人は死の淵に立ったとき、これまでの人生を追憶する。
もしその記憶の中で、鮮明にひとつだけの出来事を見ることができるのであれば、
あなたはどの記憶を見ることにしますか?
episode.T
【優しい泣き声】
§
ゴシック風のドレスを着た銀の髪の少女が、分厚い革表紙の日誌を閉じ、羽根ペンを置く。
そして。近くにあるティーポットから紅茶を注ぎ、一息つく。
「日誌、書きおわった?」
声がする。軽い調子の娘の声。
「うん。ようやくね」
少女が静かな口調で答える。が、この部屋には彼女以外の者の姿は見えない。
「毎度のことながらお疲れ様〜」
労いの言葉は机の上からかかる。そこに人がのっかっている訳ではい。声を発しているのは、無造作に置かれた懐中時計からだった。
「そう思うのなら変わって欲しい」
「変わってあげたいのは山々だけど、アタシは身体をもってないしね。でもイイじゃん。“天宮院”の中でも、ユメミは字が綺麗だって評判なんだから。上から褒められたら悪い気はしないっしょ?」
「そのおかげで余計な仕事も増えているから、良いことばかりとは言えないわ」
ユメミと呼ばれた少女は淡々と言い返す。
「ま、ユメミはお仕事が丁寧な事でも有名だもんね〜。もうちょっと手を抜いてもいいのに。日誌にしてもバカみたいに長いし。二〜三行程度でいいじゃん」
「いくらなんでもそれは手を抜きすぎ」
「じゃあさ、絵をつけて表現するとかどうよ? 見る側も楽しくなるかもよ」
ゲラゲラと愉快そうに笑う懐中時計。
「それも駄目。お遊びじゃないんだから」
「でもさ〜、何かめんどくさいよね」
「あなたは何もしてないでしょうが」
「何もしてないけど退屈だよ。日誌書いてる時のユメミって、全然アタシに構ってくれないし。あ〜ん、退屈、退屈ぅ〜」
駄々をこねる懐中時計にユメミは苦笑する。
それと同時に今度は部屋の壁際から渋い男性の声が響いた。
「ナユタ。お主はやかましすぎだ。目覚ましでもない時計がギャンギャンと喚くでない」
壁際にも人の姿は見えない。声を発しているのはそこに立てかけられた大きな銀色の鎌だった。
「何よ、鎌公。またお説教のつもりぃ?」
「失礼な。誰が鎌公だ。我にはラグナルという立派な名前があるのだぞ」
「あいあい。ラグナルね。わかってます。しってます。アンタみたいにボケたオッサンじゃないんだから」
「ボケたオッサンでもないわっ! ナユタ、お主のその軽口、もはや聞き捨てならぬ」
「何よ、やる気だっての?」
人ならざる“物”たちの間に険悪な空気が流れる。
ユメミは深い溜め息をついた。
「ナユタもラグナルも止めなさい。口喧嘩するのは勝手だけど、あなた達が騒いでいると、私がくつろげないでしょ。せっかく一息ついたというのに」
「む。我としたことが……すまぬ、ユメミ」
ラグナルは素直に謝罪の言葉を述べた。一方のナユタはというと。
「やーい。鎌公、注意されてやんの〜」
何を聞いていたのか、こちらは反省の色は無し。
そこでユメミはナユタを机から拾い上げ、頭上より高い位置に掲げ上げる。そしてボソリと一言。
「床に叩き落とすわよ」
「ひ〜〜〜〜。やめてぇ。反省する。します。だから壊さないでぇ〜〜」
「本当に?」
「う、うん。今だけはおとなしくしますぅ」
“今だけ”というのが何とも正直な限りだが、そこがナユタの憎めない所でもあった。
ユメミはナユタを机の上に戻す。
「あ〜。怖かった。ねぇ、ユメミ。アタシたち神具はもっと大事に扱おうよね。まがりなりにも天界の宝なんだから」
「それ相応の扱いを望むのであれば、それ相応の性格になりなさい」
「ユメミ、手厳しい」
「だが、それでこそ我のマスターとして相応しい」
ラグナルが心酔したように呟く。
と、その時。何もない空間から一枚の紙切れがあらわれ、ユメミの手元に降ってくる。
「おんや。また仕事?」
「そうみたいね」
