いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山
奈良県高市郡明日香村大字橘


いにしへの 事は知らぬを われ見ても
いにしへの ことはしらぬを われみても

             久しくなりぬ 天の香具山
             ひさしくなりぬ あめのかぐやま

                           作者未詳
                           巻7 1096

■原文と読み
昔者之  事波不知乎  我見而毛
いにしへの  ことはしらぬを  われみても
久成奴  天之香具山  
ひさしくなりぬ  あめのかぐやま  


■大意
 いにしえの伝説は知らないけれども、私がみてからも久しくなった。天の香具山は。


■天降りつく 天の香具山
 香具山は畝傍山・耳成山とともに、大和三山の一つで標高が152メートルあります。
多武峰(とうのみね)、音羽山(おとはやま)につづく尾根の一つが平地に突き出たゆるやかな低い丘で、一番山容がめだたず面積も9ヘクタールとわずかですが、三山の中では最もよく知られている山です。
この天の香具山には不思議な伝説が伝えられています。
香具山は「天から天降った山である」という伝説(伊豫国風土記逸文)です。

釈日本紀に引用する伊豫国風土記逸文
倭に天加具山あり。
やまとに あめのかぐやまあり。
天より天降りし時、二つに分れて
あめより あもりしとき、ふたつに わかれて
片端は倭の国に天降り 片端はこの土に天降りき。
かたはしは やまとのくにに あまくだり かたはしは このくににあもりき。
因りて天山と謂ふ。
よりて あめやまと いふ。

また万葉集の歌にも

天降りつく 天の芳来山 霞立つ 春に至れば ・・・
あもりつく あめのかぐやま かすみたつ はるにいたれば

                             鴨君足人
                              巻3 257

と謡われています。
 当時の人々はこの山が天から降って来たという伝説を本当に信じていたんだと思いますね。
だから、「 天降りつく 」と謡われたり、「 天の香具山 」 というふうな表現が生まれたんだと思います。

 香具山は天から降って来た山・・・
山が天から降ってきて地面に叩きつけられ、平べったく大地に広がった・・・?
そう言われてみれば、香具山の姿は そんな感じもします。


■「あまのかぐやま」? それとも「あめのかぐやま」?
 「カグヤマ」の表記は、「万葉集」では香具山・香山・高山・香来山・芳山など多種にわたります。

万葉歌の表記 首数
香具山 4
香山 3
高山 2
香来山 2
芳山 1
芳来山 1

万葉集は「カグヤマ」の表記が全て訓読みになっていてわかりませんが、
唯一 古事記歌謡で天香久山を 「 阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま) 」 と音読みしています。

『古事記』中つ巻 倭建命(やまとたけるのみこと)と美夜受比売(みやずひめ)の聖婚の段、
原文と読み
比佐迦多能  阿米能迦具夜麻  斗迦麻迩  佐和多流久毘
ひさかたの  あめのかぐやま  とがまに  さわたるくひ
比波煩曾  多和夜賀比那袁  麻迦牟登波  阿礼波須禮杼
ひはぼそ  たわやかひなを  まかむとは  あれはすれど
佐泥牟登波  阿礼波意母閇杼  那賀祁勢流  意須比能須蘇尓
さねむとは  あれはおもへど  ながけせる  おすひのすそに
都紀多知迩祁理
つきたちにけり 倭建命 古事記歌謡番号28


ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠
ひさかたの あめのかぐやま とがまに さわたるくひ

ひは細 たわや腕を 枕むとは 吾はすれど
ひはぼそ たわやかひなを まかむとは あれはすれど

さ寝むとは 吾は思へど 汝が着せる 襲の裾に
さねむとは あれはおもへど ながけせる おすひのすそに

月立ちにけり
つきたちにけり
                            倭建命
                            古事記歌謡番号28


大意
天の香具山の上空を、鋭い鎌のように、すっきりした感じで飛び行く白鳥、その白鳥のように繊細でしなやかなおとめの腕を枕に共寝
しようと私は思うのだが、そなたが身にお着(つ)けのおすひ(着衣の上をおおう長い外衣)の裾に新しい月が始まってしまったな。


■天の香具山には天照大神の「磐戸がくれ」の伝承があります
 天照大神の「天の磐戸」の伝説は日本各地にありますが、この香具山にも「古事記 」や 「 日本書紀 」 の神話に見られる天照大神の磐戸がくれ事件の現場と伝える天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)があります。
拝殿の裏に巨石四個があって、天照大神が怒って磐戸を閉めて こもってしまった所と伝える磐穴を御神体としています。
神殿はなく、拝殿のみという古代人の原始的な祭祀形態を今なお残す神社です。

