続日本紀 巻第一
文武元年八月より文武四年十二月まで
西暦 | 和 暦 | 月 日 | 出 来 事 | 備考 |
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697 | 文武元年 | 八月一日 | 持統天王から位を譲り受けて皇位につかれた。 | |
八月十七日 | 天皇は詔して次のように述べられた。(宣命体) 現御神として大八嶋国をお治めになる天皇が,大命として仰せになることを,ここに集まっている皇子たち,王たち,百官の人たち,および天下の公民は,皆うけたまるようにと仰せられる。 高天原にはじまり,遠い祖先の代々から,中頃及び現在に至るまで,天皇の皇子が次々にお生まれになり,大八嶋国をお治めになる順序として,天つ神の御子のまま,天においでになる神がお授けになったとおりに,取りおこなってきた天つ日嗣の高御座の業であると,現御神として大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇が,お授けになり仰せになる,尊く高く広く大命を,受けたまわり恐れかしこんで,このお治めになる天下を調え平らげ,天下の公民を恵み撫でいつくしもうと仰せられる,天皇の大命を,皆よく承れと仰せられる。 これを以って天皇の朝廷が設けられた百官の人たち,四方の国々を治めるようにと任命された宰に至るまで,国法を誤り犯すことなく,明るく浄くまっすぐな誠の心をもって,心をゆるめ怠ることなく努め引きしめて,仕え奉れと仰せになる大命を,皆よく承れと仰せられる。 それゆえ,このような事情を承り悟って,かいがいしくお仕えする人は,その勤めぶりに従って,それぞれお讃めになり,位階をお上げくださるという天皇の大命を,皆聞くようにと仰せになる。 よって,今年の田租・雑徭・庸の半分を免除し,また今年より向こう三年間は,大税の利息をとらないこととし,高齢の者をいたわり物をめぐんだ。また親王以下百官の人たちに,身分に応じて物を賜った。諸国に命じて,毎年放生を行わせるようにした。 |
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八月二十日 | 藤原朝臣宮子娘を,文武天皇の夫人とし,紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃(嬪の誤りか)とした。 | |||
八月二十九日 | 王族と五位以上の者に食封を地位に応じて与えた。 | |||
九月三日 | 京人の大神大綱造百足の家に,嘉稲が生え,近江国は白いすっぱんを献上し,丹波国は白い鹿を献上した。 | |||
九月九日 | 勤第壱の丸部臣君手に直広壱を賜った。 | |||
冬十月十九日 | 陸奥の蝦夷が,その地の産物を献上した。 | |||
十二月二十八日 | 新羅の使いの一吉キン金弼徳,副使で奈麻金任想らが来朝した。 | |||
十一月十一日 | 務広肆坂本朝臣鹿田と進大壱大倭忌寸五百足を陸路から,務広肆土師宿禰大麻呂と進広参習宜連諸国を,海路から筑紫に遣わして新羅の使いを迎えさせた。 | |||
十二月十八日 | 越後の蝦狄に地位に応じて物を与えた。 | |||
閏十二月七日 | 播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予などの国に飢饉が起きたので,食糧などを与えた。また負税の取立てをやめさせた。 | |||
十二月二十八日 | 正月に人々が往き来して拝賀の礼を行うことを止めさせた。若し違反する者があったら,浄御原令によって処罰した。但し祖父・兄・氏上である者に対しては拝賀することを許した。 | |||
698 | 文武二年 | 春正月一日 | 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。文武百官と新羅の朝貢使が拝賀した。その儀式は常の通りであった。 | |
正月三日 | 新羅の使いの一吉キン金弼徳らが調物を献上した。 | |||
