こちらのページは昭和61年2月20
日の宗報「けごん」第40号よりデジタル化しました。 記事を書かれた堀池春峰氏は大正7年生まれ、京都大学史学科旧制大学院を卒業され昭和60年より東大寺史研究所所長を歴任されておられます。 |
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またこの新聞には餅飯殿との関わりを中心に記
事を書かれておられますが、昭和堂刊「東大寺史へのいざない」にはもう少し詳しい理源大師聖宝の記述がございます。 奈良市立中央図書館蔵書にこの本がありますのでこちらも参考にして下さい。 |
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東大寺と餅飯殿町 奈良の商店街の中心的な存在の餅飯殿町はもと興福寺寺地内にあり蕗(富貴)畑郷と称されていた。 弘仁四年(八百十四年)弘法大師空海が興福寺南円堂落慶 の供養導師を勤仕の砌り、吉野・天川弁財天を勧請し、蕗畑郷に窪弁財天社を創建されたのに始り、弘法大師の孫弟子である理源大師聖宝が延喜年間、東大寺に 修学中、曽て役行者が開発以後、久しく跡絶えていた金峯山・大峯の入峯の路を開かれた時、郷民が一行の為に餅飯の供膳を作り、或いは供奉の士を送って、こ れを援けた関係から、餅飯殿坊の郷名が授与せられ、其れ以後餅飯殿の住人は大峯山参詣と天川弁財天社に参詣する行事を今なお連綿と毎年続けて居ます。 更に天川弁財天社より勧請した奈良市最古の弁財天社の隣に理源大師座像を祀る小堂を建立して、毎年七月七日には東大寺が供養に出仕し、又、八月六日の寺 の理源忌には餅飯殿町の方々が参詣されると云う深い御縁が続いています。 |
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餅飯殿弁財天法要 昨年新築なった餅飯殿町の理源大師堂に於いて七月七日十時半より、守屋執事長を導師に大師の遺徳を偲び感謝する法要が厳修された。頂度七月七日は大師の 御堂の隣にある吉野天川大弁天社より勧請した弁財天の七夕夏祭りでもあり、前夜から町内あげてお祭が執り行なわれ、子供やギャルの御神輿が出る等、餅飯殿 商店街は終日賑わった。 |
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理源大師聖宝と餅飯殿町 理源大師聖宝(八三二~九〇九)は役小角が白鳳時代に開いたと伝える吉野・金峯山寺やその奥院に当る大峯山を踏破して、いわゆる修験の道を再興され、江 戸時代には天台宗修験の本山派に対して、当山派(醍醐・三宝院流)の祖とあおがれ、修験道では特に有名な方です。 光仁天皇の末裔で恒蔭王と称し、十六歳で得度、東大寺東室に住み、三論・華厳・真言宗を修められました。学僧の登竜門であった興福寺維摩会(ゆいまえ) に三論宗の「賢聖義」をとり入れたり、清和天皇より下賜された五獅子の如意を、当会の講師は必ず佩用することにするなど、仏会や教学面でも大きな功績をの こした方でした。壮年期には山城の上醍醐寺を建てて、醍醐寺の基をひらき、翌年の貞観十七年(八七五)には東大寺内に東南院を建て、ともに三論・真言二宗 兼学の寺とされました。 三論・真言二宗兼学の寺を建てられたというのは、聖宝の真言密教の師僧であった東大寺真言院の真雅や、三論宗の師匠であった碩学願暁の影響が強くはたら いたと思われますが、一方三論宗を重視したのは、真雅の師匠でもあり、同族であった弘法大師空海の教観によるところもあったと考えられます。 聖宝は仏教学についても造詣の深い学僧であったかたわら、練行の面でも、後年修験道の中興の祖といわれたように霊山名寺を跋渉したことで有名です。さき にあげた大峯山や金峯山寺を再興したというのも、東大寺に留住中のことで、十一世紀に盛んになった白河院政期の御嶽(みたけ)詣での先駆的な人物として注 目されます。金峯山寺に蔵王権現像を造立安置したり、六田渡しを設けたのもこの聖宝僧正でした。八世紀には金峯山は「金嶺」(きんのみたけ)とよばれ、禅 定を修する僧などが、修行するところでしたが、都が平安京に遷るとともに、漸次衰微し、聖宝はそれを復興したのでしょう。 奈良の餅飯殿町は、聖宝が金峯山・大峯山を聞かれた時、郷民が餅飯を作って随行し、金峯山・大峯山の開発を助援したという。餅飯を調進したところから、 餅飯殿町の町名となったようで、餅飯はいわゆる今日の携帯口糧であったわけです。 名山霊寺を巡拝したり、或は山臥・野臥となって修行した優婆塞は、深山幽谷の山気に接して神験を得た験者として崇敬された例は多くみられます。信貴山の 命蓮、叡山の陽生上人をはじめ、『枕草子』にも験者についての描写がみられます。清和上皇・宇多上皇の大和・摂津の霊山巡礼は殊に有名ですが、以後中世を 通して修験道の先駆的な山寺巡礼が盛んに行われました。 当餅飯殿にも山上講が組織されて、郷民が毎歳大峯山・金峯山寺に登山、聖宝僧正との古い因縁も顧みられて、山上講先達と号して餅飯殿講は当山派の中に あっても、特別な地位を占めています。 堀池春峰
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