あしひきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降りくる

巻向の 桧原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る


 写真奥の煙っている山が、歌に「山かも高き 巻向の」と詠まれている巻向山。
手前の桧林が三輪山の山裾です。
巻向山に端を発した巻向川はこの三輪山のなだらかな山裾を流れ、大和平野へと流れ出ます。
「岸」というのは川の岸のことで、万葉集では川へ落ち込むなだらかな山裾や台地を「岸」と詠っているようです。
十数年前まではこの山裾に見える古代の道、山の辺の道沿いに松の木が並んでいて、
「 巻向の 岸の小松に み雪降りくる 」 という歌を実景として味わうことができたのですが、
マツクムシにやられたのか、みんななくなってしまいました・・・残念です。
2008年2月3日  巻向の桧原(奈良県桜井市大字三輪)


2008年2月3日  桧原神社(奈良県桜井市大字三輪)


小松が末ゆ 沫雪流る 2008年2月3日  桧原神社(奈良県桜井市大字三輪)


あしひきの 山かも高き 巻向の
あしひきの やまかもたかき まきむくの

           岸の小松に み雪降りくる
           きしのこまつに みゆきふりくる

                    柿本人麻呂歌集
                    巻10 2313


巻向の 桧原もいまだ 雲居ねば
まきむくの ひはらもいまだ くもゐねば

           小松が末ゆ 沫雪流る
           こまつがうれゆ あわゆきながる

                    柿本人麻呂歌集
                    巻10 2314


■原文と読み
足曳之  山鴨高  巻向之  木志乃子松二  三雪落来
あしひきの  やまかもたかき  まきむくの  きしのこまつに  みゆきふりくる
  2313

巻向之  桧原毛未  雲居者  子松之末由  沫雪流
まきむくの  ひばらもいまだ  くもゐねば  こまつがうれゆ  あわゆきながる
  2314


■大意
 山が高いせいであろうか。巻向の岸の小松に雪が降ってくる。(2313)
巻向の檜原にもまだ雲がかからないのに、小松の枝先を沫雪が流れる。(2314)


■檜原神社について
境内に建つ説明板によれば

「 (元伊勢)桧原(ひばら)神社と豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の御由緒
大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿(どうしょうきょうでん)」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎主)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきのひもろぎ)」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。
更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳」(内行花文鏡出土・社蔵)」があります。
大神神社 」


 『日本書紀』 崇神天皇五年〜七年春二月の条、原文
五年。国内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。先是。天照大神。倭大国魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神。託豊鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。神籬此云比莽呂岐。亦以日本大国魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫髪落体痩而不能祭。
七年春二月丁丑朔辛卯。詔曰。昔我皇祖大啓鴻基。其後聖業逾高。王風転盛。不意。今当朕世数有災害。恐朝無善政。取咎於神祇耶。蓋命神亀以極致災之所由也。於是。天皇乃幸于神浅茅原。而会八十万神以卜問之。是時。神明憑倭迹迹日百襲姫命曰。天皇何憂国之不治也。若能敬祭我者。必当自平矣。天皇問曰。教如此者誰神也。答曰。我是倭国域内所居神。名為大物主神。

 読み下し文 岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀上』から
 五年に、国内(くにのうち)に疾疫(えのやまひ)多(おほ)くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者(もの)有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。
六年に、百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。
或(ある)いは背叛(そむ)くもの有り。
其(そ)の勢(いきほい)、徳(うつくしび)を以(も)て治(をさ)めむこと難(かた)し。
是(ここ)を以(も)て、晨(つと)に興(お)き夕(ゆふべ)までに■(おそ)りて、神祇(あまつかみくにつかみ)に請罪(のみまつ)る。
是(これ)より先(さき)に、天照大神(あまてらすおほみかみ)・倭大国魂(やまとのおほくにたま)、二(ふたはしら)の神(かみ)を、天皇(すめらみこと)の大殿(みあらか)の内(うち)に並祭(いはひまつ)る。
然(しかう)して其の神(かみ)の勢(みいきほひ)を畏(おそ)りて、共(とも)に住(す)みたまふに安(やす)からず。
故(かれ)、天照大神を以(も)ては、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託(つ)けまつりて、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭(まつ)る。
仍(よ)りて磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)。 神籬…此(これ)をば比莽呂岐(ひもろき)と云(い)ふ を立(た)つ。

