南米・ボリビアアンデス

パリナコータ・ポメラーペ登山報告書  

      Mt.PARINACOTA(6340m) 

   Mt.POMERAPE(6240m)                                  

     IN SAJAMA NATIONAL PARK

 メンバー

   内炭 孝夫(37才) 石田 達也(29才)

   宮本 高広(25才) 石田 綾子(29才)

  日 程                                                   

3月 2日  KIX(19:00)〜  VASP Brazilian Airlines

   3日  サンパウロ 乗り換え ラパスへ

   4日   ガスボンベ・食料の買い出し 

   5日  サハマまでの車の手配(ランクル230US$)

   6日  サハマ国立公園へ(スペイン語での登山申請)

   7日  サハマ 〜 BC (4900m)

   8日  上部(5100m)へ荷揚げ及び偵察

   9日  パリナコータへアタック(最高到達5850m)

  10日  BCにて休養

  11日  ポメラーペへアタック(最高到達5200m)

    日  BCよりサハマへ下山

  13日  サハマよりラパスへ  

  14日  コパカガーナ・太陽の島へツアー

  15日  コパカガーナ観光後ラパスへ

  16日  ハエン通り見学及びショツピング 

  17日  ラパス空港よりサンパウロへ

  18日  サンパウロ(1:30発)

  19日  KIX(16:00着)

 

「遠いアンデスの山に憧れて」

そもそもの発端は、愛知国体4位入賞時のメンバーであった宮本君が地元の静岡県に帰京して一端民間の企業に就職したが、なかなか自分の時間を作れず山へも行けず、思い切ってトラバーユしたのが始まりだった。就職先は山梨県の早川町役場。97年4月からの採用が決定したので、兼ねてから約束していた6.000M峰へのアタックを計画した。当初はネパールのアイランドピークに焦点を合わせていた。しかし、計画を立ていく段階で日程の不足が問題となった。確実に登るのに24〜25日ぐらい必要だった。それに、3月はコンディションも悪く、マイナス30度ぐらいまで下がる日もあることがわかった。ネパールは95年2月に僕も宮本君も一緒に行っており、プレ・モンスーンの時期は積雪のため、入山地域が限定されてしまうことを特に宮本君は痛感している。ダウラギリのベースキャンプを目指してガイドを雇って行ったが、結局積雪のため断念したからだ。他の山(メラピーク・パルチャモ等)も調べたが結局3週間プラスアルファは必要だった。ネパールをあきらめ、キリマンジャロやキナバル山とタイのプラナーンでのフリークライミングなども候補に上がったが、キリマンジャロはやはり5000mクラスということと、2人でわざわざ行くにしては少々物足りないし、後者はアメリカのボストン大学に留学中の高嶋君から延期命令が電子メールで来たのでこれもあきらめることにした。そこで、宮本君の知り合いからの情報によると南米が結構短期間で入山でき、6000mが登れるという情報を得た。候補に上げたのがエクアドルのチンボラソ、南米最高峰のアコンカグア、ボリビアのパリナコータだった。当初は、エクアドルのチンボラソにしょうと思ったが5000m付近まで車で入山して、一気に登頂するみたいだった。結局、エクアドルは大統領の追放という政変もあったので治安面からもパスすることにした。やはり、南米と言えばアコンカグアの魅力は捨てがたい。航空券も一番安く168000円だった。技術的にもそして、情報も一番多く知名度もバッグン。しかし、ネックは高度にあった。7000mに近い高度と休暇が3週間ではぎりぎりの選択だった。何もかもうまくいけば3週間でも可能みたいだが、そのリスクといきなり7000mというのがやっぱりふんぎりがつかなかった。今回は、宮本君がアトラストレックから入手した一枚の写真からパリナコータということに決定した。この山に決めたのが2月10日で、出発まで1ヶ月もなく資料集めや準備をすることになる。 メンバーは、内炭・宮本に石田夫婦が参加することになった。やはり、2人より少しでも多くの方が楽しいし、個人負担金も少なくてすむので大歓迎だ。実際に仲間たちの間でも「どこどこへ行きたい。」とか「行こうと思っている。」と言う人はたくさんいるが、実際に本当に行く人は限られてくる。その点、石田君とは2度も一緒にアメリカへ行っているし、また宮本くんとはネパールに一緒に行った仲間だ。それに、なんと言っても愛知国体の際に高嶋君を含めて、4人で苦しい練習を積み重ねた信頼できるメンバーなのだ。パリナコータという山についてちょっと説明しておくと、宮本くんがアトラストレック社から情報を入手したのだが、ほとんど日本では知られていないし、資料も全くなく一枚の写真と簡単な概念図が手には入っただけであった。でも、僕たちはガイドブックに沿った登山ではなく自分たちの手で登る山が新鮮と感じたからこの山にしたのだ。後でわかったのだが、パリナコータはサハマ国立公園に属し、ここの国立公園の入山届けによると昨年の8月に日本人3人が来園しただけで前にも後にも皆無のようだった。アトラストレックの人たちがツアーを企画するのに下見に来ただけのようだった。写真から判断したところ、山容は富士山のような独立峰で裾野には草原が広がり、南米特有の動物のリャマやアルパカが生息していてのどかな登山ができそうだった。肝心の航空チケットはいつもの通り、西遊旅行の山田さんに依頼した。ネパールの時もヨーロッパの時も親切にアドバイスをしていただき、安心して利用できるし値段も安い。今回はバスピ・ブラジル航空利用で191000円だった。

