橿原神宮は畝傍山の南東のふもとにあり、初代天皇であると伝えられる神武天皇が、この地で即位したという神話に基づいて明治2年(1889)に造営されました。
橿原市を代表する神宮で、本殿と神楽殿を訪ねると日本の伝統的な建築美に出会うことができます。
神宮の広さは50万平方メートル以上もあり、敷きつめられた玉砂利の道を歩くだけで清々しい気分になります。
表参道の右側には、全国から寄せられた約450種・15万本の樹木が生い茂り、見事な森林を形づくっている橿原森林遊苑があります。
                                   橿原市観光協会発行のパンフレット 『古代日本のふるさと 奈良橿原』より


玉襷 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし
                              2007年1月1日
                橿原神宮初詣(奈良県橿原市畝傍町)

                              2007年4月7日
          橿原神宮「春の神武祭」(奈良県橿原市畝傍町)




玉襷 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし
たまたすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ あれましし

神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを
かみのことごと つがのきの いやつぎつぎに あめのした しらしめししを

天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え
そらにみつ やまとをおきて あをによし ならやまをこえ

いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど
あまざかる ひなにはあれど いかさまに おもほしめせか

石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の
いはばしる あふみのくにの ささなみの おほつのみやに あめのした しらしめしけむ すめろきの

神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる
かみのみことの おほみやは ここときけども おほとのは ここといへども はるくさの しげくおひたる

霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮處 見れば悲しも
かすみたち はるひのきれる ももしきの おほみやところ みればかなしも

                                     柿本人麻呂
                                      巻1 29


■原文と読み
過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
 玉手次   畝火之山乃  橿原乃  日知之御世従  阿礼座師    
 たまだすき  うねびのやまの  かしはらの  ひじりのみよゆ  あれましし    
 或云  自宮
 ひじりのみやゆ
 神之盡  樛木乃  弥継嗣尓  天下  所知食之乎    
 かみのことごと  つがのきの  いやつぎつぎに  あめのした  しらしめししを    
 或云  食来
 しらしめしける
 天尓満  倭乎置而  青丹吉  平山乎超      
 そらにみつ  やまとをおきて  あをによし  ならやまをこえ      
或云  虚見  倭乎置  青丹吉  平山越而
 そらみつ  やまとをおき  あをによし  ならやまこえて
 何方  御念食可  天離  夷者雖有      
 いかさまに  おもほしめせか  あまざかる  ひなにはあれど      
 或云  所念計米可
 おもほしけめか
 石走  淡海國乃  樂浪乃  大津宮尓  天下  所知食兼  天皇之
 いはばしる  あふみのくにの  ささなみの  おほつのみやに  あめのした  しらしめしけむ  すめろきの
 神之御言能  大宮者  此間等雖聞  大殿者  此間等雖云  春草之  茂生有
 かみのみことの  おほみやは  ここときけども  おほとのは  ここといへども  はるくさの  しげくおひたる
 或云  霞立  春日香霧流
 かすみたつ  はるひかきれる
 霞立  春日之霧流  百磯城之  大宮處  見者悲毛    
 かすみたつ  はるひのきれる  ももしきの  おほみやところ  みればかなしも    
 夏草香  繁成奴留
 なつくさか  しげくなりぬる


■大意
 畝傍山(うねびやま)のふもと橿原宮(かしはらのみや)に即位された神武天皇の御代以来、お生まれになった天皇のすべてが、つぎつぎに天下をお治めになった大和の国をすてて奈良山を越え、何とお思いになったからか、田舎ではあるが、近江の国の大津の宮で天下をお治めになったという天智天皇の皇居は、ここと聞くけれど、御殿はここだというけれど、今は夏草が繁く伸びている、この大宮の跡を見れば心悲しい。


 歌は、初代の天皇である神武天皇が畝傍山のふもと、橿原に都を開かれて以来、各天皇が永々と治めてきた大和の国を捨て、何とお思いになったからか?・・・
と詠っています。
 天智6年(667)、天皇は突然、都を近江(おうみ)の大津へ遷しました。
『日本書紀』はこのことをつぎのように記録しています。

天智6年3月の条
三月の辛酉(かのとのとり)の朔(ついたち)己卯(みづのとうのひ)に、都を近江(あふみ)に遷(うつ)す。
是の時に、天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諌(あざむ)く者多し。
童謡(わざうた)亦(また)衆(おほ)し。
日日夜夜(ひるよる)、失火(みづながれ)の處(ところ)多(おほ)し。


