うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背とあが見む
うつそみの ひとにあるわれや あすよりは ふたがみやまを いろせとあがみむ

大来皇女

 紅に染まっている山が二上山(にじょうざん)、万葉集ではフタガミヤマと詠まれ、低い方が雌岳(474メートル)、
高い方が雄岳(515メートル)です。
高い方の雄岳の頂上には悲劇の皇子、このページの主人公である大津皇子のお墓があります。

2009年5月13日
甘樫丘(奈良県高市郡明日香村大字豊浦)



 天武天皇には10人の皇子と7人の皇女がおり、皇位継承が問題になっていました。
その最有力候補が皇后鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)(後の持統天皇)を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)と大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子(おほつのみこ)の二人です。
共に天武の子ですが、草壁の母である鵜野皇后は天武を助けて政治をとっているのに比べて、大津は5、6歳の時に後ろ盾となる母を亡くしています。
その点では草壁が有利ですが、器量・才能をとってみると大津のほうが優れていて人望も厚い。
実の息子である草壁をなんとか皇位にと願っている鵜野皇后にとって、そんな大津は邪魔者でしかありませんでした。


草壁皇子と大津皇子
 草壁と大津は皇位問題で共にライバル同士ですが、恋愛でも二人はライバルでした。
石川郎女という女性に二人とも想いを寄せていたのです。


 日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)、石川女郎(いしかわのいらつめ)に贈り賜ふ御歌一首

大名児を 彼方野邊に 刈る草の
おほなこを をちかたのへに かるかやの

            束の間も われ忘れめや  
            つかのあひだも われわすれめや

                          草壁皇子
                          巻2 110

■原文と読み
日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首
女郎字曰大名兒也
大名兒  彼方野邊尓  苅草乃
おほなこを  をちかたのへに  かるかやの
束之間毛  吾忘目八  
つかのあひだも  われわすれめや  


■大意
 詞書きの日並皇子尊とは皇太子のことで草壁皇子をさします。
大名児(石川郎女)を 野辺で刈る束の間も私は忘れようか、忘れはしません。


 この歌を贈られた女郎はなんと答えたかは『万葉集』に歌が残っていないのでわかりませんが、草壁の恋はどうやら実らずに終わったようです。
これに対して、大津皇子と石川郎女との間にはつぎのような恋歌が残っています。


 大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

あしひきの 山の雫に 妹待つと
あしひきの やまのしづくに いもまつと

            われ立ち濡れねぬ 山の雫に
            われたちぬれぬ やまのしづくに

                          大津皇子
                         巻2 107

 石川郎女、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首

吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの
あをまつと きみがぬれけむ あしひきの

            山の雫に 成らましものを
            やまのしづくに ならましものを

                          石川郎女
                         巻2 108

■原文と読み
大津皇子贈石川郎女御歌一首
足日木乃  山之四付二  妹待跡
あしひきの  やまのしづくに  いもまつと
吾立所沾  山之四附二  
われたちぬれぬ  やまのしづくに  (107)

石川郎女奉和歌一首
吾乎待跡  君之沾計武  足日木能
あをまつと  きみがぬれけむ  あしひきの
山之四附二  成益物乎  
やまのしづくに  ならましものを  (108)


■大意
 ずっと、たたずんであなたを待っていたので、私はすっかり山の雫に濡れてしまいました。それほど長い時間あなたを待っていたのだ。(107)

私を待ってあなたが濡れたという山の雫に、私はなりたいわ。(108)


二首とも、好きだとか恋しいとか一言も言っていません。
ただ「あなたを待つ間に山の雫に濡れてしまったよ、山の雫に・・・」
彼女からは「その山の雫に私はなりたいわ」って、
男としては、こんな歌で和えられたら たとえ長時間待たされていても許してしまいます。
どこか官能的で女らしい語気が伝わってきます。

 大津皇子 は『日本書紀』に、
「威儀 高く、風貌は大きくたくましい。言葉はすぐれて朗(あきら)かなり、才学あり、文筆を愛したまう。
詩賦の興り大津より始まれり 」


■あすか劇団「時空」 本公演
 
「紅蓮(ぐれん)の落日」 〜大津皇子悲話〜  より
 左手 大名児(石川郎女)が右手 大津皇子に万葉歌(108)、

吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの
あをまつと きみがぬれけむ あしひきの

            山の雫に 成らましものを
            やまのしづくに ならましものを

を贈るシーン。

                             2006年9月16日
                  あすか劇団「時空」 あすか風舞台
                 (奈良県高市郡明日香村大字島庄)