3月2日

関空の荷物検査でいきなり、EPIガスを没収された。みんなのザックに分担して入れておいたが「ブタンガスを持っていますね。」といきなり告げられ降参する。これでガソリンを入手するか、EPIガスを探すかしなければならない。難問が降りかかってきた。こういった情報が全くないのは辛いことだ。関空を19:00出発する。結局どこを経由してどれくらい時間がかかるのかも誰も知らないがとにかく飛び立つ。やっと、11時間かけてロサンゼルスでトランジット。

3月3日

結局、サンパウロまで24時間の飛行。機内では天王寺のMIOで買った「ビヨンド・リスク」を読み切り、後はひたすらテトリスに興じる。早朝7:00にブラジルのサンパウロ空港に到着。ここまでくると、英語はあまり聞けない。ポルトガル語かスペイン語なのだ。空港職員が無線機を持って探しに来て我々を次のボリビア航空の待合所まで案内してくれた。出発まで3時間あまりありソファに座りじっと待つ。10:30ボリビア航空に乗り込みいよいよラパスに向けて飛び立つ。途中、サンタクルースに立ち寄り、コチャバンバで飛行機を乗り換え16:00にようやくラパス空港に到着した。日本を発って約40時間想像を遙かに超える遠い国へ来たものだ。飛行機のデッキを降りて写真を撮ろうとすると機関銃を持った警備兵に止められる。入国審査はフリーパス。荷物も無事に届いている。空港内の銀行でU.Sドルをボリビーアノに両替する。ちなみに、日本円は断られた。今日の宿泊所は「地球の歩き方」に載っていたトキゲストハウスに決めていたので白タクで直行する。(5ドル)しかし、ラパスの空港で4200m、市内でも4000mあり、旅の疲れも重なり高山病の症状が出てしんどい。あまり、動き回るとふらふらして倒れてしまう。夕食は15分ほど街へ下った中華料理店へ行く。スペイン語のメニューなのでさっぱりわからない。はトキゲストハウスは、安くて良いがいわゆるドミトリーで学生が旅費を安くあげるために利用しているところだ。ベニヤ板で仕切られた狭い個室の小さいベツドにシュラフをに入り寝る。

