T井の転職の歴史その5(26〜27歳)

みなさんこんにちは(^^)

かくして、昭和57年11月、アホ運送会社を辞めて、タクシー会社に就職した。
しかし、ここは7ヵ月後の昭和58年6月にトラブルで解雇されることになる。
ここは、バリバリの労働組合の全自交の組合だったのである。

当時のタクシーは、430円メーターで、1日に270km暗い走って、35000円
ほどの売上で、13乗務して、45万円程度が平均で、給料は25万円の
手取り20万円程度が標準だったが、現在は、フル歩合の60%支給のB賃金
が多いが、その会社はA賃金で、古い人間の基本給が高く、ボーナスもあるし
家族手当もあるので、入社浅く、家族のないワシは、売上が48万円の
支給が22万円、手取りは18万円程度であった。

労働組合費が異常に高く、8千円ほど引かれて、そのうち貯金は2500円程度
であり、幹部が半分暗いしか乗務しないので、奴らの補償を組合費からしている。
集会は何回もあり、選挙のビラまきや、裁判の応援傍聴なんかもあった。

ユニオンショップ協定といって、組合を除名されたら会社も解雇されることになる。
勤務態度不良とかで、会社が解雇したい運転手も、組合と仲のいい奴は、
組合が助けてくれるが、営業成績がよくても、組合のひきあいの悪い奴は、
追い出されてしまう。
大阪府の知事選挙で、共産党の押す候補なんか応援したら、赤字が増える
ばかりやわ。

5月1日のメーデーの集会に、ワシは明け番だったので、動員要請がかかったが
ワシは、仕事で疲れているから休みたいし、だいたいメーデーに行ったら、ワシらの
給料が上がるのかい、と言ったら、組合の幹部ににらまれた。

花園ラグビー場前駅で客待ちをしていた時、あるバアサンが、乗らずに運転席の窓越しに
「アンタ、この場所が分かるか?分かるんなら乗るが、分からないなら他の車に乗る」と
言って地図を出したが、面倒だったので、「分からないから他の車に乗ってくれ」と
言った。ワシの後の奴が乗せたが、その様子を見ていた組合のアホが会社にチクった。
ワシは会社に呼ばれて、「お前は乗車拒否をしたから辞めてもらう、退職願に署名しろ」
と言うものだから、「ワシは拒否していない、あれはバアサンが他の車に乗ると言ったんだ。」
と説明したが通らなかった。自己退職はしたくなかったので署名を拒否したら、解雇の手続き
をとると抜かしやがった。
後日、組合に呼ばれて、「アンタの言い分を聞く必要がある」というので行ってやった。
しかし、組合に反抗的なワシを組合が助けてくれるはずもなかった。
ワシは、タクシー会社を、たったの7ヶ月で解雇された。

解雇された昭和58年6月に、ワシは26歳の誕生日を迎えて、5年8ヶ月住んだ6畳一間の
アパートを出て、風呂は無いがトイレ付の文化アパートに引っ越して、電話も引いた。
自己都合退職とは違い、解雇だったので失業保険はすぐに出た。
しかも、解雇予告手当として、30日分の賃金も出た。
有給もない運送会社とは大違いだわ、でもA賃金だから、7月にはもらえるはずの
ボーナスはもらえなかった。

実は、解雇される直前に、自動速度取締機オービスに37km超過で撮影されたので
事故の免停前歴1回のために、120日(60日短縮)の免停をくらうことになる。
だから、夏は暑いので、失業保険をもらいながらアルバイト(←時効)をしようと
ビデオ部品の組み立て工場で、高校生のアルバイトなみの時給600円でバイトを
したが、冷房完備の工場で椅子に座っての軽作業は楽であった。
3ヶ月アルバイトをして、9月末に、保険も切れて、免停も終わったのでバイトも辞めた。

10月から、運送会社で夜勤(20時〜8時)週休1日のホーム作業員として働き始めた。
給料は24万円と広告に出ていたが、作業員は20万円の手取りが16万円程度が相場
だったので、よさそうにみえた。
もちろん、休んだりすれば、皆勤手当もなく有給も無いので、3日も休むと手取りは12万円、
それでも残業はとても多いのである。