あすか劇団 「 時空 」 へ
とあってかなりの人物。
その皇子をとりこにした女性、石川郎女もとっても魅力的で才気あふれる女性だったようです。
その反歌が証明しています。
 草壁皇子の人となりについては、万葉集に残された「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿の作る歌」や「皇子尊の宮の舎人ら慟(かな)しび傷(いた)みて作る歌23首」(巻2 167〜193)から想像することができます。
その万葉歌はそれぞれに悲痛な気持ちや寂しさを伝え、いかに草壁皇子が人麿や舎人たちに慕われていたかがわかります。
たぶん控えめな性格で「心優しき人」だったのでしょう。
そして28歳で病没しているところを見ると病弱であったのかもしれません。


『日本書紀』 持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)十月の条
皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。
読み下し文 岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀下』より(以下同じ)
皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇(あまのになはらおきのまひとのすめらみこと)(天武天皇)の第三子(みはしらにあたりたまふみこ)なり。容止(みかほ)墻(たか)く岸(さが)しくして、音辞(みことば)俊(すぐ)れ朗(あきらか)なり。天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)の為に愛(めぐ)まれたてまつりたまふ。長ひととなる)に及(いた)りて辨(わきわき)しくして才学(かど)有(ま)す。尤(もと)も文筆(ふみつくること)を愛(この)みたまふ。詩賦(しふ)の興(おこり)、大津(おほつ)より始(はじま)れり。


密かな二人の恋が世間にばれてしまう


 大津皇子(おほつのみこ)、窃(ひそ)かに石川女郎に婚(あ)ふ時、津守連通(つもりのむらじとほる)その事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りましし御歌一首 未だ詳(つばひ)らかならず

大船の 津守の占に 告らむとは
おほぶねの つもりのうらに のらむとは

            まさしに知りて わが二人宿し
            まさしにしりて わがふたりねし

                          大津皇子
                          巻2 109

■原文と読み
大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首
未詳
大船之  津守之占尓  将告登波
おほぶねの  つもりがうらに  のらむとは
益為尓知而  我二人宿之  
まさしにしりて  わがふたりねし  


■大意
 津守の占いに出ることは、はじめから知っていたさ。すべて承知のうえで私たち二人は寝たんだ。


「津守の占い」とはどのような占いだったか知らないが、いくら占いといえど二人の情事までわかるはずがない。
たぶん大津は見張られていたのでしょう。
津守が二人の関係をつきとめ「占いに出た」として世間に暴露した、それが事の真相だと思います。
大津もまた「津守の占いに出ることは、はじめから知っていたさ」と歌っているように、かれが自分の周辺に探りが入っている、
誰かに見張られていることは知っていました。
 この歌を何度も繰り返してみると、歌のむこうから
 「 草壁! 女郎はおれがものにしたぞ! おまえがおれの周りを嗅ぎまわっているのは承知のうえでだ 」
大津の得意になっている姿が浮かんできます。
しかし大津は感じていました、
おれを監視しているのは本当は草壁ではなく、草壁の母である皇后鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)であることを・・・。


大津皇子、朝政に加わる
 天武10年(681)2月、草壁皇子は正式に皇太子となる。
皇后はさぞやホットしたことでしょう。
しかし大津もまた天武12年2月に国政に加わってきます。
皇太子に次ぐ地位にあり、しかも優れた資質の持ち主で人望も厚い。
天武の本音は自分に良く似ている大津を皇太子にしたかったのかもしれません。
だが天武は
 「 大津を皇太子すれば皇后は黙ってはいまい。
私の亡きあと争いになることは間違いない。
ここは「温和で普通の人」草壁を皇太子にしておけば、足らぬところは皇后が補ってくれるだろう 」と、
そう考えたに違いありません。