3月4日

今日は朝から雨が降っている。トキゲストハウスのオーナーにボリビアの事情を聞くがサハマの方面には道が崩れて通行止めのような話だ。それに、行く方法としてチリのアリカ行きのバスを利用する方法があるみたいだが、超満員でなかなか大変らしい。とにかく、山に関する情報は「クラブ・アンデゥス」が詳しいとの情報を得る。アトラストレック紹介のツアー会社を訪ねてサハマの情報を得るが雨の影響で道が寸断していてダメとのこと。雨期のシーズンも終わりかけだが今年は例年にないぐらい降雨が多いらしい。ここまできて、山の姿さえ見ることもできずに情けなくなる。帰れるものならさっさと帰りたくなる。島旅行社へ行ってサハマへのアクセスについて調べてみてもらったが結果は同じだった。ここは、日本語を話せるスタッフがいるので日本人旅行者たちがよく利用している。「クラブ・アンデゥス」が16時から始まるので最後の望みをかけていく。受付の女の子に英語で事情を話すと奥の部屋に案内され、スーツを着た紳士が対応してくれた。わかりやすい英語で僕たちの質問に答えてくれた。まず、「アクセスについては立派なハイウェイなので心配はない。南米の最高峰サハマはラグナスから3時間ぐらいで簡単に登れる。それから、サハマ集落へ下降してパリナコータへ登り、チリ側へ下降したらよい。」というアドバイスだった。そして、クライミング・ショップと地図の入手場所も教えてもらった。今までの情報と全く違ったので大喜びで礼を言い、クライミング・ショップへガスボンベを仕入れに行くことにした。綾ちゃんは途中で疲れが出たみたいなので石田君と一緒に先に帰ってもらう。無理もない。旅の疲れもあるし、高度も3800Mもあり、順化もまだできていずにおまけに雨の中を一日中歩き回っているのだから…・!クライミング・ショップでは極寒地用のガスボンベ9ドルを5個買う。高いが仕方がない。入手できるだけでありがたい。シャルレのアイスバイルが400ドルするのだから、登山がいかに限られた人だけがしているのがわかる。店員はクライマーで昨年の秋にサハマに登ってきたというのでいろいろと教えてもらう。

3月5日

今日は再度島旅行社へ行って車の手配を頼むことにする。他の方法についてはいろいろと検討したが日程が限られた我々には無理がある。島旅行社で車の手配を再度お願いするとリスクを覚悟のことかと念を入れて聞かれる。もちろんのことだ。少しでも望みがあるならそれにかけたい。そのために、わざわざ40時間もの間フライトをしてきたのだから。とても、普通の車では入れないのでクワトロでないとダメだということだが、アゥディクワトロではなくて、4WDといういみなのだ。荷物も多いのでそれの方が安心する。値段は230ドル。値段はタクシーを利用するなら片道で500ドルはするだろうとトキゲストハウスで言われていたので思わずラッキーと思った。そして、順化のため明日にチャルカタヤ峰への手配を頼んだが明日はそこへは行けないらしい。気持ちも高ぶってきたので急遽翌日サハマへ出発することにする。地図の購入と食料の買い出しを済ます。