日本書紀 神代上 第七段 天照大神の磐戸がくれ事件の文章中に「天香山の眞坂樹」がでてきます。
天香山の五百箇の眞坂樹を掘じて、
あまのかぐやまの いほつの まさかきを ねこじにこじて、
上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、
かみつえには やさかにの いほつの みすまるを とりかけ、
中枝には八咫鏡を懸け、
なかつえには やたのかがみを とりかけ、
下枝には青和幣、白和幣を懸でて、
しづえには あをにきて、しろにきてを とりしでて、
相與に致其祈祷す。
あひともに のみいのりまうす。
「眞坂樹」・・・マサカキは神域を境界する木で、境(さか)木の意。
「御統」・・・ミスルマは多くの勾玉や管玉を、
       紐で貫いてまとめて輪にしたもの。
「青和幣、白和幣」・・・木綿で作った白のを白和幣、麻で作った、
              やや青みあるものを青和幣という。
         岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀上』より


■奉納額絵
 時に手力雄神、則ち天照大神の手(みて)を奉承(たまは)りて、引(ひ)き奉出(いだしまつ)る。
                            2007年6月9日
                天岩戸神社(奈良県橿原市南浦町)


■天の石屋戸の祭祀

日本書紀神代上 第七段本文 原文
是時天照大神驚動。以梭傷身。由此発慍。乃入于天石窟。閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇、而不知昼夜之相代。于時八十万神会合於天安河辺計其可祷之方。故思兼神深謀遠慮。遂聚常世之長鳴鳥。使互長鳴。亦以手力雄神立磐戸之側。而中臣連遠祖天児屋命。忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇真坂樹。而上枝懸八坂瓊之五百箇御統。中枝懸八咫鏡。一云、真経津鏡。下枝懸青和幣 和幣。此云尼枳底。 白和幣。相与致其祈祷焉。又猿女君遠祖天鈿女命。則手持茅纒之■。立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦以天香山之真坂樹為鬘。以蘿 蘿。此云此舸礙。 為手繦 手繦。此云多須枳。 而火処焼。覆槽置 覆槽。此云于該。 顕神明之憑談。 顕神明之憑談。 此云歌牟鵝可梨。 是時天照大神聞之而曰。吾比閉居石窟。謂当豊葦原中国必為長夜。云何天鈿女命■楽如此者乎。乃以御手細開磐戸窺之。時手力雄神則奉承天照大神之手引而奉出。於是中臣神。忌部神。則界以端出之縄。 縄。亦云、左縄端出。此云斯梨倶梅儺波。 乃請曰。勿復還幸。

読み下し文 岩波書店 日本古典文学大系 『日本書紀上』から
是(こ)の時に、天照大神(あまてらすおほみかみ)、驚動(おどろ)きたまひて、梭(かび)を以(も)て身(み)を傷(いた)ましむ。
此(これ)に由(よ)りて発慍(いか)りまして、乃(すなは)ち天石窟(あまのいわや)に入(い)りまして、磐戸(いはと)を閉(さ)して幽(こも)り居(ま)しぬ。
故(かれ)、六合(くに)の内(うち)常闇(とこやみ)にして、昼夜の相代(あひかはるわき)も知らず。
時に、八十万神(やそよろずのかみたち)、天安河辺(あまのやすのかはら)に会合(つど)ひて、其の祷(いの)るべき方(さま)を計(はから)ふ。
故(かれ)、思兼神(おもひかねのかみ)、深く謀(はか)り遠(とほ)く慮(たばか)りて、遂(つひ)に常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を聚(あつ)めて、使互(たがひ)に長鳴(ながなき)せしむ。
亦(また)手力雄神(たちからをのかみ)を以て、磐戸(いはと)の側(とわき)に立(かくした)てて、中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖(とほつおや)天児屋命(あまのこやねのみこと)、忌部(いみべ)の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)、天香山(あまのかぐやま)の五百箇(いほつ)の真坂樹(まさかき)を掘(ねこじにこ)じて、上枝(かみつえ)には八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)を懸(とりか)け、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ) 一(ある)に云はく、真経津鏡(まふつのかがみ)。 を懸(とりか)け、下枝(しづえ)には青和幣(あをにきて)、和幣…此をば尼枳底(にきて)と云ふ。白和幣(しろにきて)を懸(とりし)でて、相与(あひとも)に致其祈祷(のみいのりまう)す。
又猿女君(さるめのきみ)の遠祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)、則ち手に茅纒(ちまき)の矛(ほこ)を持ち、天石窟(あまのいはや)戸(と)の前に立たして、巧(たくみ)に作俳優(わざをき)す。
亦(また)天香山の真坂樹を以て鬘(かづら)にし、蘿(ひかげ) 蘿…此をば此舸礙(ひかげ)と云ふ。 を以て手繦(たすき) 手繦…此をば多須枳(たすき)と云ふ。 にして火処(ほところ)焼(や)き、覆槽(うけ)置(ふ)せ、 覆槽…此をば于該(うけ)と云ふ。 顕神明之憑談(かむがかり)す。 顕神明之憑談…此をば歌牟鵝可梨(かむがかり)と云ふ。
是の時に、天照大神、聞(きこ)しめして曰(おもは)さく、「吾(われ)、比(このごろ)石窟(いはや)に閉(こも)り居(を)り。
謂(おも)ふに、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は、必(かなら)ず、長夜(とこやみゆ)くらむ。
云何(いかに)ぞ天鈿女命(あまのうずめのみこと)如此(かく)■楽(ゑら)くや」とおもほして、乃ち御手(みて)を以て、細(ほそめ)に磐戸を開(あ)けて窺(みそなは)す。
時に手力雄神、則ち天照大神の手(みて)を奉承(たまは)りて、引(ひ)き奉出(いだしまつ)る。
是に、中臣神(なかとみのかみ)、忌部神(いみべのかみ)、則ち端出之縄(しりくめなは)、 縄…亦(また)云はく、左縄(ひだりなは)の端出(はしいだ)すといふ。 此をば斯梨倶梅儺波(しりくめなは)と云ふ。 界(ひきわた)す。
乃(すなは)ち請(まう)して曰(まう)さく、「復(また)な還幸(かへりい)りましそ」とまうす。

