謎の巨石遺跡 「高塚の森」は神武東征神話にかかわる遺跡か

■ご紹介したい歌


   ここにます 神に手向の 幣帛なれや
   ここにます かみにたむけの みてぐらなれや

              潮の御崎に 寄する白波
              しおのみさきに よするしらなみ

                        花山法皇(平安時代)
                           潮御崎神社伝承



■「高塚の森」に眠る謎の巨石遺跡
 本州最南端・和歌山県串本町潮岬、さらにその最南端部にある潮岬灯台の近くに謎の巨石遺跡があると聞き行ってきました。
この「高塚の森」は潮御崎神社の社領で、古くからの禁足地。
謎の巨石遺跡はこの禁足地である原生林のなかにあり、潮御崎神社の宮司のご好意により入山が許可され、巨石遺跡を拝見ることができました。

 「高塚の森」は本州最南端の潮岬半島のさらに最南端部にあって、この潮岬半島は周囲が全て40〜60メートルの断崖絶壁に囲まれています。
眼下の岩礁には直接、黒潮の荒波が打ち寄せるという壮大なところ。このような陸の孤島のごとき潮岬の、さらにその先端になぜ古代人の巨石遺跡が存在するのでしょうか?
神功皇后三韓征伐以来の戦死者、病没者の霊を慰めるためここに塚を築き、潮崎氏の祖に後の祭祀を依頼されたと言い伝えられ近代まで潮崎氏で奉仕していたという。
また、神を祀った祭政一致の跡ではないか、いや古墳の跡だとの言い伝えもあり、真実は今も謎のまま・・・。
この潮岬半島に人々が住みはじめたのは近世封建社会に入ってからで、以後、禁足地として大切に保存されてきました。


■巨石遺跡「高塚の森」は太陽祭祀遺跡?
 禁足地に足を踏み入れると、まず目につくのが列石と混礫土塁・石垣。さらに進むと一段高くなって、平坦に整地されたような場所にでます。さらに進むと緩やかな傾斜地となっていて、登ると頂上には巨石群がありました。
傾斜地は緩やかな小さな山のようであって、頂上は自然の岩盤の上に巨石が鎮座しているという風でした。

 北岡賢二著 『謎の巨石遺跡「高塚の森」
         =太陽祭祀遺跡研究序論= 』 によると(抜粋)

 この「高塚の森」は古代祭祀遺跡であろうとのこと。
さらに、宗像神社高宮祭場との構造的類似性を指摘されている。
四世紀にさかのぼると考えられる宗像祭祀にくらべて、さらに古く三、四世紀頃と推考する古代祭天の畤(にわ)は、よく原初祭祀の形態をとどめているものと考えられる。
面積は約28、000u
構造は甘南備山・斎庭(まつりのにわ)・斎場(おがみのにわ)・磐境(いわさか)・更に甘南備山には、磐座・祭壇・司祭の道・御座石(みましいわ)等があり、また域外「旭の森(あさひのもり)」は、水平線上に出る太陽神をお迎えする丘であり司祭の道に通じている。
そして、ここでは、夏至の太陽の道が、斎庭・斎場の天空を背骨のように貫通しているのである。

                              北岡賢二著
『謎の巨石遺跡「高塚の森」=太陽祭祀遺跡研究序論= 』より 
はつくにしらす顕彰会 掲載許可済




■神武東征神話 紀伊半島の南下
 神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は塩土老翁(シホツツノヲヂ)から東に青山が四方をめぐっている美しい国(大和の国)があると聞き、その国を治め新しい都を造ろうと思いたちます。
この時、イワレビコ45歳。
九州、筑紫の日向を発ち、岡水門(をかのみなと)(福岡県)・安芸の埃宮(えのみや)(広島県)・吉備の高嶋宮(たかしまのみや)(岡山県)に駐留しつつ船舶や兵器・食料・兵などを整えていきます。


■磐余彦船出の地 美美津(みみつ)
                            2007年12月31日
                       美美津港(宮崎県日向市)




そして戊午年(つちのえうまのとし)の春二月、ようやく浪速国(なみはやのくに)、今の大阪湾に到着しました。
すでに出発から5年の歳月がながれていました。
イワレビコは生駒山を越えて大和に攻め入ろうとしますが、長随彦(ナガスネビコ)の抵抗に遇い、西から攻め入ることをあきらめます。
この時イワレビコは、
           『日本書紀』神武即位前紀戊午年夏四月の条
「 今、我(やつかれ)は是(これ)日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向かいて、虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)れり。若(し)かじ、退(しりぞ)き還(かへ)りて弱きことを示して、神祇(あまつやしろ くにつやしろ)を礼(ゐや)び祭(ひは)ひて、背(そびら)に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて、影(みかげ)の随(まにま)に壓(おそ)ひ踏みなむには。かくの如くせば、曾(かつ)て刃に血(ちぬ)らずして、虜必ず自(おの)づからに敗れなむ 」
と言ったといいます。
イワレビコ軍はその後大阪湾を南下、東から攻めるべく紀伊半島を迂回します。


■遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る。
 『日本書紀』、神武天皇即位前紀戉午年(つちのえうまのとし)6月の条に
 六月の乙未(きのとのひつじ)の朔(ついたち)丁巳(ひのとのみのひ)(23日)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至る。
即ち、名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(ころ)す。
遂(つひ)に狭野(さの)を越えて、熊野の神邑(かみむら)に到り、且(すなは)ち天磐盾(あまのいはたて)に登る。
仍(よ)りて軍(いくさ)を引きて漸(やうやく)に進む。

 イワレビコの軍船は和歌山県和歌山市紀三井寺にある名草山付近を通り、さらに紀伊半島を南下。
やっと最南端の串本、すなわち「狭野」までたどり着き、狭く細くなった「狭野」を越えたのです。

 ・ 弥生時代末期の串本の海岸線(推定)
                              北岡賢二著
『謎の巨石遺跡「高塚の森」=太陽祭祀遺跡研究序論= 』より 


 串本の町は、太古の昔から砂が少しづつ堆積してできた陸繋砂州(トロンボ)の上に広がっています。
現在は潮岬島と陸地は繋がっていますが、三、四世紀頃の串本はまだ潮岬と完全にくっついておらず、砂州のなかに細長い川のような串本海峡が残っていました。
しかし、当時の串本海峡はすでに砂が堆積して、軍船が通過するほどの幅も深さもなくなっていたと思われます。
たぶん、須加の浜(すかのはま)から笠島(かさしま)入江(現在の串本高校のグラウンド)まで船を引っ張って砂丘を越えたでしょう。
現に、戦前台風等の都度、西海岸(上浦)から漁船を曳きあげ東側砂丘面(下浦)に避難していました。
「 遂に狭野を越えて・・・ 」
当時の苦労が偲ばれます。
「狭野」というのは特定の地名ではなく、ただ単に狭い野という意味のような気がします。
いま「狭野」は和歌山県新宮市佐野が定説となっています。


■定説となっている潮岬迂回コースはどうか
 気象庁のホームページ「海水温・海流の知識」から
 黒潮とは
「黒潮は、東シナ海を北上して九州と奄美大島の間のトカラ海峡から太平洋に入り、日本の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流です。流速は速いところでは毎秒2m以上に達し、その強い流れは幅100kmにも及び、輸送する水の量は毎秒5,000万トンにも達します。黒潮流路の動向は船舶の経済運航コースを左右するほか、漁場の位置や沿岸の潮位を変化させる要因の一つとなっています。このため、船舶運航や漁業の関係者などにとって、黒潮流路の変動は大きな関心事となっています。」

 ・ 2007年10月23日現在の日本南方海域 日別海流
 この図は、日本南方の流れを示しています。色と矢印の長さは流れの速さ(単位:1kt=0.5m/秒)を表し、図の右にあるスケールを用いて、流れの強いところは青く色分けされています。また、矢印は海流が流れていく向きを示しています。気象庁では、「海洋大循環モデル」を利用して人工衛星、船舶、ブイ、中層フロートなどの観測データを総合的に解析することにより、海面から海底付近までの水温、流れを計算しています。毎日11時頃、前日の解析図を掲載します。海流の矢印は、流速が0.2knot未満では描画していません。
       気象庁のホームページ「日本南方海域のデータ」から


 潮岬のすぐ沖合いを流速3.0ktの黒潮本流が流れている。
海岸付近には岩礁や暗礁があるから、かなりの沖合いまで漕ぎ出さなければならない。
イワレビコは村人から、潮岬沖には激しい川のような流れがあることを聞いて知っていたと考えられます。
「笠島遺跡 」の発掘調査により、弥生時代の構造船板等が発見されています。
イワレビコの軍船も構造船と考えられますが、なにしろ弥生時代の船ですから、自分の乗ってきた船で黒潮の早い流れを乗り切れるかどうか。
 「・・・やっと熊野の神邑までやって来た。ここまで来て、あえて潮の流れの速い潮岬の沖合いに漕ぎ出して、船団を危険な目にあわすこともなかろう。あの目の前の、たかだか数十メートルの砂丘を越えればよいことではないか。」
イワレビコはそう考えて、安全な串本の砂州越えを決断したと考えるのが妥当だと思います。