3月6日

今日はめずらしく朝から青空だ。ラパスに入ってから毎日が雨に降られていて嫌気がさしてきたところだ。朝の9時にトキゲストハウスに迎えに来てもらう。車のトヨタのランクルだった。思わず懐かしさがこみ上げて気持ちはとてもハイの状態だ。ラパスからオルーロに向けて国道をひたすら走る。左右には草原とインディオたちの土で作った家でとてもきれいだ。パタカマーヤで右に曲がりチリの国境アリカへ向かってひたすら走る。この広大な草原は「これがアンデスか!」と思わせるには十分すぎる。現実には目の前の光景が信じられない。日本に居たらとてもインディオたちの生活などは考えもおぼつかない。しかし、人間としての生活の原点があるような気がする。特にインディオの女性たちには感動する。小さな子供を抱きかかえながら小さな露天を出して、じっと座って物を売っている姿などを見ると胸が詰まる思いがする。親子の絆とか愛情はこういったところから始まるのが自然なのだろう。日本での現実が思わずイヤになり、また情けなくもなってしまう。しかし、今回の旅はアメリカやネパール・ヨーロッパより、もっと感動的で大変な旅だ。今までなら至る所に日本人が訪問していて、情報も豊富にあった。今回は全くといってもいいほど、情報が無かった。だからこそ、すばらしいのかも知れない。「遠いアンデスの山に憧れて」というキヤッチフレーズが今の我々にとってピッタリかも知れない。道は限りなく直線に延びている。光景はアメリカのカリフォルニアをドライブしているような錯覚もするが、やっぱりどこかが違う。物質文明に支えられている人のにおいや、そういった物が全くないのだ。ボリビアの最高峰サハマ(SAJAMA)6542mが目の前にいきなり飛び込んできた。自然と登高路を目で探すが見つからない。難しそうな山でかっこもいい。しばらく走り続けると我々が目指すパリナコータとポメラーペが双耳峰として見えてきた。僕たちはこの時点で初めてパリナコータが独立峰ではなく双耳峰であることを知る。しかし、ここまでくるのに長くそして大変な作業もようやく忘れ、こんなすばらしい大地に来られたことに感謝したい。ひとつ残念なことといえば家族を置いてきたことだ。2度のアメリカ・クライミングツアーそして、ネパールのトレッキングと家族連れだっただけに残念だ。安奈や有加にも南米のアンデスを是非見せてやりたくなった。道路の両脇には南米特有の動物であるリャマやアルパカそして羊たちがインディオたちの手で放牧されている。この開放的な大自然がたまらなくすばらしい。国道はまっすぐと延びていて目の前の峠を越えるとそこはチリだ。われわれは、右折してサハマのインディオ集落に向かうがいきなりオフロードだ。集落の一番奥にレンジャーステーションがある。ここで、入山の手続きをするがレンジャーも登山届けも全てがスペイン語でしなければならない。辞書を片手に宮本君が大苦戦。登山届けは、ハーバード大学に留学中の高嶋君から、事前に電子メールでスペイン語の計画書を作ってもらってあるので、これをベースに登山届けに記入するので案外スムーズにいったみたいだ。しかし、ここは標高が4200mぐらいあり頭痛がする。ラパスで高所順応が完全にできていなかったのかも知れない。これも仕方がない。雨のラパスより、乾燥地帯であるサハマのほうがよっぽど快適だ。手にはいるのは水だけだが…!運転手のマリオに14日に迎えに来てもらうように告げて別れる。グラシャス。当初の計画では、片道だけの契約だったが帰りも頼むことにした。当初は国道からヒッチハイクでラパスへ帰る予定だったが、とんでもない話と言うことがここへ来てわかる。日程に余裕のある学生ならいざ知らず、今回の休暇もギリギリの限界なのだ。それなのに、何日かかってラパスへ帰れるかわからないリスクは登山以外では勘弁してほしい。まして、初めての6000m峰への挑戦。不安と期待が入り交じった上で、無事に帰りたいという強い願望も交差している。テントはレンジャーステーションの隣に張る。何もないがこのほうが自分たちに合っているのか、ラパスにいるより安らぐのはなぜだろう。

