島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず
しまのみや まがりのいけの はなちどり ひとめにこひて いけにかづかず

柿本人麻呂

奈良県高市郡明日香村大字島庄



島の宮 勾の池の 放ち鳥
しまのみや まがりのいけの はなちどり

              人目に恋ひて 池に潜かず
              ひとめにこひて いけにかづかず

                          柿本人麻呂
                          巻2 170

■原文と読み
嶋宮  勾乃池之  放鳥  人目尓戀而  池尓不潜
しまのみや  まがりのいけの  はなちどり  ひとめにこひて  いけにかづかず


■大意
 嶋の宮の勾の池で放し飼いにしている鳥も、草壁皇子の薨去を淋しく思い、人目を恋しがって池に潜りもしない。


 日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時、人麿が作った歌の中で或る本の歌一首。
日並皇子尊は草壁皇子のことで、皇太子であったのでこのように呼ばれました。
殯宮とは本葬までの仮に棺におさめ安置しておく宮のことです。
草壁皇子は天智元年(662年)に天武天皇と持統天皇との間に産まれ、妃は天智天皇の皇女阿閉皇女(あへのひめみこ)。
壬申の乱では最初から父母と行動を共にし、天武10年(672年)に皇太子となっています。
しかし皇子は即位することなく持統3年(689年)に突然亡くなってしまいました。


■蘇我馬子邸(嶋の宮)発見!
 2004年3月11日、石舞台古墳の近くから大型建物跡が発見されました。
発掘現場はここでご紹介しました万葉歌の「勾の池」跡から道路を挟んで40メートルほど南の小学校跡地で、石舞台古墳から西約200メートルの飛鳥川東岸。
 7世紀前期、中期、後期の掘っ建て柱建物跡が重なって出土しました。
大化の改新のあと、蘇我馬子邸は天皇家に没収され、その後草壁皇子の「嶋の宮」になっていますので、発掘された前期の大型建物跡は蘇我馬子邸、後期の建物跡が草壁皇子の「嶋の宮」である可能性が高いという。

日本書紀 推古34年(626)夏5月の条に
 夏五月の戊子(つちのえね)の朔丁未(ついたちひのとのひつじのひ)(20日)に、大臣(おほおみ)薨(みう)せぬ。仍(よ)りて桃原墓(ももはらのはか)に葬(はぶ)る。大臣は稲目宿禰(いなめのすくね)の子なり。性(ひととなり)、武略(たけきたばかり)有(あ)りて、亦(また)辧才(わきわきしこと)有り。
以(も)て三寶(さむぼう)を恭(つつし)み敬(ゐやま)ひて、飛鳥河(あすかがは)の傍(ほとり)に家(いへゐ)せり。乃(すなは)ち庭(には)の中(うち)に小(いささか)なる池(いけ)を開(は)れり。仍りて小なる嶋(しま)を池の中に興(つ)く。故(かれ)、時(とき)の人、嶋大臣(しまのおほおみ)と日(い)ふ。

 「馬子は飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」とあります。
 この 「 小さな島のある池 」 が勾の池かどうかはわかりませんが、7世紀前期の大型建物跡は約30年前に発見された底に石を敷いた方形の人工池「勾の池」跡の近くであること、この池と前期の大型建物跡が平行でこの池を意識して建てられていること、後期の建物は天武天皇の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の宮殿跡(飛鳥京跡)と同じく南北に軸線をとって建てられ前期の建物と重なって出土したこと、飛鳥川にも近いことなどから馬子邸といって間違いないように思えます。
 しかし、馬子邸(嶋の宮)は飛鳥川沿いに島の庄から橘まで及ぶ大豪邸であったと私は考えています。(飛鳥時代の「橘」と呼ばれる地域は現代よりも広かったかもしれませんが…。)
今回の建物跡は万葉歌で歌われている草壁皇子の宮殿「東の瀧の御門(ひむかしのたぎのみかど)」を含む、ほんの東の端の建物跡であるように思えてなりません。


■日本書紀に記載された関連事項
 〇中大兄皇子、宮殿を嶋大臣の家に接して建てる。

皇極4年(645年)6月の条
・・・宮殿(みや)を嶋大臣(しまのおほおみ)の家(いへ)に接(ま)ぜて起(た)てて、中大兄、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)と、密(しのび)に大義(おほきなることわり)を圖(はか)りて、入鹿(いるか)を戮(ころ)さむと謀(はか)れる兆(きざし)なり。