■熊野の神邑に到り・・・
 串本は両浜と呼ばれていたとおり、昔は東側も西側も白い砂浜で風光明媚な所でした。とくに東側の海岸は潮岬の根元から白い砂浜がづっと続き、その先に橋杭岩(はしくいいわ)が大島に向って橋を架けるように海上に並んでいました。
潮岬といえば、人の侵入を拒むかのような40〜60メートルの断崖絶壁が周囲を取り囲み、その上は台地のようになっています。
まるで「天磐盾(あまのいはたて)」のように。
そんな美しい風景のなかで、村人たちは自然神を敬い祀っている。
串本を「熊野の神邑」と言った気持ちは分かるような気がします。

■ここにます 神に手向の 幣帛なれや
                           2007年10月15日
                    潮岬(和歌山県串本町潮岬)




■本州最南端、黒潮躍る潮岬灯台
                           2007年10月15日
                 潮岬灯台(和歌山県串本町潮岬)




■潮岬灯台から見た高塚の森
                            2007年10月15日
                  高塚の森(和歌山県串本町潮岬)




■高塚の森に眠る謎の巨石遺跡(写真6)
                            2007年10月15日
                  高塚の森(和歌山県串本町潮岬)




■高塚の森に眠る謎の巨石遺跡(写真6)
                            2007年10月15日
                  高塚の森(和歌山県串本町潮岬)




■混礫土塁(写真1)




■石列と石垣の接合部分(写真2)




■石列(写真3)




■石垣(写真4)




■一段高くなっている(写真5)




■埴輪船(レプリカ) 古墳時代・5世紀
                            2007年12月29日
           西都原古墳群 171号墳墳頂(宮崎県西都市)



■且ち天磐盾に登る。仍りて軍を引きて漸に進む。
 本州最南端・潮岬は海岸段丘で海岸線は40〜60mの切り立った海蝕崖を連ね、横から遠望すると「磐石自ら楯をなせる地」という表現がピッタリです。
潮岬の地形を天磐盾(あまのいはたて)とはよく言ったものです。
 「天磐盾に登る」というのは、ただ単に登ったというだけではありません。
思い出してください。
イワレビコは長随彦に敗れたあと、
「 今、我は日神(ひのかみ)の子孫にして、日に向かいて、敵を討つは、これ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。
若(し)かじ、神祇(あまつやしろ くにつやしろ)を礼(ゐや)び祭(ひは)ひて、背に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて、
影のままに襲ひ踏みなむには。かくの如くせば、刃に血ぬらずして、敵必ず自づからに敗れなむ 」
と言って紀伊半島を南下しはじめています。
南下の目的はもちろん「神祇(あまつやしろ くにつやしろ)を礼(ゐや)び祭(ひは)ひて、背に日神(ひのかみ)の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて、影のままに襲ひ踏みなむ」ためです。

 イワレビコの船団は南下をつづけ、そしてついに太陽に最も近い地点、
背に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつるにふさわしい場所である本州最南端・潮岬に達し、
さらにその最南端部にある「高塚の森」に神祇を礼び祭ひて、背に日神の威を負ひたてまつる礼祭が群臣や兵士、みなが見守るなか、
厳かにそして盛大に執り行なわれたのです。


■神祇を礼び祭ひて、背に日神の威を負ひたてまつりて
 岩波書店『日本書紀上』の注釈によると、
「神祇 」の神は、天神。祇は、地祇。アマツカミ クニツカミとも、アマツヤシロ クニツヤシロとも訓む。
記伝に「天神とは天に坐ます神、又天より降り坐る神を申し、地祇とは此国土に生り生る神を申すなり」とあります。
高塚の森の謎の巨石遺跡は「磐座(いわくら)」だと考えられます。
「磐座」というのは神が、祭りの間だけ磐座に天より降り坐り、祭りが終わるともとの天に戻る、神が降り坐るための指定席のようなものです。だから、後世の神殿のような神のための特定の建造物は建てません。御神体とは別のものです。
「神が天より降り坐る」という古代人の持ったイメージとはどのようなものでしょう。

『日本書紀』神代下 第九段 天孫降臨
皇孫(すめみま)、乃(すなわ)ち天磐座(あまのいはくら)を離(おしはな)ち、且(また)天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわ)きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降(あまくだ)ります。
 ○稜威の道別・・・天孫の降下に伴って、風の巻き起こったさまとも見られる。

高塚の森でどのような礼祭がおこなわれたかはわかりませんが、想像をたくましくすると
「背に日神の威を負ひ」・・・磐座に坐するイワレビコ。
                夏至の太陽が昇り背後から彼を照らすと、斎場に居並ぶ群臣や兵士達からは
                イワレビコが太陽神と同化したように見え、イワレビコは日神(太陽神)の威を得る。
                実際に斎場から見ると、夏至の太陽はこの磐座から昇ります。
                「高塚の森」の巨石遺跡は太陽祭祀遺跡ではなかという所以がここにあります。

