大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも
おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも

柿本人麻呂

2009年11月1日
雷丘(奈良県高市郡明日香村大字雷)



天皇(すめらみこと)、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作る歌一首

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも
おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも

                                       柿本人麻呂
                                        巻3 235

 右、或る本に曰はく、忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)るといへり。
その歌に曰はく、

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます
おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます

                                       柿本人麻呂
                                       巻3 235

原文と読み
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
皇者  神二四座者  天雲之  雷之上尓  廬為流鴨
おほきみは  かみにしませば  あまくもの  いかづちのうへに  いほりせるかも
右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰
 神座者  雲隠  伊加土山尓  宮敷座
おほきみは  かみにしませば  くもがくる  いかづちやまに  みやしきいます


大意
 大君は神でいらっしゃるから、雨雲の雷の上にいほりしておいでになる。(雷丘を実際の天空に鳴りとどろく雷に見なして歌っている)

 大君は神でいらっしゃるから、雲隠る雷山に御殿をいとなんでおいでになる。


 この歌は天皇が雷岳に行幸した時、柿本人麻呂が作った歌で、
「 ・・・ 天雲の 雷の上に ・・・」 という表現から雷岳はもっと壮大な山のような感じがしますが、
実際はどこにでもあるような高さ20メートルほどの小さな丘です。
こんな小さな丘にどうして天皇がいほりしたのでしょう。
国見儀礼? それとも雨乞いのため?
『日本書紀』 天武天皇元年(672)六月の条に気になる一文が記録されています。

天武天皇元年(672)六月の条、原文
天皇於茲、行宮興野上而居焉。此夜。雷電雨甚。則天皇祈之日。天神地祇扶朕者。雷雨息矣。言訖即雷雨止之。

読み下し文  岩波書店 日本古典文学大系 『日本書紀下』より

天皇、茲(ここ)に、行宮(かりみや)を野上(のがみ)に興(おこ)して居(ま)します。此の夜、雷電(いかづち)なりて雨ふること甚(はなはだ)し。
天皇祈(うけ)ひて日はく、「天神地祇(あまつかみくにつかみ)、朕を扶(たす)けたまはば、雷(かみ)なり雨ふること息(や)めむ」とのたまふ。
言(のたま)ひ訖(をは)りて即(すなは)ち雷なり雨ふること止(や)みぬ。

 野上(のがみ)は岐阜県不破郡関ヶ原町野上の地。
壬申の乱の時、天武天皇は「ウケヒ」という神事をおこないました。
「ウケヒ」とは、あらかじめ甲乙二つの事態を予想しておいて、甲という事態が起これば神意はAにあり、
乙という事態が起これば神意はBにあると決めておいて、甲が起こるか乙が起こるかを見て、神意がAにあるのかBにあるのかを判断するもの。
天武天皇は天神地祇に、朕をたすける神意があれば雷雨が止み、そうでなければ雷雨が止まないと「ウケヒ」します。
そして思いどおりに雷雨が止み、天武天皇を助ける神意があるとしたわけです。
結果、天つ神・国つ神の助けがあったからこそ壬申の乱に勝利できた。
天武天皇はそう考えたに違いありません。
この『日本書紀』の一文と雷丘にいほりされたことは、なにか関連があるように思えてなりません。


蛇や竜は水神で雷となって雨をつかさどる
『日本書紀』 雄略天皇七年秋七月の条に
天皇詔少子部連■■曰。朕欲見三諸岳神之形。 或云。此山之神為大物代主神也。或云。菟田墨坂神也。 汝膂力過人。自行捉来。■■答曰。試往捉之。乃登三諸岳。捉取大蛇、奉示天皇。天皇不斎戒。其雷■■。目精赫赫。天皇畏。蔽目不見却入殿中。使放於岳。仍改賜名為雷。
■は私のパソコンで表示できない漢字

読み下し文  岩波書店 日本古典文学大系 『日本書紀上』より

天皇(すめらみこと)、少子部連■■(ちひさこべのむらじすがる)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「 朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神(かみ)の形(かたち)を見(み)むと欲(おも)ふ。或(ある)いは云(い)はく、此(こ)の山の神をば大物代主神(おほものぬしのかみ)と為(い)ふといふ。或いは云はく、菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ。汝(いまし)、膂力人(ちからひと)に過(す)ぎたり。自(みづか)ら行(ゆ)きて捉(とらへゐ)て来(まうこ) 」 とのたまふ。■■(すがる)、答(こた)へて曰(まう)さく、 「 試(こころみ)に往(まか)りて捉(とら)へむ 」 とまうす。乃(すなは)ち三諸岳に登(のぼ)り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて、天皇に示(み)せ奉(たてまつ)る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)■■(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。天皇、畏(かしこ)みたまひて、目(みめ)を蔽(おほ)ひて見(み)たまはずして、殿中(おほとの)に却入(かく)れたまひぬ。岳(をか)に放(はな)たしめたまふ。仍(よ)りて改(あらた)めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。

これは、雷丘の地名起源説話であるとも解釈できるし、少子部連すがる が雷の名を賜ったとも解釈できます。
また、蛇や竜は水神で雷となって雨をつかさどるとされています。


雷神降臨伝承
 平安時代初期に編集された説話集・「日本霊異記」(にほんりょういき)に、雄略天皇(5世紀後半ごろ)の侍者、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、地上の雷を捕らえたとあるほか、栖軽の死後に墓を建てたとの記述もあって、古墳が存在していた可能性があるとのことです。


雷丘に円筒埴輪片が多数出土
 雷丘(高さ約20メートル)の西斜面から雷神降臨伝承と同時期の5世紀後半の円筒埴輪(はにわ)片が多数出土したと奈良文化財研究所が2005年11月21日発表しました。
同研究所は「かつて古墳があった可能性があり、伝承に何らかの関連があるかもしれない」とのこと。
 しかし、柿本人麿がここで詠っている庵(いほり)の跡や建物の遺構などは全く見つかりませんでした。
5世紀後半の円筒埴輪片数百個のほか、7世紀の小型石室も出土しました。
15世紀ごろの山城の堀(深さ2メートル)の跡も見つかっており、奈文研は「庵跡は、山城造成時に削られたのかもしれない。
いずれにしても、古代には藤原京一帯などが一望できる場所だった。
中世には敵の攻撃を見極める物見台の役割を果たしたのではないか」とのことです。



HOME