大和の歴史 争乱 系図

続日本紀 巻第三
大宝三年正月より慶雲四年六月まで

西暦 和 暦 月 日 出 来 事 備考
703 大宝三年 春正月一日 元日の朝賀をやめて,親王以下百官の人たちは,太上天皇の殯宮に拝礼した。
正月二日 正六位下の藤原房前を東海道に,従六位上の多治比真人三宅麻呂を東山道に,従七位上の高向朝臣大足を北陸道に,従七位下の波多真人余射を山陰道に,正八位上の穂積朝臣老を山陽道に,従七位上の小野朝臣馬養を何回道に,正七位上の大伴宿禰大沼田を西海道に遣わし,各道毎に録事一人をつけ,国司の治績を巡視して,冤罪を申告させ,不正を正させた。
正月五日 太上天皇のために,大安・薬師・元興・弘福の四寺で斎会を営んだ。
正月九日 新羅の国が,薩韓の金福護と級韓の金孝元らを遣わして,国王の喪を告げてきた。
この日,次のように制を下した。
主礼六名は,本来大舎人がその任に当っていたので,大舎人と同じように課役を免除する。
正月二十日 三品の刑部親王に詔して,太政官のことを統括させられた。
二月二十五日 次のように詔された。
従四位下の下毛野朝臣古麻呂ら四人は,律令の選定に関与したので,その功績を議すべきである。そこで古麻呂と従五位下の伊吉連博徳には,それぞれ田を十町と封戸五十戸宛を与える。贈正五位上の調忌寸老人の息子には田十町と封戸百戸を,従五位下の伊余部連馬養の子には田六町と封戸百戸を与える。ただし封戸は一代限りとし,田は子の代まで伝えることを許す。
二月四日 従七位下の茨田足嶋・衣縫造孔子にそれぞれ連の姓を賜った。
二月十七日 この日は太上天皇の七七にあたるので,使いを四大寺や四天王寺・山田寺など三十三の寺に遣わして斎会を営んだ。大宰府の史生を十名増員した。
三月七日 従四位下の下毛野朝臣古麻呂に功田二十町を賜った。
三月十日 四大寺に詔して,大般若経を読ませた。また百人を得度した。
三月十六日 次のように制を下した。
大宝令によると「国博士は国内か隣国から採用せよ」とあるが,従来の例を見るに,適当な人材はまれである。若し隣国にも適当な人材がない場合は,式部省に申告せよ。その後,式部省が詮議して,候補者を選び,さらに太政官の処分を乞え。また郡司となるのに堪える才能があるのに,その郡に三等以上の近親者が,すでに郡司としている場合は隣郡の郡司に任ずることを許す。
三月十七日 信濃・上野の二国に疫病が流行したので,薬を給して治療させた。
三月二十四日 議淵法師を僧正に任じた。
夏四月二日 太上天皇のために百カ日の斎会を御在所で設けた。
四月四日 従五位下の高麗の若光に王という姓を賜った。
四月二十日 従七位下の和気坂本に君の姓を賜った。
四月二十七日 安芸国の略めとられて奴婢とされた者,二百余人を良民として,本来の戸籍に戻し入れることを許した。
閏四月一日 全国に大赦した。新羅の使節を難波の館で饗応した。そして次のような詔を下した。
新羅国の使い薩キン金福護がたてまつった書面に,「私の主君は不幸にして去年の秋から病気になり,今年の春薨じて,永遠に聖朝にまみえないことになりました」といっている。朕が思うに,蕃夷の君主は異境にあるけれども,朕が庇護し育てるということでは,まことに愛児と同じである。寿命のつきる時のあるのは,人間界のきまりとはいえ,この知らせを聞いてから哀感が甚しい。使者を遣わし物を贈って弔うことにする。福護らははるばる大海を渡ってよく使いの勤めを果した。朕はその苦労をあわれんで,ねぎらいのため麻布と絹布を与えることとする。
この日,右大臣で従三位の阿部朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし,物を贈って弔わせた。
五月二日 金福護らが故国に帰った。正七位上の倉垣連子人の高祖父,根猪の子孫である正七位上の私小田・従七位上の私比都自・長嶋および彼らの兄弟たちが,みな良民であることを訴えて,雑戸の身分から解放された。
