古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の     2008年4月22日     栗原の里(奈良県桜井市大字粟原)

■ご紹介したい万葉集の歌


 吉野の宮に幸しし時、弓削皇子、額田王に贈る歌一首

   古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
   いにしへに こふるとりかも ゆづるはの

              御井の上より 鳴き渡り行く
              みゐのうへより なきわたりゆく

                                弓削皇子
                               巻2 113


 額田王、和へ奉る歌一首

   古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥
   いにしへに こふらむとりは ほととぎす

              けだしや鳴きし わが念へる如
              けだしやなきし わがもへるごと

                               額田 王
                              巻2 112



■原文と読み
  幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首
 古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴濟遊久
 いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みゐのうへより
 なきわたりゆく(111)

  額田王奉和歌一首
 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
 いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし
 あがもへるごと(112)


■大意
 昔のことを恋い慕う鳥でしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴き渡っていくのは。

 昔を恋い慕っているという鳥はほととぎすです。きっと鳴いたことでしょう、私が昔を思い慕っているように・・・


 これは、持統天皇が吉野の宮に行幸された時、つき従った弓削皇子(ゆげのみこ)が額田王に歌を贈り、額田王がそれに和えた歌です。
「吉野の宮 」というのは吉野川沿いの奈良県吉野町宮滝にあった宮で、弓絃葉の御井もその宮中のどこかにあったのでしょう。
弓絃葉の好い樹が清水の湧き出る御井のほとりあったので、そう呼ばれたのだと思います。
おりしも、その弓絃葉の御井の上を鳥が鳴きながら飛んでゆく。
弓削皇子は遠ざかる鳥の声に父帝天武天皇との在りし日を思い出し、重ねて若き日に寵愛をうけ今はその思い出に生きる人、額田王にあたたかい同情をよせています。

   古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
   いにしへに こふるとりかも ゆづるはの

              御井の上より 鳴き渡り行く
              みゐのうへより なきわたりゆく

この歌がいつ詠われたのかわかりません。
持統女帝はこの宮を30回以上も訪れていまが、仮に持統7年(693)5月の行幸の時とすると、弓削皇子は19か20歳、額田王は60歳ぐらい・・・?だったと思われます。
20歳そこそこの若い皇子から栗原の里にいる、すでに老境に入った額田のもとへこの歌が贈られたわけです。
 私は柿本人麿を中心に歌好きの人たちが集まる人麿サロンと呼ぶべき歌の会というか、人麿を先生にして歌を勉強する会のような集まりが当時あったのではないかと思うことがあります。
草壁皇子の舎人らの歌群171〜193や242と244の同じような歌などがその存在を匂わせます。
それは家持のいう「山柿の門」なのかもしれませんが・・・?

 弓削皇子、吉野に遊(いでま)しし時の御歌一首

   瀧の上の 三船の山に 居る雲の
   たぎのうへの みふねのやまに ゐるくもの

             常にあらむと わが思はなくに
             つねにあらむと わがおもはなくに

                              弓削皇子
                             巻3 242

   み吉野の 御船の山に 立つ雲の
   みよしのの みふねのやまに たつくもの

             常にあらむと わが思はなくに
             つねにあらむと わがおもはなくに

                     柿本人麿の歌集に出づ
                             巻3 244

そっくりでしょう。
この集まりは柿本人麿の歌集の成立とも深く関わっているんじゃないかな。
それで弓削皇子は額田王とも親しく交流していて、「 古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の」の歌を贈ったのだと私は考えています。
 額田王はこの歌に

   古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥
   いにしへに こふらむとりは ほととぎす

              けだしや鳴きし わが念へる如
              けだしやなきし わがもへるごと

という歌でもって和えています。
額田王もまた、大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)に愛された若き日々の思い出がよみがえり、
「・・・けだしや鳴きし わが念へる如 」
きっと鳴いたことでしょう、私が昔を思い慕っているように・・・
古を追慕するお気持ちが痛切に伝わってくる歌です。

■額田王、終焉の地と伝える栗原(おうばら)の里
                             2008年4月7日
                 栗原の里(奈良県桜井市大字粟原)


