671年(天智天皇十年)十月十七日
この時期の大津京にしては珍しく比叡降ろしの冷たい風も無く、柔らかな日差しが内裏の奥にまで刺し込み、穏やかな冬の朝を迎えていた。しかし、中大兄皇子の病状が悪化した大津宮には重く沈んだ空気が流れていた。
病に犯され、時折の激痛と嘔吐に襲われ、薄れる意識の中で中大兄皇子はなおも成すべき仕事に胸を悩ませていた。
(朕の命もそう長くは持つまい。朕が逝く前に次の大王を決めておかねばならぬ。)
中大兄皇子の意識が戻っていないと思い込んでいる舎人達が、蔀の向こう側で囁きあっていた。
「次の大王はどなたになるのであろうのう。」
「大王はご子息の大友皇子様を目の中に入れても痛くないほど可愛がっておられる。それを思うと、大王は大友皇子様に皇位をお譲りになるのではなかろうか。」
「いやしかし、大友皇子様の母君は伊賀宅子娘様。出自がちょっと・・・」
「とすれば、大海人皇子様しかおられぬであろう。大海人皇子様には大王と二分するほどの人気を集めておられる。」
「いや、人気のことを思えば大海人皇子様のほうがはるかに人気があるであろう。なにしろあの方は身分の隔たりなく誰にでも快く声をかけてくださるからのお。それに東宮様じゃ。」
「そうだなぁ。大海人皇子様から物を頼まれれば喜んでお仕えしたくなる。我も仕えるとしたら大海人皇子様のほうが良いなぁ。」
ここで中大兄皇子の枕元に控えていた蘇我赤兄が血相を変えて飛び出してきて、控えめな声で舎人をたしなめた。
「ぬしら、大王がお聞きだぞ。言葉を謹め!」
二人はひれ伏すとその場を足早に去った。
ぼんやりと天井を見つめながら二人の言葉を聞いていた中大兄皇子は、ゆっくりと瞼を閉じて自問した。
(大友、朕はお前に大王の座を譲りたい。しかし、近江令では皇族でも豪族の娘でもない、采女であるお前の母親の出自がそれを許さない。それでも朕は大友に大王位を譲りたい。)
中大兄皇子はカッと目を開き、宿直役の蘇賀臣安麻呂に命じた。
「大海人を呼べ。大事な話がある。」
蘇賀臣安麻呂は中大兄皇子の枕元ににじりよると尋ねた。
「大王、譲位の件はお体が快復してからでも・・・」
中大兄皇子はゆっくりと蘇賀臣安麻呂に顔を向けると静かに、しかし力強く言った。
「大海人を呼べ。朕は大海人に譲位の意を表すが、もしも大海人が譲位を受けた場合、亡き者とせよ。」
蘇賀臣安麻呂の表情が一変した。
「大海人皇子様を・・・誅するのでございますか?」
蘇我臣安麻呂は中大兄皇子に問い返した。
「うむ。大海人さえ亡き者にしてしまえば、誰もが次の大王位は大友と認めるであろう。」
しかし、この一言が大友皇子と大海人皇子の運命を大きく変えてしまうことになるとは、中大兄皇子は夢にも思わなかった。いや、正常な体調ならば側近の中にも大海人皇子に加担する者がいると警戒したであろうが、常に襲いくる激痛に平常心を失っていた中大兄皇子は、不用意にも大海人皇子が信頼を置いている蘇我臣安麻呂に重大な意思表示をしてしまった。
蘇我臣安麻呂は一礼をするとすぐさま大海人皇子の居所である東宮に馬を駆けさせた。
東宮に駆けつけると、馬の手綱を舎人に投げ渡し、大海人皇子の居場所を問うた。
「皇子様は裏庭で静養されておられます。ただいま、蘇賀臣安麻呂様が参られましたことをお伝え・・・」
舎人の言葉が終るのを待たずに蘇賀臣安麻呂は邸の裏へと歩を進めようとした。それを見た舎人は慌てて蘇賀臣安麻呂の前に跪き、
「安麻呂様、しばらくお待ちを。安麻呂様のお越しを伝えぬでは、我ら舎人がお叱りを受けます。しばしお待ちを。」
蘇賀臣安麻呂は必死に止める舎人の顔を見下ろし、
「そうであったの。主に事を伝えるはそちらの役目。はよう伝えて参れ。」
舎人は一礼をすると邸の裏へと駆け出した。広大な東宮の中は静寂そのもので、小鳥の囀りが僅かに聞こえるだけであった。しかし、小鳥の囀りに混じって鳥の声とは思えぬ太く短く風を切る音が微かに聞こえてきた。
(この音は・・・弓を射る音か?)
