平城京
(へいじょうきょう)

奈良時代
 和銅三年(710)から延暦三年(784)までの74年間,都が奈良の平城京に置かれた。政治史ではこの間を奈良時代と呼び,律令という体系的な法に基づく法治国家が誕生し,天皇を中心とした中央集権的な官僚制度が確立した時代であった。
 奈良時代に即位した天皇は八代七人であり,元明元正聖武孝謙淳仁・称徳(孝謙の重祚)・光仁・桓武である。八代天皇のうち半数の四代が女帝であったことは注目に値する。男帝であった聖武天皇も,後半期は光明皇后が実権をふるっており,淳仁天皇も太上天皇の孝謙天皇が実質的な実権を握っていた。奈良時代は女帝の時代といっても過言ではないだろう。

政情
 大宝律令の公布,天平文化の開花などで安定した時代と思われがちだが,実際には誣告による長屋王暗殺に始まり,天然痘の流行により政治の実権を握っていた藤原四兄弟の死没,吉備真備玄ムを排除しようとした藤原広嗣の乱,藤原仲麻呂の乱,道鏡の専横と失脚などが続々と勃発し,天災による飢饉なども度重なる。また,聖武天皇による頻繁な遷都と東大寺・諸国国分寺・尼寺の造営等による経済破綻により社会不安は増大していた。

平城宮の構造
 一辺1,080m四方の正方形の東側に,東西270m,南北810mの長方形を加えた曲尺形を呈している。周囲に濠と大垣を巡らせ,四面に宮城十二門を開いて京内に通じ,南面中央に位置する朱雀門が正門であり,朱雀大路の南端に位置する羅城門と結ぶ。
 宮殿や官衙の平坦な敷地を造成するため,丘を切り開き谷間を埋める大規模な土木工事が行われた。地盤の悪いところでは,建物の範囲を深く掘り込んでつき固めた掘り込み版築地業を施して建物の沈下を防いだ。

復元された朱雀門

大極殿
 奈良時代前半の平城宮の中心部,朱雀門内では他の都城にみられない特異な宮殿配置が展開する。北半に,平城宮において初めて出現する築地回廊を長方形に巡らせ,内部は一面の砂利敷き広場とするが,北辺部だけを高い檀としてその上に正殿と後殿を建てる。建物は基檀・礎石を伴う瓦葺建物の大極殿である。
 奈良時代後半になると,壬生門内の下層遺構と同じ位置に,基檀・礎石付き・瓦葺の建物が建ち,南から北に向かって朝集殿・朝堂院・大極殿・内裏の区画が一直線上に並ぶ。もとの大極殿には,藤原仲麻呂が豪壮な宮殿をつくり,西宮と呼んだ。東方の法華寺に近いところには,称徳朝に三彩や緑釉の瓦を葺いた華麗な宮殿が建ち東院と呼ばれた。
 平城宮内に設けられた大極殿と朝堂院は,重要な政策を決め,即位の礼のほか元日朝賀や節会などの国家儀式をおこない,外国の使節をもてなす祭に使用された。その際に天皇が出御する建物が大極殿である。
 現在は2010年の完成を目指して第一次大極殿の復元が進められている。
平城京の寺々
 平城京にどれくらいの寺院があったかは正確には分からない。養老四年(720)八月二日の「続日本紀」には藤原不比等が病になったため,京内の四十八寺に命じて薬師経を読ませたとあるが,これらは比較的大きな寺であったろうから,実際にはさらに多くの寺が造られていたであろう。
 飛鳥寺は移転して元興寺になった。大官大寺は大安寺になり,薬師寺はそのまま薬師寺を名乗った。藤原氏の氏寺であった厩坂寺は興福寺と名前を変え,紀氏の氏寺である紀寺も移った。

参考文献:田辺征夫著 平城京 街とくらし (東京堂出版)
平城遷都一三○○年記念二○一○年委員会編平城京 その歴史と文化 (小学館)
岡田茂弘監修 古代の都を復元する (学研)

史 跡

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