T井の転職の歴史その6(27〜31歳)
みなさんこんにちは(^^)
昭和59年7月、27歳のワシは、独身だったが一大決心をして、小さな中古の家を
買った。8月に現在の住所に引っ越して、莫大なローンをしたが、毎月安定した給料を
とっていたし、充分払えると思っていた。
なのに、会社があんなことになるとは、この時は思いもよらなかった。
工場の作業は毎日が同じことの繰り返しで、家と会社の往復であった。
でも、安定した収入があったので、旧住専から高い金利で借金して買った家
から通勤した。
昭和59年は無事に過ぎ、免許の点数も戻った。
年末には、初めて20万円を超えるボーナスを手にした。
昭和60年は、初めて有給というものが使えた。運送屋では経験出来ない
ものだった。食費もあまりかからないし、風呂もあるから光熱費もあまり
かからず、貯金は増えていった。昭和60年末のボーナスをもらった時には
貯金が180万円にもなっていた。
300万円暗い貯まったら、繰上げ返済に回せば、ローンが減るから楽である。
しかし、収入が安定しているし、免停になることもなく、仮になっても仕事は
出来るから収入は変わらないので、昭和58年に250ccバイクを処分してから
バイクに乗っていなかったし、大型バイク免許があるので、中古の750ccを
買った。買った4月は、乗用車の車検やら経費もかかったので貯金は減った。
この昭和61年は、円高不況だったので、会社がヒマになってきた。
しかし、出番日数を全部出れば収入が同じだから安定していると思っていた。
日勤の勤務の人間の残業は減っても、ワシら交代勤務の人間は、残業が
あるので収入は変わらない。全部で60人が交代勤務だから、仕事が減って
機械が止まると、出勤しても仕事が無くて、掃除ばかりしている人間が目立つ
ようになる。
6月18だったと思うが、会社はワシら60人に、いきなり、「今はヒマだから
勤務体系を、2交代から3交代に変更して、残業をカットする。」と言った。
残業は、普通は25%増しの計算だが、2交代は、やる人間が少ないので
50%増し暗いの計算であり、総支給25万円、手取り20万円の給料なら
残業は10万円暗いを占めているので、それが全部無くなると、15万円の
給料になり、、所得税は下がるが、住民税や社会保険は、すぐには下がらない
から、手取りは10万円程度になってしまう。
結局、安定した収入というのは、公務員しかないと知った。
6月21日から3交代になり、7月のボーナスが出て、7月末から
退職者が出始めた。
ワシは、ヤケクソで、750ccバイクで有給をとって、北海道へ出かけた。
8月の末にも、退職者が出て、全部で8人が辞めたし、会社も、同じ機械の
数を運転するのに、3交代より、2交代の方が、人間が少なくて済むので、
2交代に戻したかった、つまり、人減らしが目的であったのだ。
9月10日から、2交代に戻したが、その時に、残業の割増計算を下げると
一方的に決めたので、給料は、以前より、2万円ほど減った。
以前は、会社のために、いい製品を作ろうと、一生懸命仕事をしたが、
こんな会社なら、時間だけいて、給料を貰ったらいいという、考えになった。
辞めた8人は、勤続3年以下程度で所帯持ちも6人ほどいたが、
いずれも、家に貯金がなく、ギリギリの生活だったのだろう。
いきなり収入が減ることを、運送屋時代に経験しているワシは、貯金を
持っているから、乗り切れた。
この昭和61年10月に、旧住専から高い金利で借りていた家のローンを
都市銀行から低い金利で借りて、借り変えを実施した。
2年2ヶ月で、186万円ほど返済したが、最初はほとんどが金利なので
元金は35万円しか減っていなかったし、住専は一括返済時には、返済額の
2%が手数料として必要だし、登記手数料や司法書士の報酬に登録免許税
なんかで、ゼニが必要だった。
結局、貯金がエラい減ってしまった。
都市銀行からの借金には限度額があったので、別の所からも借金したので
毎月の返済は、2箇所を合計すれば、住専の返済額よりも大きくなり、
