T井の転職の歴史その2(20〜21歳)
みなさんこんにちは(^^)
この8月の引越しが大間違いで、たったの2ヵ月後の10月に
仕事を失って、また引っ越すハメになるとは、この時は夢にも
思わなかった。
8月に引っ越して、元の家主から権利金を8万円返して貰って、それを
教習所に払った。8月は夏休みで学生も多く、当時は合宿というのも
無かったので、大変混んでいたから、9月から教習を受けることにして
仕事と教習所と夜学を両立させて、半年暗いかけて免許を取る予定
であった。
しかし、9月から会社がヒマになり、そこはK保田鉄工の耕運機の部品を
作っている、500人暗いの工場だったが、そこにワシの会社から30人ほど
派遣されていた。
ヒマになった時に、真っ先に切られるのが派遣社員である。
ワシの会社の責任者が、30人全部を集めてクビを宣告すると、
多人数に反撃されると恐いから、1人づつを別室に呼んで、
「お前は30日後にクビや、これにサインせえ」と言った。
30人全員が不服ながらもサインして、大半がすぐに辞めて、行き場の
無い奴は、30日間、働いていた。
労働基準法では、解雇する場合は、解雇する正等な理由と、30日前に
通告するか、または30日分の賃金を払うと定められている。
ワシは、会社が寮として借りているアパートに引っ越したばかりだし、
自分でアパートを借りる権利金もなく、教習所にゼニを払ってしまったから
もうそのゼニは戻らない。
また、会社理由の解雇なら、失業保険はすぐに下りるが、6月から働いて
いるので、まだ4ヶ月間しか働いていないので、保険を受給するには足りない。
解雇は無効だと、労働基準局に相談に行こうかと思ったが、会社のアホに
そういう話をしたら、「別の事業所に転勤するか?」と言われた。
それなら、このアパートに住んだまま通勤出来るし、問題はない。
しかし、転勤先は堺市の南部だったので、朝早く出発するのは構わないけど、
終業から夜学までが間に合わないし、合間に教習所に通うのが不可能である。
仕方なく、ワシは30日あるのだから、その間は会社に籍をおいたまま欠勤して
教習所に朝から通った。1ヶ月で仮免まで行った。
アパートの家主に、ワシが家賃を払うから、ここに住ませてくれと行ったが、
ボロアパートの家主は、個人に貸すと、空き室が多くなるので収入が減るし
会社に貸すと、まとめて貸せるし、支払いが確実だが、個人なら溜める奴も
いるし、酒を飲んで暴れる労働者がいても、会社に言えるから、個人には
貸さない、という返事であった。
最初からワシが直接契約していれば、借家法による保護があったのだが、
又貸しされていたワシには権利がない。
結局、10月末に、たった2ヶ月間住んだアパートから引っ越した。
引越し先は、6畳一間で、共同便所の木造アパートで、家賃は14000円、
他に共同費用や、電気ガス代もいる。
ここに、昭和58年6月の26歳の誕生日まで、5年8ヶ月間も住むことになる。
引越しの費用は、トラック代が無いので、会社の車を会社のアホに運転させて、
タダでやり、アパートの権利金の15万円は、Z印魔法瓶を4年勤めて辞めた
ばかりで、リッチな姉に借りた。
11月になり、教習所は路上だけでヒマだから、空き時間にアルバイトをして
免許を取ったら就職しようと思ったが、面接する側が、それを見抜くので、
アルバイトはなく、市場の魚屋で2日だけ働いただけであった。
試験場で学科に合格した日に面接に行き、11月末から金型工場で働く
ことになるが、そこは従業員が5人の工場で、職人気質のオヤジが多く、
新米の20歳のワシは、使いパシリであった。
社長が免許が無いので、会社の1トントラックをワシが運転して社長を
運ぶことが多かった。
エラそうにされてアタマに来ることも多かったが、ガマンした。