正月八日 | 土佐国が牛黄を献じた。 | |||
正月十九日 | 新羅の貢物を諸社に奉納した。 | |||
正月十九日 | 直広参土師宿禰馬手を遣わし,新羅の貢物を大内山陵にお供えさせた。 | |||
二月三日 | 金弼徳らが本国に帰った。 | |||
二月五日 | 天皇が宇智郡に行幸された。 | |||
二月十日 | 百官で相当職にある者と,才伎長上とに,身分に応じて禄を授けた。 | |||
二月十五日 | 武官に身分に応じて禄を授けた。 | |||
三月五日 | 因幡国が銅の鉱石を献じた。 | |||
三月七日 | 越後国が疫病の流行を報告したので,医師と薬をおくり救済した。 | |||
三月九日 | 次のような詔をされた。 筑前国の宗形と出雲国の意宇の両群の郡司は,共に三等以上の親族を続けて任用することを許す。 |
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三月十日 | 諸国の郡司を任命し,次の詔をされた。 諸国の国司は,郡司の選考に偏頗があってはいけない。郡司もその職にあるときは,必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ。 |
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三月二十一日 | 山背国の賀茂祭の日に,多勢の者を集めて騎射することを禁止した。 | |||
三月二十二日 | 詔して,恵施法師を僧正に,智淵法師を少僧都に,善往法師を律師にそれぞれ任命した。 | |||
夏四月三日 | 近江・紀伊の二国に疫病がはやった。医師・薬をおくって治療させた。侏儒で備前国の人,秦大兄に香登臣という氏姓を賜った。 | |||
四月十三日 | 務広弐の文忌寸博士ら八人を南嶋に遣わして,国を探させた。そのため兵器を支給した。 | |||
四月二十九日 | 馬を芳野水分峯神に奉った。雨乞いのためである。 | |||
五月一日 | 諸国に早害が起きた。それで幣帛を諸国の神社に奉った。 | |||
五月五日 | 使いを京と畿内に遣わし,名山・大川に雨乞いをした。 | |||
五月十六日 | 使いを諸国に遣わして,田や畑を巡視させた。 | |||
五月二十五日 | 大宰府に命じて,大野・基肄・鞠智の三城を修理させた。 | |||
六月八日 | 近江国が百礬石を献上した。 | |||
六月十四日 | 越後国の蝦狄が土地の産物を献上した。 | |||
六月二十八日 | 馬を諸神社に奉った。雨乞いのためである。 | |||
六月二十九日 | 直広参田中朝臣足麿が卒した。詔を出して,直広壱を贈られた。壬申の乱に功があったからである。 | |||
秋七月一日 | 日蝕があった。 | |||
七月七日 | 官有や私有の奴婢で,民間に逃げかくれたりする者があるのを,届け出ない者があるので,ここに初めて鞭の法を定め,奴婢の逃亡中の仕事を弁償させた。その事柄は別式にある。また博打や賭け事をして,遊び暮らしている者を取り締まった。またその場所を提供した者も同罪とした。 | |||
七月十七日 | 下野・備前二国が赤烏を,伊予国が白鉛を献じた。 | |||
七月二十五日 | 直広肆高橋朝臣嶋麻呂を伊勢守とし,直広肆石川朝臣小老を美濃守に任じた。 | |||
七月二十七日 | 伊予国が鉛の鉱石を献じた。 | |||
八月一日 | 茨田足嶋に連の姓を賜った。 | |||
八月十九日 | 次のように詔された。 藤原朝臣に賜った姓は,その子の不比等に継承させる。ただし意美麻呂は,氏族本来の神祇のことを掌っているから,藤原朝臣の姓から旧姓の中臣にもどすべきである。 |
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八月二十日 | 高安城を修理した。 | |||
八月二十六日 | 朝廷の儀式の礼法を定めた。詳しくは別式にある。 | |||