給料が減ったことと、バイクの維持費が予想外に必要(消耗品が早く減り
部品代が高い)なので、毎月の給料では赤字になり、貯金が減っていく
始末であった。しかし、ボーナス返済はやめたので、ボーナスは全額貯金に
回すことが出来た。
昭和62年4月、大阪工場の閉鎖と滋賀県マキノ町への移転が決定した。
昭和63年に閉鎖するが、マキノへ行く希望者がつのられたし、退職する
人間への、割増退職金の計算も発表された。
閉鎖直前まで勤務しないと、割増率が少ないので、早期に退職する者は
少なかった。
もう、どうせ辞める会社だから、ただ惰性で生きているようなものだった。
昭和62年5月、7500ccバイクには車検があるが、初回検査だったが、
業者には出さすに、自分で陸運局へ持ち込んで検査に合格した。
昭和63年、バブルの好景気が始まる頃、4月に乗用車マツダカペラ1800
の8年目の検査も自分でやって合格した。
電気の話をすると、この昭和63年までは、保安協会に委託出来るのは
500kW未満であり、この年に1000kW未満になり、現在は2000kW
未満である。
この工場は、800kW程度なので、当時は委託出来ないので、80歳暗い
の主任技術者の名義だけ通産に届けていた。
社員に3種を受験させるも、アホばかりだし、工業高校機械科新卒で
雇った18歳に受験させるも、奴らは分数の計算も出来ないし、給料を
全部自動車につぎ込んでいるから、生活費は親持ちだし、旧制度3種は
6科目の時代だし、理論だけ受けて、あとは受験していないんであろう、
不合格に決まっている。会社に受験料を出してもらっていたようだが、
会社は、3種の難易度を知らないのである。
工業高校電気科卒を雇って、主任技術者の指導の下で業務をしていたと
認定で取得させればいいのに、機械が多いから、その保守のために
機械科卒をとるようだし、3種の試験なんて、危険物やなんかみたいに
簡単に合格出来るものだと、事務系の経営者らは思っているんだ。
全く、アホな会社である。
ワシに、「受験すれば」と声をかければ、1回で合格出来たし、主任技術者に
なって、そのジイサンを解任すれば、ジイサンに払っていた手当(額は不明)が
不要になるのだが。
まあ、ワシも電気の知識があることを、会社にはアピールしていなかったし、
会社はワシのことを、元運転手の作業員暗いにしか思っていなかったわな。
マキノに移転したら、500kW未満程度の設備になっていたし、1000kWまで
委託出来るように制度が変わったから、管理技術者協会に委託したようだ。
63年7月に、また北海道に行き、有給を全部消化した。
運命の10月7日、30年の歴史に幕を閉じ、大阪工場が閉鎖されて、
ワシは5年間勤めたプラスティック工場を退職した。
割増退職金が100万円ほどあった。
退職してから、バイクで沖縄から九州を回って、その750ccバイクは20万円で
売却した。貯金とバイク代と退職金の合計が160万円ほどあったので、
都市銀行以外の別の所から借りたローンの残りを全部返済した。
昭和63年10月、ワシは31歳にして、バイク無し、仕事無し、貯金無し、
家あり、自動車あり、都市銀行のローンありだった。
でも、落ち込んではいなかった。
義兄が、忙しいから電気工事をしないかと言ってくれていたし、
失業保険も、会社理由だからすぐに出た。
保険をもらいながら電気工事を始めた(←時効)。
12月には、プラスティック工場のボーナスも30万円ほど出た。
生まれて初めての電気工事だが、ワシは兄と一緒に住んでいた
16歳の頃に、階段の照明のスイッチが1階にしかなかったので、
3路スイッチに改造して、2階にもスイッチをつけたことがあるんだ。
電気工事は面白く、富田林警察署の新築工事だったが、やりがいも
あった。今までは、運転手にしても、工場の工員にしても、生活のため
ゼニのために、嫌々仕事をしていたが、初めてやりがいを持って出来る
仕事であった。
続きは磁界に。
ではまた(^^)ノ
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