壬申じんしんらん 脱出だっしゅつ
大王発病おおきみはつびょう 671年(天智天皇てんじてんのう十年)九月
 その日、中大兄皇子なかのおおえのみこは体調がすぐれないといい、朝政を休まれて床に伏した。昨日まで元気な姿を見せていただけに、側近の者たちも夏風邪だろうとたかをくくっていた。
大王おおきみ、しばらくお休みになられればよくなると薬師くすしも申しておりました。今はゆっくりとお休みくださりませ。」
「うむ」
 中大兄皇子なかのおおえのみこは気の無い生返事をしただけだったが、自分の体は自分が一番知っている。この病は風邪などという生優しいものではない。熱を伴うとともに内臓に激烈な痛みを感じる。風邪のために関節が痛むことがあるというのは知っているが、内臓が痛むというのは聞いたこともない。それに、内臓の痛みは今に始まったものではない。昨年の秋頃から鈍い痛みを感じ始めてから、徐々に食欲も失せていた。中大兄皇子なかのおおえのみこ44歳のことだった。

(この時のために大友太政大臣だじょうだいじんに任命した。朕にもしものことがあれば、大王位は大友に。そのための準備はぬかりなく整えたつもりじゃが・・・)
「大王、お薬の時間にござります。」
 薬師くすしが薬を持って臥所ふしどに現れた。その手に持っていたのはただの風邪薬であった。
われにはそのような薬はいらぬ。そちには朕の病が見えぬのか」
「大王のご病気はただの風邪にござります。この薬を飲んでいただけばたちどころに」
「もうよい。それより蘇我赤兄そがのあかえを呼べ」
 薬師くすしもそれ以上薬を勧めず、薬をその場に置いて立ち去った。入れ替わりに蘇我赤兄そがのあかえ臥所ふしどに現れた。
「大王、お呼びでございますか。」
 食が受け付けなくなってからの中大兄皇子なかのおおえのみこは、見間違えるほどに痩せ衰え、往時の血気盛んな頃の皇子の姿をすっかり消し去っていた。そのような中大兄皇子なかのおおえのみこの姿を見るのが辛く、蘇我赤兄そがのあかえは床に視線を落としたままで中大兄皇子なかのおおえのみこに対した。
赤兄あかえか、朕の命もそう長くないようだ。」
 予想もしなかった中大兄皇子なかのおおえのみこの言葉に、蘇我赤兄そがのあかえは驚いて枕元ににじり寄った。
「何を言われます。大王のご病気はただの風邪でございます。しばらくお休みされれば」
 蘇我赤兄そがのあかえの言葉を中大兄皇子なかのおおえのみこは遮った。
「朕の体は朕が一番よく分かっておる。朕にもしものことがあれば後継者を定めておかねばならぬ。」
 中大兄皇子なかのおおえのみこは苦しそうにそれだけ語ると、大きく息をつくと話を続けた。
「今の朕には皇太子ひつぎのみことすべき皇子がおらぬ。」
「そのような気弱なことを仰せにならないでくだりませ。それに、大王には大友皇子おおとものみこというご立派な皇子がおられます。」
 大友皇子おおとものみこという名を聞くと、中大兄皇子なかのおおえのみこはゆっくりと顔を蘇我赤兄そがのあかえに向けた。
「赤兄は大友が後継者に相応しいと思おておるのか。誰からも不平を出さずに大王位を継げると思おておるのか」
 中大兄皇子なかのおおえのみこの言葉に蘇我赤兄そがのあかえは言葉を失った。その時にはすでに大海人皇子おおあまのみこ東宮とうぐうとなり、皇太弟こうたいていと呼ばれて大王位を継ぐことを誰もが信じていた。その皇太弟こうたいていである大海人皇子おおあまのみこを地位を廃して大友皇子おおとものみこが大王になることは至難の技であった。
 中大兄皇子なかのおおえのみこは、大海人皇子おおあまのみこに大王位を継がせまいとして、自分の皇女である太田皇女讃良皇女さららのひめみこの二人も大海人皇子おおあまのみこに嫁がせたりするなど、あらゆる策を講じてきた。この大津に都を遷都したのもその一つであった。当時は唐軍の侵略に備えるためという理由で奈良の地を離れて大津に遷都したが、大津の地は大友皇子おおとものみこを養育した大友史・大友村主らの本拠地であり、大友皇子おおとものみこが大王として即位した際に、貢献者としての氏族が固める地が有利であると判断したこともあった。また、一月に大友皇子おおとものみこを太政大臣として朝政に参内させたことには、大海人皇子おおあまのみことの格差を縮め、政治の中心的立場を確立するための目的もあった。
 ここまでの中大兄皇子なかのおおえのみこの策略は、何の障害も無く進められてきた。しかし、ここに至って大海人皇子おおあまのみこの動きが気になる。

大津脱出おおつだっしゅつ 671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月十七日
 この時期の大津京にしては珍しく比叡ひえい降ろしの冷たい風も無く、柔らかな日差しが内裏の奥にまで刺し込み、穏やかな冬の朝を迎えていた。しかし、中大兄皇子なかのおおえのみこの病状が悪化した大津宮には重く沈んだ空気が流れていた。
 病に犯され、時折の激痛と嘔吐に襲われ、薄れる意識の中で中大兄皇子なかのおおえのみこはなおも成すべき仕事に胸を悩ませていた。
(朕の命もそう長くは持つまい。朕が逝く前に次の大王を決めておかねばならぬ。)
 中大兄皇子なかのおおえのみこの意識が戻っていないと思い込んでいる舎人とねり達が、しとみの向こう側で囁きあっていた。
「次の大王はどなたになるのであろうのう。」
「大王はご子息の大友皇子おおとものみこ様を目の中に入れても痛くないほど可愛がっておられる。それを思うと、大王は大友皇子おおとものみこ様に皇位をお譲りになるのではなかろうか。」
「いやしかし、大友皇子おおとものみこ様の母君は伊賀宅子娘いがのやかこのいらつめ様。出自がちょっと・・・」
「とすれば、大海人皇子おおあまのみこ様しかおられぬであろう。大海人皇子おおあまのみこ様には大王と二分するほどの人気を集めておられる。」
「いや、人気のことを思えば大海人皇子おおあまのみこ様のほうがはるかに人気があるであろう。なにしろあの方は身分の隔たりなく誰にでも快く声をかけてくださるからのお。それに東宮とうぐう様じゃ。」
「そうだなぁ。大海人皇子おおあまのみこ様から物を頼まれれば喜んでお仕えしたくなる。我も仕えるとしたら大海人皇子おおあまのみこ様のほうが良いなぁ。」
 ここで中大兄皇子なかのおおえのみこの枕元に控えていた蘇我赤兄そがのあかえが血相を変えて飛び出してきて、控えめな声で舎人とねりをたしなめた。
「ぬしら、大王がお聞きだぞ。言葉を謹め!」
 二人はひれ伏すとその場を足早に去った。
 ぼんやりと天井を見つめながら二人の言葉を聞いていた中大兄皇子なかのおおえのみこは、ゆっくりと瞼を閉じて自問した。
(大友、朕はお前に大王の座を譲りたい。しかし、近江令おうみれいでは皇族でも豪族の娘でもない、采女うねめであるお前の母親の出自がそれを許さない。それでも朕は大友に大王位を譲りたい。)
 中大兄皇子なかのおおえのみこはカッと目を開き、宿直役とのいやく蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろに命じた。
大海人おおあまを呼べ。大事な話がある。」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろ中大兄皇子なかのおおえのみこの枕元ににじりよると尋ねた。
「大王、譲位の件はお体が快復してからでも・・・」
 中大兄皇子なかのおおえのみこはゆっくりと蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろに顔を向けると静かに、しかし力強く言った。
大海人おおあまを呼べ。朕は大海人に譲位の意を表すが、もしも大海人が譲位を受けた場合、亡き者とせよ。」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろの表情が一変した。
「大海人皇子様を・・・誅するのでございますか?」
 蘇我臣安麻呂は中大兄皇子に問い返した。
「うむ。大海人さえ亡き者にしてしまえば、誰もが次の大王位は大友と認めるであろう。」
 しかし、この一言が大友皇子と大海人皇子の運命を大きく変えてしまうことになるとは、中大兄皇子は夢にも思わなかった。いや、正常な体調ならば側近の中にも大海人皇子に加担する者がいると警戒したであろうが、常に襲いくる激痛に平常心を失っていた中大兄皇子は、不用意にも大海人皇子が信頼を置いている蘇我臣安麻呂に重大な意思表示をしてしまった。
 蘇我臣安麻呂は一礼をするとすぐさま大海人皇子おおあまのみこの居所である東宮とうぐうに馬を駆けさせた。

