スポーツの上達について

シリーズT−1−@                    松村睦夫  

近年スポーツが益々盛んになっています、テレビなどの観戦が多いのですが、もう一方のスポーツをしている者にとっては、なんと言っても上達すなわち上手になることが最大の関心事でもあります、その中でも特に子供の可能性については、親がそして本人が始めは持っているのですが、高学年になるにつれて上達が止まり試合等で負けが込むともう限界だと思い込んでしまいます。(中年からスポーツを始められた方も当てはまる)

私は20年以上も素人ですがスポーツとりわけ卓球を追究してきました、また娘を卓球選手にするために、始めは親としてその後、娘の個人コーチとしてやってきて色々分かったこともあり、お役に立てると思いここに書きつづります。

T、才能と能力の違いの認識が大事なこと

まず、この事を明確にすることが大事と思います、人間は常にあらゆる物に対し能力があるのかどうか問い続けるからです、「自分は能力がないのでは?」「誰々は才能がある」と、この点で悩み苦しんでいる選手・指導者や親等の関係者の何と多いことか

また一般的に言って、才能を能力の中でも優れたものを指すようですが、そうではありません、能力と、才能はよく似ているようでまったく違うのです。

能力とは

個々を示し

個人的であり

遺伝的要素が強い

(両親等の体型・親が持つ経験的環境など)

才能とは

全体を示し

普遍的であり

認識的な概念

(全面なる人間評価・人類進化の肯定)

上記に示しているように、能力とは個人的であるので個人が個々に持っている遺伝的要素等なので、Aが持っていてもBは持っていないのが能力です。

問題は才能の方で、才能とは、普遍的ですから全ての人間が持っているのですが、“皆が持っていて持っていないもの”という代物で厄介な認識です、分かりやすく言えば・・・・「才能とは、自己を信じる」ことです。

もっと正確に言えば、「どんなことが有っても自己を最後まで徹底して信じきる」こと。

親の方では、「どんなに子供が弱く試合に負け続けても、我が子の可能性に揺るがぬ確信」を持ちつづける事“親馬鹿“これなのです。

そんな事を言っても、何回やってもぼろ負けでは信じきれないと多くの人達は言いますが、

自分は弱くとも、他人が強ければそれに人間として(人類的にも)同じ人間として自己を信じきれば良いのですしそれは出来ると思う。

人間たとえ能力があっても、“自分に見切ってしまってはおしまい、これはどんな事が有っても避けなくてはなりません。

 特にこの点では、指導者は肝に銘じなくてはいけない事柄です。

U、性格の問題について