安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに
万葉集巻16 3807

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
古今和歌集・仮名序


万葉歌が書かれた木簡、初めて出土
  滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つかり、
2008年5月25日、信楽中央公民館で出土した歌木簡の公開と大阪市立大学大学院・栄原永遠男(さかえはらとわお)教授、
同院・村田正博教授による 紫香楽宮「万葉歌木簡」出土記念講演会 がありました。
2008年5月25日
信楽中央公民館(滋賀県甲賀市信楽町)

 『万葉集』は奈良時代に編さんされた日本で最も古い歌集です。
原本はまだ発見されておらず、現存最古の万葉集の写本は平安時代中期に書写された『桂本万葉集巻第四断簡』と呼ばれるもの。
今回発見された木簡は万葉集に収録されている「安積山」の歌が、
反対側の面には『古今和歌集』仮名序収録の「難波津」の歌が書かれていました。
それも両面とも漢字1字で1音を表記する万葉仮名で。
これは注目すべきことです。
一緒に出土した荷札の年号から、この木簡は744年末〜745年初めに捨てらたと考えられます。
万葉集は745年以降の数年間に巻1〜巻15と付録が成立し、付録を増補して巻16として独立させ、
家持歌日記歌群を合わせて二十巻本としたとする説が有力です。
すなわち、この木簡は万葉集の編さん前に書かれたことになります。

岩波書店 日本古典文学大系『万葉集一』の解説によれば、
今に伝わる万葉集の歌は、漢字による表記方法もさまざまで、多くの工夫が見られるという。
例えば
 漢字の字音(音読み)によって表記するもの
  阿米(アメ ・天) 久尓(クニ ・国) 許己呂(ココロ ・心) 登布(トフ ・問ふ) 奈我良(ナガラ ・助詞)
 漢字の意味によって表記するもの
  (1)正訓 天(アメ) 国(クニ) 情(ココロ) 問(トフ) 草枕(クサマクラ) 光儀(スガタ)
  (2)借訓 鶴毳(ツルカモ ・助動詞と助詞) 小谷(ヲダニ ・助詞) 名津蚊為(ナツカシ)
  (3)戯訓 十六(シシ ・四四十六の意) 八十一(クク ・九九八十一の意) 山上復有山(イヅ ・出)
 このように一見雑多ですが、その表記には単に歌を写すという意識だけによって成立しているものではないらしい。
万葉集の表記には、やはり、歌を書くのだという一種の文学的意識、あるいは美意識が底流しているという。
また、同一の音節が連続して現れる場合に、その音節を異なった文字で書く事実。
例えば助詞ツツを都追または追都と書いて、都〃と書くのは限られた少数の巻々だけであること。
万葉集より古い成立である古事記でさえも、同一の音節の連続に対し、何の工夫もせず同一の文字を繰り返して用いており、
その方が、仮名の用法として簡易であり、表音文字として進歩しているとさえ言えるにもかかわらず、
万葉集の多くの巻々が同音の連続の場合に字を変えているのは、恐らく、中国の作詩法における同一の文字を避けるという作法を、
機械的に取り入れたものでろう。
このように見るとき、万葉集の用字法は、歌を美しく書こうというような特別の用字法意識によっている所があるということになる・・・。

 大阪市立大大学院の村田正博教授(国文学)の講演で、
木簡の両面が古今和歌集の序文の2首とまさに同じセット。
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
難波津の歌はいわば公の歌。宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、
裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測し、
「難波津の歌」と「安積香山の歌」がセットであると認識していた人が、少なくとも一人はいたことになる。
2首を手本とする考え方はその150年前から、いや、それ以前からずっと存在していて、
「子供の頃に手習いで書いたなぁ」ということで、持ち帰った木簡の裏に書いたのではないか。