『日本書紀』 天武天皇十年(681)二月の条
二月庚子朔甲子、天皇。皇后共居于大極殿。以喚親王。諸王及諸臣。詔之曰。朕今更欲定律令。改法式。故倶修是事。然頓就是務。公事有闕。分人応行。是日。立草壁皇子尊為皇太子。因以令摂万機。
読み下し文
二月(きさらぎ)の庚子(かのえね)の朔甲子(きのえねのひ)(25日)に、天皇・皇后(きさき)共(もろとも)に大極殿(おほあんどの)に居(おは)しまして、親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)及び諸臣(まへつきみたち)を喚(め)して、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「 朕(われ)、今(いま)より更(また)律令(のりのふみ)(浄見原律令)を定(さだ)め、法式(のり)を改(あらた)めむと欲(おも)ふ。故(かれ)、倶(とも)に是の事を修(をさ)めよ。然(しか)も頓(にはか)に是(これ)のみを務(まつりごと)に就(な)さば、公事(おほやけわざ)闕(か)くこと有(あ)らむ。人を分けて行(おこな)ふべし」とのたまふ。是の日に、草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)を立(た)てて、皇太子(ひつぎのみこ)とす。因りて万機(よろづのまつりごと)を摂(ふさねをさ)めしたまふ。

『日本書紀』 天武天皇十二年(683)二月の条
二月己未朔。大津皇子始聴朝政。
読み下し文
二月(きさらぎ)の己未(つちのとのひつじ)の朔(ついたちのひ)に、大津皇子(おほつのみこ)、始(ほじ)めて朝政(みこどのまつりごと)を聴(きこ)しめす。


鵜野皇后の腹の内
 大津が政治に加わってきたことは、皇后にとっては心中穏やかではなかったことでしょう。
皇后はたぶん・・・
 「 息子は、大津に恋人を取られたばかりか、このままでは皇太子の地位も奪われかねない。
それに夫、天武も病の床。
我が子、草壁に確固たる皇位の道を開くにはどうすればよいか。」
皇后の腹の内はしだいに固まってきた。
 「大津を殺(や)るしかない!」と、
大津もまた朝政に加わった天武12年以降、かれの立場はいよいよ微妙になり、迫りくる身の危険を感じていました。
天皇が死んだあと、皇后の魔の手が襲いかかってくるに違いないと。


弟・大津との永遠の別れを予感し、暗闇にいつまでも立ち尽くす姉・大伯皇女 ・・・
 大津の姉・大伯皇女(おほくのひめみこ)は13歳の時より伊勢神宮の斎宮に任ぜられ都を離れていました。(大伯皇女は「大来皇女」とも記されている。)


『日本書紀』 天武天皇二年(673)四月の条
夏四月丙辰朔己巳。欲遣侍大来皇女于天照大神宮。而令居泊瀬斎宮。是先潔身。稍近神之所也。
夏四月(うづき)の丙辰(ひのえたつ)の朔己巳(ついたちつちのとのみのひ)(14日)に、大来皇女(おほくのひめみこ)を天照大神宮(あまてらすおほみかみのみや)に遣侍(たてまだ)さむとて、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是(ここ)は先(ま)づ身(み)を潔(きよ)めて、稍(やや)に神(かみ)に近(ちか)づく所(ところ)なり。

『日本書紀』 天武天皇三年(674)十月の条
冬十月丁丑朔乙酉。大来皇女自泊瀬斎宮向伊勢神宮。
冬十月(かむなづき)の丁丑(ひのとのうし)の朔乙酉(ついたちきのとのとりのひ)に、大来皇女(おほくのひめみこ)、泊瀬(はつせ)の斎宮(いつきのみや)より、伊勢神宮(いせのかみのみや)に向(まう)でたまふ。


■斎宮 大伯皇女
                             2006年9月16日
                  あすか劇団「時空」 あすか風舞台
                 (奈良県高市郡明日香村大字島庄)
その姉に大津は密かに会いに行ったのです。
天武天皇が病の床につき天皇の後継者問題で朝廷内は騒然となっている折に、それも皇太子のつぐ身分の人が大和の国を出るなんて、チョット軽はずみな行動のように思えます。
 大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)のように伊勢に逃れ挙兵の準備をするつもりだったのでしょうか。
 ( 671年12月、大海人皇子は天智天皇の死の前に吉野に逃れ、挙兵の準備を進め6月に挙兵しました。これが壬申の乱です。)
皇后は大津の行動一つ一つに細心の注意をはらい、探偵から逐一、大津の行動を報告させていたに違いありません。
もちろん大津が大和の国を離れたことも知っていたと考えられます。
夫である大海人と行動を共にして吉野に逃れ、挙兵した経験をもつ皇后は大津のこの行動をどう思ったことでしようか。
 「 夫と同じ手は通用しませんわ! 先手必勝、もう諸国には武器の調査はもちろん、武器を私家に置くことさえ禁じておりますわ!
どうあがいても挙兵など無理よ。 この青二才が! オホホ・・・ 」
な〜んて、思ったかもしれません。