 この遷都について国民はそうとう強く反対したようで、この歌の作者、人麿でさえ 「 いかさまに 思ほしめせか 」
何で? どうして都を遷すのか??と、首をかしげています。

 「たまだすき」は畝火の山にかかる枕詞で、たすきはうなじに掛けるので、ウネビやカケ(る)に掛かります。
玉は美称で、美しいたすきのことです。
古代のたすきについてネットで調べていたところ、たすき掛けの女子埴輪が実際に出土していることがわかりました。

「 畏れと祈り 群馬の埋蔵文化財 」 へ

「畏れと祈り 群馬の埋蔵文化財 」 というサイトの古墳時代の項目に
大刀を持つ女子埴輪
坏を持ち椅子に腰掛ける女子埴輪
坏を持つたすき掛けの女子埴輪
の写真が掲載されています。(2007年9月2日現在)
6世紀前半の古墳から出土したものです。
埴輪の右肩から左脇下に掛けたたすきには、幾何学的な模様や鋸(のこぎり)の歯のような文様が見られ、「複雑多彩な織りによって実現したものであろう。」 と書かれています。
これが「たまたすき」なのでしょう。
たすきは巫女の装身具の一つであったようです。

 「 橿原の日知の御代 」 とは神武天皇の御代のことで、『日本書紀』には
神武元年 正月の条
辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。
是歳(ことし)を天皇の元年(はじめのとし)とす。
正妃(むかひめ)を尊びて皇后(きさき)としたまふ。
皇子(みこ)神八井命(かむやゐのみこと)・神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)を生みたまふ。
故(ゆゑ)に古語(ふること)に稱(ほめまう)して曰(まう)さく、
「 畝傍(うねび)の橿原(かしはら)に、宮柱(みやはしら)底磐(したついは)の根(ね)に太立(ふとしきた)て、
高天原(たかまのはら)に摶風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、號(なづ)けたてまつりて
神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰(まう)す」。

辛酉の歳(紀元前660年)に、神武天皇は畝傍山のふもと橿原宮に即位し、是歳を天皇の元年とすると書かれています。
実際、紀元前660年は日本では縄文時代にあたります。
大和朝廷の成立が紀元後3世紀から4世紀であると考えられていますから、神武天皇の即位が紀元前というのはありえません。
しかし、神武天皇非実在説、日本神話の一部の虚構で全くの創作であると決めつけてしまうのも いかがのものか。
私は神武天皇の東征は過去の史実を基に創作された話ではないかと考えています。
 奈良県広陵町三吉に 「 巣山古墳 」 という大型の前方後円墳があります。
2006年2月、この古墳から 「 喪船(もふね) 」 の一部が出土しました。

城上の宮を 常宮と 高くまつりて (巣山古墳の記録) へ

 中国の史書「随書倭国伝」(7世紀)は古代日本の葬送の様子を
「親類などが遺体に寄り添い、歌舞する。遺体を船に置き、陸地で引いた」という記述を傍証する発見です。
しかし、海のない大和の国でどうして遺体を船に置き、陸地で引くのかという素朴な疑問が残りました。
巣山古墳の被葬者の祖先は海と関係ある部族であったのか?
喪船の出土を歴史ネットワーク( http://www.hinet.jp/ )のメーリングリストでご紹介したおり、
頂いたメールから古代には「出雲族(いずもぞく)」とか「天孫族(てんそんぞく)」・「海族(あまぞく)」・「安曇族(あずみぞく)」というような部族がいたことを初めて知りました。
ネットで調べてみますと、そのことについて各サイトそれぞれに いろんな事を言っていますが、気になるのが司馬遼太郎の『歴史の中の日本』という随筆集に収められた「生きている出雲王朝」という作品です。
 先にヤマトを植民地とした出雲族と天孫族の戦い。
「国譲り」ののち、天孫族と出雲王朝との協定は、「出雲王は永久に天孫族の政治にタッチしないこと」。
出雲の王族たちは身柄を大和に移されて、三輪山の周辺に住んだ。
それが三輪氏の祖である。
天孫族や出雲族・海族などについて、私自身は勉強不足で消化不良を起こしているのが実情ですが、ネットで調べてみるのもおもしろいと思います。
古代の壮大なロマンがあなたの前に広がるかもしれません。



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