 東宮とうぐうに駆けつけると、馬の手綱を舎人とねりに投げ渡し、大海人皇子おおあまのみこの居場所を問うた。
「皇子様は裏庭で静養されておられます。ただいま、蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろ様が参られましたことをお伝え・・・」
 舎人とねりの言葉が終るのを待たずに蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろやしきの裏へと歩を進めようとした。それを見た舎人とねりは慌てて蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろの前に跪き、
安麻呂やすまろ様、しばらくお待ちを。安麻呂様のお越しを伝えぬでは、我ら舎人とねりがお叱りを受けます。しばしお待ちを。」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろは必死に止める舎人とねりの顔を見下ろし、
「そうであったの。主に事を伝えるはそちらの役目。はよう伝えて参れ。」
 舎人とねりは一礼をすると邸の裏へと駆け出した。広大な東宮とうぐうの中は静寂そのもので、小鳥の囀りが僅かに聞こえるだけであった。しかし、小鳥の囀りに混じって鳥の声とは思えぬ太く短く風を切る音が微かに聞こえてきた。
(この音は・・・弓を射る音か?)
 しばらくして舎人とねり蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろを迎えに来た。
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろが足早に邸の裏に回ると、大海人皇子おおあまのみこは縁側でくつろいでいた。その姿は軽装で血色の良い顔色はとても病人とは思えなかった。しかも額にはうっすらと汗が浮いていた。
 庭を眺めると弓の的が置かれていたが、弓も矢も見当たらなかった。舎人とねりが仕舞ってしまったのだろう。
「皇子様はお病気だと伺っておりましたが、まさか」
「おお、吾は確かに病気じゃ。病気ゆえに病に負けぬよう体を鍛えておる。」
「では、やはり皇子様は・・・」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろの表情が緩み、目頭に熱いものがこみ上げてきた。
「で、安麻呂。今日は何用じゃ。」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろが我に返り、大津宮で聞いた中大兄皇子なかのおおえのみこからの話一部始終を伝えた。
「皇子様、大王が皇子様に譲位の意をお伝えなさろうとしております。し、しかし、皇子様が譲位を受けられた場合は殺せとの命が。」
 大海人皇子おおあまのみこは、一瞬表情を曇らせたが、すぐさま平静に戻り、笑みを浮かべてさらりと答えた。
「安麻呂、ご苦労であった。そちの忠心は肝に命じておくぞ。」
 蘇賀臣安麻呂そがのおみやすまろは、自分が告げたそれだけの言葉に大海人が全てを一瞬のうちに理解し、さらにはその後の対応までをも判断したことに感嘆した。そして、大海人皇子おおあまのみこの機転の速さ、度量の大きさに打たれ、自分がこれからも着いて行くのはこの人しかいないと心に決めていた。

