋が寒くなるだろう。同時に反面、献身的なビューヒナーの恋人、聡明で気丈なヴァイディヒの妻、適宜織りこまれている自然の詩的風景、これらを描く作者の筆も卒がない。恋人ミンナと共に時を過ごしているときのビューヒナーはじつに素直で人間らしい。孤高の鬼才ビューヒナーの人間性の影の部分に作者は細心な観察の触手を届かせている。邪悪そのものであるゲオルギーに対して公平で良心的な監獄医シュテクマイアーが対置され、反逆罪に対する当時の法理論上の論争が時代背景として適宜挿入されているのが、この作品に広がりと奥行きを与えている。したがって、作品全体は十九世紀的な意味で小説らしい小説になっていると言えるだろう。この長編は、こういう「三月革命」の時代の壮大な風俗画に仮託して反動体制下のドイツの知識人の蹉跌を生々しく描いて余すところがない。ヘルマン・ケステンと共に「ドイツのすぐれた歴史小説のひとつ」 8と申したい。

以上のような事情を考慮するならば、超一流の作品のみならず、二流の作品や通俗文学にも目を通さなければ、文学史において各時代を具体的かつ全体的に記述できないのではなかろうか。時代の風潮や動向は、エートシュミットのこの長編のように、文学史で左程重視されていない作品や、通俗文学の方がかえってより迫真的に描き出している場合が少なくない。ここでわが国に目を転じるならば、今はもう忘れられているけれども、日露戦争以降の新時代の世相を描いた小説として当時熱狂的に迎えられた、小栗風葉の『青春』についてもこのことがそのまま言えるだろう。文学史はこういう総合的なパースペクティヴを今日必要としていはしないだろうか?エートシュミットのビューヒナー小説は文学史の方法にかんするこの重要な問題を示唆していたと言えはしないだろうか。

では本作品の構造に目を向けよう。作品全体は、ビューヒナーとヴァイディヒをはじめ青年知識人が主体となって展開されていた、当時のドイツの革命運動の高揚と挫折に対して個々様々な「私という語り手」(Ich-Erzahler)が行った、証言の数々によって多層的・集合体的に構成されている。この種の構成はトーマス・マンの『ワイマールのロッテ』( L o t t e in Weimar 1939) にも一脈通じるところがありはしないか。マンのこのゲーテ小説の場合と同様、各章で証言する個々の「私」は「語り手として至上の権能をもった」(

auktorial)全知の人間ではないが故に、エートシュミットのこのビューヒナー小説は、その構造がじつに緊密であるにもかかわらず、意味完結的な作品となってはいない。したがって読者は、各自の構想力の営みによってその「空所」(イーザー)を充填することによって、この作品を主体的に完成し、その究極のキーワードを解読しなければならない。読書はこの場合「認知と創造の総合」9(サルトル)の行為とならねばならない。これはビューヒナーの識者や研究家にとっても興味深々たる課題となってくるだろう。ここにこの作品の「現代性」がありはしないだろうか。このような見地から本書のエセンスを概観していくとにしたい。これが本論の主眼目である。.

以下本論を展開するにあたり、この長編小説にかんする下記の簡にして要を得た解題から貴重な教示を得た。

Dieter Goltschnigg zu D.g.(Hg.), Georg uchner und die Modere . Texte・ Analy s e n Kommentare Bd.. 1945-1980 Berlin 2002, S.11-129, S.25f.

   


「ブルシェンシャフト」( Burschenschaft) の例を見れば分かるように、当時の進歩的知識人は全般としては時局問題を理念的・観念的に考えていた。ドイツ教養市民のエリートであるヴァイディヒの考え方もこういう旧套を脱したものではなかった。その理想とするところは、人間の尊厳と真実の証しである「自由」の王国を祖国の地に神の名の下に建設することであった。そのためには合法的に戦うべきであって、ラディカリズムに走ってはならない。ヴァイディヒは政治行動のストラテジーをこのように慎重に考え、柔軟に各状況に対処しながら粘り強く反体制運動を続けていた。「待ち祈れ」(197)の倫理こそ彼の実践理性の声となっていた。ビューヒナーもアジテーションの方法面ではヴァイディヒとほぼ同意見であったけれども、双方間に微妙な食い違いがあった。このことがじつは決定的であった。エートシュミットはこの問題に作家ならではの鋭い観察のメスを入れている。  青年ビューヒナーの魂は社会変革の情熱に燃えていた。「彼(ビューヒナー 筆者注)がいつも心に懸けていたのは制圧されている人々であった」(299)。だが、ヴァイディヒの考えているような道徳的方法による変革に対してはきわめて懐疑的、否、否定的であった。彼はおよそ次のように考えていた。現状分析と実践面ではヴァイディヒに同調できない。イギリスのように工業化が進んでいない後進国ドイツにおいては、革命の中核となるべき市民階級が存在しないから、先ず農民に働きかけねばならない。ここで蜂起に火を点じるのは民衆の「物質的窮状」(172)以外にない。だからこそ、農民を中心とする下層階級の極貧状況を統計によって実証し、檄文全体を説得力のあるものにしなければならない。革命の目的はあくまでも「権力の簒奪」(172)にあり、革命は「暴力」(172)なしには貫徹できない。そのためには、フランス革命の有効手段であったアジテーションによって右往左往している人々を狂信的にしなければならない。こうして民衆を武装蜂起させるためには、まず組織を固め、裏切者を容赦なく粛清しなければならない。「訓練した上で発砲せよ」(197)。これこそビューヒナーが実践綱領とするところであった。ビューヒナーの見るところ、ヴァイディヒは理念に走りすぎ、「あまりにも教育的」(162)であって、まず「組織」(163)を地下運動の「主眼目」(163)にすべきであった。ビューヒナーは「理念には組織力がなく、諸々の事実を踏まえていなかった」(171)ことを見抜いていた。司法当局が捜査の網を張りめぐらしている時点でも再度檄文を出そうとしていた、ヴァイディヒを飛んで火に入る夏の虫のようなものと批判していた。ヴァイディヒとは違って「自分には殉教者になる才能がない」(314)ことをビューヒナーは熟知していた。それ故、運動に参加しながらも、同時に運動を内心無意味と思っていた。彼は夙くも『ヘッセンの急使』の時代に個人の力ではどうにもならない宿命を察知し、「ならず者であるということは、人殺しであるという場合と全く同様、運命なのだ」(168)と考えはじめた。ヴァイディヒは人格者として敬愛されていたが、ビューヒナーは、こういうリアルでシニカルな洞察力の持主だったために、周囲の同志に高慢な印象を与え孤立していた。孤独は、ビューヒナーが終生背負わねばならなかった宿命の十字架となっていた。