五月三日 漂着した新羅人を,福護らにつけて本国に返した。
五月九日 紀伊国の那賀郡と名草郡に,調の麻布を出すことをやめさせて,かわりに絹糸を献上させた。ただ有田・飯高・牟婁の三郡には布のかわりに銀を献上させた。
五月十六日 相模国に疫病がはやり,薬を給して治療させた。
六月五日 従四位上の大神朝臣高市麻呂を左京大夫に任じ,従五位下の大伴宿禰男人を大倭守に,従五位上の引田朝臣広目を斎宮頭兼伊勢守に任じた。
秋七月五日 次のように詔された。
戸籍・計帳を設けることは,国家の大きなきまりである。しかし時が経つにつれて改変していけば,偽りが起こってくるだろう。庚午年籍を基準とし,また改変することのないようにせよ。
従五位下の大石王を河内守に任じ,正五位下の黄文連大伴を山背守に,従五位下の多治比真人水守を尾張守に,従五位下の引田朝臣祖父を武蔵守に,正五位上の上毛野朝臣男足を下総守に,正五位下の猪名真人石前を備前守に任じた。
災害や異変がしきに起こって穀物が不作のため,詔を下して,京畿と大宰府管内の諸国の調を半減し,合せて全国の庸を免除した。また五位以上の人々に,賢明で行いの正しい野にある人物を推挙させた。
七月十三日 四大寺に金光明経を読誦させた。
七月十七日 近江国の山で自然発火して山火事となった。使いを遣わして名山・大川に雨乞いをした。
七月二十三日 従五位下の民忌寸大火に正五位上を,正六位上の高田首新家に従五位上をそれぞれ追贈した。また両者ともに使いを遣わして,物を贈り弔わせた。壬申の乱の時の功績のためである。
八月二日 従五位下の百済王良虞を伊予守に任じた。
八月四日 大宰府から次のように申請してきた。
「勲位をもちながら官職についていない人は,交替で軍団に出仕させ,勤務評定の日数が規定に達すれば,書類を式部省に送り,散位と全く同じように,いつまでも選叙に与かれるようにして頂きたい」と。
これを許可した。
九月三日 四品の志紀親王に近江国の鉄穴を賜った。
九月二十二日 従五位下の波多朝臣広足を遣新羅大使とした。
九月二十五日 僧法蓮に豊前国の野四十町を施した。その医術を賞でてである。
冬十月九日 太上天皇の御葬儀の司を任命した。二品の穂積親王を葬儀の装束を整える長官に,従四位下の広瀬王・正五位下の石川朝臣宮麻呂・従五位下の猪名真人大村をその副に任じた。他に政人四人・史四人を任命した。四品の志紀親王を御竈を造る長官に,従四位下の息長王・正五位上の高橋朝臣笠間・正五位下の土師宿禰馬手をその副に任じた。他に政人四人と史四人を任命した。
十月十六日 僧の隆観を還俗させた。もとの姓は金で,名は財といい,沙門幸甚の子である。大そう学問・技芸に詳しく,その上算術・暦学に心得があったからである。
十月二十五日 天皇は大安殿に出御し,詔を下して遣新羅使の波多朝臣広足と額田人足に,それぞれ衾を一領宛と,衣一かさね宛を賜った。また新羅王には錦を二匹と,アシギヌ四十匹を賜った。
十一月十六日 太政官は次のような処分を下した。
巡察使が報告してきた諸国の国司と郡司の,よく治める才能のある者は,式部省が選任令によって挙げ用いるようにせよ。過失のある者については,刑部省が律令に従って取り調べ処罰せよ。
十二月八日 はじめて皇親と,天皇から数えて五世の王と五位以上の子で,年が二十一歳以上になった者は,その名前を記録して式部省に申し送らせた。
十二月十三日 正五位下の路真人大人を衛士督に任じた。
十二月十七日 従四位上の当麻真人智徳が,諸王・諸臣を率いて,太上天皇について誄を奏上し,大倭根子天之広野日女尊という謚を奉った。
この日,飛鳥の岡で火葬にした。
十二月二十六日 大内山陵に,太上天皇を合葬申し上げた。
704 慶雲元年 春正月一日 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。五位以上の者の座にこの時はじめて榻を設けられた。