3月7日

昨夜は冷え込んだのかテントが凍ってバリバリだった。昨日の話によるとB.Cまでロバで荷揚げをしてくれるらしい。値段は90ボリビアーノなので、アメリカドルで約18ドル。つまり、5ボリビアーノで1ドルの換算になるので、日本円にして約2000円ちょっとになる。しかし、安い。9時に出発するが我々はカメラをぶら下げ、軽いザックを担いでゆっくりとついていく。草原をリャマやアルパカを側に見ながら歩き、目の前には目指すパリナコータとポメラーペを仰ぎ見て、後ろを振り返るとボリビアの最高峰サハマがかっこよく見える。気分はやっぱり最高だ。途中、石田夫婦が何度も見えなくなる。どうやら新婚旅行のやり直しをしているようだ。パチャコチャパンバというところより、パリナコータの方へ向かって傾斜のある斜面に登り出す。さすがに、登りになるとロバも苦しそうだ。昼を回ると空の模様がだんだんと悪くなる。途中から雪が降り出してきた。ベースキャンプまでもう少しなので荷揚げは全部今日中に済ませておきたい。もう少しがんばらなければならない。石田夫婦が心配になったので、水と食料を持って下降する。雪も降っているし、綾ちゃんも疲れているようなので「どうするベースキャンプまで行ける?そうか、アタックテントを降ろしてもらうから、平坦なところでテントを張る。?」と聞くと「うん、ゆっくりだったら大丈夫なのでベースまで行く。」という返事なので、また、宮本君たちを追いかける。ようやく、ベースキャンプについたのは、3時になっていた。高度計では4880mを指していた。ここは、モンブランの頂上より高いのだ。ロバからザックを降ろしてもらい、今度は12日に迎えにきてもらうように約束する。早急にテントを建てようとするがめまいがして動けなくなる。やはり、かなり高度障害にかかっているみたいだ。雪の降る中をどないか建ててテントにもぐり込んで横たわる。後は、宮本君にお願いした。石田夫婦は1時間ほど遅れて無事に到着した。エスパーステントとアタックテントの2つを設営して食事はエスパースですることにした。高度を一度に上げたせいか、頭痛がしてムカつくし脈拍も90近くある。テントの中で安静にしているのが一番だ。

 

3月8日

昨夜の夜は頭痛がして苦しかった。朝食を食べる頃にはだいぶ収まってきたが、利尿剤とポンタールを2錠飲む。今回は、宮本君がいろいろな高山経験者から高山病に効く薬を調達してきてくれたのだ。脈拍も70と下がってきた。昼から上部アタックキャンプの荷上げと水を作りに行く。30分程で雪面が出てきたのでアイゼン・ピッケルなどのデポを行い水を作る。ガスコンロ2台で40分程で8リットルの水を作る。また、雪が降ってきたので石田君たちにB.Cへ先に降りてもらう。僕と宮本君とでコルの手前の5200m付近まで偵察に行くが、もうひとつルートがはっきりわからない。B.Cへ帰ってくるとまた、雪が強く降り出しあたり一面真白に積もる。10cmは簡単に積もったみたいだ。明日からのことを相談するが体調もすぐれず相談にならない。みんな高度障害で思考能力も低下しているようだ。