 大海人皇子おおあまのみこ中大兄皇子なかのおおえのみこの枕元にあぐらをかき、眠っているかのように見える中大兄皇子なかのおおえのみこの表情に少なからず驚いた。
(しばらくお顔を見ないうちに、何と憔悴しょうすいされたことか・・・)
 中大兄皇子なかのおおえのみこの顔色は土気色となり、土偶どぐうを思わせた。眼窩がんかは窪み、頬の肉は削げ落ちており、微かに呼吸をしている胸の上下が無ければ死人と見間違うほどであった。そのような中大兄皇子なかのおおえのみこに幾分を顔を近づけて、大海人皇子おおあまのみこは言葉を発した。
「大海人、ただいま参りました。」
 軽く声を出したつもりではあったが、元来地声が大きいので、その声は宮中に響き渡っていた。
 中大兄皇子なかのおおえのみこは一瞬顔をしかめると、うっすらと目を開け、大海人皇子おおあまのみこの顔を見つめてから、苦しそうに言葉を発した。
「大海人か。ご苦労である。病に伏していると聞いておったが、相変わらず力強い声であるのお。」
 大海人皇子おおあまのみこは病のためと称して出仕を拒んでいた。中大兄皇子なかのおおえのみこ大友皇子おおとものみこ寵愛ちょうあいし、皇位を大友皇子おおとものみこに譲りたいと思う気持ちとは裏腹に、中大兄皇子なかのおおえのみこが病に倒れると朝臣ちょうしんの人気が一同に自分に集中しているのを認識していた。このままでは自分は蘇我入鹿そがのいるか同様、抹殺されるかも知れぬという恐れを動物的な勘で感じ取り、抹殺から逃れるために、病と称して参議にも出仕せずに東宮とうぐう隠匿いんとくしていた。
 中大兄皇子なかのおおえのみこの言葉には答えずに大海人皇子おおあまのみこは声をかけた。
「ご加減はいかがですか。」
 大海人皇子おおあまのみこの問いに答えるかのように中大兄皇子なかのおおえのみこは語りだした。
「朕の命も、そう長くは無い。そこで朕はお前に後事を託したいと思う。」
 中大兄皇子なかのおおえのみこはいきなり結論を持ち出した。
 枕元に詰めていた直臣じきしん達の顔色が一瞬にして青ざめ、聞き耳を立てて大海人皇子おおあまのみこの返事を待った。
 大海人皇子おおあまのみこが返事をするまでに僅か数秒ではあったが間が開いた。その数秒間を直臣達は永遠の時間のように長く感じていた。
 大海人皇子おおあまのみこは顔色一つ変えずに告げた。
「吾は病のため、参議にも出仕できずにおります。その吾が大王の業などとは荷が重過ぎます。願わくは大王の業は皇后倭姫やまとひめにお任せになり、皇子の大友皇子おおとものみこ摂政せっしょうとして政治をお執りください。我は大王の病気平癒を祈願するため出家して吉野に赴きたいと思います。」
 倭姫やまとひめへの譲位と、自分の身の振り方を一気に述べた大海人皇子おおあまのみこの言葉に一座にどよめきが走った。
 中大兄皇子なかのおおえのみこは静かに目を伏せると小さく深呼吸してから呟いた。
「朕のためにしっかりと祈願を頼むぞ。」
 その場にいた大友皇子おおとものみこは、大海人皇子おおあまのみこの言葉に胸を撫で下ろした。
大海人皇子おおあまのみこが大王を辞退した。これで吾が政治の実権を握ることになるだろうが、大王には倭姫やまとひめとは・・・。摂政せっしょうの身では十市は吾に振り向いてはもらえぬ。しかし、父は吾を大王にと望んでおられる。)
 大友皇子おおとものみこは、高市皇子たけちのみこに情を寄せていた十市皇女とおちのひめみこを、中大兄皇子なかのおおえのみこの権力を借りて力ずくで自分の妃とした。
 自分の母の出自の低さと、十市皇女とおちのひめみこの高貴さに、大友皇子おおとものみこは常に劣等感を感じていた。しかし、次期大王に最も有力とされる大海人皇子おおあまのみこが、大王位を辞退して出家するということは、中大兄皇子なかのおおえのみこ大友皇子おおとものみこに皇位に譲ると言えば、それだけで大友皇子おおとものみこが大王となれる。
 大友皇子おおとものみこは、自分が日本の最高権力者になることを、心から望んでいた。最高権力者になることで、ようやく十市皇女とおちのひめみこと対等になれると思っていた。
 大友皇子おおとものみこの喜ぶ気持ちとは裏腹に、中大兄皇子なかのおおえのみこ大海人皇子おおあまのみこの残した言葉を胸の内で反芻した。
(皇位は大友に譲らずに、倭姫やまとひめに託せと。大友はその身分では無いと、最後の最後に釘を刺しおったわ。大海人が生きている限り、大友には大王位を渡さぬということか。)
 大海人皇子おおあまのみこは即座にその場を辞すると床几しょうぎを持ち出し、内裏だいりの仏殿の南に出て声高に言った。
「吾は出家する。誰か、吾の髪を剃れ。」
 大海人皇子おおあまのみこの髪が剃り落とされて行くのを見て、大友皇子おおとものみこは明るい将来だけを思い描いていた。
 大津宮を辞する前に、大海人皇子おおあまのみこ大友皇子おおとものみこの側にかしずいている十市皇女とおちのひめみこを見つけると、大友皇子おおとものみこに言った。
大友皇子おおとものみこ、父娘として十市とおちと今生の別れをしたい。人払いをお願いできるかな。」
 大海人皇子おおあまのみこのいきなりの申し出に、大友皇子おおとものみこは言葉を詰まらせながら答えた。
「は、はい。それはもちろんです。」
(大王となって政務を掌握しょうあくするにはあまりにも小心すぎる。やはり、母の出自の低さがこの男の自信をも喪失させているのか。勉学では誰にも引けを取らぬ努力者ではあるが、中大兄皇子なかのおおえのみこの息子にしては心根が弱すぎる。)
 大友皇子おおとものみこに対する大海人皇子おおあまのみこの判断は、かなり辛辣しんらつなものであった。しかしその思いは、近江朝を支える官人達も同じ思いを抱いていたのは確かである。
 大海人皇子おおあまのみこは、宮中でも琵琶湖が一望できる立ち木の無い所を人払いの場所に選んだ。それは、中大兄皇子なかのおおえのみこの間者が二人の話を盗み聞き出来ないように、隠れる場所が無い所を選んでのことであった。
 先に口を開いたのは十市皇女とおちのひめみこであった。
「お父様、本当に吉野で隠棲いんせいなさるのですか?」
十市とおちよ、高市たけちと大津に知らせてはくれぬか。」
 十市皇女とおちのひめみこは、二人の息子達に、父が出家して吉野に赴く事を伝えるものとばかり思っていた。しかし、大海人皇子おおあまのみこは重大な任務を十市皇女とおちのひめみこに告げた。
「二人には時を待てと。」
「えっ?! それではお父様は・・・」
 驚く十市皇女とおちのひめみこ大海人皇子おおあまのみこが制した。
「しっ 声が大きい。ここで怪しまれてはすべてが無に帰す。」
「はい。申し訳ございません。」
 十市皇女とおちのひめみこが落ち着くのを見計らって大海人皇子おおあまのみこは話を続けた。
「本来ならば、高市と大津は連れて行きたいが、二人を連れて出たのでは出家という理由が立たなくなるのでな。」
 十市皇女とおちのひめみこは連れて行きたい者の中に自分が入っていなかったことに少なからず落胆した。その表情を見てとった大海人皇子おおあまのみこが、十市皇女とおちのひめみこの心を汲んで語った。
「勿論、十市を連れて行かぬのは吾も辛い。しかし、十市は大友皇子おおとものみこの妃。近江朝の動きを最も良くつかめる立場にある。近江朝に残り、吾を、父を助けてはくれまいか。」
 その言葉を聞き、十市皇女とおちのひめみこの顔に明るさが戻った。
「十市は、父上のお力になるよう務めます。」
「どのくらい先になるか分からぬが、必ず時が来る。それまで二人には大津宮に留まり、吾の命を待てと。吾の舎人とねりを使えば怪しまれる。十市なら怪しまれずに二人に使いを出せるであろう。」
「はい。必ずお二人の皇子様に連絡を取りまする。」
 父、大海人皇子おおあまのみこの役に立てることを喜ぶあまり、十市皇女とおちのひめみこの顔がほころんでいた。
「十市、父と今生の別れの時に、笑顔はまずいぞ。」
 苦笑いを浮かべて大海人皇子おおあまのみこ十市皇女とおちのひめみこに囁く。
「あ、はい。申し訳ありませぬ。」
 それでも十市皇女とおちのひめみこには笑みを押さえることができず、うつむいたがその肩が震えていた。
 二人は立ち上がると、大海人皇子おおあまのみこ十市皇女とおちのひめみこの肩に手をかけ、
「十市も息災に過ごせよ。」と、声をかけた。
 十市皇女とおちのひめみこは、衣の袖で顔を覆い、
「お父様もお体にお気をつけてくださいませ。」
 と、言いつつ肩を振るわせた。今生の別れの演技である。
 二人の別れ際を目の当たりにして、大友皇子おおとものみこ舎人とねり達が嗚咽を漏らした。大友皇子おおとものみこ自身、目頭が熱くなるのを覚えていた。

大海人皇子おおあまのみこ様のお帰り」
 その言葉に、それまで大海人皇子おおあまのみこの身を案じていた讃良皇女さららのひめみこが奥殿から走り出してきた。
 大海人皇子おおあまのみこ中大兄皇子なかのおおえのみこの元に呼び出され、もしやすると二度と戻ってこれないのではないか。二度と大海人皇子おおあまのみこの顔は見られないのではないかと危惧きぐしていた。無事に帰還することを一心に祈願していた讃良皇女さららのひめみこであったが、大海人皇子おおあまのみこが帰還したことに安堵した。それにしても玄関先のざわめきが気になる。
 このざわめきは大海人皇子おおあまのみこの帰還を喜ぶでもなく、また、不幸の帰還を表すものでもない。舎人とねり達の言葉には嘆きの言葉と、喜びの言葉が入り乱れている。讃良皇女さららのひめみこの不安に鼓動が高鳴り、玄関に飛び出した。
 玄関に立つ大海人皇子おおあまのみこの姿を見て讃良皇女さららのひめみこは呆然とした。
「あなた、そのお姿は・・・」
 玄関先に立ち尽くす大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこは一言声を発すると、後の言葉を飲み込んでしまった。
 髪は剃られ、それまでたくわえていた髭も綺麗に剃り落とされた大海人皇子おおあまのみこの姿は、どこから見ても僧侶そのままであった。
 法師姿の大海人皇子おおあまのみこが厳しい眼差しで讃良皇女さららのひめみこを見つめて言った。
讃良さらら、直ちに吉野に出立する。支度をせい。」
 讃良皇女さららのひめみこには大海人皇子おおあまのみこの裏の声が聞こえていた。(大津を脱出するぞ!)と。
「は、はい。」
 讃良皇女さららのひめみこ大海人皇子おおあまのみこのその一言で全てを理解し、旅の荷造りを始めた。
(今度の旅は行楽では無い。この大津宮を逃げ出すのだ。大海人様の命を守るために)
 無事に大津宮を脱出できるか。その一事がどれだけ大変なことか。讃良皇女さららのひめみこは肝に命じていた。
(父、中大兄なかのおおえ蘇我入鹿そがのいるか蝦夷えみし親子を抹殺し、私の祖父を抹殺し、今度は自分の実の弟であり、私の夫である大海人を抹殺しようとしている。何としてでも大海人をこの大津より脱出させねば)
 中大兄皇子なかのおおえのみこが築いたこの大津宮から脱出することは至難の技である。到る所に間者が潜んでおり、大海人皇子おおあまのみこの動きを刻一刻と中大兄皇子なかのおおえのみこに報告しているに違いない。その包囲網からの脱出は、寸暇を争うものであることは火を見るより明らかであった。
 大海人皇子おおあまのみこを脱出させる。その思いだけで一心の讃良皇女さららのひめみこは、一刻も早く吉野に到達するため、旅支度を軽装にすることに専念した。自分の着物は二の次にし、大海人皇子おおあまのみこと息子の草壁皇子くさかべのみこの衣装だけを詰めるように采女うねめ達に支持をしていた。自分が身重であることも忘れて。
 大海人皇子おおあまのみこの行動は早かった。讃良に旅立ちの準備を命じると、舎人とねり達には次の指示を下していた。
「邸内にあるすべての武器・兵器を集めて兵部省ひょうぶしょうに奉納せよ。」
大海人皇子おおあまのみこ様、武器を手放してしまわれるのですか。」
 舎人とねり達は、大津宮からの吉野に下るまでに、中大兄皇子なかのおおえのみこが放つであろう追っ手と一戦を交えるためには武器が必要だ。しかし、大海人皇子おおあまのみこは、その大切な武器をすべて兵部省に奉納せよと命じた。
「吾は僧になったのじゃ。戦うための兵器など必要では無いであろう。むしろ、武器を持って吉野に向かえば、謀叛むほんの準備と思われてもしかたない。吾も大王に弓矢を射ようなどとは心の底からも思っておらぬ。」
 穏やかな表情を浮かべて語る大海人皇子おおあまのみこに、舎人とねり達は一抹の不安を抱いた。大津宮を脱出するや否や、中大兄皇子なかのおおえのみこが追っ手を放つのは十中八九間違いない。
「僧が経を読むのに、弓も矢もいらぬであろう。わっはっはっ。」
 快濶な笑い声を残し、唖然とする舎人とねり達を残して大海人皇子おおあまのみこは奥へと入って行った。
 舎人とねり達は、これまで大海人皇子おおあまのみこを信じてきた。しかし、ここに到って大海人皇子おおあまのみこは本当に出家し、俗世間から縁を切ってしまうらしい。舎人とねり達の不安がつのる。一人の舎人とねりが不穏な空気をかき消すかのように言った。
「あの大海人おおあま様の明るさはどうだ。何か策を練っておられるに違いない。」
 この舎人とねりの一言に、他の舎人とねり達も同調した。切羽詰った状況においても快濶さを忘れない大海人皇子おおあまのみこに、舎人とねり達はこれからも大海人皇子おおあまのみこを信じて行こうと心に決め、蔵から武器・兵器をすべて運び出し、奉納のための荷造りを始めた。
 荷造りされた武器・兵器は、即座に兵部省の蔵に奉納された。

