葛城の 高間の草野 早知りて      2010年3月7日更新   奈良県御所市大字高天

■ご紹介したい万葉集の歌


葛城の 高間の草野 早知りて
かづらきの たかまのかやの はやしりて

            標刺さましを 今ぞ悔しき
            しめささましを いまぞくやしき

                         作者未詳
                         巻7 1337



■原文と読み

葛城乃  高間草野  早知而
かづらきの  たかまのかやの  はやしりて
標指益乎  今悔拭  
しめささましを  いまぞくやしき  

■葛城の 高間の草野 早知りて
                            2007年9月20日
                高天(たかま)(奈良県御所市高天)


■大意
 葛城の高間の草野を早くに知っておればシメを立てたものを、今となっては 悔しい!


 万葉集巻7の「草に寄す」という題目に収められた歌群の一つ。
高間のような良い土地の利用権を他の人に取られた、「なわばり」争いに負けて悔しい!と謡っています。
「標(シメ)」とは場所の領域を示すもので、縄などで結んで印(しるし)としたり木をたてたりして立ち入りを禁止、占有の意思表示をするものです。
岩波書店 日本古典文学大系『万葉集二』の補注 「標刺さましを」に、
「大和の十津川では、山の共有地の一部を畑としたいと思うものは、まず土地を見て、ここと思う場所の四隅にシメを張る。
こうすれば山の神がその土地を下さるから一年後には利用する権利を保有するとされている。」
とあります。
 な〜んだ、縄張り争いの歌かとお思いでしょうが、別な解釈をされた人がおります。
この高天には橋本院という真言宗のお寺があって、その駐車場脇にこの歌の万葉歌碑があります。
この歌碑の説明板にかかれている解釈が面白い。
「高間の里にこんな美しい娘さんがいたことをもっと早く知っておれば命のかぎり抱きしめておくのだったなあ、残念残念今来てみるとすでに人妻になってしまっていたよ。」
 この万葉歌を素直に詠むか、恋の歌と詠むかは読者のあなたにお任せします。


■この万葉歌で謡われている高間は神話の里
 この万葉歌で謡われている高間は金剛山の中腹に広がる台地。
そこは日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「 高天原 」 で、この高間の地は実在の「 高天原 」 であると伝えられています。
確かにこの地に一歩足を踏み入れると、参道に並ぶ古杉は神さびて立ち、高天彦神社のあるあたりは見るものすべてに神が宿っているような、そんな厳粛な雰囲気が漂っています。
神社でいただいたパンフレットから由緒をご紹介しますので、ご参考にしてください。


■高天彦神社(たかまひこじんじゃ)
                             2010年3月7日
                         奈良県御所市大字高天


■高天彦神社 参道
                             2007年9月30日
                        奈良県御所市大字高天


■鶯宿梅
 高天彦神社の駐車場の傍に 「 鶯宿梅 」 があります。
 昔、若死にした小僧の悲運をその師が嘆いていると、梅の木に鶯がきて、

「  初春の あしたの毎には 来れども

            あわてぞかえる もとのすみか  」

と鳴いたことから、この名がつけられました。
                        御所市観光協会


■鶯宿梅
                             2010年3月7日
                         奈良県御所市大字高天


■高天彦神社
 パンフレット「高天彦神社」から

御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(別名 高天彦神)
由 緒
 本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。
その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。
彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。

 『日本書紀』 神武三十有一年の夏四月の条
三十有一年の夏四月の乙酉(きのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、皇(すめらみこと)輿巡(めぐ)り幸(いでま)す。
因りて腋上(わきがみ)のほほまの丘に登りまして、国の状(かたち)を廻(めぐ)らし望みて曰(のたま)はく、
「 研哉(あなにや)、国を獲(え)つること。内木綿(うつゆふ)のまさき国と雖(いへど)も、蜻蛉(あきづ)のとなめの如くにあるかな」
とのたまふ。
是に由りて、始めて秋津洲(あきづしま)の號(な)有り。

とある腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ほほまの丘も丘裾に本馬の地名を残しています。
国号の秋津洲もこの地に最初の王朝が築かれたことに由来します。
葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で亡びますが、武内宿称によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。
これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元年(859)に神位従二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りには官幣にあずかってきた古社であります。
金剛山は古く高天山と呼ばれましたが、中腹のこの広大な台地こそ日本人の心の故里 「 高天原 」 であり、神話も歴史もこの高天の台地を中心にして発展しました。
悠久の歴史に心を馳せて、御神徳をさずかるよう御祈念してください。
宮司謹白


■アクセス
 近鉄御所駅から奈良交通バス五條方面行き、バス停「鳥井戸」下車、西へ徒歩約40分。


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