真坂樹…サカキは境(さか)木の意であろう。神域を境界する木。
御統・・・ミスマルは多くの勾玉や管玉を、
       紐で貫いてまとめて輪にしたもの。
青和幣、白和幣・・・木綿で作った白のを白和幣、麻で作った、
             やや青みあるものを青和幣という。
鬘…頭に巻く飾り
蘿…さがりごけ

 これは、誰もが知っている天照大神の天の岩戸隠れの神話を『日本書紀』の神代上、第七段本文というところから引用しました。
この第七段には天の岩戸隠れの神話が「一書(あるふみ)に曰はく・・・」として、他に、第一から第三まで三種類 書かれています。
大筋は同じなのですが、細部が違っていたり短くなったりしています。
同様の神話が『古事記』の上つ巻にも書かれています。
長文なので一部を抜き出しました。

■『古事記』 上つ巻 天の石屋戸の祭祀の段 原文
召天兒屋命・布刀玉命 布刀二字以音。下效此。而内拔天香山之眞男鹿之肩拔而取天香山之天之波波迦 此三字以音。木名。而令占合麻迦那波而 自麻下四字以音。
天香山之五百津眞賢木矣根許士尓許士而 自許下五字以音。
於上枝取著八尺勾■之五百津之御須麻流之玉於中枝取繋八尺鏡 訓八尺云八阿多。於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而 訓垂云志殿。
此種種物者布刀玉命布刀御幣登取持而天兒屋命布刀詔戸言祷白
而天手力男神隱立戸掖
而天宇受賣命手次繋天香山之天之日影而爲鬘天之眞拆而手草結天香山之小竹葉而 訓小竹云佐佐。
於天之石屋戸伏■氣 此二字以音。而蹈登杼呂許志 此五字以音。
爲神懸而掛出胸乳裳緒忍垂於番登也尓高天原動而八百萬神共咲。

読み下し文
天兒屋命(あまのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)を召(め)して、天香山(あまのかぐやま)の眞男鹿(まをしか)の肩(かた)を内拔(うつぬ)きに拔(ぬ)きて、天香山の天之波波迦(あまのははか)(木の名ぞ)を取りて、占合(うらな)ひまかなは令(し)めて、天香山の五百津(いほつ)眞賢木(まさかき)を根こじにこじて、上枝(かみつえ)に八尺勾■(やあたまがたま)の五百津(いほつ)の御須麻流(みすまる)の玉を取り著(つ)け、中枝(なかつえ)に取繋八尺鏡(やあたかがみ) (八尺を訓みて八阿多(やあた)と云(い)ふ)、下枝(しづえ)に白丹寸手(しろにきて)・青丹寸手(あをにきて)を取り垂(しで)て(垂を訓みて志殿(しで)と云ふ)、此の種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命(ふとたまのみこと)、布刀御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天兒屋命(あまのこやねのみこと)、布刀詔戸(ふとのりと)言祷(ことほ)ぎ白(まう)して、天手力男神(あまのたちからをのかみ)、戸の掖(わき)に隱(かく)り立ちて、天宇受賣命(あまのうずめのみこと)、天香山(あまのかぐやま)の天之日影(あまのひかげ)を手次(たすき)に繋(か)けて、天之眞拆(あまのまさき)を鬘(かづら)にして、天香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)にして(小竹を訓みて佐佐(ささ)と云ふ)、天之石屋戸(あまのいはと)に■氣(うけ)伏(ふ)せて、蹈(ふ)みとどろこし、神懸(かむがかり)して、胸乳(むなち)を掛(か)き出(い)で、裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂(た)れき。高天原(たかまのはら)動(とよ)みて、八百萬(やほよろず)の神共(とも)に咲(わら)ひき ・・・。