正月七日 詔して,大納言・従二位の石上朝臣麻呂を右大臣に任じた。また無位の長屋王に正四位上を授け,無位の大市王・手嶋王・気多王・夜須王・倭王・宇太王・成会王にはそれぞれ従四位下を授け,従六位上の高橋朝臣若麻呂・従六位下の若犬養宿禰檳榔・正六位上の穂積朝臣山守・巨勢朝臣久須比・大神朝臣狛麻呂・佐伯宿禰垂麻呂・従六位下の阿曇宿禰虫名・従六位上の采女朝臣枚夫・正六位下の太朝臣安麻呂・従六位上の阿倍朝臣首名・従六位下の田口朝臣益人・正六位下の笠朝臣麻呂・従六位上の石上朝臣豊庭・従六位下の大伴宿禰道足・曽禰蓮足人・正六位上の文忌寸尺加・従六位下の秦忌寸百足・正六位上の佐太忌寸老・漆部造道麻呂・上村主大石・米多君北助・王敬受・従六位上の多治比真人三宅麻呂・正六位上の台忌寸八嶋らにそれぞれ従五位下を授けた。
正月十一日 二品の長親王・舎人親王・穂積親王,三品の刑部親王の封戸を,それぞれ二百戸宛増加させた。三品の新田部親王・四品の志紀親王にはそれぞれ百戸宛を,右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千百七十戸を,大納言・従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を,その他三位以下,五位以上の十四人には,それぞれ差はあったが増封された。
正月十六日 詔を下して,御名部内親王と石川夫人に封戸を百戸宛加えた。
正月二十二日 伊勢国の多気・渡会の二郡の少領以上の者に,三等以上の親族をならんで任ずることを許可した。
正月二十五日 初めてこの時から,百官がひざまずき平伏する礼法をとりやめた。
二月一日 日蝕があった。
二月八日 神祇官の大宮主を長上官の扱いとした。
二月二十日 従五位上の上村主百済に,改めて阿刀連の姓を賜った。
三月二十九日 信濃国に疫病がはやり,薬を支給して治療させた。
夏四月九日 鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させた。
四月十五日 信濃国から献上した弓千四百張を大宰府に支給した。
四月十九日 讃岐国に飢饉があったので物資をめぐみ与えた。
四月二十七日 備中・備後・安芸・阿波の稲の苗が損害を受けたので,それぞれに物資を恵み与えた。
五月十日 備前国が神馬を献上した。宮中の西楼の上に慶雲があらわれた。そのため詔を下して,全国に大赦を行い,元号を改めて慶雲元年とした。そして高齢者と老人の病者に,それぞれ物を恵み与えた。また大宝二年以前の未納の大税と,神馬を出した郡のその年の調を免除した。また親王・諸王や百官の使部以上の者に,身分に応じて禄を賜った。神馬を献上した備前国守で正五位下の猪名真人石前には位を一階進め,最初に慶雲を発見した式部少丞で,従七位上の小野朝臣馬養には,位を三階進め,それぞれにアシギヌ十疋・絹糸二十ク・麻布三十端・鍬四十口を賜った。
五月十六日 武蔵国が飢饉であったので,物を恵み与えた。
六月三日 次のような勅を下した。
「諸国の兵士は,国毎に十組に分け,組毎に十日宛武芸を教習し,必ず一斉に整うようにさせよ。令文にきめられたこと以外の雑用に使ってはならぬ。ただし守るべき関所がある場合には,便宜に応じて考慮し,守備に当らせてもよい」と。
六月五日 諸国の勲七等以下の者で,位階のない者は,軍団に出仕して勤務を続けることを許した。三年勤務すれば,二年分の評定を受けたものと見なし,満了の時は式部省に書類を送り,選考の方法は,散位の場合と同様とした。また身体強健で,その才能も任に堪えられる者は,国司がはかりを考えて,適当な役に充当して使え。年限や評定はもっぱら所定の役職の者に準ずることとする。
六月十一日 河内国の古市郡の人,高屋連薬女が男の三つ子を産んだので,アシギヌ二疋・真綿二屯・麻布四端を賜った。
六月十五日 阿波国が木連理を献上した。
六月二十二日 諸社に幣帛を奉って雨乞いをした。