 栗原寺跡にあった説明板によると、
「 当地には、「有名な萬葉の女流歌人・額田王の終焉の地だ」と言う伝承が遺されています。
さすれば、国宝・栗原寺三重塔路盤の銘文にある比賣朝臣額田が、その人であるかもしれません。
この事は、史的考証ではなく詩的確信です。
数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩後の複雑な立場の拠り処を この地に求めたものと想われます。
 天智帝の子、弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。
持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡って行ったほととぎすの声に託して、ひそかな懐旧追慕の情を額田に訴え、これを受けた糠田はわが心とからだのうちそとを通り過ぎて行った人々の回想追憶の悲しみを詠いました。
この贈答歌は、お二人の真情が惻々と伝わりますし、その舞台は、ただ空しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が、最もふさわしいと感じます。
 この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人、金本朝一氏の御意志に依って、この碑文は建立されました。
               昭和六十三年十月二十一 栗原区 」




■栗原寺跡
 栗原集落南端の天満神社境内とその隣接地に、塔跡・金堂跡が残されています。
この栗原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔露盤の伏鉢は、談山神社蔵(国宝)として残っています。
銘文によると中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子を偲び栗原寺の創立を誓願したと刻まれています。
そして、大嶋没後、引き継いだ比賣朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持統8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成。
22年もの月日を要してこの地に伽藍を建て、草壁皇子と共に大嶋の冥福をあわせて祈ったとされています。
この比賣朝臣額田、その人こそ額田王であるといわれています。

                             2008年4月8日
                  栗原寺跡(奈良県桜井市大字粟原)




■み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも
 奈良県吉野川の宮滝にある「夢のわだ」、その岸には松の木がいまもあります。
                             2008年4月22日
                         宮滝(奈良県吉野町)


■コケ生せる松の枝
 この贈答歌につづいて、つぎのような額田王の歌があります。

 吉野より蘿(こけ)生(む)せる松の柯(えだ)を折りて遣はす時、額田王の奉(たてまつ)り入るる歌一首


   み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君が御言を 持ちて通はく
   みよしのの たままつがえは はしきかも きみがみことを もちてかよはく

                                             額田 王
                                             巻2 113


■原文と読み
  従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首
 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
 みよしのの たままつがえは はしきかも きみがみことを もちてかよはく


■大意
 美しい吉野の玉松の枝はいとしい。君の御言葉を持って通ってくださいますもの。


 題詞よれば、コケの垂れ下がった松の枝を折って使いに持たせ、伝言を額田王に伝えたとあります。
普通のおばさんならコケの垂れ下がった松の古枝などを贈りつけたれたら、そりゃ怒りますよ。
でも額田王は違っていました。
逆に、コケの生えた松を「玉松」と詠い「愛しきかも ・・ いとしい」とまで詠っています。
さすが、額田王。
使いを送ったのは歌の流れからすると弓削皇子。
しかし、コケの垂れ下がった松の枝をわざわざ弓削皇子の伝言に添えさせたのは、多分・・・
天武天皇の奥さんである持統女帝・・・
恐ろしいですね。
想像をたくましくすると持統女帝はこう言っているじゃないかな。
 「私の愛した夫、天武天皇との思い出は私一人のものよ。
あんたが昔、どれだけ大海人皇子に愛されたか知りません!
昔の大海人皇子との思い出を歌にするのは止めてちょうだい。
あなたはこのコケの垂れ下がった松の古枝ように栗原の里で朽ち果てるのがお似合いよ!!」
しかし、額田王も黙ってはいません。
 み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも ・・・
「美しい吉野の玉松の枝はいとしいわ」って、切り返しています。
私は、ここに一人の男性をめぐる二人の女の戦いを、一瞬、かいま見た思いがします。


■アクセス
 「栗原寺跡」へは奈良県桜井市から国道166号線を大宇陀方面へ、「栗原バス停」付近を右折して案内板に従って傾斜地を登っていきます。
バス利用の場合は、近鉄桜井駅南口・奈良交通「のりば1」から大宇陀・菟田野行きバス「栗原バス停」下車。
ただし、バスの便数が少ないので要注意。



HOME