大意
 天の兒屋(こやね)の命・太玉(ふとたま)の命をお呼びになり、天の香山の男鹿の肩骨をそっくり拔きとって、天の香山の朱桜(かにわざくら)の木の皮を取ってきてそれで肩骨を焼いて神意を問う占いを行わせ、天の香山のみごとに繁ったさかきを根ごとこじ抜いてきて、その木の上の方の枝にはたくさんの大きな勾玉を長々と統(す)べつらねた連珠をとりつけ、中ほどの枝には大きいりっぱな鏡をとりかけ、下の方の枝には白いぬさ・青いぬさをとりつけて垂らし、これらいろいろの物は太玉の命が立派な神へのお供え物としてお持ちになり、天の兒屋の命はのりとを奏して祈願なさいました。
そして天の手力男(たちからを)の神は岩屋戸のわきに隠れて、天のうずめの命が天の香山のひかげのかずらをたすきにかけて、蔓(つる)まさきを髪飾りにして、天の香山の笹の葉を束ね持って、石屋戸の前に桶を伏せて置き、その上で踏み踊って大きな足音をとどろかせ、神がかりして、胸の乳房をあらわに出し、腰にまとう裳のひもを低く下げて、ほとのあたりまでずらして踊り続けました。それで高天の原(たかまのはら)が振るうほどにどっとわき、八百萬(やおろず))の神々が一斉にお笑いになりました  ・・・。


 この天照大神の天の岩戸隠れの話は、天上にある高天の原での話。
天の香山は高天の原にある聖山です。
しかし実際は、古代祭祀において地上でおこなわれる祭りは天上と同じだと考えられました。
大和が高天の原的世界と考えられたことの反映にほかありません。
つまり、地上の香具山は天上の聖山そのものとみなされたわけです。
実際に香具山の埴土で八十平瓮をつくり天神地祇を祭られたり(神武天皇即位前紀・崇神紀10年)、波波迦の皮で占いがおこなわれたり(平成二年の大嘗祭)、さかきや笹が盛んに採取されたりしたことがうかがえます。


■天香山神社
 香久山の北側山麓に鎮座する神社で、ご祭神は櫛真神(くしまちのかみ)。
境内にある 「 定 」 に、

「 御祭神
櫛真神 元名 大麻等地神
櫛は奇(不思議)真は兆(占い)の古語にて、神武天皇記に、天香山の社が見え創建古し。・・・」
とあります。

神名の「クシマチ」の神について『大和志料』中巻に「当社ハ彼ノ卜部等ガ国家ノ為ニ斎祀スル所ニシテ、櫛真智ハ兆ノ古語即チ鹿骨、亀甲ニ形(アラハ)レタル縦横ノ文ヲ以テ殊ニ奇ノ語ヲ加ヘ、「奇兆(クシマチ)」ト称シ直ニ之ヲ神霊トシ櫛真智命トセルモノナリ」とあって、櫛真神は占いの神様です。

『古事記』 上つ巻 天の石屋戸の祭祀の段 原文
召天兒屋命・布刀玉命 布刀二字以音。下效此。而内拔天香山之眞男鹿之肩拔而取天香山之天之波波迦 此三字以音。木名。而令占合麻迦那波而 自麻下四字以音。
読み下し文
天兒屋命(あまのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)を召(め)して、天香山(あまのかぐやま)の眞男鹿(まをしか)の肩(かた)を内拔(うつぬ)きに拔(ぬ)きて、天香山の天之波波迦(あまのははか)(木の名ぞ)を取りて、占合(うらな)ひまかなは令(し)めて・・・