 人々の間で謡われてきた歌が一字一音の万葉仮名で書かれていた事実。
手習ふ人の初めにもするという「安積山」の歌は、「 歌を美しく書こうというような特別の用字法意識 」 によって使用する漢字を
選び改めて、万葉集に収録されたのかもしれません。
今回の歌木簡の発見は、万葉集の成立過程を明らかにするうえで極めて重要な発見です。
当サイトは奈良県内の万葉の故地を紹介するサイトですが、万葉集を研究する者にとって今回の発見は極めて重要と考え、
「ご紹介したい万葉集の歌」に掲載することにしました。


■初めて出土した「万葉歌木簡」から


安積山 影さへ見ゆる 山の井の
あさかやま かげさへみゆる やまのゐの

          浅き心を わが思はなくに
          あさきこころを わがおもはなくに

                     陸奥国前采女
                     巻16 3807

右の歌は、傳へて云はく、葛城王(かづらきのおほきみ)陸奥(みちのく)國に遣さえし時に、
國司の祗承(ししよう)の緩怠(かんたい)なること異(こと)に甚(はなはな)し。
時に、王の意(こころ)に不悦(よろこ)びず、怒(いかり)の色面(おもて)に顕(あらは)る。
飲饌を設(ま)くと雖(いへど)も、肯(あ)へて宴樂(えんらく)せず。
ここに前(さき)の采女(うねめ)あり。
風流の娘子なり。
左の手に觴
(さかづき)を捧(ささ)げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。
すなはち王の意解け悦びて、樂飲すること終日(ひねもす)なりきといへり。


■原文と読み
安積香山  影副所見  山井之  淺心乎  吾念莫國
あさかやま  かげさへみゆる  やまのゐの  あさきこころを  わがおもはなくに
右歌傳云
葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚
於時王意不悦怒色顕面
雖設飲饌不肯宴樂
於是有前采女
風流娘子
左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌
尓乃王意解悦樂飲終日


■大意
 安積山、物の影まで見える山の井のように、浅い心であなたのことを思っていないのに。


 万葉集巻16の「由縁(ゆえん)ある雑歌(ざふか)」という標目に収録されている歌。
歌の後に、
右の歌は、傳へて云はく、葛城王(かづらきのおほきみ)陸奥(みちのく)國に遣さえし時に、
國司の祗承(ししよう)の緩怠(かんたい)なること異(こと)に甚(はなはな)し。
時に、王の意(こころ)に不悦(よろこ)びず、怒(いかり)の色面(おもて)に顕(あらは)る。
飲饌を設(ま)くと雖(いへど)も、肯(あ)へて宴樂(えんらく)せず。
ここに前(さき)の采女(うねめ)あり。
風流の娘子なり。
左の手に觴(さかづき)を捧(ささ)げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。
すなはち王の意解け悦びて、樂飲すること終日(ひねもす)なりきといへり。

 葛城王が陸奥(みちのく)國に遣わされたときに、国司のもてなしがなおざりであると、怒りが顔にでてしまった。
酒食を設けても、あえて宴(うたげ)を楽しまない。
ここに以前采女として仕えていた、みやびやかな娘がいた。
左の手に酒の入った盃をささげ(深き心)、右の手に水を持って(山の井から汲んできた水(底の見えるような浅き心))、
王のひざを打ってこの歌を詠んだ。
それで、王の怒りの心が解きほぐれて、終日、酒を楽しんだという。


■出土した歌木簡の一般公開と紫香楽宮「万葉歌木簡」出土記念講演会
  滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つかり、
2008年5月25日、信楽中央公民館で出土した歌木簡の公開と大阪市立大学大学院・栄原永遠男(さかえはらとわお)教授、
同院・村田正博教授による 紫香楽宮「万葉歌木簡」出土記念講演会 がありました。

木簡の片面に書かれてあった上記の「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、

   阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
   あさかやま  かげさへみゆる  やまのゐの あさきこころを  わがおもはなくに

反対側の面には『古今和歌集]』仮名序の

   難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
   なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