しかし、その運送屋は、1年続く人間がおらず、年末は忙しいので、高い広告を出して
ダマして募集をするような会社であった。
条件は、最初の3ヶ月間は21万円で、ボーナスは永久に無しというものであり、
同じ10月に入社した8人は全員が12月には辞めた。
人間が足りなくなり忙しいので、20時〜8時の勤務時間を、19時〜7時に変更
すると言われたが、朝の7時から8時の1時間は、とても忙しく、朝の7時に帰れる
はずがないことは、運送関係者なら誰でも知っていることである。
会社に「その1時間の残業はつくのか?」と聞いたが、「アホか」という答えだったので
ワシは、朝の7時にタイムカードを押して帰った。

12月25日くらいだったと思うが、その頃にはヒマになるので、いきなり会社から
「お前はクビだ」と告げられた。忙しい時だけ使って、ヒマになればクビである。
解雇される理由は無いが、闘ってまでここに残るほどの魅力もなく、ワシは辞めた。

給料も、24万円ならいいが、21万円でボーナス無し、食堂もなく、風呂もないと、
夜間の食事や、朝の入浴は、メシ屋や銭湯が開いてないので不便である。
もちろん、有給も労災もない。
12月の末で辞めようと思っていたので、以前の運送屋で荷物の弁償をさせられた
こともあったので、運送屋にはアタマに来ていたから、ホームの荷物を1つ拝借して
それはビデオデッキで当時は15万円ほどした(←時効)ものだったが、ワシの自宅
に持ち帰り、質入するとバレるので、親戚に9万円で売った、罪悪感は無かった。

12月の年末に仕事を無くしたが、自動車はマツダカペラ1800があったから、
正月の夜はタクシー台数が少ないことを知っていたので、1月1日と2日の2回、
深夜12時過ぎに、近鉄奈良線の終電が到着する終着駅である花園ラグビー場駅
の乗り場の近くにマイカーを停めて、近くの客だと困るので、「奈良方面へ行くよ」と
客に声をかけた、白タク行為である(←時効)

1日は、学園前まで5千円で運んでやった。
2日は、若いのとオッサンの2人を積んだが、2人は知り合いではなく、
場所も生駒と西大寺であった。当時のメーターでは、西大寺まで行くと
8千円、生駒に寄り道したら、9千円は出るので、ワシは、「一人5千円
づつやな」と言った、これでも一人でタクシーに乗るより安いしな。
しかし、この2人は値切り始めた。
「この車やったら、3千円や」とか、客も2人だと運転手1人は恐くないようだ。
ワシは、「アホか、それなら降りてくれ、4千円づつなら運んでやる」と言ったら
商談は成立したが、ゼニは先にもらった、後払いなら非合法だと訴えることも
出来ないから払わない奴がいるもんネ。
かくして、白タクは2日やって、売上は13000円だったが、総労働時間は
4時間程度でガソリンは2千円ほどだったから、儲かったのかも?

昭和59年1月、もう運転手から足を洗いたかったので、八尾市のプラスティック
工場の2交代勤務に応募した。
ここは、八尾工場が130人、全社で330人程度の会社であった。
運転手とは違い、有給はある、ボーナスはある、事故や商品の弁償は無い、
免停になることもない、工場だから客と会うこともなく、客とのトラブルも苦情もない、
食堂も風呂もあり、今までの劣悪な労働条件と比較すれば天国のような会社であった。
もちろん、労災も社会保険もあった。

勤務は、8時〜20時と、20時〜8時の交代制、年間休日は93日、有給は労働基準法
の通り、給料は25万円、手取は20万円と、タクシー時代よりよく、ボーナスも、
年間50万円ほどあった。年収は350万円、今の金に換算して500万円程度が
26歳にして得ることが可能であり、休みさえしなけば、毎月確実に給料が入って来る
という、公務員のような安定性であった。

たちまち貯金が増えていったし、夜勤のために昼に寝ていると、その文化アパートは
子供の遊ぶ声や電車の通過音がうるさいので、引越しをしたくなった。
昭和59年7月、27歳のワシは、独身だったが一大決心をして、小さな中古の家を
買った。8月に現在の住所に引っ越して、莫大なローンをしたが、毎月安定した給料を
とっていたし、充分払えると思っていた。
なのに、会社があんなことになるとは、この時は思いもよらなかった。

続きは磁界に。

ではまた(^^)ノ


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