■波波迦(ははか)の木
 天香山の眞男鹿の肩を内拔きに拔きて、天香山の天之波波迦を取りて、占合ひまかなは令めて・・・

境内にあった「波々迦の木」の説明板によると、
「 いばら科の木で朱桜(かにわざくら)、うはみずざくら、こんごうざくら、かばざくら、等の別名があります。
古事記によれば、この木の皮で香具山の雄鹿の骨を焼いて吉凶を占ったそうです。
平成二年の大嘗祭関連の諸儀で「斉田点定の儀」の亀占に用いるため、波々迦を宮内庁の御下命により奉納致しました。
              奈良県橿原市南浦町 天香山神社  」


■神武天皇記に、天香山の社が見え・・・

『日本書紀』 神武天皇即位前紀戊午年(前663年)九月の条 原文
夢。有天神訓之曰。宜取天香山社中土。香山。此云介遇夜摩。以造天平瓮八十枚。平瓮。此云毘邏介。并造厳瓮。而敬祭天神地祇。厳瓮。此云怡途背。亦為厳呪詛。如此則虜自平伏。厳呪詛。此云怡途能伽辞離。
読み下し文
夢(みゆめ)に天神(あまつかみ)有(ま)して訓(をし)へまつりて曰(のたま)はく、
「 天香山(あまのかぐやま)の社(やしろ)の中の土(はに)を取りて、 香山・・・此をば介遇夜摩(かぐやま)と云ふ。 天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造(つく)り、 平瓮・・・此をば毘邏介(ひらか)と云ふ。 并(あは)せて厳瓮(いつへ)を造(つく)りて、天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬(ゐやま)ひ祭(まつ)れ。 厳瓮・・・此をば怡途背(いつへ)と云ふ。 亦(また)厳呪詛(いつのかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜(あた)自(おの)づから平(む)き伏(したが)ひなむ 」とのたまふ。
厳呪詛・・・此をば怡途能伽辞離(いつのかしり)と云ふ。

 これは、神武天皇が大和の国を平定しょうとするときの一節。
天皇が菟田(うだ)の高倉山(たかくらやま)に登って、国の中を望むと、敵は要所要所に軍を置き、また兄磯城軍(えしきぐん)は大軍で磐余邑(いはれのむら)に布陣している。敵のいる所はみな要害の地。道は絶え塞がれ進軍することができない。天皇は、その夜、自から祈願し寝た。夢に天神が現れ教え告げられた。「 天の香具山の社(やしろ)の中の土を取って、天の平瓮(ひらか)八十枚を造り、あわせて厳瓮(いつへ)を造り天神地祇(あまつやしろ くにつやしろ)を敬い祭れ。また厳呪詛(いつのかしり・・・潔斎して行う呪言)をせよ。かくのごとくすれば、敵は自から降伏するだろう。 」


■香具山の埴土で天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り、あわせて厳瓮(いつへ)を造って、天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬い祭れ。
 夢に現れた天神とはいったい誰のことでしょう。
神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東征神話で「我(やつかれ)は是(これ)日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして…」と言っています。
日神、すなわち我は天照大神の子孫であると。
すなわち、夢に現れた天神とは天照大神と考えられます。
天神地祇は天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)、「津(つ)」は現代語の「の」のことで、天の神、国の神という意味です。
天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神々のこと。それに対して国津神は地に現れた神々のこと。
高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされています。

 『古事記』上巻、天照大神が葦原中國(あしはらのなかつくに)の平定について、天安河(あめのやすのかわ)の河原に八百萬の神を集めて相談する段に、

 ・・・天照大神・尓高御産巣日神(たかむすひのかみ)のご命令によって、天の安の河の河原に八百萬(やほよろず)の神をお集めになって、思金神(おもひかねのかみ)に思いはからせて、おっしゃいました。
「この葦原の中國は、わがみ子がお治めになるべき國として、そのことを委任して賜ったところなのです。
それで、この國に暴威をふるう荒々しい土着の神たちが多く居るけれど、それらは、どんな神を遣わして説得帰順させたものだろうか。」
思金神・八百萬神と相談されて、
「天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わすのがよろしいのでは」
と申しました。
それで、天菩比神を遣わしましたところ、そのまま大國主神(おほくにぬしのかみ)に媚(こ)びへつらって従い、三年になってもかえりごとをいたしませんでした・・・。


日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。
香具山は高天原の香山と同じ聖山と考えられ、その地上の香具山の埴土で造られたは天平瓮や厳瓮は、天津神が遣わした神であり、敬い祭ることは、大和の国の国津神を説得帰順させる行為だと考えられます。
国津神、すなわち大和王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が、天津神、すなわち皇族や有力な氏族が信仰していた神によって説得帰順させられるという構図を言っています。

神武天皇は大和の国を平定する、すなわち国津神を説得帰順させるには、天神がお告げになった香具山の埴土がどうしても必要であったわけです。



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