しばらくして舎人が蘇賀臣安麻呂を迎えに来た。
蘇賀臣安麻呂が足早に邸の裏に回ると、大海人皇子は縁側でくつろいでいた。その姿は軽装で血色の良い顔色はとても病人とは思えなかった。しかも額にはうっすらと汗が浮いていた。
庭を眺めると弓の的が置かれていたが、弓も矢も見当たらなかった。舎人が仕舞ってしまったのだろう。
「皇子様はお病気だと伺っておりましたが、まさか」
「おお、吾は確かに病気じゃ。病気ゆえに病に負けぬよう体を鍛えておる。」
「では、やはり皇子様は・・・」
蘇賀臣安麻呂の表情が緩み、目頭に熱いものがこみ上げてきた。
「で、安麻呂。今日は何用じゃ。」
蘇賀臣安麻呂が我に返り、大津宮で聞いた中大兄皇子からの話一部始終を伝えた。
「皇子様、大王が皇子様に譲位の意をお伝えなさろうとしております。し、しかし、皇子様が譲位を受けられた場合は殺せとの命が。」
大海人皇子は、一瞬表情を曇らせたが、すぐさま平静に戻り、笑みを浮かべてさらりと答えた。
「安麻呂、ご苦労であった。そちの忠心は肝に命じておくぞ。」
蘇賀臣安麻呂は、自分が告げたそれだけの言葉に大海人が全てを一瞬のうちに理解し、さらにはその後の対応までをも判断したことに感嘆した。そして、大海人皇子の機転の速さ、度量の大きさに打たれ、自分がこれからも着いて行くのはこの人しかいないと心に決めていた。
大海人皇子は中大兄皇子の枕元にあぐらをかき、眠っているかのように見える中大兄皇子の表情に少なからず驚いた。
(しばらくお顔を見ないうちに、何と憔悴されたことか・・・)
中大兄皇子の顔色は土気色となり、土偶を思わせた。眼窩は窪み、頬の肉は削げ落ちており、微かに呼吸をしている胸の上下が無ければ死人と見間違うほどであった。そのような中大兄皇子に幾分を顔を近づけて、大海人皇子は言葉を発した。
「大海人、ただいま参りました。」
軽く声を出したつもりではあったが、元来地声が大きいので、その声は宮中に響き渡っていた。
中大兄皇子は一瞬顔をしかめると、うっすらと目を開け、大海人皇子の顔を見つめてから、苦しそうに言葉を発した。
「大海人か。ご苦労である。病に伏していると聞いておったが、相変わらず力強い声であるのお。」
大海人皇子は病のためと称して出仕を拒んでいた。中大兄皇子が大友皇子を寵愛し、皇位を大友皇子に譲りたいと思う気持ちとは裏腹に、中大兄皇子が病に倒れると朝臣の人気が一同に自分に集中しているのを認識していた。このままでは自分は蘇我入鹿同様、抹殺されるかも知れぬという恐れを動物的な勘で感じ取り、抹殺から逃れるために、病と称して参議にも出仕せずに東宮で隠匿していた。
中大兄皇子の言葉には答えずに大海人皇子は声をかけた。
「ご加減はいかがですか。」
大海人皇子の問いに答えるかのように中大兄皇子は語りだした。
「朕の命も、そう長くは無い。そこで朕はお前に後事を託したいと思う。」
中大兄皇子はいきなり結論を持ち出した。
枕元に詰めていた直臣達の顔色が一瞬にして青ざめ、聞き耳を立てて大海人皇子の返事を待った。
大海人皇子が返事をするまでに僅か数秒ではあったが間が開いた。その数秒間を直臣達は永遠の時間のように長く感じていた。
大海人皇子は顔色一つ変えずに告げた。
「吾は病のため、参議にも出仕できずにおります。その吾が大王の業などとは荷が重過ぎます。願わくは大王の業は皇后倭姫にお任せになり、皇子の大友皇子を摂政として政治をお執りください。我は大王の病気平癒を祈願するため出家して吉野に赴きたいと思います。」
倭姫への譲位と、自分の身の振り方を一気に述べた大海人皇子の言葉に一座にどよめきが走った。
中大兄皇子は静かに目を伏せると小さく深呼吸してから呟いた。
「朕のためにしっかりと祈願を頼むぞ。」
その場にいた大友皇子は、大海人皇子の言葉に胸を撫で下ろした。
(大海人皇子が大王を辞退した。これで吾が政治の実権を握ることになるだろうが、大王には倭姫とは・・・。摂政の身では十市は吾に振り向いてはもらえぬ。しかし、父は吾を大王にと望んでおられる。)