手に取った紙に目を通しながら、ユメミがナユタに答える。
「とりあえず下界へおりるわよ」
「ほいきた。アタシたちの本業の方ね。事務仕事にもいい加減、飽き飽きしてた所なのよねぇ」
「…………だから、あなたは何もしてないでしょうに。それと事務の仕事も本業の一部に変わりはないから」
「ユメミってば細かい」
「ナユタが大雑把すぎるだけ」
「でも、アタシが役に立てるのは出張先でのことなんだから、アタシにとってはそっちが本業みたいなものよ」
「そういう意味では納得」
ユメミは頷いて立ち上がると、ナユタに鎖をつけ、それを自分の手首に巻きつける。
「ラグナル、行くわよ」
「承知した」
壁に立てかけられた大きな銀の鎌を手に取り、小さなドレスハットを被る。
出発の準備は整った。
部屋を出ると、どこまで続くのかと思えるほどの、眩い白さの廊下が目に飛び込む。ここが“天宮院”。いわゆる天界の役所だ。
しばらく白い廊下を歩くと、外へと吹き抜けになった広間に来る。そこでユメミの背中に、光で形づくられたかのような白い翼が現れた。
「…………出発」
ふわりと舞い上がり、光の大空へと羽ばたく。
いざ赴くは下界。死の淵に立った人の夢の中へ…………
§
「貞治」
苦しさは峠を越え、もはや安らかともいえる気持ちだった。
自分でも理解している。もうすぐわたしは死ぬのだと。
まあ、これは寿命というものだから仕方のないことだろう。普通の人並みには長く生きられたと思う。贅沢を言えば、あと五年くらいは生きていたい気もしたが、それは無意味な欲かもしれんな。
更に長生きしたところでわたしには目的など…………いや、待て、目的はあったか。
死ぬ前の土壇場になって目的ができたのだから、何とも皮肉な話じゃないか。
これは罰なのかもしれんな。
周囲のことなど省みることなく、自分のことしか考えてこなかったわたしへの。
社会一般で見れば、わたしは成功者だった。大企業のトップとして財を築き上げたのだから。
だが、その成功は多くを犠牲にして成しえたものだ。友人や家族すらも捨て、わたしは常に自分の思い描く道だけを進んできたのだから。
もっとも、別に犠牲にしたくてした訳じゃない。悪いのはわたしについてこられない周りなのだ。そう思っていた。
わたしは自分に自信があった。己の信念を貫いて生きているという陶酔があった。
波瀾万丈。それに立ち向かう事こそ、男の生き様に相応しい。だから、それ以外の平凡な人生を送るやつに興味もなかったし、生ぬるく生きているやつには反吐の出る思いもあった。
しかし、その考えはやはり間違っていたのだろうな。いや、厳しすぎたというべきか。
多くの者は穏やかで平凡な人生を望む。だが、それを維持することも決して容易ではないことに、わたしは気付こうともしなかったのだから。
周囲の何もかもを犠牲にしてきた自分にはわからないこと。
今更である。
わたしはゆるやかに死への坂をすべりおりていた。何も見えない、ただ暗いだけの夢の空間。
もう上に戻ることはできないだろう。
戻りたくてもその力がない。これが寿命を終えるという事かもしれない。
客観的に自分の死をみつめるというのも妙な気分だがな。
そして、こういう奇妙な状態の時は、更に変わったものをみてしまうのだから不思議なものだ。
気が付くと、わたしの横に見知らぬ少女がいた。黒と白のドレスを身にまとった、長い銀の髪の少女。手には大きな銀の鎌を持っている。
少女という姿は想像しなかったが、大きな鎌で連想できるものはあった。
だが、彼女はわたしの心の中を読み取ったかのようにして言う。
「私は死神じゃない」
「ほほぉ。ではおまえさんは何者だというのかね?」
わたしは訊ね返した。自分でも驚くほど落ち着いている。死に向かうわたしに恐怖など無いということか。
「私の名はユメミ。“天宮院”に所属する中級天使」
「天使ときたか。なるほど。確かにどこか浮世離れはしておるな」