農民は檄文『ヘッセンの急使』を警察に渡した。もっとも頼りにしていた農民に裏切られた。ヴァイディヒとビューヒナーは、運動が徒労だったことを肝にしみて知らねばならなかった。当時の一般の知識人の目にも両人の反体制運動はあまりにもラディカルと映じていた。ヴァイディヒの父親も飢餓による民衆の惨状を困ったものと思ってはいたけれども、秩序を重視するが故に革命を嫌い、為政者の賢明な行政を期待していた。こういう中庸で穏健な時局批判はじつは「ヘッセン地方の大多数の理性的な世界観」(59)となっていた。医師だったビューヒナーの父親も同じような見地から英雄ナポレオンを崇拝していた。ここで思い出されてくるのはゲーテの時局批判である。ちなみにゲーテはフランス革命という荒療治によって生じる混乱状態を嫌い、為政者の側からの改革と漸次的な進歩を力説していた。当時のドイツの解放運動には冷淡で、やはりナポレオンを崇拝していた。ゲーテのかような啓蒙的保守主義をこの詩人ならではの視野の広さと見做すのが、ひとつの定説になっているけれども、この類の時局批判は何もゲーテの独創的見解ではなく、当時の一般の知識人もゲーテと類似した見方をしていたことが、ここに示唆されてきはしないだろうか。このことに着眼するならば、ゲーテの時代批判はその文学作品との係わりにおいて考察されるべきであって、それをゲーテならではの卓見として単独に取り上げ、ゲーテを権威の座に祭り上げるのは問題ではなかろうか。かようなゲーテの反急進主義的見解も当時の言論界の風潮と関連づけて取り上げていかなければ、片手落ちとなりはしないだろうか。だが、この問題はあまりにも大きいので、これまでにして本筋に戻るならば、以上のような言論界の風潮をも追風にして官憲の言論統制は日増しに厳しくなってきた。ビューヒナーは自分にも追求の手が伸びてくることを察知し、フランス革命の精神を生活感情として体得できた、曽遊の地ストラスブールへの亡命を決意した。その費用を捻出するために、フランス革命の歴史を研究しながら、『ヘッセンの急使』の起草時の情熱を今度は革命劇『ダントンの死』( Dantons Tod 1835) の創作に注ぎはじめた。当時のビューヒナーの考えによれば、個人は水に浮かぶ泡のようなものであり、人間は見も知らぬ運命の操り人形にすぎない(宿命論書簡参照10) 。この自然の掟に逆うことはできない。歴史とはこういう宿命の形象にほかならない。自分にできることは、神がこのように創造した世界を在るがままリアルに描くことだけで、「作中人物も歴史もそれこそ運命の掌中にある」(292)ことを知らねばならない。こういう「歴史の宿命論」(Fatalismus der Ge-

schichte) をビューヒナーはこの歴史劇のなかで主人公ダントンの次の台詞に託していた。「自分たちは見知らぬ力によって動かされている操り人形だ。自分たちは無だ、無だ! 亡霊たちが戦いに使う剣にすぎない。その手は全然見えない・・・」11。『ヘッセンの急使』の変革のラディカリズムはここでは直接のモティーフとなってはいない。むしろ、なりえなかったと言うべきだろう。以来ビューヒナーは、孤独と絶望の只中で人間性の実態を眼光生身の現実に徹する洞察でもって抉りだそうとしはじめた。亡命はビューヒナーのこういう転生の契機となっていた。

ビューヒナーは以来政治とイデオロギーを軽蔑しはじめた。けれども、ヴァイディヒのことを気にしており、自分のように逃亡せずに、自己の運命を従容と受け止めていたヴァイディヒを尊敬していた。けれども、ヴァイディヒのような理想主義者にはなれなかった。ドイツで命を賭けて革命を云々するぐらい危険なことはない。ドイツに留まって拷問されるなんて馬鹿らしい。これがビューヒナーの本音であった。だから、ドイツよりもはるかに安全な異国ツューリヒに移住し、当地の新設の大学の比較解剖学の私講師として再出発することにした。こういうに転身によってビューヒナーは生活の糧を得たけれども、やがてチブスを患い、24才という若さで他界した。死を目前にしたビューヒナーは熱に浮かされうわごとを言っていたが、そのときもヴァイディヒの名を呼んでいた。ヴァイディヒとの関係はビューヒナーにとってはまさに運命的であった。最後には「苦しみを通じてのみ神の身許に向かうが故に、我々の苦しみは少なすぎる」(472)と呟いたとのことである。恋人ミンナが臨終の床に駆けつけてきた。語り手の証言によれば、このとき「ビューヒナーの両眼が表わしていたのは筆舌には尽くせない思いやりであった。それは、加える破目になってしまった苦痛を彼女に与えねばならないのを悲しんでいるかのようだった」(473)。

上掲のビューヒナーの辞世の言葉に典拠してビューヒナー文学をキリスト教の観点から解読する論者もあるが、反面、ビューヒナーのこの告白の信憑性を否定する学説も少なくない。また、「歴史の宿命論」は大局的に見れば『ヘッセンの急使』で披瀝されていたビューヒナーの変革の情熱の逆説的流露であって、ビューヒナーは本心では社会主義者であったと主張する論者もいれば、「歴史の宿命論」をビューヒナー文学の肉声でありキーワードと見做す論者もいる。『ヘッセンの急使』との間の思想的な不整合を思わす「歴史の宿命論」をめぐる論議は尽きない。この事実からも、ビューヒナーが様々に解釈されてきたことが例証されてこよう。事実、これほど多種多彩な解釈を可能にする作家はドイツ文学史上類例がない。各解釈はそれなりに発言権をもってはいるけれども、いずれもビューヒナーの人と文学にみられる相互間の矛盾や非連続性を合鍵でもって解決しようとしている感がある。ビューヒナー像は変動する時代の精神状況に密着して変貌してきた。ビューヒナー解釈にはカノンがない。その「全貌は現在でもヌエのようにつかみ切れない」( 浜本隆志) 12。だから、ハイネやグツコウたちと同じ時代に活動していたにもかかわらず、文学史では彼らと共に「三月革命前の文学」(Vormarz) の系列に分類されていない。当時の例外的、それとも突然変異的現象として別途に取り上げられているのが通例である。ビューヒナーの「文学史的には説明しがたい現代性」13( イェンス) が云々される理由はこういうところにあることは論を俟たない。エートシュミットはこの種の学問的解釈や文学史的位置づけには捉われず、この双方間のギャップを挫折という知識人特有の生身の政治体験として連続的に捉えていた。革命家ビューヒナーの以上のような屈折した生き方を当時の知識人の受難の運命そのものと解していた。作者エートシュミットにとってもっとも本質的問題は、運命に対するビューヒナー特有の受身の深さではなかったろうか。凡百のビューヒナー論を絶してここでひときわ光っているのは、赤裸々な生のリアリティを何はさておき重んじる作家ならではの具体的な把握である。「三月革命前」のドイツの知識人として共体験しなければならなかった政治の現実がビューヒナー、さらにはヴァイディヒにとって言語を絶して恐ろしいものであったか、この問題をエートシュミットはいわば素肌で理解していはしなかったろうか14。本作品の歴史小説としての美徳はこういうところに求めるべきではなかろうか?