亦(また)、日本大国魂神(やまとのおほくにたまのかみ)を以(も)ては、渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託(つ)けて祭(まつ)らしむ。
然(しか)るに渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)、髪(かみ)落(お)ち体痩(やすか)みて祭(いはいまつ)ること能(あた)はず。
七年春二月の丁丑(ひのとのうし)の朔(ついたち)辛卯(かのとのうのひ)に、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「 昔(むかし)我(わ)が皇祖(すめみおや)、大(おほ)きに鴻基(あまつひつぎ)を啓(ひら)きたまひき。
其(そ)の後(のち)に、聖業(ひじりのわざ)逾高(いよいよたか)く、王風(きみののり)転盛(うたたさかり)なり。
意(おも)はざりき、今(いま)朕(わ)が世(よ)に当(あた)りて、数(しばしば)災害(わざはひ)有(あ)らむことを。
恐(おそ)るらくは、朝(みかど)に善政(よきまつりごと)無(な)くして、咎(とが)を神祇(あまつかみくにつかみ)に取(と)らむや。
蓋(なん)ぞ命神亀(うら)へて、災(わざはひ)を致(いた)す所由(ことのよし)を極(きは)めざらむ 」とのたまふ。
是(ここ)に、天皇(すめらみこと)、乃(すなは)ち神浅茅原(かむあさぢはら)に幸(いでま)して、八十万(やそよろづ)の神(かみたち)を会(つど)へて、卜(うら)問(と)ふ。
是(こ)の時に、神明(かみ)倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑(かか)りて曰(のたま)はく、「 天皇(すめらみこと)、何(なに)ぞ国(くに)の不治(をさま)らざることを憂(うれ)ふる。
若(も)し能(よ)く我(われ)を敬(ゐやま)ひ祭(まつ)らば、必(かなら)ず当(まさ)に自平(たひら)ぎなむ 」 とのたまふ。
天皇問ひて曰(のたま)はく、「 如此(かく)教(のたま)ふは誰(いづれ)の神(かみ)ぞ 」とのたまふ。
答(こた)へて曰(のたま)はく、「 我(われ)は是(これ)倭国(やまとのくに)の域(さかひ)の内(うち)に所居(を)る神、名(な)を大物主神(をほものぬしのかみ)と為(い)ふ 」とのたまふ。



倭迹迹日百襲姫命…孝霊天皇皇女。崇神朝におけるその地位と巫女的性格から、これを魏志、倭人伝に見える女王の卑弥呼に比定し、崇神天皇を女王の男弟に比定する説もあります。


■三輪山(大物主神)と倭迹迹日百襲姫命大市墓(箸墓古墳)
箸墓古墳の南方、箸墓古墳と大神神社との中間あたりの三輪山山麓には「茅原(ちはら)」という地名が残っています。
『日本書紀』 崇神天皇七年春二月の条
「天皇(すめらみこと)、乃(すなは)ち神浅茅原(かむあさぢはら)に幸(いでま)して、
八十万(やそよろづ)の神(かみたち)を会(つど)へて、卜(うら)問(と)ふ。」
条文にある「神浅茅原(かむあさぢはら)」とは、この「茅原」の地であるといわれています。
2008年2月10日  倭迹迹日百襲姫命大市墓(箸墓古墳)(奈良県桜井市大字箸中)


落日
 春分と秋分の頃、この注連鳥居に切り取られた空間のはるか遠く、二上山に夕日が沈む景色は、実に幻想的で美しい。
2008年2月3日  桧原神社(奈良県桜井市大字三輪)


■大御神の伊勢御遷幸(参考)
 『日本書紀』 垂仁天皇二五年三月の条、原文
三月丁亥朔丙申。離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命。爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田筱幡。筱此云佐佐。更還之入近江国。東廻美濃、到伊勢国。時天照大神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随大神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之処也。一云。天皇以倭姫命為御杖。貢奉於天照大神。是以倭姫命以天照大神。鎮坐於磯城厳橿之本而祠之。然後随神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷于伊勢国渡遇宮。

 読み下し文 岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀上』から
 三月(やよい)の丁亥(ひのとのゐ)の朔(ついたち)丙申(ひのえさるのひ)に、天照大神(あまてらすおほみかみ)を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離(はな)ちまつりて、倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。
爰(ここ)に倭姫命、大神(おほみかみ)を鎮(しづ)め坐(ま)させむ処(ところ)を求(もと)めて、莵田(うだ)の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。 筱…此をば佐佐(ささ)と云(い)ふ。
更(さら)に還(かへ)りて近江国(あふみのくに)に入(い)りて、東(ひがしのかた)美濃(みの)を廻(めぐ)りて、伊勢国(いせのくに)に到(いた)る。
時(とき)に天照大神(あまてらすおほみかみ)、倭姫命(やまとひめのみこと)に誨(をし)へて曰(のたま)はく、「 是(こ)の神風(かむかぜ)の伊勢国(いせのくに)は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国(くに)なり。
傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。
是(こ)の国に居(を)らむと欲(おも)ふ 」とのたまふ。
故(かれ)、大神(おほみかみ)の教(をしへ)の随(まにま)に、其(そ)の祠(やしろ)を伊勢国(いせのくに)に立(た)てたまふ。
因(よ)りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴(いすず)の川上(かはのほとり)に興(た)つ。
是(これ)を磯宮(いそのみや)と謂(い)ふ。
則(すなは)ち天照大神(あまてらすおほみかみ)の始(はじ)めて天(あめ)より降(くだ)ります処(ところ)なり。
一(ある)に云(い)はく、天皇(すめらみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)を以(も)て御杖(みつゑ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ。
是(ここ)を以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城(しき)の厳橿(いつかし)の本(もと)に鎮(しづ)め坐(ま)せて祠(まつ)る。
然(しかう)して後(のち)に、神(かみ)の誨(をしへ)の随(まにま)に、丁巳(ひのとのみ)の年(とし)の冬十月(かむなづき)の甲子(きのえねのひ)を取(と)りて、伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)に遷(うつ)しまつる。


■莵田(うだ)の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。 筱…此をば佐佐(ささ)と云(い)ふ。

そういえば、『万葉集』柿本人麻呂の歌(45)に

・・・玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 阿騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす
  たまかぎる ゆふさりくれば みゆきふる あきのおほのに はたすすき しのをおしなべ くさまくら たびやどりせす

いにしへ思ひて

いにしへおもひて

とあって、当時、阿紀神社一帯には旗すすきや笹が広がっていたことがわかります。 

2009年12月20日  阿紀神社(奈良県宇陀市大宇陀迫間)



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