「あ〜〜。なんかバカにしたような言い方ぁ〜」
目の前の少女とは異なる娘の声がした。それはこのユメミと名乗る天使の左手あたりから聞こえる。
見るとそこには懐中時計があり、声の主はその時計であった。
時計が喋るとは。わたしはどんどんと現実の世界から離れつつあるようだ。
「すまない。別に悪気があった訳ではないんじゃ。許してくれんかね?」
「私は気にしてないわ」
ユメミという天使が素っ気なく答える。
「ま、ユメミがそういうならアタシも許してやるわよ」
「ナユタ。あなたは少し黙ってて。会話の邪魔」
「ぶーぶー」
容赦なく注意され、ナユタと呼ばれた懐中時計は拗ねたように黙った。
何とも人間くさい時計だ。
「それはそうと、おまえさんらはこのわたしに何用かな。天使というくらいだから天国とやらへ連れていってくれるのか?」
わたしに天国にいく資格があるのかはわからないが、地獄と言われるよりは天国の方が良いに決まっている。
「天国へは私が何もしなくとも行けるわ。私はあなたに過去の記憶をみせにきただけ」
「過去の記憶?」
「そう。あなたは今から駆け足で過去の記憶を見ていくことになる。その記憶の中で、特にゆっくりと振り返りたいものがあれば、ひとつだけそれを鮮明に見せてあげることができる。藤堂貞治、あなたはどの瞬間の記憶を鮮明に見たいです?」
「どんなものでも良いのかね?」
「勿論」
…………過去の記憶の中で鮮明に見たいものか。それも“ひとつだけ”。
様々な栄光はあったが、その裏で犠牲になったものを考えると、どれも今更思い返したいものなどない。
それともそういう苦い過去も見つめ返した上で、犠牲にしてきたものへの罪滅ぼしとすべきか。
ふん。
殊勝な考えかもしれんが、それでは自己満足ではないか。
そんな中身のない自己満足にすがるくらいなら、普通に幸せな記憶を見てこの世を去りたい。わたしも弱い人間だからな。
「よし、決まった。わたしが鮮明に思い返したい記憶は……」
わたしはユメミと名乗る天使に自分の思いを伝える。
彼女は納得してくれたようだが、ナユタという懐中時計は驚いたようだった。
「マジでそんなのでいいの、おじいさん?」
「ああ。わたしはそれを思い返したい。もう一度、鮮明に見たいのだ」
「物好きにも程があると思うけど」
「ナユタ。余計な事は言わない。私たちは黙って願いをかなえるだけ」
「へいへい」
そこで目の前の天使は、懐中時計を目線の高さにまで掲げ上げる。
「夢へ誘え。過去へ誘え。追憶の果てに、望みの光景を今一度見据えんが為に」
天使の朗々とした声が響くと同時に、懐中時計の針が凄まじい速度で逆回転をはじめた。
どれほど戻ったことだろう。その回転は一定の所で止まり、今度はまた凄まじい速さで正常に回転してゆく。
「あ…………」
時計の回転に合わせ、わたしの脳裏に何かが映し出されてゆく。それはまるで通過列車のような速さで流れていくが、間違いなく過去のわたしの記憶だった。
長い人生。ただただ前に突き進むだけの人生。
築き上げたもの。うしなったもの。
けれど。うしなったと思っていたものは、実はうしなわれていなかったのかもしれない。
脳裏に映し出される光景がゆるやかになってゆく。
同時にその光景は脳裏に映るものから、自分の目の前に広がるリアリティーのある世界へと移り変わる。そして記憶は、わたしが思い返したいと願った場所にまで辿り着いた。
……………
……………………………………
泣き声がした。小さな少女の悲しそうな泣き声。
「おじいちゃん。おじいちゃん。死んじゃ嫌だよ。元気になって」
少女は病院のベッドに横たわる老人に何度も何度も呼びかける。
呼びかけられている老人というのは、わたしだった。
これはつい先程までの記憶。時間にして一、二時間も経過しておらんだろう。
そんな記憶の光景を、いま客観的に見つめている自分がいた。