では、この夭折した鬼才の真の姿を何処に求めればよいのだろう。登場人物の見解はそれぞれ様々である。ドイツ人には珍しく「世界に対して目を開いていた」(296)友人シュルツがビューヒナーの恋人ミンナをこう戒めていたが忘れられない。「貴方は彼が革命家だったのを忘れておられると思うのです」(511 傍点筆者)。ここに作者エートシュミットの肉声を同時に聴きだすのは、小生ただ一人だけだろうか?


「ヴァイディヒは革命歌「マルセーユ」を教えはしたけれども、「よい意味でドイツ的」(284)な行き方に徹することを自己のクレードとしていた。「彼は亡命に全然重きを置いていなかった」(284)。身に安全なスイスでの教職の話を辞退した。そのためにフランクフルトの暴動の嫌疑で逮捕され投獄された。ヴァイディヒを取調べた予審判事兼学監のゲオルギーによれば、反体制の人間は「父親殺し」(322)しい犯罪者であった― この「「父親殺し」という言い方のなかに作者の創作の出発点となっていた―「表現主義」の余燼を見るのは小生の個人的・恣意的な深読みだろうか?― 。ゲオルギーは上昇志向、劣等感、嫉妬心の固まりであり、極度のアルコール依存症であった。酒を飲まないと不安になり発作を起こした。さらにはセックスに不感性であった。ゲオルギーの不吉な凶暴性、その背面をなす恐怖心や不安の描写は、人間の魂の深層を照射する作者特有の心理観察に裏付けられている。ゲオルギーにはヴァイディヒの存在そのものが恐ろしかった。だから発作を起こし、ヴァイディヒを見境なく虐待した。ヴァイディヒに妻に手紙を出すことも、弁護士との接見も禁止した。これほど陰険で残忍な人間はいないだろう。デモーニッシュとはまさにこういう人間のことを言うのだろう。異常性格の化身であるゲオルギーを描く作者の筆致はとりわけ冴え渡っている。

投獄されたヴァイディヒは非合法な逮捕に対して折りある毎に抗議し、外部の同志と暗号で通信を続けながら地下活動を続けていた。ビューヒナーを片時も忘れていなかった。やがて鎖に繋がれたキリスト教の最初の告知者ペテロとパウロに思いを馳せ、この二人の使徒のような超絶的な存在になろうと決意しはじめた。ゲオルギーが日夜行った、想像を絶して残酷な拷問のためヴァイディヒは気が狂いそうになり、たまりかねて自殺を考えはじめた。ついにヴァイディヒは死んだ。自殺だったのか、それとも謀殺だったのか。ヴァイディヒの崇拝者であり腹心である、この章の語り手ツォオイナーは断定していない。ゲオルギーが人目を盗んで殺害したに違いない。読者としてこう推断するのが自然だろう。ヴァイディヒは権力によって抹消された。だが、死んだヴァイディヒの表情は「何処か超然たるもの」(486)を湛えていた。自分一人は別格と言っているかのようだった。ヴァイディヒのこの悲壮凄絶な死でもってこの小説は終わっている。

この長編全体の17の章のうち11の章はヴァイディヒの叙述に割当てられているのを見ると、筆はヴァイディヒに傾いており、志操高潔なこの殉教者に対する作者の感入度の方が深いようにも思われる。にもかかわらず、『ゲオルク・ビューヒナー』という標題にしたのは、この本の売れ行きを考えねばならない出版社の意向に作者が従ったからなのだろうか?だがより重要な問題は、かくも異なった運命の道を歩んだ二人の青年革命家の死が最終的には俗世を超えた次元で把握されているという、事実を見逃してはならない。こういう観点から本書を革命に挫折した若い知識人たちへの「レクイエム」と解読するのも、ひとつの読み方であろう15。けれども、こういう見方は、あまりにもテクストに密着しすぎているがために、本書の究極の意味内容を感傷的に美化してしまい、その問題圏域を狭隘化してしまったきらいがありはしないだろうか?少なくとも小生は立ち止まってこう考えたい。というのも、文学作品は、就中、激動の時代を舞台とする作品は「総譜のように読む度に新たな共鳴音を発し」16、「この共鳴音は素材をテクストから解放し、テクストをアクチュアルな存在にする」17からである。ここで問われねばならないのは、本書のこういうアクチュアリティではなかろうか。

作品が内包しているこのような「期待の地平」から再考するならば、ビューヒナーとヴァイディヒの悲痛きわまる運命は何も彼らの時代に限られた問題ではなく、ファシズムの嵐が吹き荒れた20世紀前半の時代にも繋がる問題でもあることが紙背から暗示されてきはしないだろうか?すなわち、国外亡命か国内亡命か、そのいずれがナチス時代の知識人の本当の行き方だったろうかと、ビューヒナーとヴァイディヒ両主人公の受難の人生に仮託しながら作者は自問していはしないだろうか18。こう読まなければ、問題の究極の所在を突き止めてることも、究極のキーワードを解読することもできないであろう。エートシュミットのこの歴史小説はじつはこのような重義的な作品ではなかったろうか。