九月一日 | 無冠の麻続豊足を,麻続氏の氏上とし,無冠の麻続大贄を助とし,進広肆の服部連佐射を氏上とし,無冠の服部連功子を助とした。 | |||
九月七日 | 下総国で大風が吹いて,民衆の住居を壊した。 | |||
九月十日 | 当耆皇女を遣わして斎宮とし,伊勢神宮に仕えさせた。 | |||
九月二十五日 | 周防国が銅鉱を献じた。 | |||
九月二十八日 | 近江国に金青を献上させた。伊勢国には朱沙・雄黄,常陸・備前・伊予・日向には朱沙,安芸。長門の二国には金青・緑青,豊後国には真朱を献上させた。 | |||
冬十月四日 | 薬師寺の造営がほぼ終わったので,僧たちに詔してその寺に住まわせた。 | |||
十月二十三日 | 陸奥の蝦夷が土地の産物を献上した。 | |||
十一月一日 | 日蝕があった。 | |||
十一月五日 | 伊予国が白鉛を献上した。 | |||
十一月七日 | 使いを諸国に遣わして大祓いを行わせた。 | |||
十一月二十三日 | 大嘗祭を行った。直広肆の榎井朝臣倭麻呂が,大楯を大嘗宮の門に立て,直広肆の大伴宿禰手拍が楯と鉾を立てた。神祇官の官人と,大嘗祭の仕事にお仕えした尾張・美濃二国の郡司や百姓らに,それぞれの仕事に応じて物を賜った。 | |||
十一月二十九日 | 下総国が牛黄を献じた。 | |||
十二月五日 | 対馬嶋司に命じて,金の鉱石を精錬させた。 | |||
十二月二十一日 | 越後国に石船柵を修理させた。 | |||
十二月二十九日 | 多気大神宮を渡合郡に遷した。 | |||
十二月三十日 | 勤大弐の山代小田に直広肆を追贈した。 | |||
699 | 文武三年 | 春正月二十六日 | 京職が次のように言上した。 「林坊に住む新羅の女・牟久売が,一度に二男・二女を産みました。」と。 朝廷はあしぎぬ五疋・真綿五屯・麻布十端・稲五百束・乳母一人を賜った。 |
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正月二十七日 | 次のように詔された。 「内薬官の桑原加都に直広肆の位を授け,連の姓を賜る。」と。 公務に勤勉であるのを賞められてである。この日難波宮に行幸された。 |
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正月二十八日 | 淨広参の坂合部女王が卒した。 | |||
二月二十日 | 天皇は難波宮より藤原宮へ環られた。 | |||
二月二十三日 | 次のように詔された。 「行幸の列に従う諸国の騎兵らの,今年の調と役を免除する。」と。 |
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三月四日 | 下野国が雌黄を献じた。 | |||
三月九日 | 河内国が白鳩を献じた。「河内国錦郷郡の一年間の田租と役を免除せよ」と詔があった。 また,めでたい瑞を捕らえた犬養広麻呂の戸に,租税負担を三年間免除し,更に畿内の徒罪以下の罪を犯した者を赦免した。 |
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三月二十七日 | 巡察使を機内に遣わして,政治上に誤りがないか検察させた。 | |||
夏四月二十五日 | 越後の蝦夷百六人に,身分に応じて位を授けた。 | |||
五月八日 | 次のように詔された。 勲功について詮議するということは,前代から始まっており,功を立てた者に賞を与えるのは,代々重要なこととしている。これは立派な男の節操を明らかにし,不朽の名をあらわすためである。坂上忌寸老よ,お前は壬申の乱の年の戦いに従軍し,一命を顧みず国家の危急に赴き,必死の地に出入りし,国家の難に当った。まだ褒賞の位も与えられないうちに,俄かに死去してしまった。逝ってしまった魂を弔い,冥路の旅を慰めたいと思う。直広壱の位を贈り,あわせてまた物を与えよう。 |