 その夜、十市皇女とおちのひめみこ高市皇子たけちのみこ大津皇子に使いを出した。その行動をいぶかしんだ大友皇子おおとものみこ十市皇女とおちのひめみこに問い質した。
「今の使いはどこに向けて使わせたのだ?」
 十市皇女とおちのひめみこ大友皇子おおとものみこの顔をきっと見つめて答えた。
高市皇子たけちのみこ様と大津皇子様に、お父様が吉野に向かわれたことをお知らせしたまでのこと。」
「内容はそれだけか?」
「お疑いですか? お疑いでしたら、舎人とねりを捕らえて拷問なさればいかがですか。」
 十市皇女とおちのひめみこの冷たい態度に、大友皇子おおとものみこもそれ以上詰問することが出来ず、使いの件は不問とした。
 しかし、大友皇子おおとものみこの内心には、焦りとも苛立ちとも言えない複雑な感情が渦巻いていた。

 十市皇女とおちのひめみこからの使いに、二人の皇子は当然の如く人払いを行い、舎人とねりが語る言葉に耳を傾けた。
 何事も行動の早い高市皇子たけちのみこは、父、大海人皇子おおあまのみこが大津宮を出るや否や、安全な場所まで護衛の兵を率いて見送るつもりでいた。しかし、十市皇女とおちのひめみこの言伝から大海人皇子おおあまのみこの意思を汲み取り、行動を起こしたい気持ちを静かに押し殺していた。

671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月十八日
 吹田生磐が、中大兄皇子なかのおおえのみこよりの贈り物として、大海人皇子おおあまのみこに立派な袈裟を持参した。それを手にした大海人皇子おおあまのみこは、しばらく袈裟を見つめて何事かを考えていたかと思うと、瞬時に表情を明るくし、舎人とねりたちにまで聞こえるように讃良皇女さららのひめみこに言った。
讃良さらら、大王のお許しが出たぞ。この袈裟が何よりの証拠じゃ。吉野で大王の病平癒を心から祈願しようぞ。」
「大海人様、吉野に行きましょう。大王様の病平癒を祈願するために。」
 讃良皇女さららのひめみこは即座に答えたが、讃良皇女さららのひめみこは感ずいていた。それが大海人皇子おおあまのみこの芝居であることを。側近の者達を安心させるための芝居であり、更には中大兄皇子なかのおおえのみこが放った間者が舎人とねりの中に潜んでいるはず。その者に出家すること以外に他意が無いことを思わせるために。
 讃良皇女さららのひめみこ大海人皇子おおあまのみこの即興の芝居に相槌を打ったのであった。
 中大兄皇子なかのおおえのみこ大海人皇子おおあまのみこに袈裟を送った。しかし、その真意は定かではない。心静かに吉野での出家を願ったものなのか、袈裟を着るか否かで最後に大海人皇子おおあまのみこの意思を確認しようとしたのか。
 大海人皇子おおあまのみこは、中大兄皇子なかのおおえのみこから送られた袈裟の袖に腕を通した。
 中大兄皇子なかのおおえのみこが放った間者は、中大兄皇子なかのおおえのみこのもとに帰り、大海人皇子おおあまのみこ中大兄皇子なかのおおえのみこから送られた袈裟を着、出家することに以外に他意が無いことを報告していた。
 しかし、中大兄皇子なかのおおえのみこはその報告にうなずいただけで、表情は更に険しいものとなっていた。
鎌足かまたりよ、大友にそちのような策師がおればのお。大友では質・実共に大海人おおあまには適わぬ。大友を即位させたとしても、大海人はいつの日か必ず大友を討ち、大王になるであろう。今のうちに大海人を討つか。しかし・・・)
 思考が中大兄皇子なかのおおえのみこの病状に触れたのか、中大兄皇子なかのおおえのみこはそのまま意識を失ってしまった。

671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月十九日
 胸の上に圧迫感を感じ、誰かが遠くから呼んでいるのが聞こえてきた。
中大兄なかのおおえよ。」
「われは誰じゃ。」
「もはや吾の声も忘れたか。」
「ふん。入鹿いるかめが今頃、何の用じゃ。」
中大兄なかのおおえよ。われの強がりも今のうちじゃ。われもいよいよ吾らと同じ世界に来るか。待っておるぞ。ふっふっふっ」
入鹿いるかめが。地獄の業火に焼かれたのでは無かったか。」
「たわけめ! 地獄の業火に焼かれるのはわれのほうじゃ。吾を騙し討ちにしたばかりでなく、古人大兄皇子ふるひとおおえのみこをも誣告ぶこくで殺し、それが故に己がひん越智娘おちのいらつめを狂い死にさせ、挙句の果てには狂気を装ってまで生に執着した有馬皇子ありまのみこをも死に追いやった。」
「何を申すか。古人大兄ふるひとおおえも、有馬ありまも、謀反を企んでおったため誅したのじゃ。越智おちはその犠牲になったまでのこと。」
「われが図ったのであろう。古人大兄皇子ふるひとおおえのみこも、有馬皇子も、その存在が恐ろしくなって殺した。越智娘の気が触れたのは予想外と。」
「黙れ! 奴らは吾に剣を向けたのだ。」
「ふふふ われは、その者達の剣を見たのか? 剣を見る前に恐ろしくなって、実権を握っていることを良いことにして殺したのであろう。吾を殺したのと同じように。」
「違う。それは違う! 確かに奴らは・・・ 入鹿よ。われを誅したのは、われは大王でもないのに、大王をないがしろにしたからじゃ。」
「わっはっはっはっ 吾が大王をないがしろにした? われはいまだにひよこよのお。吾は大王より実権を授かっていた。大王は吾に政治の全てを任せると言われたのじゃ。」
「嘘を申すな!」
「嘘だと思うならこちらに来て、直々に皇極こうぎょく大王に問い質すがよい。わっはっはっはっ」
「入鹿め!」