政治面での勝利はつねに権力者の側にあった。革命はその萌芽状態において芽を摘みとられてしまうか、それともトルソーの状態に留まるか、挫折はドイツの革命の通底的事実となっていた。ここにクローズアップされてくるのも、「生命を賭しての飛躍以外に革命の可能性がなかった」(マルクス)19、後進国ドイツのせっぱづまったぎりぎりの政治状況にほかならない。この作品の結末もその例に洩れない。ちなみに本書の終章の標題は、その終結部にだけ登場する「むく犬のような頭をした男」(530)の次の言葉をそのまま借用している。「正義は全くありませんでした。正義というものは今後も絶対にないでしょう」(514) 。この男は馬車に乗せられるヴァイディヒの柩を指しながら獄舎の門前で最後にこう語っている。「枢密顧問官殿、ですから貴方も世界を変えようとはなさらないでしょう。その必要もありません。善意の人間であることが必要なだけです」(530)。このやるせない言葉は、物語の経緯と顛末を作者の分身である人物に仮託して人間性の立場から要言したものと言えよう。これは様々な小説に頻出する通例的手法である。ここで小生の脳裏に浮かんできたのは吉川英治の歴史小説『新・平家物語』の終結部であった。院の高位高官、平清盛、木曾義仲、源頼朝、源義経等、歴史の舞台に華々しく登場した諸人物が最後はみな線香花火のようにはかなく消え去った後、この歴史の激流のなかで終始庶民としてつつましく誠実に生きていた、麻鳥という副次的人物がやはり作者の分身としてここでこう語っているのに耳を澄ましたい。「何が人間の幸福かといえば、つきつめたところ、まあ、この辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、だれにも望めることだから」20。魂の底からしぼりだされた麻鳥のこの感慨は、エートシュミットのビューヒナー小説の最終場面と同様、史実の裏付けのないフィクションであるにせよ、否、フィクションであるが故に、読者の肺腑にしみ入るだろう。双方共に歴史と人間の運命の急所を突いた洞見であるけれども、エートシュミットのビューヒナー小説の結びの言葉は悲痛きわまりない。『新・平家物語』の場合のような心の琴線に触れる詠歎の情はみじんもない。現実凝視のパトスが剣のように胸を刺す。その意味内容は何もビューヒナーとヴァイディヒの時代のドイツに止まらず、ナチス時代のドイツについても当てはまりはしないか。言論を禁止されたナチス時代の作者エートシュミットの受難の体験を本書の襞の部分から読み取ることもできはしないだろうか。成程、この長編の舞台は19世紀前半の三月革命前の時期のドイツである。けれども、単に過去を詳述した歴史小説と言って済ませてよいのだろうか?この小説が読者の眼前に突きつけているのは、ナチス時代と同質同類の迫害、抵抗、拷問、亡命がすでにこの時期にあったという、忘れようにも忘れられない「ドイツの過去」ではなかったか。それぞれ別のかたちで受難の運命を共にした、二人の革命家ヴァイディヒとビューヒナーの時代は作者にとってはナチス時代の原構図を意味していた。だからこそ、作者はこの作品に自己自身の体験を投影できた。この長編小説は、ナチス時代執筆を禁止された作者の痛恨の体験抜きには考えられない作品ではなかろうか。それは、「思考や感情の世界のファシズム化の過程においてドイツ最高の知識人が行ったイデオロギー的抵抗の非力さ」(ルカーチ)21にほかならない。この小説は、反動体制下の知識人の反逆と挫折という、時代の相違を超えて質的には同種類の問題意識を主題化した作品であると申したい。では、この作品はこういう悲惨なドイツの悲劇の反芻で終わっているのだろうか?読者としてどう判読したらよいのだろう。作品のアクチュアリティと読者の主体的受容を重視するならば、このビューヒナー小説が究極の意としていたのは、血を吐くような権力に対する告発ではなかったろうか。だからこそ、専制政治と非啓蒙に対する怒りと自由への憧れが勇気ある独立不覊の知識人の魂の奥底でその焔を燃やしていたことが確証されなければならなかった。このことは本書の原本は「薔薇があれば、いずれ花を咲かすだろう」( Wenn es Rosen sind, werden sie bluhen )という象徴的文言をその標題としていたことから立証されきはしないか。加うるまた、この小説が1966年という、学生を中心とする新世代のラディカルな反体制運動の盛期に上梓されたという事実からも、このことが傍証されてくるだろう。この意味で本書の邦訳が全国の大学を紛争の嵐が襲っていた当時に出版されたならば、反響を呼んだであろうと推察される。この長編はドイツの忌まわしい過去の克服がドイツの青年の焦眉の使命となっていることをその究極のメッセージとしていると解すべきだろう。したがって、この長編小説の副題であるeine deutsche Revolutionはその筋の展開領域となっている「三月革命前」(Vormarz) の時代のみに限定して「あるドイツの革命」とはせず、その意味の拡散性と同時に普遍性をも顧慮して「ドイツの革命」とした方がよいのではないか。そうしなければ、全体の意味内容を作品のシニフェとして把握できないと思うのだが。

以上のような意味でこの長編小説もそれなりに「詩作と体験」の文学として著者エートシュミットの「詩と真実」となっていると言えよう。こう読むならば、本書はゲーテ以来のドイツ文学の血液となっている「自伝性」の伝統を継承した作品だったことが判明してきはしないだろうか。この入魂の長編は作者の絶筆となっていた。歴史小説『ゲオルク・ビューヒナー ドイツの革命』は、胸底からしぼりだされた作者エートシュミットの後世への遺言だったに違いない。これを本書のキーワードとしたい。

                       

付記 学生時代小生にビューヒナー文学解読の手ほどきをして下さったのは、本学でも教鞭を取られた京都大学名誉教授吉田次郎先生であった。ちなみに吉田先生は早くも1933年に京都大学の卒業論文でビューヒナーを取り上げられたのであるが、それはわが国の大学ではおそらくはじめてだったろう。先生の先見の明を銘記することによって恩師に対する謝意を再度新たにしておきたい。

  浜本隆志  書評「エーバーハルト・シャイフェレ・下程息編『ビューヒナー解読

   コロキウム形式による』」: 『世界文学』( 世界文学会編 N0 98 2003 ) 103

2 同上 103頁                    

3 同上 103

4 同上 103

5 エーバーハルト・シャイフェレ・下程息編『ビューヒナー解読―  コロキウム

    形式による』(アテネ出版印刷 2002 ) 105頁

6 同上 84

7 「エートシュミットのビューヒナー小説」 『世界文学』NO 98 90-97

  文庫版として上梓されている、このビューヒナー小説の表紙の見出し語として引用され   ている。
9 Jean-Paul Sartre: Was ist die Literatur〓 rde 65, Hamburg 1958, S.28.