秋七月一日 正四位下の粟田朝臣真人が,唐から大宰府に帰った。初め唐に着いた時,人がやってきて「何処からの使者か」と尋ねた。そこで「日本国の使者である」と答え,逆に「ここは何州の管内か」と問うと,答えて「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて「以前は大唐であったのに,いま大周という国名にどうして変わったのか」というと,答えて「永淳二年に天皇太帝が崩御し,皇太后が即位し,称号を聖神皇帝といい,国号を大周と改めた」と答えた。問答がほぼ終わって,唐人がわが使者に言うには「しばしば聞いたことだが,海の東に大倭国があり,君子国ともいい,人民は豊かで楽しんでおり,礼儀もよく行われているという。今,使者をみると,身じまいも大へん清らかである。本当に聞いていた通りである」と。言い終わって唐人は去った。
七月三日 左京職が白い燕を献上した。下総国は白い烏を献上した。
七月九日 季節にかなった雨が降らないので,使いを遣わして諸社に雨乞いをさせた。
七月十七日 役所の費用に充てる禄を,式部省やその管下にある大学寮・散位寮などに支給した。
七月十九日 天皇は,詔を下して「京内の八十歳以上の高齢者全員に,物を恵み与えよ」と言われた。
七月二十一日 住吉社に幣帛を奉った。
七月二十二日 従五位上の故坂合部宿禰唐に正五位下を追贈した。右大臣・従二位の故阿倍朝臣御主人の功封百戸の四分の一を,その子の従五位上の広庭に伝えさせ,贈五位上の高田首新家の功封四十戸のうち,四分の一をその子の無位の首名に伝えさせた。
八月三日 遣新羅使・従五位上の波多朝臣広足らが新羅から帰った。
八月五日 伊勢・伊賀の二国に蝗による被害があった。
八月二十八日 周防国で大風が吹き,樹木を根こそぎにする程で,秋の収穫に被害があった。
冬十月五日 詔を下して「大雨や日照りが時季外れにあって,穀物の作柄が悪いので,課役と今年の田租を免除する」とされた。
十月九日 帰国の粟田朝臣真人らが,天皇に帰朝の挨拶をした。
正六位上の幡文通を遣新羅大使とした。
十月十六日 幡文通に造の姓を賜った。
十一月八日 従五位上の忌部宿禰子首を遣わして,幣帛と鳳凰文の鏡と,鳥の巣模様のある錦とを,伊勢の大神宮に供えさせた。
十一月十一日 太上天皇の百七斎を諸寺で行った。
十一月十四日 従四位下の引田朝臣宿奈麻呂の氏姓を改めて,阿倍朝臣とした。正四位下の粟田朝臣真人に,大倭国の田二十町と籾一千石を賜った。遠く離れた異国に使いしたからである。
十一月二十日 初めて藤原宮の地所を定めた。住宅が宮の敷地内に入った千五百五戸の人民に,身分などに応じて布を賜った。
十二月十日 幣帛を諸社に奉った。
十二月二十日 大宰府から「この秋は大風が吹いて,樹木を根こそぎにし,稲に被害がありました」と報告してきた。
この年の夏,伊豆・伊賀の二国に疫病が流行したので,医師・薬を与えて治療させた。
705 慶雲二年 春正月十五日 文官・武官の役人たちを朝堂に集めて宴会を賜った。
正月十九日 無位の安八万王に従四位下を授けた。
三月四日 倉橋の離宮に行幸された。
三月七日 正四位下の豊国女王が卒した。
夏四月三日 次のような詔が下された。
朕は徳の薄い身でありながら,王公の上に位している。天を感動させる程の徳もなく,人民に行きわたらせる程の仁政もできない。そのためか陰陽の調和がくずれ,降雨と日照りが適当でなく,穀物の作柄が悪く,人民は飢えに苦しんでいる。これを思うと心がいたむ。五大寺に金光明経を読ませ,人民の苦しみを救わせたい。天下の国々に今年の出挙の利息を免除し,合せて庸の半分を減らすように。
四月五日 使いを遣わして,全国を巡察させた。
四月十一日 三品の刑部親王に越前国の野,百町を賜った。
四月十七日 次のような勅を下された。