3月9日

4時30分頃に目を覚ます。昨夜は頭痛がしたが体調としては良い方だ。それよりも、昨夜は宮本君も僕も腹痛に合い互いに苦しんでいた。どうやら、昨夜に食べたソーセージがあたったみたいだ。メチャうまかっのだが…。石田夫婦は食べなかった。彼らは今回食べ物や飲み物に非常に気をつけている。これも、アフリカでの体験だろう。腹痛も収まってきたので宮本君と今後のことを協議する。この高所に滞在しているだけで体力も気力も日々に衰弱していくのがはっきりとわかる。このまま上部キャンプに移動しても体力の消耗の方が激しくダメなような気がする。一度高度を下げて休養するか、ここからアタックするかのどちらかがベターのような気がする。結局、アタックすることにする。早朝、5:40ヘッドランプを付けて出発する。昨日デポをしたところでハーネス・スパッツなどフル装備を身につける。5200mのコルの手前より少し傾斜の強い斜面に取り付く。20歩進んで2〜3分休むといった苦しい登高が続く。宮本君は調子が悪いのかずっと後ろから続く。上部の雪面は傾斜もきつくなり、40度はあるだろう。スリップしたら下のコルまで一直線だろう。ようやく傾斜が少し緩くなり頂上が見えてきた。標高にして5850mだ。時間にして11時10分。ここで、立ったままの姿勢になるが宮本君を待つことにする。チリ側も見渡せ遠くには太平洋も見える。待てどもコールしても宮本君の所在がわからない。登ってきているのか。降りたのか。チリ側から雲と風が出てきた。このまま頂上へアタックしょうか考えたが、やはり一人ではこれから先、頂上まで登れたとしても無事に下降路を探しながら下降できるかどうか不安だし、体力的にも不安だった。やっぱり、子供の顔が浮かんでしまう。11時50分最高到達点5850mで下降することにする。登ってきた道はとても下降できない。右にトラバースしながら下降路を探しながら下る。右側の尾根が比較的傾斜が緩そうなので下っていく。向こうの尾根に登ってきている宮本君とすれ違う。先に下降することをコールする。尾根の突き当たりは断崖として切り立っていた。クライムダウンで下ろうかと考えたがやばそうなので、ルンゼめがけて下ることにするが、雪崩れそうな傾斜なのでびびる。しかし、ここを下降するしか残された道はない。決心して一歩踏み出す。なるべく、すみやかに下ろうとしているが疲れていてなかなか進まない。緊張の糸はピークに達している。雪をだましだまし、やばいルンゼをどうにか降りきり5200mのコルに到着する。上を見上げると宮本君が僕のトレースに従って下降を始めている。コルより手振りでルートの指示をする。宮本君を待つにも雪の上に座り込んでしまう。緊張していたのでわからなかったが、予想以上に疲労していたのがわかる。これでは、頂上へアタックしなくてよかった。無事に帰れなかったかもしれない。6000mでの高所での疲労は想像を遙かに超えていた。宮本君も無事に降りてきた頃には雲に覆われて視界が悪くなってきている。さっそく、ベースキャンプへ下降を開始する。どうやら、宮本君は僕が頂上へ登ってきたものと勘違いしていたようだ。日本の山なら、2人の体力なら通常の登山者の半分から場合によっては3分の1ぐらいのタイムで登ってきていたが、甘く見ていた。高度もさることながら、スケールも倍違う。高度が3000mの山と6000mの2倍違えばスケールも2倍なのだ。ベースに帰り着くなり、2人とも無意識に爆睡していた。体力・精神力の限度を遙かに越えていたのだろう。

翌日は休養を行い、11日の最終日に今度はベースの目の前にそびえるポメラーペ(6240m)へアタックすることにしたが、目の前に見えていたはずの稜線までの距離が遙かに遠く、何度も尾根を越えていかなければならなかった。宮本君が5200mまで達しただけで終わってしまった。当初の考えでは楽勝で登頂できるつもりだったが甘かった。高所登山に必要なのは、薬に頼ることなく高度順化をきっちりと行い、体力の低下を招く前に休養を行い、万全の体制でアタックをかけることだろう。そして、われわれのように体力・技術に自信過剰気味にアタックをかけても結果は惨敗だった。日本の山では通用しても海外のよりスケールの大きい山では通用しなかった。後でわかったのだが、本来のルートはチリとの国境近くの緩やかな尾根だった。もう少しルートの下見をきっちりとしていれば良かったのだろう。しかし、自分たちの力ならこれぐらいの急なルートでも大丈夫という過信から、選択したルートに間違いがあったのだ。宮本君も僕も登頂できずに残念だが互いにすがすがしい思いで帰ることができた。今までの自分たちの力だけでここまでやりとげたのだから…・。この経験をバネにまた大きな山にチャレンジしたいと思ってるのは僕だけではないと思う。また、機会を作ってアンデスの山に訪れたいものだ。そして、今度こそはマチュピチュ遺跡も…・。