「大王、大王! お気を確かに!」
 中大兄皇子なかのおおえのみこが目を開けると、そこには坊主頭に自分が贈った袈裟を着た大海人皇子おおあまのみこが顔を覗き込んでいた。
「大海人か。」
「ご気分はいかがですか。かなりうなされていたようですが。」
 中大兄皇子なかのおおえのみこは小さく息を吐き出しすと静かに答えた。
「うむ。今後の事を考えておった。」
 そう軽く答える割には額に噴出した汗が尋常ではないことを物語っている。
「病を押してまでの大王のご業。敬服いたしまする。」
 中大兄皇子なかのおおえのみこは、薄目を開けて大海人皇子おおあまのみこを見た。その姿は頭を丸め、自分が贈った袈裟をすでに長年もの間に渡って着込んだかのように違和感を感じさせない。どこから見ても僧侶そのままの出で立ちであった。
「大海人よ。吾の病平癒祈願をしっかりと頼むぞ。」
 この言葉が本来の中大兄皇子なかのおおえのみこの言葉か否か、大海人皇子おおあまのみこには判断しかねたが、きっぱりと返事をした。
「吉野に赴き、大王の病平癒を一時もかかさずご祈願することを誓います。」
 中大兄皇子なかのおおえのみこ「うむ」と答えたきり、瞼を閉じてそれ以上言葉を発することは無かった。

 額に汗を浮かべ、眉間に皺を寄せて眠る中大兄皇子なかのおおえのみこの寝顔を覗き込みながら、大海人皇子おおあまのみこは思った。
(病と闘いながらも策略を練っているのか。それとも・・・)
 大海人皇子おおあまのみこは、すっくと立ち上がり、眠る中大兄皇子なかのおおえのみこに一礼をするときびすをかえして寝所を後にした。
 大海人皇子おおあまのみこが寝所を出ると、中大兄皇子なかのおおえのみこは瞼を閉じたままで蘇我赤兄そがのあかえを呼んだ。
赤兄あかえよ、兵を整えて大海人の護衛としてつかせよ。」
「大王、大海人様をこのまま吉野に向かわせるのでありますか。」
「大海人が大津宮を出たならば、必ずや息子の高市皇子たけちのみこが兵を集めて大海人警護のために現れるであろう。その時には大海人共々、謀叛を企んでの徒党として皆葬れ。」
 蘇我赤兄そがのあかえの顔が興奮のあまり、真っ赤になった。中大兄皇子なかのおおえのみこは、同腹の実弟をも抹殺しようとしている。
「し、承知いたしました。すぐに兵を整えて大海人皇子おおあまのみこ様を追います。」

 大海人皇子おおあまのみこは大王の寝所を辞すると、朱雀門すざくもんの外に出た。そこにはこれから吉野までを共にする草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ、それに舎人とねり達が馬を用意して待っていた。
 人数は三十人余り。その中に、讃良皇女さららのひめみこの姿が見えた。
讃良さらら、お前は都に残れと言ったであろう。吾は僧侶となる身。妃は不要じゃ。それに妃を伴っての吉野行きは、大王に対する謀叛と思われ兼ねない。」
 そこへ蘇我赤兄そがのあかえ中臣連金なかとみのむらじかねが武装した兵を引き連れ、砂塵を巻き上げて来るのが見えた。
「あなた、ご覧なさい。彼らはあなたを抹殺しようと父が差し向けた兵達でしょう。あの砂塵の量からすると、武器を持たないこれだけの人数など、瞬時のうちに抹殺するほどの兵力と見えますが。」
 大海人皇子おおあまのみこも巻き上がる砂塵の量から兵力は四百から五百ほどと踏んでいた。
(たかだか三十人ほどの、しかも非武装の者達を襲うにしては、蘇我赤兄そがのあかえも奮発したものよ)
 大海人皇子おおあまのみこは苦笑いを浮かべながら兵達が歩み寄るのを見ていた。
「私の祖父、蘇我倉山田石川麻呂そがくらやまだいしかわのまろを無実と分かっていながら謀叛の疑いをかけて殺したほどの父です。あなたを殺すなど、造作も無いことでしょう。」
 大海人皇子おおあまのみこは討伐隊を見つめる讃良に向かって答えた。
「されば尚更のこと、危険な旅にお前を随行させるわけには行かぬ。」
 讃良皇女さららのひめみこは毅然と大海人皇子おおあまのみこを見つめた。
「父の娘である私があなたと共にいれば、父の臣下である彼らには私に矢を射掛けることが出来ませぬ。あなたは身を守るためにも私を伴わなくてはなりませぬ。」
 讃良皇女さららのひめみこが不敵な笑みを浮かべた。
「お前は何と勝気な女人だ。お前の身にこの旅はきついぞ。」
 大海人皇子おおあまのみこの言葉に、讃良ははっとした。自分が身ごもっていることは、まだ大海人皇子おおあまのみこには告げていない。生死の境を分けるこの時に、身ごもったことを大海人皇子おおあまのみこに告げることは、大海人皇子おおあまのみこの判断を曇らせる事になるかも知れないと思い、黙っていたのであった。
 しかし、大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこの懐妊に気付いていたのかも知れない。しかし、讃良皇女さららのひめみこはきっぱりと言い切った。
「私のことはご心配いりませぬ。決してあなたの足手まといにはなりませぬ。」
 大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこの手を握り締めて言った。
「お前は吾の大切な妃じゃ。旅を共にしようぞ。」
 その姿を遠目から今生の別れを惜しんでいると見ていた蘇我赤兄そがのあかえは、一行に追いつくと讃良皇女さららのひめみこに向かって促すかのように言った。
大海人皇子おおあまのみこ様は吾らがお見送り申します。」
 馬上の人となった大海人皇子おおあまのみこが答えた。
「僧侶となった吾に護衛など必要は無いが、大王の命であろう。大儀である。」
 わずか三十数名の大海人皇子おおあまのみこの一行を、四百名もの武装近衛兵このえへいが前後を固めた。
 四百名を越える大行列に、周辺の民が何の行列かと農作業の手を止めて眺めやっていた。あまりもの大行列に、さも高名な人の行列かと思い、畦道に平伏す民もいたほどであった。