大友皇子は、高市皇子に情を寄せていた十市皇女を、中大兄皇子の権力を借りて力ずくで自分の妃とした。
自分の母の出自の低さと、十市皇女の高貴さに、大友皇子は常に劣等感を感じていた。しかし、次期大王に最も有力とされる大海人皇子が、大王位を辞退して出家するということは、中大兄皇子が大友皇子に皇位に譲ると言えば、それだけで大友皇子が大王となれる。
大友皇子は、自分が日本の最高権力者になることを、心から望んでいた。最高権力者になることで、ようやく十市皇女と対等になれると思っていた。
大友皇子の喜ぶ気持ちとは裏腹に、中大兄皇子は大海人皇子の残した言葉を胸の内で反芻した。
(皇位は大友に譲らずに、倭姫に託せと。大友はその身分では無いと、最後の最後に釘を刺しおったわ。大海人が生きている限り、大友には大王位を渡さぬということか。)
大海人皇子は即座にその場を辞すると床几を持ち出し、内裏だいりの仏殿の南に出て声高に言った。
「吾は出家する。誰か、吾の髪を剃れ。」
大海人皇子の髪が剃り落とされて行くのを見て、大友皇子は明るい将来だけを思い描いていた。
大津宮を辞する前に、大海人皇子は大友皇子の側にかしずいている十市皇女を見つけると、大友皇子に言った。
「大友皇子、父娘として十市と今生の別れをしたい。人払いをお願いできるかな。」
大海人皇子のいきなりの申し出に、大友皇子は言葉を詰まらせながら答えた。
「は、はい。それはもちろんです。」
(大王となって政務を掌握するにはあまりにも小心すぎる。やはり、母の出自の低さがこの男の自信をも喪失させているのか。勉学では誰にも引けを取らぬ努力者ではあるが、中大兄皇子の息子にしては心根が弱すぎる。)
大友皇子に対する大海人皇子の判断は、かなり辛辣なものであった。しかしその思いは、近江朝を支える官人達も同じ思いを抱いていたのは確かである。
大海人皇子は、宮中でも琵琶湖が一望できる立ち木の無い所を人払いの場所に選んだ。それは、中大兄皇子の間者が二人の話を盗み聞き出来ないように、隠れる場所が無い所を選んでのことであった。
先に口を開いたのは十市皇女であった。
「お父様、本当に吉野で隠棲なさるのですか?」
「十市よ、高市と大津に知らせてはくれぬか。」
十市皇女は、二人の息子達に、父が出家して吉野に赴く事を伝えるものとばかり思っていた。しかし、大海人皇子は重大な任務を十市皇女に告げた。
「二人には時を待てと。」
「えっ?! それではお父様は・・・」
驚く十市皇女に大海人皇子が制した。
「しっ 声が大きい。ここで怪しまれてはすべてが無に帰す。」
「はい。申し訳ございません。」
十市皇女が落ち着くのを見計らって大海人皇子は話を続けた。
「本来ならば、高市と大津は連れて行きたいが、二人を連れて出たのでは出家という理由が立たなくなるのでな。」
十市皇女は連れて行きたい者の中に自分が入っていなかったことに少なからず落胆した。その表情を見てとった大海人皇子が、十市皇女の心を汲んで語った。
「勿論、十市を連れて行かぬのは吾も辛い。しかし、十市は大友皇子の妃。近江朝の動きを最も良くつかめる立場にある。近江朝に残り、吾を、父を助けてはくれまいか。」
その言葉を聞き、十市皇女の顔に明るさが戻った。
「十市は、父上のお力になるよう務めます。」
「どのくらい先になるか分からぬが、必ず時が来る。それまで二人には大津宮に留まり、吾の命を待てと。吾の舎人を使えば怪しまれる。十市なら怪しまれずに二人に使いを出せるであろう。」
「はい。必ずお二人の皇子様に連絡を取りまする。」
父、大海人皇子の役に立てることを喜ぶあまり、十市皇女の顔がほころんでいた。
「十市、父と今生の別れの時に、笑顔はまずいぞ。」
苦笑いを浮かべて大海人皇子が十市皇女に囁く。
「あ、はい。申し訳ありませぬ。」
それでも十市皇女には笑みを押さえることができず、うつむいたがその肩が震えていた。
二人は立ち上がると、大海人皇子は十市皇女の肩に手をかけ、
「十市も息災に過ごせよ。」と、声をかけた。
十市皇女は、衣の袖で顔を覆い、
「お父様もお体にお気をつけてくださいませ。」