『日本書紀』 天武天皇十四年(685)十一月の条
丙午。詔四方国曰。大角。小角。鼓・吹。幡旗。及弩・抛之類。不応存私家。咸収于郡家。
丙午(ひのえうまのひ)に、四方(よも)の国に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「大角(はら)・小角(くだ)・鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)、及び弩(おほゆみ)・抛(いしはじき)の類(たぐひ)は、私(わたくし)の家(やけ)に存(お)くべからず。咸(ことごとく)に郡家(こほりのみやけ)に収(をさ)めよ」とのたまふ。


 大津皇子は大和の国では追い詰められ、何時殺されてもおかしくない立場に追い込まれていたと思われます。
今! 姉に会っておかないと二度と会えなくなる、そんな思いがこのような危険な行動をとらせたのかもしれません。
 この時、姉・大伯とどんな事を語りあったのでしょうか。
今となっては知るよしもありませんが、大伯皇女の悲痛な別れの歌が『万葉集』に残されています。


 大津皇子(おほつのみこ)、竊(ひそ)かに伊勢神宮(いせのかみのみや)に下りて上り来ましし時の大伯皇女(おほくのひめみこ)の御作歌(みうた)


わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて
わがせこを やまとへやると さよふけて

            暁露に わが立ち濡れし
            あかときつゆに わがたちぬれし

                          大伯皇女
                          巻2 105

■原文と読み
大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首
吾勢■乎  倭邊遣登  佐夜深而
わがせこを  やまとへやると  さよふけて
鷄鳴露尓  吾立所霑之  
あかときつゆに  わがたちぬれし  (105)


■大意
 弟を大和に帰してやり見送ってたたずんでいると、夜もふけて未明の露に私は濡れてしまった。


 「 大和へ遣ると 」 ・・・ 姉は弟を大和の国に帰したくない、弟もまた大和には帰りたくないと言う
姉は自分の気持ちを押さえ弟を説得して大和に帰す、帰してやる・・・
たったこれだけの言葉なのに、姉・大伯の複雑な思い、何ともいえない気持ちが伝わってきます。


■別れを惜しむ大津皇子
                             2006年9月16日
                  あすか劇団「時空」 あすか風舞台
                 (奈良県高市郡明日香村大字島庄)


二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を
ふたりゆけど ゆきすぎかたき あきやまを

            いかにか君が 独り越ゆらむ
            いかにかきみが ひとりこゆらむ

                          大伯皇女
                          巻2 106

■原文と読み
二人行杼  去過難寸  秋山乎
ふたりゆけど  ゆきすぎかたき  あきやまを
如何君之  獨越武  
いかにかきみが  ひとりこゆらむ  (106)


■大意
 二人で行っても行き過ぎがたい淋しいあの秋山を、今ごろはどのようにして弟は一人越えているのだろうか。


大津皇子、謀反のかどで死を賜う
 朱鳥(あかみとり)元年(686年)9月9日、天武天皇 崩御。
そして天皇の死から1ヶ月もたたない10月2日、大津皇子は謀反のかどで捕らえられ翌日には死刑に処せられました。
享年24。


『日本書紀』 持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)九月の条
朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛真人天皇崩。皇后臨朝称制。
読み下し文
朱鳥元年(あかみとりのはじめのとし)の九月(ながづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔丙午(ついたちひのえうまのひ)(9日)に、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)崩(かむあが)りましぬ。皇后(きさき)臨朝称制(みかどまつりごときこしめ)す。