讃良皇女さららのひめみこはどこまで随行されるのであろうのお。」
 痺れを切らした中臣金なかとみのかね蘇我赤兄そがのあかえに囁いた。
「うむ。大王の皇女がお側におられると、いかに吾らでも矢を射掛けることが出来ぬ。しかし、宮を遠く離れてまでも見送りはするまい。今しばらく様子を見ようぞ。」
 苦々しい面持ちをしながら中臣金なかとみのかね蘇我赤兄そがのあかえの言葉に従った。中臣金なかとみのかねが振り向くと、大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこが中むつまじく会話をしており、讃良皇女さららのひめみこ大海人皇子おおあまのみこを見送ろうとする素振りすら見せない。
(ひょっとしたら、讃良皇女さららのひめみこはこのまま吉野まで大海人皇子おおあまのみこと同行するのではないか。だとすれば妃を伴っての出家などありえない。謀叛の疑い有りとしてこの場で・・・)
 中臣金なかとみのかね蘇我赤兄そがのあかえに相談を持ちかけた。
「妃を伴っての出家とはおかしいであろう。謀叛の意を表したとしてこの場で討ち取っては。」
 蘇我赤兄そがのあかえも疑問を感じてはいたが、中大兄皇子なかのおおえのみこから讃良皇女さららのひめみこが随行していた場合の対処を聞いていなかった。中大兄皇子なかのおおえのみこも、讃良皇女さららのひめみこが随行するとは思っていなかったのかも知れない。
「待て。今、事を起こせば讃良皇女さららのひめみこは必ず大海人皇子おおあまのみこを庇うであろう。讃良皇女さららのひめみこにもしもの事があっては、大王に申し開きが出来ぬ。」
 大海人皇子おおあまのみこ中臣金なかとみのかねの様子を窺っていると、時折、道端の草陰に目配せをしているのが見えた。中臣金なかとみのかねが目配せをした場所を横目で凝視すると、草陰には明らかに武装した兵が潜んでいた。
 中臣金なかとみのかねの言葉一つで、いつでも斬りかかる用意が出来ているのであろう。中にはすでに刀を抜き、「かかれ」の言葉を今や遅しと身構えている者も見える。
「わずか三十数名の者達を襲うのに、前後の兵だけでも十分であろうに。路傍の兵を入れると五百になるか」
 ぽつりと語る大海人皇子おおあまのみこの言葉に、讃良皇女さららのひめみこが答えた。
「前後の兵があなたを取り巻くまでに、舎人とねり達はあなたを庇って脇道に逃がします。それを阻止しようという魂胆でしょう。」
 冷静に答える讃良皇女さららのひめみこの表情には、自分がいる限りそのようなことは決してさせないという自身が満ちていた。
 中臣金なかとみのかねは策を練っていた。宇治に到着すれば人目もぐっと減る。そこで大海人皇子おおあまのみこ一行を殲滅してしまおうと。蘇我赤兄そがのあかえもその気になっていた。
 念願の宇治に到着した時、そこにいた人物に蘇我赤兄そがのあかえ中臣金なかとみのかねは目を見張った。大海人皇子おおあまのみこも、その姿をここで見るとは思いもよらなかった。その者が大海人皇子おおあまのみこの姿を遠くから認めると、手を振り、大声で叫んだ。
「父上、高市たけちが最後の別れに参上しました。」
 高市皇子たけちのみこが、僅かながら手兵を伴って宇治うじ大海人皇子おおあまのみこの到着を待っていたのだ。
高市たけちめが。大海人おおあまとここで落ち合って謀叛の徒党を組もうという算段か。」
 刀に手をかけ、今にも引き抜こうとする中臣金なかとみのかね蘇我赤兄そがのあかえが留めた。
「待て、策謀に富んだ高市たけちのことだ。どこかに伏兵を忍ばせているやも知れん。周囲に気を配れ。」
 中臣金なかとみのかねは辺りを見渡したが、伏兵が潜んでいるような気配はない。四百の兵で一気にかかれば、ほんの数名の高市皇子たけちのみこの手勢など一ひねりで殲滅せんめつできる。しかし、戦術に長けている高市皇子たけちのみこのこと。どのような仕掛けを施してあるか、予想が出来なかった。
 高市皇子たけちのみこ蘇我赤兄そがのあかえ中臣金なかとみのかねに会釈すると、
「お役目、ご苦労。私もここから父上をお見送りいたします。」
 そう言い終わるが早いか、馬を大海人皇子おおあまのみこのもとに進めた。高市皇子たけちのみこの登場に、四百の兵達が「すわっ謀叛か」と勢い立った。
 中臣金なかとみのかねが刀の柄に手をかけて馬を二三歩前に進めたところで蘇我赤兄そがのあかえがそれを制した。
「待て。高市皇子たけちのみこ大海人皇子おおあまのみこと行動を共にするようなら、それが謀叛の証拠だ。それを確認すれば讃良皇女さららのひめみこも謀叛の同罪だ。斬れ。」
 高市皇子たけちのみこは馬から下りると大海人皇子おおあまのみこの馬のくつわを取り、声をかけた。
「父上、お体を大切に。」
「うむ。見送り御苦労である。高市も息災に過ごせよ。」
 馬上から大海人皇子おおあまのみこ高市皇子たけちのみこに答える。互いの眼差しには言葉を必要としない血の繋がった親子の会話あった。
(父上からの連絡を都にてお待ちしております。)
(必ずやその時が来る。それまで自重せよ。)
 中臣金なかとみのかねの不穏な動きを察していた讃良皇女さららのひめみこも、思わぬ高市皇子たけちのみこの登場に胸を撫で下ろしていた。
「高市、お見送りありがとう。私達が無事に吉野に辿り着けるよう、祈っててください。」
 高市皇子たけちのみこ讃良皇女さららのひめみこも馬上より安堵の表情で礼を言った。
「はい。無事に吉野に到達するまで、私が全身全霊をかけてお祈りいたします。讃良さらら様もお元気で。」
 その時、一条の風が吹き、辺りの草木を一斉に振るわせた。兵の中には高市皇子たけちのみこの伏兵が襲ってきたのかと勘違いし、逃げ腰になる者もいたくらいだった。
 そのざわめきに中臣金なかとみのかねが殺気を感じ、辺りを見渡すと、風は吹き去ったにも関わらず、辺り一面の草木が微かに揺れ動いていた。
(くっ この分では高市皇子たけちのみこが手配した兵は千名は下らないか。こちらの兵はすでに浮き足立っている。まともにやりあっては大海人おおあまの首を取るどころか、こっちの首が危ない。)
 さすがに中臣金なかとみのかねも行動を起こすのを控えざるを得なかった。しかも、高市皇子たけちのみこ大海人皇子おおあまのみこと行動を共にするどころか、その場で大海人皇子おおあまのみこの一行を見送った。
 讃良皇女さららのひめみこ大海人皇子おおあまのみこに付き添っていたため、蘇我赤兄そがのあかえ達はここまで手を下すことが出来なかった。そしてこの宇治うじで事を起こそうと図っていたが、高市皇子たけちのみこの突然の登場によってそれも阻止されてしまった。
 吉野に向かう大海人皇子おおあまのみこ一行の後ろ姿を見やりながら、中臣金なかとみのかねが舌打ちをしながら蘇我赤兄そがのあかえに言った。
「吾らのめい大海人おおあまを見送ることか?」
 蘇我赤兄そがのあかえ大海人皇子おおあまのみこの一行を見つめながら答えた。
讃良皇女さららのひめみこ様が着いて行かれるとは、存外であったわ。高市皇子たけちのみこの出現もな。それと、いつの間に集めたのか。この大勢の伏兵たち。これだけの動きを察知できなかったとは、迂闊うかつであったわ。」
「大海人め、命拾いをしたものよ。この金の剣の露と消えたものを。」
 刀の柄を悔しげに叩きながら中臣金なかとみのかねがいまいましく言った。
 大海人皇子おおあまのみこの一行が山道の彼方に姿を消そうとしていた。四百名もの兵達が、まんじりともせず消え行く大海人皇子おおあまのみこの姿を見つめていた。
「虎に羽根をつけて放ったようなものぞ。」
 兵の中の誰かが呟いた。
 中臣金なかとみのかねがその声の聞こえたあたりを見たが、誰が言ったのかは分からなかった。
(確かに。虎だけなら捕らえるのもたやすい。しかし、見張りも着けないうえに、逆に讃良皇女さららのひめみこという策師さくしを着けて放ってしまった。これから何が起きてもおかしくはない。)
 去り行く大海人皇子おおあまのみこの一行を見つめながら蘇我赤兄そがのあかえは思った。
「ふん。虎が何だ。冬の吉野で食糧が採れようか。食べ物が無ければ虎も飢えよう。」
 中臣金なかとみのかねが勝ち誇ったかのように声高に言うと、その顔には不敵な笑みを浮かべていた。

 高市皇子たけちのみこが手勢を率いて大津京に向けて帰途についた。蘇我赤兄そがのあかえ中臣金なかとみのかねは、高市皇子たけちのみこの姿が見えなくなるまで辺りの様子を窺っていたが、千名の伏兵どころか、誰一人として姿を現すことはなかった。

吉野宮よしのみや  中大兄皇子なかのおおえのみこが放った、蘇我赤兄そがのあかえ中臣金なかとみのかねが率いる兵たちを宇治で置き去りにし、高市皇子たけちのみことも別れた大海人皇子おおあまのみこの一行は、ゆっくりと山城国に向かう山道へと差し掛かっていた。追っ手の兵たちは、宇治で留まったままで追ってこようとはしなかった。
 山道が右に折れ曲がり、蘇我赤兄そがのあかえたちの姿が木立に隠れて見えなくなった。相手の姿が見えなくなったということは、相手からもこちらの姿が見えなくなったことを示す。
「急ぐぞ。」
 大海人皇子おおあまのみこが一言告げた。大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこが乗る馬が速足になる。徒歩で続く舎人とねり采女うねめたちは駆け足となる。誰も文句は言わない。弱音も吐かない。
 中大兄皇子なかのおおえのみこが本気になって追っ手を放ったなら、武器を持たない一行は防ぎようが無い。そのためには一刻も早く吉野に落ち延びることだけが、自分達の命を繋ぐ唯一の手段であることを誰もが肝に命じていた。
 後ろからいつ、弓矢が射掛けられるか分からない。誰もがその恐怖から逃れたい一心で、ただひたすらに走り続けた。