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五月二十四日 | 役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山に住み,呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ,人々を惑わすものであると讒言されたので,遠流の罪に処せられた。世間の噂では「小角は鬼神を思うままに使役して,水を汲んだり薪を採らせたりし,若し命じたことに従わないと,呪術で縛って動けないようにした」といわれる。 | |||
六月十五日 | 山田寺に封三百戸を施入したが,期限を三十年間とした。 | |||
六月二十三日 | 淨広参の日向王が卒した。使いを遣わして物を賜った。 | |||
六月十四日 | 直冠以下の官人百五十九人に命じて日向王の邸に行き,葬儀に参列させた。 | |||
六月二十七日 | 淨大肆の春日王が卒した。使いを遣わして弔い,物を賜った。 | |||
秋七月十九日 | 多ね(種子島)・夜久(屋久島)・奄美( 奄美大島)・度感(徳之島)などの人々が,朝廷から遣わされた官人に従ってやってきて,土地の産物を献上した。身分に応じて位を授け,物を賜った。その度感島の人々が,中国に渡来するのは,この時から始まった。 | |||
七月二十一日 | 淨広弐の弓削皇子が薨じた。淨広肆の大石王,直広参の路真人大人らを遣わして喪葬のことを指揮させた。弓削皇子は天武天皇の第六皇子である。 | |||
八月八日 | 南嶋の貢物(七月十九日記)を伊勢大神宮及び諸社に奉納した。 | |||
八月十一日 | 朝廷のすべての官人に身分に応じて禄(物)を賜った。 | |||
八月二十一日 | 伊予国が白い燕を献じた。 | |||
九月十五日 | 高安城を修理した。 | |||
九月二十日 | 次のように詔された。 正大弐以下無位以上の者に,地位に応じて,各人,弓・矢・甲・鉾と軍馬を用意させよ。 また京畿にも「これと同様に用意させよ」と勅された。 |
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九月二十五日 | 新田部皇女が薨じた。皇族・臣下及び百官の人々に葬儀に参列するよう勅された。新田部皇女は天智天皇の皇女である。 | |||
冬十月十三日 | 次のように詔された。 天下の有罪の人々を赦免する。但し十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵と山科山陵とを造営しようとするからである。 |
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十月二十日 | 淨広肆の衣縫王・直大壱の当麻真人国見・直広参の土師宿禰麻呂・直大肆の田中朝臣法麻呂,判官四人,主典二人,大工二人を越智山陵に,淨広肆の大石王,直大弐の粟田朝臣真人,直広参の土師宿禰馬手,直広肆の小治田朝臣当麻,判官四人,主典二人,大工二人を山科山陵に遣わし,それぞれ作業を分担して,山陵を修造させた。 | |||
十月二十七日 | 巡察使を諸国に遣わして,非法がないか検察させた。 | |||
十一月一日 | 日蝕があった。 | |||
十一月四日 | 文忌寸博士・刑部真木らが南嶋から帰って来た。それぞれに彼らの位を進めた。 | |||
十一月二十九日 | 義淵法師に稲一万束を施入した。学問の業績を褒めてのことである。 | |||
十二月三日 | 淨広弐の大江皇女が薨じた。皇族・臣下とすべての官人に葬儀に参列させた。天智天皇の皇女である。 | |||
十二月四日 | 大宰府に命じて三野(日向国児湯郡三納か)・稲積(大隈国桑原郡稲積)の二城を築かせた。 | |||
十二月二十日 | 初めて鋳銭司を設け,直大肆の中臣朝臣意美麻呂をその長官に任じた。 | |||
700 | 文武四年 | 春正月七日 | 新田部皇子に淨広弐の位を授けた。 | |
正月十三日 | 詔があって,左大臣・多治比真人嶋に霊寿の杖と輿及び供人とを賜った。高齢をいたわってである。 | |||