と、言いつつ肩を振るわせた。今生の別れの演技である。
二人の別れ際を目の当たりにして、大友皇子の舎人達が嗚咽を漏らした。大友皇子自身、目頭が熱くなるのを覚えていた。
「大海人皇子様のお帰り」
その言葉に、それまで大海人皇子の身を案じていた讃良皇女が奥殿から走り出してきた。
大海人皇子が中大兄皇子の元に呼び出され、もしやすると二度と戻ってこれないのではないか。二度と大海人皇子の顔は見られないのではないかと危惧していた。無事に帰還することを一心に祈願していた讃良皇女であったが、大海人皇子が帰還したことに安堵した。それにしても玄関先のざわめきが気になる。
このざわめきは大海人皇子の帰還を喜ぶでもなく、また、不幸の帰還を表すものでもない。舎人達の言葉には嘆きの言葉と、喜びの言葉が入り乱れている。讃良皇女の不安に鼓動が高鳴り、玄関に飛び出した。
玄関に立つ大海人皇子の姿を見て讃良皇女は呆然とした。
「あなた、そのお姿は・・・」
玄関先に立ち尽くす大海人皇子に讃良皇女は一言声を発すると、後の言葉を飲み込んでしまった。
髪は剃られ、それまでたくわえていた髭も綺麗に剃り落とされた大海人皇子の姿は、どこから見ても僧侶そのままであった。
法師姿の大海人皇子が厳しい眼差しで讃良皇女を見つめて言った。
「讃良、直ちに吉野に出立する。支度をせい。」
讃良皇女には大海人皇子の裏の声が聞こえていた。(大津を脱出するぞ!)と。
「は、はい。」
讃良皇女は大海人皇子のその一言で全てを理解し、旅の荷造りを始めた。
(今度の旅は行楽では無い。この大津宮を逃げ出すのだ。大海人様の命を守るために)
無事に大津宮を脱出できるか。その一事がどれだけ大変なことか。讃良皇女は肝に命じていた。
(父、中大兄は蘇我入鹿、蝦夷親子を抹殺し、私の祖父を抹殺し、今度は自分の実の弟であり、私の夫である大海人を抹殺しようとしている。何としてでも大海人をこの大津より脱出させねば)
中大兄皇子が築いたこの大津宮から脱出することは至難の技である。到る所に間者が潜んでおり、大海人皇子の動きを刻一刻と中大兄皇子に報告しているに違いない。その包囲網からの脱出は、寸暇を争うものであることは火を見るより明らかであった。
大海人皇子を脱出させる。その思いだけで一心の讃良皇女は、一刻も早く吉野に到達するため、旅支度を軽装にすることに専念した。自分の着物は二の次にし、大海人皇子と息子の草壁皇子の衣装だけを詰めるように采女達に支持をしていた。自分が身重であることも忘れて。
大海人皇子の行動は早かった。讃良に旅立ちの準備を命じると、舎人達には次の指示を下していた。
「邸内にあるすべての武器・兵器を集めて兵部省に奉納せよ。」
「大海人皇子様、武器を手放してしまわれるのですか。」
舎人達は、大津宮からの吉野に下るまでに、中大兄皇子が放つであろう追っ手と一戦を交えるためには武器が必要だ。しかし、大海人皇子は、その大切な武器をすべて兵部省に奉納せよと命じた。
「吾は僧になったのじゃ。戦うための兵器など必要では無いであろう。むしろ、武器を持って吉野に向かえば、謀叛の準備と思われてもしかたない。吾も大王に弓矢を射ようなどとは心の底からも思っておらぬ。」
穏やかな表情を浮かべて語る大海人皇子に、舎人達は一抹の不安を抱いた。大津宮を脱出するや否や、中大兄皇子が追っ手を放つのは十中八九間違いない。
「僧が経を読むのに、弓も矢もいらぬであろう。わっはっはっ。」
快濶な笑い声を残し、唖然とする舎人達を残して大海人皇子は奥へと入って行った。
舎人達は、これまで大海人皇子を信じてきた。しかし、ここに到って大海人皇子は本当に出家し、俗世間から縁を切ってしまうらしい。舎人達の不安がつのる。一人の舎人が不穏な空気をかき消すかのように言った。
「あの大海人様の明るさはどうだ。何か策を練っておられるに違いない。」
この舎人の一言に、他の舎人達も同調した。切羽詰った状況においても快濶さを忘れない大海人皇子に、舎人達はこれからも大海人皇子を信じて行こうと心に決め、蔵から武器・兵器をすべて運び出し、奉納のための荷造りを始めた。