10  Georg Buchner: Werke und Briefe (Hanser), Munchen, Wien 1980, S.256.

11 Ebd., S.47.          

12 『世界文学』NO 98 101 頁  

13 Walter Jens: Georg uchner. In: Euripides uchner.          opuscula 21, Pfulling 1964, S.35.

14  ビューヒナーの研究においてこの問題をもっとも切実に把握し詳述しているのはハンス   ・マイアーの下記の文献であろう。Hans Mayer: Georg uchner und     seine Zeit. Aufbau-VerlagBerlin 1960

15  谷口広治 Kasimir Edschmid: Georg uchner〓 Eine deutsche   Revolution.『ドイツ 文学論攷』( 阪神ドイツ文学会編 1991) 142

16  Hans Robert Jauss: Literaturgeschichte als Provoka-    tion, edition suhrkamp 18. Frankfurt/M 1970, S.172.

17  Ebd., S.172.

18  このことは上掲のハンス・マイアーのビューヒナー文献についても言えはしないだろ     うか。『ヘッセンの急使』時代のビューヒナーにかんする詳細克明な叙述は著者のナチ  ス時代の受難の体験と二重写しになっていると思われる。 

19  Vgl. Karl Marx/Friedrich Engels: Werke Bd.. Leipzig 1957, S.387.

20 吉川英治『新・平家物語』16巻( 吉川英治文庫  講談社 1976 ) 381

21 Georg Lukacs: Deutsche Literatur in zwei Jahr-

hunderten〓 Neuwied und Berlin.1964, S.575. 



現在のビューヒナー研究に対する所見

エーバーハルト・シャイフェレ

                         柳  原  初  樹  訳 

1970年代と80年代の初め頃、多数のビューヒナーの専門家たちは、政治的、社会的に定位され規制されたビューヒナーを研究対象にしていた。したがって、『ダントンの死』、『ヴォイツェク』、『ヘッセンの急使』をしばしば研究対象にしていた。そして『ヘッセンの急使』と関連づけながら、ビューヒナーとヴァイディヒの革命上の所信と政治活動を研究対象にしていた。というのも、68年代の世代のドイツのデモクラシーの伝統に対する関心は旺盛であった。盛んに論議されていたのは、ビューヒナーは初期共産主義であるという、トーマス・ミヒャエル・マイアーのテーゼであった。このテーゼがつねに典拠していたのは、夭折した兄を共和主義者というよりも社会主義者であった、というルートヴィヒ・ビューヒナーの主張であった。やがてその間、マイアーの大胆なテーゼをめぐる論議はかなり下火になってきた。ヤン・クリストフ・ハウシュルトは自著作であるゲオルク・ビューヒナーの伝記(1993 ) のなかで「誤見の落し子である<詩人の初期共産主義>」について紙面をさいている。

それに対して、80年代の中頃に誕生した諸論文における研究者の関心は、『ヴォイツェク』は別にして、ますます『レンツ』中心になっていた。その際目立つのは、ビューヒナーの文学作品を直接的には文学的でない観点から取り上げていこうとする傾向の増大である。作品とその作者に近い、むしろ相対的に近い内容の論文と同時に、歴史的、社会史的、あるいは医学史的に定位され規制された論文が頻出しはじめた。最初に挙げたグループに属するのは、以下の諸問題をそれぞれ取り上げた業績である。『レンツ』における「語られた空間」、それとも「社会的な場」の喪失( Dannenberg  ビューヒナー年鑑 9Grosklaus 1993) 、とりわけ『ダントンの死』の修辞的契機( LyonWulfing 1990)E.T.A.ホフマン( ビューヒナー年鑑 5) 、グツコー( 寺岡  ビューヒナー年鑑 9) 等、十九19世紀の他の作家たちとの比較、ホーフマンスタール( Heckmann  ビューヒナー年鑑 9) 、ツェラーン(Bohm 1991) H.キップハルト( Karlbach  ビューヒナー年鑑 7) たちの二十世紀のドイツ語の文学作品にビューヒナーが与えた影響、さらには、ノルウェイ(Sagmo, 1988) やハンガリー(Madl ビューヒナー年鑑 8) 、大韓民国(Kim 1989 ) 、日本( 中村 1990 ) 等における作品の学際的受容等々。第2グループの業績として挙げられるのは、ビューヒナーの作品に登場する、自然の探究家サン・ジュスト( ビューヒナー年鑑 7) 、精神病者J.M.レンツ(Martin ビューヒナー年鑑 9) などの歴史上の人物の現実の人生の出来事を取り上げた諸論文である。『ヴォイツェク』は、イデオロギー批判のテクスト(Gluck  ビューヒナー年鑑 5) として評価されてたり、自然科学がこの作品のなかで演じている役割という視点から問題視されたり(Gluck  ビューヒナー年鑑 5) 、法医学事件(Reuchlin 1985) の叙述、まさに「医学史上のドキュメント」(Roth ビューヒナー年鑑 9) と解読されたりしている。研究上の観点がこれほどにまでに多種多様な理由のひとつは、政治思想家として、活動家として、作家として、自然科学者としても同じような激しさを兼備していた、この作家の特異性にあろう。そういうわけで、『レオンスとレーナ』を除いて、いろいろ論議されてきた歴史上の様々な事件が素材となっている、彼の作品においては文学的、歴史的、社会的、法学的、科学的類の言説が交錯している。―このことは『ダントンの死』についても言える。ビューヒナーにとってここで主要出典のひとつとなっていたのは、『われわれの時代の歴史』(1826-30) であった。― そういうわけで、ビューヒナーと彼の作品は言説分析やテクスト相互関係の研究の絶好の対象となってきた。ビューヒナーという特殊例は、ビューヒナーの刊行者であるブルクハルト・デドナーや彼の協力者たちの参加とも相俟って、文芸学の領域での実証主義的始業の驚異的再生を招来した。このとき問題になったのは次のような事態であった。ビューヒナーの人生遍歴と彼の著作の選定テーマの成立は、双方切り離せないほどに相互に絡みあっている。けれども他面、相関する事柄にかんする知識がまさに不確定であることが日増しに明らかになってきていた。