わたしは、この泣き続ける少女と話したことはない。会うのもはじめてだ。だが、この子がわたしの孫であるということだけは伝わってくる。
この子の隣には母親とおぼしき女性が立っておるが、その彼女には別れた妻との間に生まれた娘の面影がある。
わたしには一人娘がいたが、離婚を機に娘は妻の側に引き取られていったのだ。まだ小学生だった。
………………
つまるところ、少女の母親はわたしの一人娘ということだ。随分と会わないうちに大きくなったものよ。
そして。優しく育ったようだな。
どこで知ったのかはしらんが、こんな老いぼれをわざわざ看取りにきてくれるのだから。
まあ、わたしは良くも悪くも有名人だ。危篤をテレビで報じられていてもおかしくはない。きっとそれで知ったのだろうな。
恨まれて当然のことをしたというのに、このように悲しみにきてくれるとは。
さすがに別れた妻の姿まではなかったが、そこまで望むのは贅沢というものか。
泣き続ける孫と悲しみをこらえている娘。今すぐ目を覚まして、元気に語りかけてやれたらどれほど良いだろう。
いまのわたしならきっと、良い“おじいちゃん”になれる気がした。
五年とは言わない。せめてあと一年、娘たちと過ごせる時間があれば、わたしは過去の罪を少しは償えるかもしれんというのに。
だが、それはもうかなわぬことだ。自分自身が理解している。
その気はあっても、身体が限界を訴えておる。老いるという事はそういうことなのだ。
まあ、しかし。
贅沢を言わなければ、上出来な人生の幕引きだとも思う。
娘や孫に看取られて息を引き取る。打算など何もなく、悲しんでくれる者がいてくれるという事実。
父親としては何ら誇れるような人生を歩いてこなかった自分だが、人並みに家族に看取られたいという願望はあったらしい。そういう意味でもこの状況は、わたしにとって悔いの少ない最期といえるだろう。
まったく幸せ者である。
好き勝手に生きてきて、最後も自分の望む形で死ねるのだから。
だから、泣いている孫に言ってやりたかった。
(おじいちゃんは今とても幸せだから、あまり悲しまないでおくれ)
と。
孫の優しい泣き声。わたしを想って泣いてくれている。
申し訳なくもあり、嬉しくもあるという不思議な気分。
「天使さんや。最後に良いものをみせてくれて感謝するよ。わたしはもう何の悔いもない」
わたしはユメミと名乗った天使に呼びかけた。
もう十分だ。自分の心の整理はついた。これ以上、この光景を見続けることはかえって現世への未練を残すだけになろう。
「本当にもういいのね」
ふわりと姿をあらわすユメミ。わたしは静かに頷いた。
「ああ。いい」
「ならば記憶の旅もここで終わり」
ユメミという天使は、手に持った大きな銀の鎌を振り上げ、この記憶の世界を断ち切るかのように一閃する。
すると目の前に映し出されていた光景は霧散してゆく。
あとに残ったのは暗い闇。死に続く坂道。
「わたしの仕事はここまで。あとはそのうち死神が導きにきてくれる」
「そうか。ありがとう。世話になった」
わたしはこの天使に心から礼を述べた。穏やかな笑顔で言えたと思う。
笑顔などどれくらいぶりのことか。
「良い笑顔だわ。本当に悔いのない男の笑顔」
微笑するユメミ。
「おまえさんのような存在にそう言ってもらえると、まんざら悪い気はせんな」
「何。爺さん色気づいた?」
懐中時計ナユタの容赦のない突っ込みに、わたしは大声で笑った。
「まさか。じゃが、これから赴く天国というのも少し楽しみにはなってきたよ。おまえさんらのような者もおるのなら、それはそれで退屈はせんじゃろうて」
「爺さんってば前向きねぇ」
「そういう性分なのかもしれんな」
なんとも愉快な気分だった。自分の中でも色々と吹っ切れたのだから。
とりあえずわたしは笑顔で逝く事にしよう。
誇らしい笑顔で堂々とな。