荷造りされた武器・兵器は、即座に兵部省の蔵に奉納された。
その夜、十市皇女は高市皇子と大津皇子に使いを出した。その行動をいぶかしんだ大友皇子が十市皇女に問い質した。
「今の使いはどこに向けて使わせたのだ?」
十市皇女は大友皇子の顔をきっと見つめて答えた。
「高市皇子様と大津皇子様に、お父様が吉野に向かわれたことをお知らせしたまでのこと。」
「内容はそれだけか?」
「お疑いですか? お疑いでしたら、舎人を捕らえて拷問なさればいかがですか。」
十市皇女の冷たい態度に、大友皇子もそれ以上詰問することが出来ず、使いの件は不問とした。
しかし、大友皇子の内心には、焦りとも苛立ちとも言えない複雑な感情が渦巻いていた。
十市皇女からの使いに、二人の皇子は当然の如く人払いを行い、舎人が語る言葉に耳を傾けた。
何事も行動の早い高市皇子は、父、大海人皇子が大津宮を出るや否や、安全な場所まで護衛の兵を率いて見送るつもりでいた。しかし、十市皇女の言伝から大海人皇子の意思を汲み取り、行動を起こしたい気持ちを静かに押し殺していた。
671年(天智天皇十年)十月十八日
吹田生磐が、中大兄皇子よりの贈り物として、大海人皇子に立派な袈裟を持参した。それを手にした大海人皇子は、しばらく袈裟を見つめて何事かを考えていたかと思うと、瞬時に表情を明るくし、舎人たちにまで聞こえるように讃良皇女に言った。
「讃良、大王のお許しが出たぞ。この袈裟が何よりの証拠じゃ。吉野で大王の病平癒を心から祈願しようぞ。」
「大海人様、吉野に行きましょう。大王様の病平癒を祈願するために。」
讃良皇女は即座に答えたが、讃良皇女は感ずいていた。それが大海人皇子の芝居であることを。側近の者達を安心させるための芝居であり、更には中大兄皇子が放った間者が舎人の中に潜んでいるはず。その者に出家すること以外に他意が無いことを思わせるために。
讃良皇女は大海人皇子の即興の芝居に相槌を打ったのであった。
中大兄皇子は大海人皇子に袈裟を送った。しかし、その真意は定かではない。心静かに吉野での出家を願ったものなのか、袈裟を着るか否かで最後に大海人皇子の意思を確認しようとしたのか。
大海人皇子は、中大兄皇子から送られた袈裟の袖に腕を通した。
中大兄皇子が放った間者は、中大兄皇子のもとに帰り、大海人皇子が中大兄皇子から送られた袈裟を着、出家することに以外に他意が無いことを報告していた。
しかし、中大兄皇子はその報告にうなずいただけで、表情は更に険しいものとなっていた。
(鎌足よ、大友にそちのような策師がおればのお。大友では質・実共に大海人には適わぬ。大友を即位させたとしても、大海人はいつの日か必ず大友を討ち、大王になるであろう。今のうちに大海人を討つか。しかし・・・)
思考が中大兄皇子の病状に触れたのか、中大兄皇子はそのまま意識を失ってしまった。
671年(天智天皇十年)十月十九日
胸の上に圧迫感を感じ、誰かが遠くから呼んでいるのが聞こえてきた。
「中大兄よ。」
「われは誰じゃ。」
「もはや吾の声も忘れたか。」
「ふん。入鹿めが今頃、何の用じゃ。」
「中大兄よ。われの強がりも今のうちじゃ。われもいよいよ吾らと同じ世界に来るか。待っておるぞ。ふっふっふっ」
「入鹿めが。地獄の業火に焼かれたのでは無かったか。」
「たわけめ! 地獄の業火に焼かれるのはわれのほうじゃ。吾を騙し討ちにしたばかりでなく、古人大兄皇子をも誣告で殺し、それが故に己が嬪の越智娘を狂い死にさせ、挙句の果てには狂気を装ってまで生に執着した有馬皇子をも死に追いやった。」
「何を申すか。古人大兄も、有馬も、謀反を企んでおったため誅したのじゃ。越智はその犠牲になったまでのこと。」
「われが図ったのであろう。古人大兄皇子も、有馬皇子も、その存在が恐ろしくなって殺した。越智娘の気が触れたのは予想外と。」
「黙れ! 奴らは吾に剣を向けたのだ。」
「ふふふ われは、その者達の剣を見たのか? 剣を見る前に恐ろしくなって、実権を握っていることを良いことにして殺したのであろう。吾を殺したのと同じように。」
