人は死の淵に立ったとき、これまでの人生を追憶する。

 もしその記憶の中で、鮮明にひとつだけの出来事を見ることができるのであれば、

 あなたはどの記憶を見ることにしますか?

 

 

 

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【素直な涙】

 

 

 

§

 

 

 優しい風がユメミの長い髪をさらってゆく。

 広大な雲海の上を、天使の少女はただゆるやかに漂い続ける。

 何も考えずにゆらりゆらりと。風の向くままに身を任せ、まるで彼女自身が一枚の羽根になったかのように流されてゆく。

 心地よかった。

 そこは穢れなき清浄の世界。

 天使であるユメミですら、この雲海の上に身をおくと、自身のちっぽけさを実感せずにはいられない。

 けれど。

 そんなことには無頓着な懐中時計が声をあげる。

「暇っ!」

 天界の宝具にして、ユメミのパートナーでもある意思を持った懐中時計ナユタが、ズバっと言い放つ。

「黙る」

 目を閉じたままユメミも平淡な口調で言い返す。

「いんや。黙らない。暇暇暇暇暇暇暇〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 雲海に響き渡る場違いな声。

「ナユタはいつもそれね」

「だってこうしてても暇なんだもん。ユメミは風とか心地よく感じるかもしれないけど、アタシにはそういうの関係ないし」

「それならそれで諦めなさい。私の邪魔はしないで」

「もうかなり我慢してる。時間にして一時間と二十八分三十二秒も邪魔してない」

 時計の形をしているだけあって、時間には正確だった。

「ねぇねぇ。ラグナル。あんたもユメミに言ってやってよ。アタシたち暇だって」

 ナユタは、ユメミが右手に持つ銀の大鎌に同意を求める。

「我は別に暇などしておらん」

「あ〜〜ん? なにぃ。ひとりだけ良い子ぶりっ子?」

「心穏やかに黙想することも悪くはない。それだけだ」

「フン。カッコつけちゃってさぁ。鎌のクセに生意気ぃ〜」

「はいはい。あなたたち、そこまで」

 これ以上、手元で言い争いをされても面倒なのでユメミは止めに入る。

「とりあえずナユタはもう少し待って。そうすれば帰って相手してあげるから」

「あとどれくらい?」

「二時間」

「それ少しって言わない。あーん、やだやだ。こんなとこつまんない。刺激が欲しい〜」

「…………刺激が欲しいの?」

「欲しいっ」

「ふうん。ならあげるわ」

 ユメミはひょいとナユタのクサリを外すと、そのまま雲海の下に躊躇なく放り落とす。

ひっぎゃわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜」

 悲鳴をあげて落ちてゆく懐中時計。その声が段々と遠くなってゆく。

「お。おい。ユメミ」

 ラグナルが絶句していた。が、ユメミは淡々と答える。

「刺激が欲しいって言っていたから」

「いや、しかし、これは……」

「大丈夫、すぐに拾いにいく」

 それだけ言うとユメミは翼を翻し、雲海の下へと勢い良く飛び込んでゆく。そして猛スピードでナユタを追った。

 息が詰まるほどの速度も、天使である彼女には関係ない。

「目標補足」

 ナユタを視界に捉えたユメミは、更に速度を上げて下にまわりこむ。そして。

「はい。キャッチ」

 無事にナユタを手のひらで受け止める。

「どう? 風は感じられないまでも刺激的だったでしょ」

「ご、ごわずぎるよぉぉーーー。うわ〜〜〜〜〜ん」

 取り乱して泣きじゃくるナユタ。ユメミは深い溜め息をつく。

「わがまま」

「ユメミがメチャクチャすぎるのよ。地面に激突して壊れたらどうしてくれるの!」

「そのときはそのときで修理してもらう」

「ひどい。何でそんなことアッサリ言えるかなぁ」

「でも、ちゃんと助けてあげた」

「そりゃそうだけど…………」

 ナユタはまだ不満そうだが、先程の恐怖が残っていて本調子が出ない。

 この様子だと暫くは静かになりそうだった。

 だが、そんな時だ。ユメミの目の前に突如紙切れがあらわれて降ってきたのは。

「…………仕事ね」