このことは先ずビューヒナーの伝記について言える。ビューヒナーについて書くならば「完結した伝記」となるだろう、とカール・フィエートーアは1948年に主張していたけれども、「伝記によって研究上の遅れを取り戻す必要」が生じたとき、ビューヒナー場合、その様々の基盤の研究が進捗しなくなるという、『ビーダーマイアーの時代』(Bd.3, 1980)のなかでのフリードリヒ・ゼングレの断定は正しい。すなわち、『ヴォイツェク』のなかで医師に使用させている、Vanessiaのような医学用語はビューヒナーにとっては何を言い表わしたものだったのか、という問題との取組み(Roth ビューヒナー年鑑 8) 、シュトラースブルク逃亡の際にビューヒナーが辿った正確な道筋をめぐる問い、シュトラースブルクへの手紙の宛先人としてビューヒナーが指名していた、ルチウスという名前はそもそも彼の匿名ではなかったろうか、という疑問〔そうではなかった由(Pabst  ビューヒナー年鑑 8) 、これらの問題は、ビューヒナー文学に先天的に関心を抱いている研究者たちには些事としか思えないだろう。けれども、解釈のための眼前のテクストとなっている、『レンツ』という作品の成立経緯に対して『レンツ』の研究家は無関心でいるわけにはいかないだろう。また、アンリ・ポシュマンが言うように、テクストのなかの明白な間隙は作者の「カット」によるものなのだろうか。筆写原稿をグツコーに送った、ビューヒナーの婚約者ヴィルヘミーネ・イェーグレか、それとも、グツコー自身がこの「断片」( グツコー) を以前から研究者の眼前に存在しているようなかたちのものに編集したり、改竄したりしたのだろうか[ヘルベルト・ヴェンダーとブルクハルト・デドナーとの論争参照「ビューヒナー年鑑9号」]

ハウシルトの伝記『ゲオルク・ビューヒナー』と、ビューヒナーの全著作集の史的校訂版の第3巻として最初に刊行された『ダントンの死』(マールブルク版  2000年)の双方は現在のビューヒナー研究の頂点を示すものである。トーマス・ミヒャエル・マイアーをはじめとする人々はこのハウシルトの伝記の不正確さ、欠陥、数々の憶断の摘出できた。け

れども、この膨大な労作は― ビューヒナーの思想と三月革命前の時代の特質の描写面

ではなく、細部に及ぶ伝記的事項や詩人の具体的生活状態を綿密に踏査している点では   1946年のハンス・マイアーと1949年のカール・フィエートア双方による、従来の唯一

の全体的叙述を断然凌駕している。それ故、「・・・学問的記述としてはあまりにも小説じみており、・・・反面、時事評論的に著された伝記としては複雑な・・・副次的な事項や憶測が乱雑に山積している」という、トーマス・ミヒャエル・マイアーの十把握ひとからげの誹謗は、ハウシルトのこの業績に対しては不当である。マイアー自身が卓越したビューヒナー研究家の一人であるだけに、彼がハウシルトの業績に対して非客観的な酷評を下したのは遺憾である。彼とデドナーの手によって全10巻で発刊される、史的校訂版がすでに刊行されている3巻目の本のなかで行われていた約束を守ってくれるならば、この史的校訂版は― 当時のラハマン版のレッシング全集のような―  世紀の労作となるだろう。ちなみに第3巻目の『ダントンの死』は、テクスト(511 3.1) 、編集報告(378 3.2) 、史的出典(467 3.3) 、注釈(251 3.4) という4分冊のかたちで2000年に刊行されていた。 

ブルクハルト・デドナーは1988年10月17日と18日の両日にかけて関西学院大学で行われた日本独文学会秋季研究発表会で次のような壮大な企画を紹介した。彼はそのとき「文献学的原理としての新実証主義」という刊行者の活動原理について語っていた。『マールブルク・ジャーナル』(Marburger Journal Jan. 2001) のなかで彼はこの原理を次のように要言している。「文学作品をテクストの無限の編み物と見做すのは、80年代のテクストの相互関係理論の傾向であった。われわれはマールブルク版刊行のためにの調査に臨んで発見原理という意味でこのような見解に賛同している。学者と学生より成る共同作業者は、マールブルク学派の出典調査に臨んで「白紙からの出発というルール」( Re-gel Null) を学んだ。つまり、ビューヒナーのテクストは完全に出典に依存するものであり、別のテルミノロギーで言い表わすならば、テクストの相互関係によって規定されたものである。『これは詩人の創作によるものである』という命題は、じつは、解釈者が出所を発見しなかったという事態の神話的換言なのだ」(5)

ここで決定的に重要になってくるのは「発見原理」という言葉である。原典を摂取し加工し結合していく、ビューヒナーの手法に対しては、十九世紀においてはケラーのようなリアリストでさえもその独創性を、したがって詩人としての天才性を否定していたけれども、二十世紀においては現代の書き方の標識、高度の複写術(トーマス・マン)、それともモンタージュ技法としてポジティヴに評価されている。この事態をいちおう甘受するとしても、ビューヒナーはすべて原典に依存していたと前提するのは、角を矯めて牛を殺すたぐいの行為になりかねない。ある文芸学者( パウル・アルブレヒト) は5巻本の著作『レッシングの借用行為』(1888-1891) によって、レッシングの全作品は別のテクストからの構築物にすぎないことを証示しようとしたけれども、首尾一貫した実証主義の時代においてさえも実証主義的方法の信用失墜を助成したにすぎなかった。ビューヒナーは「完全に」原典に依存していたと、厳格さ故に主張するならば、新しい実証主義は芸術には無縁と非難されるだろう。発見原理ではなくして、ドグマ的原理となっている、こういう想定はビューヒナーの芸術の唯一無二性、その冷徹な大胆さを当初から度外視していはしないだろうか。(2002年4月1日脱稿)             

 

付記 本文と直接的、間接的に関係している、最終のビューヒナー・コロキウムの時点(ビューヒナー没後150年:1987年) 以降の新しい当該文献は取捨選択の上文献表2の欄に列挙しておいたので、参照されたい。



初 出 一 覧

『ダントンの死』の解釈をめぐって ヘルムート・クロイツァー教授を迎えて  『独逸文学研究』  第二十四輯  関西学院大学文学部  独逸文学科研究室(1982年)