官員令による大納言の定員は四人であり,その職掌は大臣にひとしく,官位も八省の長官を越えている。朕が思うのに,大納言の任は重く,ことは複雑で,任に耐える人物の補給することは難しい。そこで定員を二人減らし二名とし,別に中納言三人をおいて,大納言の及ばないところを補うようにせよ。その職掌は敷奏・宣旨・待門・参議である。その官の相当性や給与は,令の規程を準用して,はかりを考えて施行せよ。
この勅をうけて,太政官の公卿たちは審議して,次のように奏上した。
中納言の職掌は大納言に近く,職務は機密のことに関係します。官位や給料は軽すぎてはいけないと思います。願わくばその位は正四位上に相当とし,別に封戸二百戸を給し,従者三十人を与えられることとしたいと思います。
天皇は奏上の通り許可された。
従来,諸国の采女の肩巾田は,大宝令の施行により廃止されていたが,ここに至って復旧された。
四月二十二日 天皇は大極殿に出御して,正四位下の粟田朝臣真人・高向朝臣麻呂・従四位上の阿倍朝臣宿奈麻呂の三人を中納言に任命された。従四位下の中臣朝臣意美麻呂を左大弁に,従四位下の息長真人老を右大弁に,従四位下の下毛野朝臣古麻呂を兵部卿に,従四位下の巨勢朝臣麻呂を民部卿に任じ,大宰府に飛駅のための鈴を,八個と伝符十枚を与えた。長門国には鈴二個を与えた。
五月七日 三品の忍壁親王が薨じた。使いを遣わして葬儀のことを指揮させた。親王は天武天皇の第九皇子である。
五月八日 正五位下の大伴宿禰手拍を尾張守に任じた。
五月二十四日 幡文造通らが新羅から帰国した。
六月二十六日 諸社に幣帛を奉って雨乞いをした。
六月二十七日 太政官が次のように奏上した。
このごろ日照りが続き,田や園地の作物は葉が日焼けしてしまっています。長らく雨乞いをしても,恵みの雨が降りません。どうか京・畿の行いの清らかな僧たちに,雨乞いをさせると共に,南門を閉じて市の店を出すことをやめ,慎みたいと思います。
奏上は許可された。
秋七月十九日 大納言,正三位の紀朝臣麻呂が薨じた。麻呂は近江朝の御史大夫贈正三位大人の子である。
八月十一日 次のような詔を下した。
陰陽の調和がくずれ,日照りが十日以上も続いている。人々は飢えに苦しみ,そのため罪を犯し法にふれる者もいる。そこで天下に大赦を行い,人民とともに心を新たにしたい。死罪以下の者は,罪の軽重に関わらずすべて無罪とせよ。老人・病人・やもめの男女・孤児・孤独の老人など,自活することのできない者には,程度に応じて物を恵み与えよ。八虐や一般の赦で許されない罪の者は,この限りでない。また諸国の調半分を免除する。
また遣唐使の粟田朝臣真人に従三位を授け,その下役たちにもそれぞれの地位に応じて位を上げ,物を与えた。従三位の大伴宿禰安麻呂を大納言に任じ,従四位下の美努王を摂津大夫に任じた。
九月九日 二品の穂積親王に詔を下して,太政官のことを総括させられた。
九月九日 八咫烏の神社を,大倭国宇陀郡に置き,これを祭らせた。
九月二十日 従五位下の当麻真人桜井を伊勢守に任じた。
九月二十六日 越前国が祥瑞の赤烏を献上した。そのため国司と祥瑞を出した郡司らに位を一階宛上げ,その郡の人民には,賦役を一年間免除した。祥瑞を捕獲した宍人臣国持には,従八位下を授けた。これらの人たちにはいずれも地位に応じて,アシギヌ・真綿・麻布・鍬を与えた。
冬十月二十六日 詔を下して,使者を五道に遣わし,高齢者・老人・病人・やもめの男女・孤児・独居老人に物を恵み与え,この年の調の半分を免除した。
十月三十日 新羅の朝貢使・一吉キンの金儒吉らが来朝し調を献上した。
十一月三日 正四位上の小野朝臣毛野を中務卿に任じた。
十一月四日 従五位下の当麻真人楯を斎宮頭に任じた。天皇は詔を下して,親王や王・臣たちの食封を地位に応じて増額した。これまで五位には食封を与えられていたが,ここに至ってこれをやめ,代わりに位禄にした。
十一月十三日 諸国から騎兵を徴発した。新羅からの使者を出迎えるためである。正五位上の紀朝臣古麻呂を騎兵大将軍に任じた。
十一月二十八日 大納言・従三位の大伴宿禰安麻呂を兼任で大宰帥に任じ,従四位下の石川朝臣宮麻呂を大宰大弐に任じた。