 その紙には彼女が属す天界の役所、“天宮院”からの仕事の指示が書かれていた。

 落ち着けると思った矢先にこれである。

 もっともユメミはそれを不満に感じるつもりもないのだが。

「とりあえずこのまま下界へ赴くわ」

「ふんっ。アタシのことはどーでもよくても、お仕事に関しては熱心なんだから」

「拗ねないの」

「拗ねてなんかない」

「可愛い」

「へ?」

 相変わらずの素っ気なさだが、思いもしなかった言葉をかけられたナユタが戸惑う。

「ユメミ、アタシのことからかってる?」

「からかってない。思ったことを言ってみただけ」

「アタシはどう反応すればいいのよ」

「それはナユタの自由。とりあえず今は仕事先に向かいましょう。ラグナルもこのやりとりには困っている様子だし」

「ウム。どうも気恥ずかしいやりとりに見えんでもない」

「そういう風に感じているラグナルも可愛い」

「………………」

 閉口するナユタとラグナル。

 だが、ユメミもそれ以上は何も言わず、目指す場所へと舞い降りて行った。

 

 

 

§

 

 

「和代」

 

 

 嗚呼。なんでこんなことになっちゃったんだろうな。

 自分の不幸ぶりにはつくづく呆れ返る。

 わたしはさっき、仕事先に向かう車を運転していて事故に遭った。大型のダンプカーと正面衝突したのだ。

 ボンネットやフロントガラスはそりゃもう無惨。運転していたわたしだって、当然ながら無事では済んでいない。ものすごく痛かったし、とてつもなく苦しかった。

 それなのに今は何故か、客観的に自分に起きた惨事を振り返っている。

 自分の身体がどういう状況かすら認識できないのに、不思議とこのようなことを思う意識だけは覚醒しているのだ。

 わたしの今の意識は、現世とは隔離された場所にあるように思えた。まるで魂だけが肉体と切り離されたような感覚? これって幽体離脱とでもいうのかしら? 

 何というかうまくは言えないのだけど、とにかく今のわたしはへんてこりんな状態にあるのだけは確かだ。

 暗い闇の中に、ポツンと自分の意識だけがあるような感じ。

 ここは生と死の狭間の世界なのかな?

 だとしたらわたし。

 …………死んじゃうんだろうね。

 嗚呼。なんという不幸。極めつけだわ。

 二十三歳という若さで他界する幸薄い女。

 まあ、わたしが死んだところで悲しんでくれるのは親くらいなものだ。昔からパッとしない自分には、親友や恋人はいないし、世の中から期待されるほどの才能を持ち合わせていた訳でもない。

 わたしひとりがこの世から消えた所で、世界の構造はかわったりなんてしないのだ。

 我ながらつまらない女。

 結局のところ、わたしは神様に愛されてなかったってことよね。うん。きっとそうだわ。

 子供の頃から肝心なところでは失敗ばかり。何かを望んでもそれを得ることもできず。結局は何もかもを無難に我慢させられるだけの人生だった。

 若いんだし、生きていればそのうち良いことがある?

 そんな希望にすがりついて生きていけるのならまだ幸せだよね。

 でも、死んじゃったら全ておしまい。

 わたしにはそんな希望も許されなかったということだね。

 嗚呼。不幸。

 本当に不幸。

 けれどもういいよ。慣れっこだ。今までみたいに我慢するわ。自分の死を受け入れてやるわよ。

 無様に泣いたりなんかしない。わたしは強いんだから。

 そしてもし。神様に会えるような事があればこう言ってやるんだ。

『不幸な人生をありがとう。おかげでわたしは何の未練もなく死ねました』

 うん。いいわね。最高の皮肉。

 もっともそんなこと望んだって叶う可能性なんてないけど。そもそも神様なんているかわなんないんだから。

 けれど。

「神は存在するわ」

 突然だった。誰かがわたしに呼びかけてきた。

 そしてわたしの意識の中にひとりの少女が現れる。長い銀の髪を揺らした少女が。当然ながら面識などない。

「だ、誰よ。あなた?」

 目の前の少女は何とも現実離れな出で立ちをしていた。黒と白のゴシックドレスを身に纏い、首には懐中時計、手には銀色の刃を持つ大きな鎌を持っているのだから。そして背中には光り輝く白い翼。