「違う。それは違う! 確かに奴らは・・・ 入鹿よ。われを誅したのは、われは大王でもないのに、大王をないがしろにしたからじゃ。」
「わっはっはっはっ 吾が大王をないがしろにした? われはいまだにひよこよのお。吾は大王より実権を授かっていた。大王は吾に政治の全てを任せると言われたのじゃ。」
「嘘を申すな!」
「嘘だと思うならこちらに来て、直々に皇極大王に問い質すがよい。わっはっはっはっ」
「入鹿め!」
「大王、大王! お気を確かに!」
中大兄皇子が目を開けると、そこには坊主頭に自分が贈った袈裟を着た大海人皇子が顔を覗き込んでいた。
「大海人か。」
「ご気分はいかがですか。かなりうなされていたようですが。」
中大兄皇子は小さく息を吐き出しすと静かに答えた。
「うむ。今後の事を考えておった。」
そう軽く答える割には額に噴出した汗が尋常ではないことを物語っている。
「病を押してまでの大王のご業。敬服いたしまする。」
中大兄皇子は、薄目を開けて大海人皇子を見た。その姿は頭を丸め、自分が贈った袈裟をすでに長年もの間に渡って着込んだかのように違和感を感じさせない。どこから見ても僧侶そのままの出で立ちであった。
「大海人よ。吾の病平癒祈願をしっかりと頼むぞ。」
この言葉が本来の中大兄皇子の言葉か否か、大海人皇子には判断しかねたが、きっぱりと返事をした。
「吉野に赴き、大王の病平癒を一時もかかさずご祈願することを誓います。」
中大兄皇子は「うむ」と答えたきり、瞼を閉じてそれ以上言葉を発することは無かった。
額に汗を浮かべ、眉間に皺を寄せて眠る中大兄皇子の寝顔を覗き込みながら、大海人皇子は思った。
(病と闘いながらも策略を練っているのか。それとも・・・)
大海人皇子は、すっくと立ち上がり、眠る中大兄皇子に一礼をすると踵をかえして寝所を後にした。
大海人皇子が寝所を出ると、中大兄皇子は瞼を閉じたままで蘇我赤兄を呼んだ。
「赤兄よ、兵を整えて大海人の護衛としてつかせよ。」
「大王、大海人様をこのまま吉野に向かわせるのでありますか。」
「大海人が大津宮を出たならば、必ずや息子の高市皇子が兵を集めて大海人警護のために現れるであろう。その時には大海人共々、謀叛を企んでの徒党として皆葬れ。」
蘇我赤兄の顔が興奮のあまり、真っ赤になった。中大兄皇子は、同腹の実弟をも抹殺しようとしている。
「し、承知いたしました。すぐに兵を整えて大海人皇子様を追います。」
大海人皇子は大王の寝所を辞すると、朱雀門の外に出た。そこにはこれから吉野までを共にする草壁皇子と忍壁皇子、それに舎人達が馬を用意して待っていた。
人数は三十人余り。その中に、讃良皇女の姿が見えた。
「讃良、お前は都に残れと言ったであろう。吾は僧侶となる身。妃は不要じゃ。それに妃を伴っての吉野行きは、大王に対する謀叛と思われ兼ねない。」
そこへ蘇我赤兄と中臣連金が武装した兵を引き連れ、砂塵を巻き上げて来るのが見えた。
「あなた、ご覧なさい。彼らはあなたを抹殺しようと父が差し向けた兵達でしょう。あの砂塵の量からすると、武器を持たないこれだけの人数など、瞬時のうちに抹殺するほどの兵力と見えますが。」
大海人皇子も巻き上がる砂塵の量から兵力は四百から五百ほどと踏んでいた。
(たかだか三十人ほどの、しかも非武装の者達を襲うにしては、蘇我赤兄も奮発したものよ)
大海人皇子は苦笑いを浮かべながら兵達が歩み寄るのを見ていた。
「私の祖父、蘇我倉山田石川麻呂を無実と分かっていながら謀叛の疑いをかけて殺したほどの父です。あなたを殺すなど、造作も無いことでしょう。」
大海人皇子は討伐隊を見つめる讃良に向かって答えた。
「されば尚更のこと、危険な旅にお前を随行させるわけには行かぬ。」
讃良皇女は毅然と大海人皇子を見つめた。
「父の娘である私があなたと共にいれば、父の臣下である彼らには私に矢を射掛けることが出来ませぬ。あなたは身を守るためにも私を伴わなくてはなりませぬ。」
讃良皇女が不敵な笑みを浮かべた。
「お前は何と勝気な女人だ。お前の身にこの旅はきついぞ。」