671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月十九日 夕刻
 宇治から飛鳥までの60kmほどを一気に走り抜けた一行は、夕刻にようやく飛鳥の嶋宮しまのみやに辿り着いた。誰の顔にも疲労の色が色濃く浮かび、言葉を発する者も無く、皆その場に倒れ込んでしまった。食事もそこそこに一行は深い眠りに落ちていた。
 体力の残っている三名の舎人とねりが見張り役を志願した。嶋宮しまのみやはなおも中大兄皇子なかのおおえのみこの勢力範囲である。いつ何処から飛鳥の兵が攻めてくるか分からない。この舎人とねりの志願に大海人皇子おおあまのみこは心から感謝した。
「すまない。吾のために苦労をかけるな。」
 見張り役を志願した舎人とねり達に対して大海人皇子おおあまのみこが深々と頭を下げた。
 この大海人皇子おおあまのみこの言葉と態度に、舎人とねり達が数歩飛び下がって平伏した。
「勿体のうございます。皇子様のためとあらば、私どもは命を捨てても惜しくはございませぬ。」
「そう簡単に命は捨てるものではない。命は大切にせねばならぬ。」
 大海人皇子おおあまのみこは身分の上下に分け隔てなく、誰にでも気さくに声をかけることで有名だった。そのため、身分の低い者からの信望が特に厚かったのは言うまでも無いだろう。
 三名の舎人とねり達のお蔭で、大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこを始めとして、その他の舎人とねり采女うねめ達もぐっすりと睡眠を取ることができた。

671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月二十日 早暁
 大海人皇子おおあまのみこの一行は、夜明けとともに吉野宮を目指して行動を開始した。
 飛鳥から吉野へは、狭くて急峻な芋峠いもとうげの道を越えなくてはならない。旧暦の十月と言えば現在の十二月に当る。吉野の冬は冷たく厳しい。
 吹き荒ぶ雪が一行の足並みを鈍らせていた。しかし、この雪が中大兄皇子なかのおおえのみこの追っ手をまくには好都合であった。
 嶋宮しまのみやを出てから見え隠れに武装した数名の兵の姿が、一行の後を追尾していた。あまりの重装備と寒さに耐えかねたのか、いつしか兵の姿は見えなくなっていた。
 吉野に行かなくてはならないという大海人皇子おおあまのみこ達の気持ちと、何故こんなに苦労してまで尾行をしなくてはいけないのかという間者かんじゃとの気持ちの違いであったのだろう。
 雪をいただく吉野の山並みが連なる。雪の交じった雨は、止むこともなく一行に容赦なく降り続けていた。そんな折、草壁皇子くさかべのみこ讃良皇女さららのひめみこにぽつりと言った。
「お母様、寒い。どこまで行くの? もう帰ろうよ。」
 讃良皇女さららのひめみこは哀しげな目をして草壁皇子くさかべのみこを見つめると、黙って自分の毛皮を一枚脱ぐと、草壁皇子くさかべのみこに着せながら思った。
(この子はもう十歳になろうとしているのに、自分の置かれた状況を何も理解していない。私が十歳の時には父に祖父を殺され、それが元でも亡くした。そして、自分が置かれた状況を全て把握して、生きることに執着したというのに。育て方を誤ったか・・・)
吉野の宮に行くのよ。川がとっても綺麗で素敵な所よ。」
「こんなに寒いのに、川なんて嫌だよ。暖かい都に帰りたい。」
 讃良皇女さららのひめみこは閉口してしまった。この時の状況を歌った大海人皇子おおあまのみこの歌が万葉集に残っている。

  三吉野之 耳吾嶺尓 時無會 雪者落家留 間無會 雨者落等言
  其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎

『吉野の山を越える間じゅう降っていた雨に、雪も混ざってきた。このみぞれはいつまでも止みそうにもない。都からこんなに遠く離れてしまった私の思いをかき乱すように』
 大津宮の脱出に伴って大海人皇子おおあまのみこは、讃良皇女さららのひめみことまだ幼い草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ、それに舎人とねり達と女官、采女うねめ達に苦行を背負わせている。これほどまでにして皆に苦行を強いて良いものだろうか。
 吉野に入ったからといって、そこが安住の地とは必ずしも言えない。
 わずか二十数年前、今の大海人皇子おおあまのみこ同様に皇位に就くことを求められた古人大兄皇子ふるひとおおえのみこは、身の危険を感じて武装をすべて解き、出家して吉野宮に隠匿いんとくした。しかし、吉備笠臣垂による謀叛の告発を根拠に、中大兄皇子なかのおおえのみこが放った僅か四十人ほどの兵に攻められて妃、子供まですべてを死においやられている。
 自分達の今の状況は、古人大兄皇子ふるひとおおえのみこと何も変わってはいない。ただ違っているのは、今の中大兄皇子なかのおおえのみこは、かつての血気盛んな中大兄皇子なかのおおえのみこではなく、病床にあるということだけだ。しかし、いくら病床にあると言っても、『大海人を討て』と命令するだけで討伐隊が派遣されてしまう。
 そのような不安と、今の過酷な状況を憂う思いがこの歌には込められている。
 大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこを顧みた。讃良皇女さららのひめみこの表情には苦痛というものを微塵も感じさせず、むしろ微笑みを浮かべていた。大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこの笑みを不信に思い、尋ねてみた。
「讃良、辛くないのか?」
 大海人皇子おおあまのみこの問い掛けに讃良皇女さららのひめみこはにこりと微笑むと元気良く答えた。
「辛いわ。寒いし、これから先も不安で一杯だし。草壁くさかべも脅えてるし。でも、あなたと一緒だから。これからもずっとあなたと一緒だから。だから今は満足。今の私は満ち足りています。今が最悪の時だとしたら、これからは良いことが待っているということでしょ。」
 そう言うと讃良は満面の笑顔を見せた。
 この讃良皇女さららのひめみこの言葉と笑顔が、随行の舎人とねり達には最高の励みとなった。最も信頼する皇子、そして頼もしい皇女と行動を共にしている。しかも、これ以上悪い状況は無い。この状況を脱出すれば必ず良いことが待っている。そう思うだけで舎人とねり、女官、采女うねめ達の歩みに力強さが感じられた。
 讃良皇女さららのひめみこの言葉に力づけられたのは舎人とねり達ばかりではなかった。大海人皇子おおあまのみこもまた讃良皇女さららのひめみこの言葉に励まされ、これからを見つめ直していた。
 讃良皇女さららのひめみこが笑みを浮かべていた本当の理由は、姉の大田皇女おおたのひめみこを始めとして数多くいる大海人皇子おおあまのみこの妃達の中で、ただ一人、自分だけが大海人皇子おおあまのみこと行動を共にしていることであった。今だけは、そしてこれからは大海人皇子おおあまのみこを独り占めにできる。そう思うだけでも、讃良皇女さららのひめみこは頬が緩むのを感じていた。
 讃良皇女さららのひめみこには大海人皇子おおあまのみこの心に気づいていた。大海人皇子おおあまのみこが本当に愛しているのは自分ではなく、大田皇女おおたのひめみこであることを。大田皇女おおたのひめみこ讃良皇女さららのひめみことは同母姉ではあるが、性格がまったく違っていた。勝気な讃良皇女さららのひめみことは異なり、大田皇女おおたのひめみこは奥ゆかしく、内向的な性格であった。大田皇女おおたのひめみこの傍にいる間、大海人皇子おおあまのみこは気を緩めていたらしい。大田皇女おおたのひめみこと話をする端々に、讃良皇女さららのひめみこはそのような気配を感じ取っていた。
 今ここに、大田皇女おおたのひめみこはいない。数多くいる大海人皇子おおあまのみこの妃の中で、この苦難の旅に随行しているのは自分だけである。しかし、苦難の旅であるからこそ大海人皇子おおあまのみこは自分を伴ったことも知っている。それでも、讃良皇女さららのひめみこは今ここに自分がいることだけで満足していた。