「私の名はユメミ。“天宮院”に所属する中級天使」

 少女は無表情にそう名乗った。

「あ、ちなみに“天宮院”ってのは天界のお役所ね。そしてアタシはナユタっていうの」

 今度は胸元にさげた懐中時計から声が響く。ユメミと名乗った天使とは対照的な軽い口調で、親しみは持ちやすい。

 …………って、いや、待て待て。

 天使の少女+喋る懐中時計って何よそれ? 童話、マンガ、アニメ?

 これはまた非現実なことこの上ない連中のお出ましね。少なくともわたしはこういったファンタジーを好む人間でもないのに、何だってこんなのが出てくるのかしら。実は心の奥底でこういう存在を信じて憧れていたとか?

 いや、それはないわね。これはわたしの趣味じゃない。

 だとするとこれは自分の意思とは関係ないところで現れたものだ。

「…………そっちの鎌は喋ったりしないの?」

 わたしは思わずそんなことを口走っていた。それに対する反応は。

「喋れるが我に何用か?」

 渋い男性の声が返ってくる。少し好みかも。

「すごい。本当に喋った」

「まさかそれだけ確かめたかったのか?」

「うん」

「そうか」

 鎌はそれ以上何も言わなかった。が、懐中時計がツッコミを入れる。

「ラグナル。アンタもうちょっと面白いこと言いなさいよね。芸のひとつでもみせたらどうなのよ?」

「それは我の役目とは関係ない」

「話芸や歌くらいできるっしょ。天界の宝具の性能をアピールしてやんなよ」

「無茶を申すな。話芸などやったことがないのだ」

「ふぅん。アタシはできるのにね。これってつまり、ラグナルはアタシより宝具としての格が下ってことだよねぇ」

「そんなもので格が決まってたまるものか」

「あ。話芸を馬鹿にしちゃ駄目よ。芸の道は奥が深いんだからー」

 懐中時計と鎌の口論。面白いかどうかは別として普段見れないものであるのは確かだ。

 それにしても何だかなあ。

 我ながら苦笑したくなるほど落ち着いている。こんな非現実な出来事に遭遇しているというのに。

 自分の死を受け入れたからこその余裕かしらね、これって。

「で、あなた達はわたしに何か用事?」

 とりあえずあちら側としては何か用事があったから話しかけてきたのだろう。そんな訳で用件をうかがうことにした。

「川瀬和代。あなたは今から、これまでの人生における過去の記憶を駆け足のように振り返ることになる。でもその中でひとつだけ、ゆっくりと見つめ返したいと願う記憶があるのならば、その光景を鮮明に見せてあげることができる」

 ユメミと名乗った天使が淡々と語る。

「過去の記憶を見せる? そんなことに何か意味あるの?」

「意味を見出すかどうかはあなた次第。ただ、これはあなたに与えられた権利のひとつというだけ」

「権利ってことは放棄もできる訳?」

「それは可能。でも、権利を行使してくれる方が私としては有り難いわ」

「仕事だから?」

「そうよ」

 目の前の天使はバカ正直だった。愛想はないけど素直さは認めてあげようと思えた。

「わかったわ。何を見たいか考えるから、少しだけ待ってくれる?」

「二時間は待たないわよ」

 懐中時計のナユタが言った。わたしは首を傾げる。

「何で二時間? 随分と具体的な数字ね」

「ナユタ。また刺激が欲しいの?」

 ユメミがナユタにそう訊ねた。刺激? なんのことやら?