 〇大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱に勝ち嶋宮に入る。

天武元年(672年)9月の条
・・・庚子(かのえねのひ)(12日)に、倭京(やまとのみやこ)に詣(いた)りて、嶋宮(しまのみや)に御(おはしま)す。
癸卯(みずのとのうのひ)(15日)に、岡本宮(をかもとのみや)に移(うつ)りたまふ。


■在りし日の「嶋の宮」(元・蘇我馬子邸)を想像する。
 日本書紀と万葉集の歌 「 皇子尊(みこのみこと)の舎人(とねり)ら慟(かな)しび傷(いた)みて作る歌23首 」 から

一日には 千たび参りし 東の 大き御門を 入りかてぬかも
ひとひには ちたびまゐりし ひむかしの おほきみかどを いりかてぬかも

                                      巻2 186

東の 大き御門を 入りかてぬかも

宮の東には歌に歌われるほどの大きな門が存在した。


東の 瀧の御門に 伺侍へど 昨日も今日も 召すこともなし
ひむかしの たぎのみかどに さもらへど きのふもけふも めすこともなし

                                      巻2 184

東の瀧の御門
この御門は宮殿のこと。
瀧は水が落ちる滝ではなくたぎち流れる川「激流」のこと。
「東の宮殿」には川の激流を擬する庭園設備が存在し、たぎち流れる水の落差、すなわちそのような地形のうえに庭園が造られた。
水は飛鳥川の上流から引き込んだのであろう。

嶋の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君まさずとも
しまのみや うへのいけなる はなちどり あらびなゆきそ きみまさずとも

                                      巻2 172

嶋の宮 上の池
激流を擬した川は「上の池」に流れ込む。この池は呼び名どおり宮殿の上方(飛鳥川の上流方向)に存在したのであろうか。

『日本書紀』 推古34年(626)夏5月の条
飛鳥河(あすかがは)の傍(ほとり)に家(いへゐ)せり。
乃(すなは)ち庭(には)の中(うち)に小(いささか)なる池(いけ)を開(は)れり。
仍りて小なる嶋(しま)を池の中に興(つ)く。

故(かれ)、時(とき)の人、嶋大臣(しまのおほおみ)と日(い)ふ。


飛鳥川のほとりに馬子邸があった。
庭のなかに小さな池を造り、小島を池の中に造っていた。

水傳ふ 磯の浦廻の 石上つつじ 茂く開く道を また見なむかも
みなづたふ いそのうらみの いはつつじ もくさくみちを またみなむかも

                                      巻2 185

水傳ふ 磯の浦廻の 石上つつじ
「水傳ふ」とは水の流れのこと。磯とは岩。
浦廻とはみぎわの湾曲したところ。
「上の池」のある庭園は各所に岩が配置され水が沿って流れている。岩のみぎわの湾曲したところには岩つつじが植えられ、盛んに咲いている。そんな岩つつじの間を散歩道が続く。

橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡邊に 侍宿しに行く
たちばなの しまのみやには あかねかも さだのをかへに とのゐしにゆく

                                      巻2 179

橘の 嶋の宮
私は「橘の嶋の宮」とは蘇我邸とは目と鼻の先、飛鳥川を挟んだ橘寺のある対岸に造営された中大兄皇子の宮ではないかと考えています。
 蘇我入鹿暗殺にもしも失敗し入鹿が島の庄の蘇我邸に逃げ込んだ時に備え、中大兄は蘇我邸のすぐ近く飛鳥川を挟んだ橘の地に蘇我氏との戦いにそなえて宮を構えたのではないでしょうか。
この構図は甘樫丘にあった蘇我入鹿邸と飛鳥川を挟んで、すぐ近くの飛鳥寺に中大兄皇子が入り戦に備えたことと同じです。
蘇我馬子邸は飛鳥川を渡らないまでも、島の庄から橘の辺りまで飛鳥川沿いの広大な地域に建てられていたと考えています。
 その後、草壁皇子は島の庄の蘇我馬子邸と橘の中大兄皇子の宮の両宮を受け継ぎ「東宮」として使い「嶋の宮」と呼んだ。
舎人たちは島の庄にあった元・蘇我馬子邸の嶋の宮は「東の瀧の御門」と呼び、
西方の元・中大兄皇子が橘に造営した宮は「橘の嶋の宮」と呼んで区別したのではないでしょうか。

『日本書紀』 皇極4年(645年)6月の条
・・・宮殿(みや)を嶋大臣(しまのおほおみ)の家(いへ)に接(ま)ぜて起(た)てて、中大兄、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)と、密(しのび)に大義(おほきなることわり)を圖(はか)りて、入鹿(いるか)を戮(ころ)さむと謀(はか)れる兆(きざし)なり。



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