二月五日 | 上総国司が安房郡の大少領に,父子兄弟を並べて任用することを請うた。朝廷はこれを許した。 | |||
二月八日 | 丹波国に命じて錫を献上させた。 | |||
二月十九日 | 越後・佐渡の二国に,岩船柵を造営させた。 | |||
二月二十二日 | 巡察史を東山道に遣わして,非法を検察させた。 | |||
二月二十七日 | 皇族・臣下や機内に重ねて武器を備えるよう勅を下された。 | |||
三月十日 | 道照和尚が物化した。天皇はそれを大へん惜しんで,使いを遣わして弔い,者を賜った。 | |||
三月十五日 | 皇族・臣下たちに詔して大宝令の読習を命じ,また律の条文を作成させた。 | |||
三月十七日 | 諸国に命じて牧場の地を定め,牛馬を放牧させた。 | |||
夏四月四日 | 淨広肆の明日香皇女が薨じた。天皇は使いを遣わして弔い,物を賜った。明日香皇女は天智天皇の皇女である。 | |||
五月十三日 | 直広肆の佐伯宿禰麻呂を遣新羅大使として,勤大肆の佐味朝臣賀佐麻呂を小使とし,大少位各一人,大少史各一人を命じた。 | |||
六月三日 | 薩末の比売・久売・波豆・衣評の督の衣君県・同じく助督の衣君弖自美,また肝衝の難波,これに従う肥人らが武器を持って,さきに朝廷から派遣された■国使の刑部真木らをおどして,物を奪おうとした。そこで筑紫の惣領に勅を下して,犯罪の場合と同じように処罰させた。 | |||
六月十七日 | 淨大参の刑部親王・直広壱の藤原朝臣不比等・直大弐の伊岐連博徳・直広肆の伊余部連馬養・勤大壱の薩弘格・勤広参の土師部宿禰甥・勤大肆の坂合部宿禰唐・務大壱の白猪史骨・追大壱の黄文連備・田辺史百枝・道君首名・狭井宿禰尺麻呂・追大壱の鍛造大角・進大壱の額田部連林・進大弐の田辺史首名・山口伊美岐大麻呂・直広肆の調伊美伎老人らに勅して,律令を撰定させられた。その人々に対して,身分に応じて物を賜った。 | |||
八月三日 | 宇尼備(畝傍)・賀久山(香具山)・成会山陵(押坂彦人大兄皇子の墓)と吉野宮の付近の樹木が,理由もなく凋み枯れた。 | |||
八月十日 | 長門国が白い亀を献じた。 | |||
八月二十日 | 僧の通徳と恵俊に勅して還俗させ,かわりに一人宛得度させ僧侶とした。通徳には陽侯史という氏姓と久尓曽という名を賜り,勤広肆の位を授け,恵俊には吉の姓と宜という名を賜り,務広肆の位を授けた。二人の持っている技芸を役立てるためである。 | |||
八月二十二日 | 全国に赦免を命じた。但し十悪を犯した者・盗人は赦免の範囲に入れなかった。高齢者には物を賜った。また巡察使の奏状により,諸国の国司らに対しては,その治績に応じて位階を進めたり,封戸を賜った。阿倍朝臣御主人と大伴宿禰御行には,ともに正広参を授け,因幡守で勤大壱の船連秦勝に封三十戸,遠江守で勤広壱の漆部造道麻呂に封二十戸を賜った。何れも善い政治を褒めてのことである。 | |||
冬十月八日 | 京畿の年九十以上の僧尼らに,あしぎぬ・真綿・麻布を施した。この日初めて製衣冠司を置いた。 | |||
十月十五日 | 直大壱の石上朝臣麻呂を筑紫惣領に任じ,直広参の小野朝臣毛野を大弐,直広参の波多朝臣牟後閇を,周防惣領に任じ,直広参の上毛野朝臣小足を吉備惣領に任じ,直広参の百済王遠宝を常陸守に任じた。 | |||
十月十九日 | 直広肆の佐伯宿禰麻呂らが新羅から帰ってきて,孔雀及び珍奇なものを天皇に献上した。 | |||
十月二十六日 | 使いを周防国に遣わして,船を造らせた。 | |||
十一月八日 | 新羅使薩きん金所毛が来日して,母王の喪を告げた。 | |||
十一月二十一日 | 盗賊が全国各地で,たびたび悪事を行った。使いを遣わして追捕させた。 | |||
十一月二十八日 | 大倭国葛上郡の鴨君糠売が,一度に二男一女を産んだ。女にあしぎぬ四疋・真綿四屯・麻布八端・稲四百束・乳母一人を賜った。 | |||
十二月二十六日 | 大倭国に疫病が起こった。医者と薬を下賜して,これを救わせた。 |
続日本紀 |