「べ、べ、べ、別に刺激はいらない。ただ何となく言っただけじゃないのぉ」

「なら余計なことは言わないの」

 有無を言わさない口調だった。天使と懐中時計。彼女らの間で何があったのかは凡人であるわたしには計り知れない。いや、そんな難しいものではないのかもだけど、第三者が詮索するのもどうかってだけの話だ。

「安心して。二時間もかけないわよ。すぐに決めるから」

 とりあえずわたしはそう言って、真面目に考えてみた。

 とはいえ過去の記憶ねぇ。

 パッとしないし、ロクでもないものばかり。

 流されるように生きてきて、気が付けば死んじゃって。飛び跳ねて喜びたい出来事なんて何もなかった。

 子供の頃は欲しい物なんて何ひとつ買ってもらえなかった。お小遣いを貯めてようやく買えると思っても、売り切れていたり、ブームが過ぎ去っていたり。おまけに何度も財布を失くしたことがあり、さんざん叱られた記憶のほうが出てくる。その後は暫くお小遣いもストップされたっけ。

 学校なんかでも嫌な役目をおしつけられてばかり。いじめられっ子って訳じゃないけど、日陰の存在で損な役回りではあったかな。いじめを苦に自殺するような子と比べるのはどうかと思うけど、あれはあれで辛かったんだよ。ま、運がないってことで諦めて我慢してきたけど。

 嗚呼。やっぱりロクでもない。情けない。不幸すぎる。

 思い出したい過去の記憶なんて何もない。むしろ思い返すだけ拷問。

 もしかして今この瞬間の出来事も神様の意地悪じゃないの?