15万円暗いくれたので、12月、1月、2月の末に、5万円づつ姉に借金を
返したので、2月末には完済して、しかも貯金が15万円あった。
今は、自分で契約したアパートもあるし、会社を辞めても出る必要はない、
しかも免許もあるし、貯金もあるし、借金も無い。
ゼニが無い時は、理不尽なことを言われても我慢しているが、
ゼニがあって安定していると、我慢出来なくなる。
3月のある日、旋盤のオッサンが、自分のミスをワシのせいにしたので、
ワシは初めてそいつに逆らって、大声で怒鳴った。
結局、喧嘩して飛び出して、そこを辞めた。
喧嘩して辞めたのは、ここが始めてであった。
もう免許があるのだから、もっと気楽な仕事をしようと、ワシはスポーツ新聞の
広告で、30万円とか書いてあった、チリ紙交換に応募した。
当時は、古新聞がキロ12円暗いで買ってもらえたので、4円で集めれば、
8円が儲かるから、1トンで、8千円の儲けである。
軽トラックのリース料やガソリンが自前なので、月に45トン暗い集めないと
30万円にはならない。
ちなみに現在は、超安値で新聞は5円暗いである。
ワシは、チリ紙交換を2日間だけやって辞めたが、600キロ暗いを集めてきて、
差益が4800円暗いになり、リース料やガソリン代を引いて、2500円暗いにしか
ならなかった。
誰にもエラそうにされることは無かったが、気楽では無く、奥さん連中は細かく、
「アンタ、キロ何円で引き取るねん?」と聞くのも多かった。
チリ紙交換を2日だけやって辞めたけど、駐車中の車にぶつけたことが
あったが、誰も出て来なかったので逃げたことがあるわ。
それから、ブロック製造工場に就職したが、日給4千円と安く、仕事の内容も
アホみたいだし、知的障害者のオッサンと一緒に仕事をするのも嫌だったから、
2週間で辞めた。
4月から、洋紙の問屋で、配送運転手として働き始めた。
初めての月給制で、14万円、その昭和53年の大卒初任給が11万8千円暗い
だったから、まあいい方だと思う。
2トントラックで、印刷会社に紙を運んだ。
忙しい会社で、仕事はキツかったが、6月には21歳になるし、同年代の人間は
みなマイカーを持っているが、ワシはポンコツバイクだったし、1年の時は真面目に
行った夜学も、2年では行かなくなり、中退することになるから、残業が可能なので、
とにかくゼニを貯めて、自動車を買いたかった。
7月に夏のボーナスで8万円もくれた。たったの3ヶ月しか働いていないのに、
それまでの最高額であった。
そのゼニでワシは、ソニーのカラーテレビを59800円で買った。
運転手の仕事はキラいでは無かったが、配達先の客は若いワシを
みると、エラそうにするし、嫌なことも多かった。
酷暑の53年に、クーラーの無いトラックでの配達もエラかった。
何となく嫌になり、もっと楽な仕事がしたくなり、5ヶ月間働いた9月に
突然辞めてしまった。年末までいたら、ボーナスが20万円は出て、
中古車なら買えたのに。
でも、辞めた時点で貯金は37万円暗いあった。
辞めたあと、数箇所の面接を受けるも、そこよりも条件の悪い所ばかりであった。
貯金が減って行くので、12月の年末だけ、1ヶ月間だけ、商品倉庫で出庫作業の
アルバイトをした。
年が明けて、昭和54年1月、ネジや鋲の製造工場に、工場内作業と運転手の兼用で
勤めたが、面接で示された条件と違うし、2トントラックに4トン以上を積む過積載に、
重いネジを持って、腰が痛くなり、残業も多いので、2週間で辞めた。
2月から、金物問屋の配送運転手として務め出した。
釘やアルミ建材の、建設金物の卸の会社であった。
ここには、翌55年5月まで、1年3ヶ月間勤めることになる。
続きは磁界に。
ではまた(^^)ノ
転職のトップページはこちらを クリック
T井の部屋はこちらを クリック
トップページに戻るにはこちらを クリック