『日本書紀』 持統天皇即位前紀朱鳥元年十月の条
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津。并捕為皇子大津所■誤直広肆八口朝臣音橿。小山下壱伎連博徳。与大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内礪杵道作等、三十余人。
庚午。賜死皇子大津於訳語田舍。時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。
読み下し文
冬十月(かむなづき)の戊辰(つちのえたつ)朔己巳(つちのとのみのひ)(2日)に、皇子大津(みこおほつ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして発覚(あらは)れぬ。皇子大津を逮捕(から)めて、并(あはせ)て皇子大津が為(ため)に■誤(あざむ)かれたる直広肆八口朝臣音橿(ぢきくわうし やくちのあそみおとかし)・小山下壱伎連博徳(せうせんげ ゆきのむらじはかとこ)と、大舍人中臣朝臣臣麻呂(おほとねり なかとみのあそみおみまろ)・巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)・新羅沙門行心(しらきのほうし かうじむ)、及(およ)び帳内礪杵道作(とねり ときのみちつくり)等(たち)、三十余人(みそあたりあまりのひと)を捕(から)む。
庚午(かのえうまのひ)(三日)に、皇子大津を於訳語田(をさた)の舍(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年(とし)二十四(はたちあまりよつ)なり。妃皇女(みめひめみこ)山辺(やまのへ)、髪(かみ)を被(くだしみた)して、徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見る者(ひと)皆(みな)歔欷(なげ)く。


 大津皇子、被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いわれ)の池の堤(つつみ)にして涙を流して作りましし御歌一首


ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を
ももづたふ いはれのいけに なくかもを

            今日のみ見てや 雲隠りなむ
             けふのみみてや くもがくりなむ

                          大津皇子
                          巻3 416

■原文と読み
大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首
百傳  磐余池尓  鳴鴨乎
ももづたふ  いはれのいけに  なくかもを
今日耳見哉  雲隠去牟  
けふのみみてや  くもがくりなむ  
右藤原宮朱鳥元年冬十月


■大意
 磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか・・・


この時、きさきの山辺皇女(やまのべのひめみこ)が、髪をふりみだし、はだしのままあとを追い殉死したといいます。


大伯皇女、斎宮の任を解かれ京師(みやこ)に帰る
『日本書紀』 持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)十一月の条
十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大来。還至京師。
読み下し文
十一月(しもつき)の丁酉(ひのとのとり)の朔壬子(みづのえねのひ)(16日)に、伊勢神祠(いせのかみのまつり)に奉(つかえまつ)れる皇女(ひめみこ)大来(おほく)、還(かへ)りて京師(みやこ)に至る。


大津皇子薨(かむあが)りましし後、大来皇女伊勢の齋宮(いつきのみや)より京に上る時の御作歌(みうた)二首


神風の 伊勢の国にも あらましを
かむかぜの いせのくににも あらましを

            なにしか来けむ 君もあらなくに
            なにしかきけむ きみもあらなくに

                          大来皇女
                          巻2 163


見まく欲り わがする君も あらなくに
みまくほり わがするきみも あらなくに

            なにしか来けむ 馬疲るるに
            なにしかきけむ うまつかるるに

                          大来皇女
                          巻2 164

■原文と読み
大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齋宮上京之時御作歌二首
神風乃  伊勢能國尓母  有益乎
かむかぜの  いせのくににも  あらましを
奈何可来計武  君毛不有尓  
なにしかきけむ  きみもあらなくに  (163)

欲見  吾為君毛  不有尓
みまくほり  わがするきみも  あらなくに
奈何可来計武  馬疲尓  
なにしかきけむ  うまつかるるに  (164)


■大意
 伊勢の国にいればよかったものを、どうして大和の国へ帰って来たのだろう。逢いたい君(大津皇子)も、もはや生きてはいないのに。(163)
 見たいと欲する君ももはや亡くなってしまったのに、どうして上京したのだろう。馬が疲れるのに。(164)


 大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時、大来皇女の哀しび傷(いた)む御作歌(みうた)二首

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは
うつそみの ひとにあるわれや あすよりは

            二上山を 弟背とあが見む 
            ふたがみやまを いろせとあがみむ

                          大来皇女
                          巻2 165


磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど
いそのうへに おふるあしびを たをらめど

            見すべき君が ありと言はなくに
            みすべききみが ありといはなくに

                          大来皇女
                          巻2 166

■原文と読み
移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首
宇都曽見乃  人尓有吾哉  従明日者
うつそみの  ひとにあるわれや  あすよりは
二上山乎  弟世登吾将見  
ふたがみやまを  いろせとあがみむ  (165)

礒之於尓  生流馬酔木乎  手折目杼
いそのうへに  さけるあしびを  たをらめど
令視倍吉君之  在常不言尓  
みすべききみが  ありといはなくに  (166)


■大意
 生きてこの世に残っている私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めよう。(165)
 岩のほとりに生えている馬酔木の花を折ってあなたに見せようと思うけれど、 あなたがこの世にいると もう誰も言ってくれないのに・・・。(166)


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