 だとしたら、わたしをどこまで苦しめる気かしら。

 …………まあ、いいわ。これも自分の運命ならばそうと割り切って最後まで我慢するわよ。

「いいわ。決めた」

 わたしは自分で見つめ返したい記憶を決めた。

「いつ頃の記憶?」

 ユメミが訊ねてくる。

「七年前の十月十三日。十六時半の記憶」

「具体的ね」

「うん。人生の中で一番忘れられない日だから」

「わかったわ。とりあえずその時の記憶を鮮明に見つめ返させてあげる」

 ユメミはそう言うと懐中時計のナユタをそっと掲げ上げ、朗々とした声で詠唱のような言葉を紡ぎだした。

「夢へ誘え。過去へ誘え。追憶の果てに、望みの光景を今一度見据えんが為に」

 言葉と共にナユタの針が高速で逆回転をはじめる。まるで時間を遡るように。

 その後、針は一旦止まり、今度は正常に回転してゆく。と、同時にわたしの脳裏にぼんやりと映像が流れはじめた。

 まず赤ん坊がいる。その子が誰なのかわたしにはすぐにわかった。

 その子は産まれたてのわたし自身。

 そこからものすごい速さで未来へと記憶が流れてゆく。幼稚園、小学校、中学校。そして、高校の時代へと。

 段々と記憶の流れが緩やかになってきた。そして突然、鮮明な光景が甦る。

 嗚呼。これだ。わたしが望んだものは。

 その光景は高校の校舎の裏側。物悲しくも優しい、秋の夕暮れに包まれた世界。

 制服姿の当時のわたしが、そこで人を待っている。

 期待と不安を胸に、ある人を待っている。

 その相手はわたしが恋をしたクラスメイトの男の子。自分と一緒で、押し付けられるようにクラスの学級委員になった子だけど、共に仕事をするうちに好意が芽生えたんだ。

 こういうと失礼だけど、彼もパッとする子じゃなかった。でも、やる時はやる。任された以上は最後まで責任を持つタイプ。

 わたしもそんな彼に引っ張られる形で学級委員の仕事を頑張れた。

 恋は人を盲目にする。よく言われる言葉だけど、その時のわたしはまさにそれだった。

 彼の気持ちなどお構い無しに一人で盛り上がっていたのだから。

 そして遂にはラブレターまで送って、こんな校舎の裏にまで呼び出しているのだ。

 本当、何を考えているんだか。ちょっとくらいは良い雰囲気に思えたのだろうけど、勘違いも甚だしい。

 当然ながら結果は玉砕。それもただフラれるのとは訳が違った。

 彼を待つわたしの元へやってきたのは、クラスメイトの別の男子たちだった。

 その男子たちは小馬鹿にした笑みを浮かべながら、わたしにあるものを突きつける。それは彼宛に送ったラブレター。

「どうして?!」

 記憶の中のわたしはそう叫んでいた。

「ゴミ箱に捨ててあったのをオレたちがみつけたんだよ」

「えっ?」

 男子たちのその一言は衝撃すぎて最初は信じられなかった。そもそもこの男子生徒たちはクラスの中でも素行の悪い奴ら。

「あなた達が強引に奪ったんじゃないの?」

「マジで捨ててあったんだって。しかし、おまえすげぇこと書いてんな。『あなたを想うだけでわたしの心臓はマラソンを終えた時のように苦しくなるの』って。何だよ、コレ? マラソンって例えが訳わかんねぇ。ってか、おまえセンスないよ」