の歌が書かれていました。
万葉仮名に復元すると、

   奈迩波ツ尓久夜己能波奈布由己母理伊麻波々流倍等佐久夜己乃波奈
   なにはつに  さくやこのはな  ふゆごもり  いまははるべと さくやこのはな

となり、赤字部分が今回出土した部分です。
会場で頂いた資料には「万葉仮名については、犬飼 隆 愛知県立大学大学院教授の指導を得ました。」とあります。


■発見者である大阪市立大学大学院・栄原永遠男(さかえはらとわお)教授による「あさかやま木簡の発見とその意義」という演題で講演され、また頂いた資料によると、

 今回発見された「歌木簡」は、
奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮跡とされる滋賀県甲賀市信楽町の宮町遺跡(みやまちいせき)。
その紫香楽宮中枢部の西側を南北方向に流れる、当時の基幹排水路と推定される西大溝から平成9年(1997)度実施の第22次調査で出土。
平成19年(2007年)12月に、歌木簡の研究のため、宮町遺跡出土の木簡を再調査
今回発表となった木簡が、削屑でなく表裏に墨書があり、「 阿佐可夜 」の文字を確認。
その後、奈良文化財研究所史料研究室による文字内容の検討と再釈読の実施
3月末に、国文学研究者を交えた、「出土木簡検討会」で慎重に検討し、今回の発表に至った。


 歌木簡が書かれた時期と『万葉集』との関係
 大溝からは8世紀中頃の土器とともに木簡、削屑が出土し、覆土内に大量の焼け焦げた太い枝や根が投棄されているので、
埋め立てられている。
埋め立て後も造営工事が行われ、天平17年(745)5月の聖武天皇の平城京移動までつづけられた。
今回の「歌木簡」とともに天平16年(744)の隠岐国の調鰒(アワビ)荷札が出土。
賦役令集解3調庸物条古記所引民部省式では隠岐は遠国。
養老賦役令3調庸物条では調庸の納入期限は、遠国12月30日。
すなわち税金の納入期限が12月30日で、この日までは大溝は埋め立てられていない。
隠岐の調であるアワビは天平16年末以前に納入され、中身の使用にあたって包装材が廃棄された。
その時期は確定しがたいが、およそ天平16年末〜17年初めと推定される。
したがって、あさかやまの歌は天平16年末〜17年初め以前に書かれたことになる。
万葉集は天平17年(745)以降の数年間に巻1〜巻15と付録が成立し、付録を増補して巻16として独立させ、
家持歌日記歌群を合わせて二十巻本としたとする説が有力。
あさかやまの歌が書かれた時期を、天平16年末〜17年初以前とすると、『万葉集』巻16の成立よりも早い可能性が高い。
『万葉集』巻16を見て、そこに載っているあさかやまの歌を書き写したのではなく、あさかやまの歌が当時広く流布していて、
それが、一方では木簡に書かれ、他方では万葉集巻16に収録された。
そして、『万葉集』と同じ歌がはじめて木簡で出土した。


 木簡について
削屑でなく木簡。
上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ以下。
上端や左右両辺は割れている。
下端は焼損していて、偶然、焼け残った木簡が排水路に捨てられ、偶然、排水路にひっかかってそのまま埋め立てられた。
材の厚さは1ミリ以下とかなり薄いが、この薄さの材を作ることは、「せん」なら可能である。
文字の配列などから木簡の全長は、全体で2尺(約60.6センチ)程度であったことが推定される。
官人が、約2尺の材になにはつの歌を書いて、儀式か宴等に参加して朗詠したあと、木簡を持ち帰り、あさかやまの歌を書いた。
この木簡が「歌木簡」の一つであることは確実。


 今回の発見の意義
@ 『万葉集』と同じ歌がはじめて木簡で出土した。
A 『古今和歌集』仮名序に見える 「あさかやまーなにはつ」 の歌のセットが、
  150年さかのぼって紫香楽宮の時代にすでに存在していたことが判明した。
B 紫香楽宮でも儀式や宴会で歌木簡が用いられていたことが確認された。



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