「我は日神の子孫にして」・・・磐座に立ち、背後から太陽に照らされ輝くイワレビコ。
                 彼は兵士たちに「我は日神の子孫にして」、すなわち我は天照大神の子孫であると。
                 「天照大神の威を得て、これから進軍する。敵は必ず自づからに敗れようぞ!」

「仍りて軍を引きて漸に進む」・・・兵士の休養・食料の確保・軍船の修理、そして「高塚の森」の造成などにより
                    串本への滞在が長期にわたってしまった。


■神武天皇東征説話は全て作り話か?
 岩波書店 日本古典文学大系 『日本書紀上』の補注から 
 津田左右吉は、神武天皇がヒムカからヤマトに入ったという記紀の説話を批判し、後世までクマソとして知られ、「逆賊」の占拠地として長い間国家組織に加わっていない僻陬の地であるヒムカがどうして皇室の発祥地であり得たかという疑問から出発し、天皇を日の神の子孫であるとした以上、その故郷は天にあってはタカマノハラであり、地にあっては、日の出づる方に向う国、すなわちヒムカでなくてはならず、したがってヒムカから現実に皇都のあるヤマトに遷る説話が必要となってくる、と考え、神武天皇東征説話を神代物語の構想の一環として作為された説話である、とした。
また津田は、神代史の最初の構想では、ホノニニギの尊がヒムカに降り、ホホデミの命がヤマトに遷った、という形であったのを、ホホデミの命の東征の物語を分離して、新しく神武天皇の東征の説話を作り、ヒムカ三代の物語を中間に置くことによって、神代と人代との限界を和らげたのであろう、ともした。
神武東征を客観史実でないとする津田の学説は、仲哀天皇以前の記紀の記事には、天皇の系譜をふくめて、客観的な史実の記録から出たと認むるべきものが全くないとする津田の基本的見解との関連において、戦後、学界で広く支持され、さらに推測を進めて、この説話の構想に後世の歴史的事実の反映を見ようとする水野佑等の新説も出ているが、他方、魏志、倭人伝のヤマト国を北九州に比定した上で、それが畿内のヤマトの名称と一致するのを単なる偶然ではなく、北九州の勢力が東漸して大和朝廷の起源となったとする和田清、植村清二の見解その他、神武天皇東征説話の根幹に歴史的事実の伝承を認めようとする見解もないではない。
しかし、大和朝廷の九州からの東遷の想定自体に強い異論があるばかりでなく、かりにその想定を前提とするとしても、それは必ずしも神武天皇が実在の人物であったことおよび記紀の東征記事が史実の伝承であったことまでをも意味するわけではない。
関晃が、古代において、朝廷で神武天皇を特別に尊重する儀礼・慣行等の見出されないことを理由に、その実在を消極視している一例にみられるごとき、否定的見解が一般に有力である。
要するに、神武説話の全体が、神代説話との不可分の関係で構想された物語である、とみるのが穏当であろう。


■遺跡の保存
 最近は、森の荒廃も顕著になり、原形を破壊する仕業も発見されるようになってきたとのこと。
千数百年もの間、この巨石遺跡が原形態のまま保存されてきたのは本州最南端であり、断崖絶壁に囲まれた潮岬の地形。
そして、潮御崎神社の鎮座によるものです。
 この巨石遺跡の存在をインターネットでの公開には躊躇しました。
ネットでこの巨石遺跡の存在を公開したために、遺跡が傷つけられるのではないか。
という危惧をいだいたからです。
それでもネットでその存在を公開したのは、学者による研究がなされ、この巨石遺跡の謎が解き明かされるかもしれない。
神武東征神話などに関して何か新しい事実がわかるかも知れないという期待があるからです。
 このページをご覧になって、「高塚の森」にある巨石遺跡の存在を知られたかたにお願いがあります。
決してみだりに潮御崎神社の禁足地である「高塚の森」に入らぬこと。
遺跡を拝見したい方は、潮御崎神社の宮司の入山の許可を得ること。
入山の許可が得られた場合でも、土石や草木の現状変更は厳禁されております。

 この「高塚の森」にある巨石遺跡が本当に三、四世紀頃に築造された太陽祭祀遺跡ならば、
早急に保存対策をとるべきであろうと考えます。


■「高塚の森」について、判りやすく、詳しく知りたい方はつぎのサイトへ

「南紀潮岬 謎の巨石遺跡」へ


参考にさせていただいた
北岡賢二著  『謎の巨石遺跡「高塚の森」 =太陽祭祀遺跡研究序論= 』 (限定出版) 定価2、800円は
串本町串本 無量寺境内にある「応挙芦雪館」で販売していました。

無量寺への問合せ
 〒649-3503
和歌山県東牟婁郡串本町串本833 無量寺
TEL・FAX 0735-62-6670


■アクセス
 潮御崎神社へはJR串本駅から熊野交通バス潮岬行きで約15分、灯台前下車。


HOME