大海人皇子の言葉に、讃良ははっとした。自分が身ごもっていることは、まだ大海人皇子には告げていない。生死の境を分けるこの時に、身ごもったことを大海人皇子に告げることは、大海人皇子の判断を曇らせる事になるかも知れないと思い、黙っていたのであった。
しかし、大海人皇子は讃良皇女の懐妊に気付いていたのかも知れない。しかし、讃良皇女はきっぱりと言い切った。
「私のことはご心配いりませぬ。決してあなたの足手まといにはなりませぬ。」
大海人皇子は讃良皇女の手を握り締めて言った。
「お前は吾の大切な妃じゃ。旅を共にしようぞ。」
その姿を遠目から今生の別れを惜しんでいると見ていた蘇我赤兄は、一行に追いつくと讃良皇女に向かって促すかのように言った。
「大海人皇子様は吾らがお見送り申します。」
馬上の人となった大海人皇子が答えた。
「僧侶となった吾に護衛など必要は無いが、大王の命であろう。大儀である。」
わずか三十数名の大海人皇子の一行を、四百名もの武装近衛兵が前後を固めた。
四百名を越える大行列に、周辺の民が何の行列かと農作業の手を止めて眺めやっていた。あまりもの大行列に、さも高名な人の行列かと思い、畦道に平伏す民もいたほどであった。
「讃良皇女はどこまで随行されるのであろうのお。」
痺れを切らした中臣金が蘇我赤兄に囁いた。
「うむ。大王の皇女がお側におられると、いかに吾らでも矢を射掛けることが出来ぬ。しかし、宮を遠く離れてまでも見送りはするまい。今しばらく様子を見ようぞ。」
苦々しい面持ちをしながら中臣金は蘇我赤兄の言葉に従った。中臣金が振り向くと、大海人皇子と讃良皇女が中むつまじく会話をしており、讃良皇女は大海人皇子を見送ろうとする素振りすら見せない。
(ひょっとしたら、讃良皇女はこのまま吉野まで大海人皇子と同行するのではないか。だとすれば妃を伴っての出家などありえない。謀叛の疑い有りとしてこの場で・・・)
中臣金は蘇我赤兄に相談を持ちかけた。
「妃を伴っての出家とはおかしいであろう。謀叛の意を表したとしてこの場で討ち取っては。」
蘇我赤兄も疑問を感じてはいたが、中大兄皇子から讃良皇女が随行していた場合の対処を聞いていなかった。中大兄皇子も、讃良皇女が随行するとは思っていなかったのかも知れない。
「待て。今、事を起こせば讃良皇女は必ず大海人皇子を庇うであろう。讃良皇女にもしもの事があっては、大王に申し開きが出来ぬ。」
大海人皇子は中臣金の様子を窺っていると、時折、道端の草陰に目配せをしているのが見えた。中臣金が目配せをした場所を横目で凝視すると、草陰には明らかに武装した兵が潜んでいた。
中臣金の言葉一つで、いつでも斬りかかる用意が出来ているのであろう。中にはすでに刀を抜き、「かかれ」の言葉を今や遅しと身構えている者も見える。
「わずか三十数名の者達を襲うのに、前後の兵だけでも十分であろうに。路傍の兵を入れると五百になるか」
ぽつりと語る大海人皇子の言葉に、讃良皇女が答えた。
「前後の兵があなたを取り巻くまでに、舎人達はあなたを庇って脇道に逃がします。それを阻止しようという魂胆でしょう。」
冷静に答える讃良皇女の表情には、自分がいる限りそのようなことは決してさせないという自身が満ちていた。
中臣金は策を練っていた。宇治に到着すれば人目もぐっと減る。そこで大海人皇子一行を殲滅してしまおうと。蘇我赤兄もその気になっていた。
念願の宇治に到着した時、そこにいた人物に蘇我赤兄と中臣金は目を見張った。大海人皇子も、その姿をここで見るとは思いもよらなかった。その者が大海人皇子の姿を遠くから認めると、手を振り、大声で叫んだ。
「父上、高市が最後の別れに参上しました。」
高市皇子が、僅かながら手兵を伴って宇治で大海人皇子の到着を待っていたのだ。
「高市めが。大海人とここで落ち合って謀叛の徒党を組もうという算段か。」
刀に手をかけ、今にも引き抜こうとする中臣金を蘇我赤兄が留めた。
「待て、策謀に富んだ高市のことだ。どこかに伏兵を忍ばせているやも知れん。周囲に気を配れ。」