 一行はようやく吉野宮に到着した。「宮」と言っても前の大王、斉明天皇さいめいてんのうが改築して以来、十五年間も放置されていたため、建物も宮庭も荒れ放題で、まさに廃寺そのものの様相を呈していた。
 その荒れた建物を見て一人の女官が降り積もる雪の上に泣き伏した。
「ここに皇子様、皇女様がお住まいになられるとは、嘆かわしい・・・」
 大海人皇子おおあまのみこが馬から降り、泣き伏す采女うねめにゆっくりと近寄ると、傍らにしゃがんで女官の背に手を差し伸べて言った。
「泣くでない。僧一人が隠匿するに、立派な宮殿や寺院などは必要でない。このような荒れ寺こそ、分相応というものじゃ。それに、そなた達がおれば他には何もいらぬ。」
 緩やかに微笑む大海人皇子おおあまのみこの顔を見つめた女官は、更に大きな声で泣き伏した。しかし、今流している涙は歎きの涙ではなく、感激の涙であった。
「さあ、みんな。歎いていても何も始まらないわ。今からここが私達が住む家なのですから。舎人とねり達は宮の片づけを。采女うねめ達は夕餉ゆうげの仕度を始めましょう。」
 讃良皇女さららのひめみこがその場を仕切り、きびきびと命令を下した。讃良皇女さららのひめみこの言葉を合図に、舎人とねり采女うねめもばたばたと動き出した。泣き伏していた女官も涙を拭い、大海人皇子おおあまのみこに一礼すると他の采女うねめ達の所に走り去って行った。

 大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこが宮に入ると、そこは想像以上に荒れ果てていた。壁は剥がれ落ち、屋根には穴が開いて雨が降り込んで床を腐食させていた。その有様を見ていた舎人とねりの一人が歎くように言った。
「皇子様、これではとても住める状態ではありませぬ。いかがいたしましょう。」
「他の使わない棟を取り壊して修復の材料としよう。皆が雨露を凌げるように、最善を尽くしてはくれまいか。」
 舎人とねりは数名の舎人とねりを引き連れて破損個所を調べ、修理に使用できる材料を探しに行った。舎人とねりと入れ替わりに采女うねめが哀しげな表情で訴えてきた。
「皇女様、地元の民が差し入れてくれた僅かの木の実しか食べ物がありませぬ。」
「無理も無いわね。季節も冬だし。何も食べ物を持って来ていないし。その木の実で汁でも作ってちょうだい。」
 この夜、皆が口にしたのはこの木の実の汁一杯だけであった。木の実があまりにも少なく、舎人とねりの中には遠慮して汁だけで我慢した者もいた。采女うねめの中には、この貧しい夕餉に涙する者もいた。

671年(天智天皇てんじてんのう十年)十月二十一日
 大海人皇子おおあまのみこ舎人とねりと女官、采女うねめ達を一室に集めた。
「これから吾はこの吉野宮で仏の道を修めようと思う。吾と共に仏の道を修めようと思う者だけに残って貰いたい。官人として身を立てたい者は大津宮に帰ることを許す。」
 大海人皇子おおあまのみこの言葉に、舎人とねり達も采女うねめ達も黙って頭を垂れていたが、一人の舎人とねりがすっくと立ち上がって大海人皇子おおあまのみこに問うた。
「皇子様、皇子様は本当に世を捨てて仏門に入られるのありますか? 私は、必ず皇子様は天下を治めになられると信じてここまで着いてまいりました。それなのに皇子様は・・・」
 舎人とねりは立ったままで泣き出した。大海人皇子おおあまのみこはその舎人とねりを見つめ、しばらくしてから口を開いた。
「吾は仏門に入るために頭を丸めてここまでやってきた。それは大津宮を出る時にも皆に伝えたはずじゃ。吾に他意は無い。」
 きっぱりと言い切った大海人皇子おおあまのみこの言葉に、舎人とねりは泣きながら飛び出して行った。
 讃良皇女さららのひめみこは、走り去る舎人とねりの後ろ姿を見守りながら心の中で呟いた。
(許して。今はまだ本当のことは言えない。ここに集まっている者達の中には必ず近江朝の間者かんじゃがいるはず。だから、今は・・・)
 いざという時のために、一人でも多くの舎人とねりを温存しておきたい。しかし、ここでは食糧の入手すらおぼつかない。それを思うと、人数は少ない方がいい。それに、本当に信頼できる者達を厳選できる格好の状況でもある。讃良皇女さららのひめみこは両の手を膝の上でぐっと握り締めて黙っているいるしかなかった。
「吾に許しを得る必要は無い。都への帰還を断る必要も無い。大津宮に帰りたいと思えば、何時でも好きな時に帰ってくれれば良い。」
 解散してからしばらくして、讃良皇女さららのひめみこの元に二人の采女うねめが恐る恐る申し訳なさそうに近寄り、嘆願した。
「皇女様、私達は皇女様のためにいつまでも尽くしたいと思っております。しかし、大津宮に父も母も残して参りました。その父と母の事が心配で・・・」
 言葉の裾を濁す采女うねめ達に、讃良皇女さららのひめみこは笑みを持って答えた。
「悪かったわね、こんな所まで引き連れて来て。大津宮に戻ってご両親を大事にしてください。」
 二人の采女うねめは涙を流しながらその場を辞し、吉野宮から姿を消した。去り行く采女うねめの後姿を見つめながら讃良皇女さららのひめみこは呟いていた。
「あの者達は良く尽くしてくれたのに。都を遠く離れてしまえば無理も無いこと。」
 舎人とねりの中には、大海人皇子おおあまのみこにただ一言、
「皇子様、申し訳ございませぬ。」
 とだけ言って、涙しながら吉野宮から姿を消した者もいた。
 大海人皇子おおあまのみこ讃良皇女さららのひめみこも、大津宮に戻った彼等、彼女等をとがめることはなかった。それでも多くの者達が献身的な忠誠を尽くしてくれていた。
 夜になると宮を抜け出して不信な行動をしている者がいるとの報告があった。恐らく、中大兄皇子なかのおおえのみこの間者が大津宮の使者に逐一宮の状況を報告しているのであろう。大海人皇子おおあまのみこは数名の舎人とねりに交代で見張るように命令した。
 そしてある日のこと、舎人とねりを装う間者は、宮を抜け出したまま戻って来なかったとの報告を受けた。大海人皇子おおあまのみこは見張り役の舎人とねり達に礼を言った。
「ご苦労であった。礼を言うぞ。間者も食べ物が少ないうえに、夜毎の行動に疲れ果てたのであろう。あのままでは大津宮には帰れまい。逃亡でも図ったのであろう。」
 間者がいなくなったとはいえ、大海人皇子おおあまのみこの心は休まらなかった。間者が一人とは限らないし、宮の周辺に間者が潜んでいないとも限らない。なおも大海人皇子おおあまのみこの仏門修業は継続されていた。
 大海人皇子おおあまのみこから大津宮に帰っても良いとの許しが出た日から、舎人とねり采女うねめが、一人減り、二人減り。一月ほどの間に半数以上の者達が姿を消していた。
 食糧は空腹を満たすほど充足ではない。しかし、新羅しらぎの血を引く讃良皇女さららのひめみこを慕って伊勢を始めとして東国の新羅しらぎ人が、讃良皇女さららのひめみこが吉野宮に入ってから絶えることなく密かに食糧を送り届けてくれていた。
 これから八ヶ月間に渡って、大海人皇子おおあまのみこの一行は吉野宮で質素な生活を続けるのであった。そして、この吉野宮で天智天皇てんじてんのう崩御ほうぎょを聞くこととなった。