『レオンスとレーナ』の解釈をめぐって― 独逸文学研究 第二十五輯』関西学院大学文学部 独逸文学科研究室(1983年)  招待講師 八木  浩氏

『ヴォイツェク』の解釈をめぐって―『独逸文学研究 第二十六輯』関西学院大学文学部  独逸文学科研究室((1984年)  招待講師 八木 浩氏

ビューヒナー・コロキウム( 完結篇)  その「現代性」という座標から― 死後150年を記念して― 『独逸文学研究 第二十八輯』関西学院大学文学部  独逸文学科研究室((1987年) 

作家によるビューヒナー受容の一範例―カージミル・エートシュミットの長編小説『ゲオルク・ビューヒナー ドイツの革命』―『KGゲルマニスティク 第8号』2003年 関西学院大学文学部 ドイツ文学研究室



参 考 文 献 T

コロキウム関係

                  

Primarliteratur

Georg Buchner: Samtliche Werke und handschriftlicher Nachlas. Erste kritische Gesamtausgabe. Eingel. und hg. von Emil Franzos, Frankfurt/Main 1879 

Georg Buchner: Gesammelte Schriften. In 2 Banden. Hrg. von Paul Landau, Berlin 1909

Georg Buchner: Samtliche Werke und Briefe. Auf Grund des handschriftlichen Nachlasses Georg Buchners hg. von Fritz Bergemann, Leipzig 1922(ab der 2. Auflage 1926 lediglich >Werke und Briefe. Gesamtausgabe<, Frankfurt/Main 1971

Georg Buchner: Samtliche Werke und Briefe. Historische-kritische Ausgabe mit Kommentar. Hg. von Werner R. Lehmann(Hamburger Ausgabe). Band 1: Dichtungen und Ubersetzungen. Mit Dokumentatio- nen zur Stoffgeschichte, Munchen 1978. Band  2: Vermischte Schriften und Briefe, Munchen 1972.

Georg Buchner: Werke und Briefe. Nach der historische-kritische Ausgabe von Werner R. Lehmann, Munchen 1980(Hanser Bibliothek)

             

              Einzelausgaben(in Auswahl)
Woyzeck: Eine Tragodie von Georg Buchner. Nach den neu entzifferten Handschriften fur Leser und Buhnen, hergestellt von Ernst Hardt, Leipzig 1934/5

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Schunemann, Peter: Zwieland. Erdachte Szenen aus Buchners Biographie, Zurich/ Stuttgart 1984

                    

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Buchner-Preis=Reden 1984-1994, Stuttgart 1994(Reclam UB 9313)

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Knapp, Gerhard P.,: Georg Buchner, Stuttgart 1977(Sammlung Metzler 159)

Krapp, Helmut: Der Dialog bei Georg Buchner, Munchen 1958

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Poschmann Henri: Zur materialistischen Fundierung der Dramaturgie Buchners, in:

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Thorn-Prikker, Jan: Revolutionar ohne Revolution. Interpretationen der Werke Georg Buchners, Stutt- gart 1978( Literaturwissenschaft-Gesellschaftswissenschaft 33)

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Vietor, Karl: Die Tragodie des heldischen Pessimusmus. Uber Buchners Drama Dantons
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Wiese, Benno von: Georg Buchner, die Tragodie des Nihilismus, in: B v. W. : Die deutsche Trgodie von Lessing bis Hebbel, Bd.2, Hamburg 1948

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Zeller, Rosmarie: Das Prinzip der Aquivalenz bei Buchner. Untersuchungen zur Komposition von Dantons Tod und Leonce und Lena , in: Sprachkunst 5(1974)

山口龍夫 G.Buchner Woyzeck について 〔「外国文学研究」2. 1959  立命館大学  人文研究所〕

石黒英男 G.ビューヒナー『ヴォイツェク』論―叙事詩的ドラマへの萌芽―〔『ドイツ文学研究」2. 1962 年 日本独文学会東海支部〕

宮川 政 >Woyzeck<小見(II) 「独仏文学研究」第13 1964 年〔九州独仏文学研究会〕ゲオルク・ビューヒナー全集〔全 1巻〕手塚富雄・っ千田是也・岩淵達治監修( 河出書房  新社 1970 )

森田 勉 初期社会主義の形成( 新評論社 1973 )

渡辺哲雄  ゲオルク・ビューヒナー『レオンスとレーナ』とフランク・ヴェーデキント『  カールとヘットマン』を比較して〔「ドイツ文学研究」10  東海ドイツ文学会 1978

八木 浩 『レオンスとレーナ』の喜劇性〔八木 浩・下程 息編『ビューヒナーと現代』 吉田次郎教授定年退職記念論集 1979   関西学院大学文学部独文研究室発行〕

吉田次郎 ビューヒナー覚え書き〔同上〕

中村英雄 「マリオン場面考―ビューヒナー論稿・続「ダントンの死」 ノート〔早稲田大学「ヨーロッパ文学研究」30 1982 年〕

ビューヒナー『ダントンの死』新関良三訳〔近代劇全集  第六巻  第一書房 1928 年〕

付記  上掲の森田勉の著書は2部構成になっており、第1部ではビューヒナーの社会思想が、第2部ではヴィルヘルム・ヴァイトリンクの社会思想が論究されている。本コロキウムで直接には言及されなかったけれども、社会主義的解釈の系列の重要な文献なので本欄で挙げておくことにした。

 



参 考 文 献 U

―1987年以降―

                     

                 Primarliteratur

Georg Buchner: Samtliche Werke, Briefe und Dokumente in zwei Banden. Hg. von Hennri Poschmann. Bd.1: Dichtungen. Hg. von Hennri Poschmann unter Mitarbeit von R  osemarie Poschmann, Frankfurt/ Main 1992(=Bibliothek deutscher Klassiker  84)

Georg Buchner: Samtliche Werke und Schriften mit Quellendokumentation und Kommentar(Marburger Ausgabe). Dantons Tod: Band 3 in vier Teilbanden, Hg.von Burghard Dedner und Thomas Michael Mayer, Darmstadt 2000

                                                               

              Einzelausgaben(in Auswahl)

Georg Buchner: Memoire sur le systeme nerneux du bar-beau: Ubersetzung von Otto Dohner mit Anmerkungen von Otto Dohner und Udo Roth, GBJb 8  *GBJb=Georg BuchnerJahrbuch

Georg Buchner: Briefwechsel. Kritische Studienausgabe von Jan-Christoph Hau schild. Basel, Frank- furt/ Main 1994 