「こっちのもすごいな。『あなたとなら穏やかな家庭を築けると思う。でも、子供は二人以上欲しいかも』。……飛躍しすぎだろ」

 文面を読み上げながら爆笑する男子たち。

「やめてやめてやめてっ!」

 わたしは耳を塞ぎ、半狂乱に喚きながら懇願した。けれど男子たちは容赦してくれない。

 でもそこへ。待ち望んでいた彼が先生を伴って現れた。

 わたしを助けに来てくれたのだ。

 先生が来てからはイヤな男子生徒も逃げるように散っていった。わたしは先生と、何より彼に感謝しようとした。

 やっぱりあなたを信じて良かった、と。

 けれど。彼から告げられた一言は冷たくわたしに突き刺さる。

「迷惑だから、もうこんなことはしないでくれ」

 苦い表情だった。呆れた表情だった。

 その時、わたしは悟ったのだ。ラブレターがゴミ箱に捨てられていたのは嘘じゃないことを。

「ご、ごめんなさい」

 わたしはそう呟くので精一杯だった。

 それから後は、彼との間に大きな溝ができる。

 彼が露骨にわたしのことを避けていたから。完全に嫌われていた。

 初恋は最悪の形で幕を閉じたのだ。

 嫌われてまで想い続ける勇気なんてわたしにはない。

 それまでの人生も良いことなんてなかったけど、完膚なきまで叩きのめされたのはこの出来事が一番。

 醜いまでに恋焦がれて、辿り着いた結末がこれ。

 自分自身、これほど何かを望んだ事は初めてだったというのに。

 正直、この時は死にたいと思った。学校にも行きたくなかった。

 けれど両親はそれを許してくれない。だから平静を装い、心を殺して学校に行ったわ。

 我慢した。じっと耐えた。自分は不幸なんだって割り切って。そしてまた…………我慢する。

「…………ありがとう。もういいわ。この回想を終わらせて」

 これ以上、この光景を見続けるのは惨めだ。わたしはユメミに呼びかけるように言った。

「本当にいいのね?」

「うん」

「わかったわ」

 目の前にユメミが現れ、優美な動作で銀の大鎌を一閃する。と、この記憶の世界は、バッサリと切り裂かれて消えてゆく。

 その後はまた流れるような速度でわたしの人生が映し出される。高校を卒業し、大学、そして社会へ。

 記憶が現在の時間に至ったところで闇が訪れた。この場にいるのはわたしとユメミたちだけ。

 ま、何にしても心の整理はより一層ついたかな。

 あの悲惨な失恋と比べたら、自分の死のショックなんてまだマシに思えるから。

 わたしがあの記憶を回想したのはそれが理由。

 自分の死は、ロクなことのない人生からの解放とでも考えればいい。うん、前向きだ。それでいいわ。

「ありがとうね、ユメミ。もう思い残すことはないわ」

 わたしはそう言った。

 だが、彼女の表情をみて「えっ?」となる。

 なんとユメミが泣いていたから。肩を震わせて涙を流しているのだ。

「ちょ、ちょっとユメミってば。どうしたのよぉ?」

 ナユタもこれには驚いている。しかしユメミはそれには答えず、わたしに対して言った。

「あなたが泣かないから、私が代わりに泣いているの。この涙は本来、あなたが流すべきものよ」

 淡々とした言葉ではあったが、それはわたしの胸に大きく突き刺さった。

 でも、すぐに反発の気持ちがわきあがってくる。それはあまりにもドス黒いものに思えたが、抑えられない。

「ちょっと止めてよ。同情? そんなのいらないわ!」

「でも、誰かが涙を流さないと、あなたは自分の心に素直になれない」

「意味わかんない! それってわたしも泣けってこと?」

「本当ならそれが一番いいわ」

「冗談じゃないわ。嫌よ。泣いたって惨めになるだけじゃない。わたしは泣かない。泣いたら弱くなる。それだけは嫌だったから、今までどんなに辛いことがあっても泣かなかったのよ。泣いても仕方ないのよ。そう割り切ってる。昔からそうやって我慢して、諦めて、納得してきたんだから」

 吼えるようにして、わたしは一気にまくしたてた。

 しかし。今まで殆ど喋らなかった大鎌のラグナルが一言告げる。

「娘よ。それは間違っているぞ」

 断言された。否定された。人ならざる者に何がわかるってのよ!

 そう思いつつも、わたしはラグナルの一言に大きなダメージを受けていた。そして。ユメミが言葉を続ける。

「我慢して諦めたことなんて、本当の納得になりはしないわ」

「……………………っ!」

 それはトドメだった。

 今まで考えないようにしていたこと。でも、本当はわかっていたこと。

 だけど。

 今更。

「どうすればいいのよッ!」

 叫んでいた。心の底から、容赦なく叩きつけるように。

 けれどユメミは臆することなく静かに答えを述べた。

「泣きなさい。泣いて強くなれることもあるのだから」

「でも……」

「いま泣かなくてどこで泣くの? 泣いて弱くなるなんて嘘よ。それで弱くなる人なんて元々弱いの。逆に泣かなかったとしても、その人が強いなんていう証明にもならない」

 そこまで言うとユメミはわたしを抱き寄せ、頬と頬を重ね合わせてくる。湿った感触が伝わった。

「川瀬和代。この涙。あなたに返すわ」

「……うっ……」

 わたしの中で、長く封じてきた感情が込み上げてくる。

 嗚咽が漏れだす。でも、もうそれだけでは我慢できない。

 だから思い切り泣いた。

 わんわん声をあげて泣いた。

 ユメミは静かに抱きしめていてくれる。なんだか恥ずかしい光景だろうね。

 だって、見た目だけでいえば、彼女はわたしよりも年下。天使に年齢という概念があるのかはわからないけど、自分より年下にみえる少女に甘えて泣きじゃくるなんて、見栄えのよいものじゃない。

 けれど、涙を流すにつれて、心の中で澱んでいたものがなくなってゆく。

 泣いてよかった。今、本心からそう思う。

 強くなれるかはわからないけど、今ならこれまでと違った形で物事を考えていけそうな気はした。

 

 

 

 

§

 

 