十二月九日 京内の諸寺に寺格に応じて仮に食封を施入した。
十二月十九日 神祇に仕える神部や,神宮に仕える斎宮の女官・それに老女以外は,全国の女性すべてに,垂れ髪をやめて結髪にすることを命じた。
十二月二十日 正四位上の葛野王が卒した。
十二月二十七日 無位の山前王に従四位下を授けた。丹波王と阿刀王にはともに従五位下を授けた。正六位上の三国真人人足・藤原朝臣武智麻呂・正六位下の多治比真人夜部・佐味朝臣笠麻呂・藤原朝臣房前・従六位上の中臣朝臣石木・狛朝臣秋麻呂・坂本朝臣阿曽麻呂・多治比真人県守・阿倍朝臣安麻呂・従六位下の波多朝臣広麻呂・佐伯宿禰男・阿倍朝臣真君・田口朝臣広麻呂・巨勢朝臣子祖父・紀朝臣男人・正七位上の大伴宿禰大沼田・正六位上の坂合部宿禰三田麻呂・従六位下の県犬養宿禰筑紫・正六位上の坂上忌寸忍熊・船連秦勝・従六位下の美努連浄麻呂にそれぞれ従五位下を授けた。
この日,新羅の使・金儒吉らが入京した。この年,二十の国々で,飢饉や疫病が発生した。それぞれに医師や薬を送り,物を恵み助けた。
706 慶雲三年 春正月一日 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。新羅使・金儒吉らも列席した。そのため朝廷の儀仗兵は通常と異なるところがあった。
正月四日 新羅の使いが調を献上した。
正月七日 金儒吉たちを朝堂で饗応し,諸国の音楽を朝堂の庭で奏した。使者をはじめ列席者に位を授けたり,それぞれに応じた物を賜った。
正月十二日 金儒吉らが帰国した。使者に託して新羅王に次のような勅書を送られた。天皇は敬んで新羅王にたずねる。使人の一吉キンの金儒吉・薩キンの金今古たちが来て,献上した調物はすべて受領した。王が国を領して以来,多く年がたったが,その間朝貢に欠けたことがなく,使人もつぎつぎと送られた。忠実なまごころはすでにはっきりあらわれている。自分はいつもこれを喜んでいる。春の始めでまだ寒いことであるが,王の身に変わりはないであろうか。国内も平安なのであろう。使人が今帰っていくので,安否を問う気持ちを伝え,国の産物を別掲のごとく託する。
正月十七日 大射礼の際の賜禄の規定を次のように定めた。
二品の親王と二位の王臣については,一矢が外院に当れば麻布二十端,中院に当れば二十五端。内院に当れば三十端を与える。三品・四品の親王および三位の王臣については,一矢が外院に当れば麻布十五端,中院では二十端,内院では二十五端,四位については,一矢が外院なだ十端,中院なら十五端,内院なら二十端とする。五位については,一矢が外院なら麻布六端,中院なら十二端,内院なら十六端とする。また的の皮に当れば,一矢につき麻布一端,若し二矢が何れも外院・中院・内院と皮とに重ねて当れば,上記の規定の倍とする。六位・七位については,一矢が外院に当れば麻布四端,中院なら六端,内院なら八端,八位・初位については,一矢が外院なら麻布三端,中院なら四端,内院なら五端,皮に当れば一矢につき麻布半端とする。若し外院・中院・内院と皮に重なって当った時は,上の規定の場合と同じである。ただし官位がなく勲位だけの者は,朝服を着ないで,勲位に相当する位階の人の次に立って射ることとする。
閏正月五日 従五位下の猪名真人大村を越後守に任じた。
京・畿内および紀伊・因幡・参河・駿河などの国々で,疫病がはやったので,医師や薬を送って治療させた。
この日,諸寺・諸社を清浄に掃除させた。また盗賊を捜索して捕らえさせた。
正月十三日 新羅からの貢物を伊勢神宮と七道の諸社に奉納した。
また,次のような勅を下した。
大蔵省に収め貯える諸国からの調は,係りの諸司に種類ごとに調べさせて,周知させるようにせよ。また民部省に収め貯える諸国からの庸のうち,アシギヌ・絹糸・真綿などの軽物は今後大蔵省に収め,一年間の使用分を計算して,民部省に分け給するようにせよ。

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