Georg Buchner/Friedrich Ludwig Weidig: Der hessische Landbote: Stu- dienausgabe. Hg. von Gerhard Schaub. Stuttgart, 1996(Reclam UB 9486)

Georg Buchner: Lenz: Studienausgabe mit Quellenanhang und Nachwort. Hg. von Hubert Gersch. Durchges. u. erw. Ausgabe, Stuttgart 1988(Reclam UB 8210) 

Georg Buchner: Lenz: Neu hergestellt, kommentiert und mit zahlreichen Materiali-  en versehen von Burghard Dedner, Frankfurt/Main 1998(=Suhrkamp Basis Bibliothek  4) 

Sekundarliteratur

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栗林澄夫  谷口広治  山本佳樹編  戦後ドイツ文学ビューヒナー ビューヒナー・レーデを読む  ビューヒナー・レーデ論集刊行会 1995

谷口広治著  理念と肉体のはざまで G・ビューヒナーの文学( 人文書院 2000 )

照らしだされた戦後ドイツ  ゲオルク・ビューヒナー賞記念講演集(1951-1999)  谷口広  治監訳 ビューヒナー・レーデ研究会他訳 (人文書院 2000 )



後 記

                         エーバーハルト・シャイフェレ

                           下  程   息  訳

その景観はじつに素晴らしい、甲山の麓の関西学院大学での長年の非常勤勤務を回顧するときまず瞼に浮かぶのは、年次毎に行ったビューヒナーの授業である。生前は屈辱的な誤解の憂き目に会ったが、ドイツ語を母国語とするもっとも重要な作家の一人として二十世紀に入ると共にようやく国際的に認められてきた、若い詩人ゲオルク・ビューヒナーの全作品を取り上げる機会が与えられた。それに対する感謝の気持は今も変わらない。

数々の周囲の事情に恵まれていたからこそ、かくも長い時間を費やして一人の作家と取り組むことができた。当時京都大学で主として教鞭をとっていた私に非常勤に来るよう、声をかけてくれた下程教授は、こう言ってもよいならば、リューベック出身の文豪トーマス・マンをはじめとして、ヘッセンの革命家ビューヒナーにも愛着を抱いていた。このことを雄弁に物語っているのは、ビューヒナーとペーター・シュナイダーの『レンツ』を取り上げた彼の論文である。次にその理由として挙げたいのであるが、我々二人は義則孝夫氏と一緒に、蓼科で開催されたビューヒナー・ゼミナールに参加した。第三の理由は以下の通りである。ビューヒナーは、革命の情熱に燃えてはいたけれども、きわめてリアリスティックな劇作家であった。このビューヒナーが永眠したのは、24才という、院生諸君と同じ年令か、より若い24才のときであった。それは、― 150年という隔差を度外視するならば 歴史と異文化による偏差をとくに考慮しなければならないのではあるけれども、個人の年齢という点では院生諸君と同世代の頃のことであった。丁度この頃からビューヒナー研究が非常に盛んになってくるという経緯となっていた。そしてまた、1987年という年はビューヒナーの没後150年に当たる年にほかならなかった。 1982年度の学期は『ダントンの死』の講読の年であった。その当時の夏休みのことであるが、私はパリのダントン広場で地下鉄を下りた。そのときこのドラマの主人公の立像が目に止まった。この立像は悲壮な身振りで東の方を指し示していた。私はこれを― 大まかな非歴史的な見方をするならば― 吉兆と判断した。遠い東の国日本の学生諸君は『ダントンの死』の予習に取りかかっているだろうと思った。夏休み明けの学生諸君は事実下調べをしてくれていた。

1983年度の学期には『レオンスとレーナ』と『ヴォイツェク』を取り上げた。私の記憶に過りがなければ、高名であるにもかかわらず並はずれて好ましい人物であった、ジーゲン大学教授ヘルムート・クロイツァー氏、忘れようにも忘れられない友人故八木浩氏たちと共に、ビューヒナーにかんするコロキウムをこの期間に行った。真剣そのものであった学生諸君の参加態度が忘れられない。学生諸君はドイツ語でする質問の準備をした。いつものことながらた流暢には話せなかったけれども、思い切って外国語でコロキウムに参加してくれた。次に待っていたのはそれこそ大変な仕事であった。録音された対話を先ずドイツ語で筆記しなければならなかった。その際、私をも含めて途轍もない尽力を必要としたのは、聴き取りであった。それから、教師も学生も共に懸命に日本語訳に取りかかった。桁はずれに恵まれていた、大学の研究風土のこういう活例は今も記憶に新しい。

1984年度と1985年度の学期のテーマはベルリンの表現主義の抒情詩であった。ここに温存されていたのはビューヒナーに身近な世界にほかならなかった。というのも、夭折したこの作家は、― 以前の自然主義に対する場合と同じように― この芸運動に方向性を与えていたからである。

ドイツ文学科でその没後150年に当たる年に行ったビューヒナー・コロキウムは、この作家の個々の作品に対する学生諸君と私の同僚下程教授の関心が下火になっていなかったことを証明してくれた。私は当時その際、現代文学に対するビューヒナーの甚大な影響と、その間すでに文献化されていたビューヒナー賞受賞記念講演について話さなければならなかった。クロイツァー氏を招いたときと同じように、われわれ学習者一同は録音を筆記し、それを和訳して教室の機関誌に掲載できるようアレンジした。

1986年度の学期のプログラムは『レンツ』と『ヘッセンの急使』の講読であった。おそらく日本でおそらく初めてのことであろうが、文学作品と政治綱領的作品などのビューヒナーの全著作を文学の授業で取り上げたということは、関西学院大学のドイツ文学科の栄誉となろう。私の同僚であり友人である下程教授の好意と精力的な援助がなければ、こういうことはできなかったに違いない。E.T.A.ホフマンの『黄金の壺』でもって大学院の授業を始めて以来、下程教授は、多忙中にもかかわらず、私の授業に毎度参加し、これを忘れてはならないのであるが、彼特有のユーモアを交えながら、通訳、要約、注釈の労をとってくれた。このような理想的な日独共同作業が行われたことに対して下程教授、同じように私の授業を支え督励してくれた義則孝夫先生、院生諸君にこの場を借りて心から御礼申しあげたい。このような遠大な企画は院生諸君の熱心な授業参加ぬきには考えられない。