「いや〜。ユメミが泣いた時にはすごくビックリしちゃったわよ」

 夕暮れの空の上。自らの役目を終え、和代と別れてからの帰途の最中、ナユタがそう話を切り出した。

「そんなに驚くことじゃないわ」

 ユメミは素っ気なく返事をする。

「いやいや。あれは驚くわよ。アタシもユメミのパートナーやって長いけど、あんなユメミは初めてみたもん。でも、演技であんな風に泣けるってすごいよね」

「演技?」

「だってそうでしょ。あれって和代をもらい泣きさせるための演技だったんじゃないの?」

 ユメミはキョトンとなり、暫く何も言わなかった。

「あれれ? 違った?」

 ナユタが戸惑ったような声をあげる。そこへラグナルが容赦なく言葉を挟む。

「お主は人の心の機微がわかっておらぬな」

「むぅっ。ラグナルってばまた喧嘩売ってる? そもそもアタシたち宝具に人の心の機微なんてわかる訳ないじゃん」

「確かにそうではあるな。人ならざる我らでは完璧にそれを理解することはできぬ。しかし、ユメミのパートナーとして気持ちを察すことはできる」

「……何が言いたいのよ」

 遠まわしなラグナルの言葉にナユタは苛立ちを隠さない。

「ユメミが涙を流した時、お主はユメミが震えていたのを感じはしなかったか?」

「うーん。どうだろ。言われてみれば何となくそんな気もするけど、だからどうだっていうのよ」

「あれはユメミの感情のあらわれであり、本気で泣き、悲しんでいた証拠だ」

「もういい、ラグナル。恥ずかしいから止めて」

 ユメミが憮然としながら言う。珍しく感情的でもあった。

 だから、ナユタもそれで納得する。

「あれって本気で泣いてたんだー!」

「悪い?」

「いや〜、別に悪いなんて言わないけど、ユメミって意外と涙もろいのねぇ〜」

「馬鹿にしたような言い方ね」

「そんなことない! そんなことないってば!」

 ユメミの言葉に微かな殺気を感じたナユタは慌てて弁解する。そして、今度は真面目な口調で訊ねた。

「でもさ、何であんな娘の為に本気で泣いてあげた訳? 最後は素直になったとはいえ、結構ひねくれた考えの女性だったじゃない」

「やはり可哀想だったからよ。素直になることは大切だったけれど、実際は素直になれても、もう取り返しがつかないことだとわかっていたから。人生をやり直したいと願っても、彼女には還るべき場所がない。肉体という器の損傷が激しすぎる」

 やるせない口調でユメミは言った。

「へ? 肉体の損傷なんて関係あんの? そんなの関係なく彼女は死ぬわけなんだし」

「…………ナユタ。それは違う」

「何が違うのよ。アタシたちが会う人間は、死すべき運命の人ばかりでしょ?」

「それは間違いよ。私たちが出会うのは“死の淵に立った人間”というだけで、必ずしも“死を迎える人間”じゃないわ。戻るべき肉体と強靭な意志があれば、死の淵から甦っていく人間もいる」

 ユメミは死神ではない。

 彼女の役目は、生と死の分岐路に立つ人間に過去を見せることであり、死に誘うのが仕事ではないのだ。

 そして原則的には、その過去の記憶に干渉することも許されていない。

 死の淵で垣間見る過去の記憶から、何を考え、何を思うかは、個々の人間の問題。人生最後の思い出として受け入れる者もいれば、もっと生きたいと願う力にする者もいる。

 だが、生きたいと願っても、肉体という器が限界を迎えていれば、その願いはもうかなわない。

 こういう言い方をするのも何だが、和代がそのことに気付かず、生に執着しなかったのは不幸中の幸いともいえた。

 でも、ユメミにすれば心苦しい気持ちはある。望みもしなかった死を与えられ、最後まで我慢と諦めに耐えようとした和代に、深い憐れみを感じてしまうのだから。

「私は彼女を……少しは楽にしてあげられたかしら」

 誰に訊ねるつもりでもなく、独り言のように呟く。

 そこまでの感情を抱くのは、本来ユメミが成すべき役目とは関係ないかもしれないが、このことは後で日誌にも書きまとめようと思う。

「ま、楽にしてあげられたかどうかはともかく、アタシにはひとつわかってることがあるよ」

「それは?」

 ナユタの言葉にラグナルの方が関心を持つ。

「ユメミはやっぱり優しいねってこと」

「今更だな……と言いたいところだが、お主もそれがわかっているならパートナー合格だ」

「その上から見たような言い方やめてよねぇ」

 パートナー二人?の軽口にユメミの表情がふっと和らぐ。そして。

「とりあえずお喋りはここまで。早く帰りましょう」

 これ以上は少し照れくさいのでそう促す。感情を表に出さないよう素っ気なく。

「あ。ユメミってばもしかして照れてる?」

 ナユタがからかうような口調で言った。

 こういうどうでもよい所には察しが良い。

「うるさい」

 ユメミは懐中時計を外すと迷いもなくそれを落とす。

で、タシだけぇぇぇぇぇぇぇえええ〜〜〜」

 空にこだまする情けない声。

 勿論、そのあと助けてはもらえるのだが、ナユタは思った。

(…………前言撤回。ユメミは優しくない! 少なくともアタシには)

 

 けれど、それでもナユタはユメミの事を嫌いだとは思わなかった。