中臣金は辺りを見渡したが、伏兵が潜んでいるような気配はない。四百の兵で一気にかかれば、ほんの数名の高市皇子の手勢など一ひねりで殲滅できる。しかし、戦術に長けている高市皇子のこと。どのような仕掛けを施してあるか、予想が出来なかった。
高市皇子は蘇我赤兄と中臣金に会釈すると、
「お役目、ご苦労。私もここから父上をお見送りいたします。」
そう言い終わるが早いか、馬を大海人皇子のもとに進めた。高市皇子の登場に、四百の兵達が「すわっ謀叛か」と勢い立った。
中臣金が刀の柄に手をかけて馬を二三歩前に進めたところで蘇我赤兄がそれを制した。
「待て。高市皇子が大海人皇子と行動を共にするようなら、それが謀叛の証拠だ。それを確認すれば讃良皇女も謀叛の同罪だ。斬れ。」
高市皇子は馬から下りると大海人皇子の馬の轡を取り、声をかけた。
「父上、お体を大切に。」
「うむ。見送り御苦労である。高市も息災に過ごせよ。」
馬上から大海人皇子が高市皇子に答える。互いの眼差しには言葉を必要としない血の繋がった親子の会話あった。
(父上からの連絡を都にてお待ちしております。)
(必ずやその時が来る。それまで自重せよ。)
中臣金の不穏な動きを察していた讃良皇女も、思わぬ高市皇子の登場に胸を撫で下ろしていた。
「高市、お見送りありがとう。私達が無事に吉野に辿り着けるよう、祈っててください。」
高市皇子に讃良皇女も馬上より安堵の表情で礼を言った。
「はい。無事に吉野に到達するまで、私が全身全霊をかけてお祈りいたします。讃良様もお元気で。」
その時、一条の風が吹き、辺りの草木を一斉に振るわせた。兵の中には高市皇子の伏兵が襲ってきたのかと勘違いし、逃げ腰になる者もいたくらいだった。
そのざわめきに中臣金が殺気を感じ、辺りを見渡すと、風は吹き去ったにも関わらず、辺り一面の草木が微かに揺れ動いていた。
(くっ この分では高市皇子が手配した兵は千名は下らないか。こちらの兵はすでに浮き足立っている。まともにやりあっては大海人の首を取るどころか、こっちの首が危ない。)
さすがに中臣金も行動を起こすのを控えざるを得なかった。しかも、高市皇子は大海人皇子と行動を共にするどころか、その場で大海人皇子の一行を見送った。
讃良皇女が大海人皇子に付き添っていたため、蘇我赤兄達はここまで手を下すことが出来なかった。そしてこの宇治で事を起こそうと図っていたが、高市皇子の突然の登場によってそれも阻止されてしまった。
吉野に向かう大海人皇子一行の後ろ姿を見やりながら、中臣金が舌打ちをしながら蘇我赤兄に言った。
「吾らの命は大海人を見送ることか?」
蘇我赤兄も大海人皇子の一行を見つめながら答えた。
「讃良皇女様が着いて行かれるとは、存外であったわ。高市皇子の出現もな。それと、いつの間に集めたのか。この大勢の伏兵たち。これだけの動きを察知できなかったとは、迂闊であったわ。」
「大海人め、命拾いをしたものよ。この金の剣の露と消えたものを。」
刀の柄を悔しげに叩きながら中臣金がいまいましく言った。
大海人皇子の一行が山道の彼方に姿を消そうとしていた。四百名もの兵達が、まんじりともせず消え行く大海人皇子の姿を見つめていた。
「虎に羽根をつけて放ったようなものぞ。」
兵の中の誰かが呟いた。
中臣金がその声の聞こえたあたりを見たが、誰が言ったのかは分からなかった。
(確かに。虎だけなら捕らえるのもたやすい。しかし、見張りも着けないうえに、逆に讃良皇女という策師を着けて放ってしまった。これから何が起きてもおかしくはない。)
去り行く大海人皇子の一行を見つめながら蘇我赤兄は思った。
「ふん。虎が何だ。冬の吉野で食糧が採れようか。食べ物が無ければ虎も飢えよう。」
中臣金が勝ち誇ったかのように声高に言うと、その顔には不敵な笑みを浮かべていた。
高市皇子が手勢を率いて大津京に向けて帰途についた。蘇我赤兄と中臣金は、高市皇子の姿が見えなくなるまで辺りの様子を窺っていたが、千名の伏兵どころか、誰一人として姿を現すことはなかった。
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