優しい孫や娘に心配をかけない為にも、わたしは笑顔を浮かべてこの世を去っていることを祈ろうではないか。
§
ユメミは見届けた。藤堂貞治という老人が笑顔のまま息を引き取る姿を。
彼を看取った家族たちも、直後でこそ悲しみに暮れていたが、やがてには納得をする。
安らかな笑顔で逝けたのであれば、きっと悪い人生ではなかったのだと信じて。
「生前の事はあまり知らぬが、中々に潔い老人であったと思う」
夕暮れの空の上。全てを見届けて佇むユメミの手の中で、銀の大鎌のラグナルが呟く。
「そうね。苛烈に生きてきた彼の人生を思えば、穏やかな幕引きではあったわ」
ユメミも静かにそう答える。
「とはいえ、思い返す記憶が死の直前のものだなんて、ほんと物好きな爺さんだと思うよ。たった数分前のことなのに」
ナユタが軽口を叩く。
「でも、それがあの老人にとって大事なものだったのよ」
「見届けたからアタシもそれはわかるよ。ただ、なんか淋しいなって思う。最後に家族の愛に気付けたのは幸せなことかもしれないけど、逆を言えばそれまでの人生を否定しちゃってるような気もしてさ。せっかく長く生きてきたのに勿体ないと思わない?」
「思わないわ」
素っ気なくユメミが言い放つ。
「え〜〜〜。なんかそれって冷たくない」
「別に他人事のつもりで言ってる訳じゃないわ。ただ、あの老人なら大丈夫だと思う」
「どうして?」
「彼は前向きだから、決して自分の人生を全否定するなんてことはない。周囲の多くを犠牲にしてきたとはいえ、大きな富を築ける程の成功者よ。その陰には何だかんだで賛同者だっていた筈だから、終始孤独だった訳でもないわ。そんな人生を完全に否定することは簡単なことじゃない」
「我もそれには同感だ。今でこそ家族に対する悔悟はあるかもしれんが、それでも彼にとって悪いだけの結果ではなかったのだ」
ラグナルも言った。
周りを犠牲にしながらも己の信念をつらぬいて、ある種の成功を勝ち得た老人。だが、彼が思っているほど、実際は誰かに恨まれていたわけでもない。
少なくとも彼の心の根っこにはちゃんと人の心は残っていた。そこに憎みきれない何かがあったともいえるだろう。
「…………百パーセントと言わないまでも、あの爺さんは爺さんで幸せってことか」
「うん」
そっと頷くユメミ。
「“天宮院”へ帰りましょう。戻ったらまたこのことを日誌に書きまとめないと」
「むぅぅ。まためんどくさい事務仕事か」
「やるのはあなたじゃないでしょ」
「そりゃそうだけどさ。でも、待ってるの退屈。あ〜あ、何でこんなことわざわざ日誌に書かせるかなぁ、上役も」
「仕事だから仕方ないわ」
「そうじゃなくてー! こういう記録に何の意味があるかってことよ」
「さあ」
「何よ、その興味なさそうな反応」
ナユタは不満そうな声をあげる。これが人間なら口でもとがらせていそうだ。
「上の者には上の者の考え方があるのでしょう。私がとやかく知っている必要なんてないわ」
「ユメミって真面目な割に、こういうところはアバウトなのね」
「知りたいと思ったら、またその時に知ればいい。でも、私は自分なりの考えをもって日誌を書いているわ」
「ほお。それは?」
声をあげたのはラグナルだった。
「私は日誌を書きながら人間を深く知ろうとしているの。人間を導くのが天界の者の役目だとすれば、導く相手を知ることは大事なこと。人間だって理解のない私たちに導かれたくはないでしょうしね」
「人の上に立つものとしての、心得といったところか」
「そこまで傲慢なつもりはないけどね」
ユメミはそこまで言って眼下に広がる世界を見つめた。
「ただ、人間は切なくて愛おしいの」
人間は愚かだが、強かでもある。
弱いからこそあがき、困難を乗り越えようともする。
それは天界に属す高みの者とは無縁の性質だ。故に興味があるのかもしれない。
けれど。
果たしてそれだけの理由なのだろうか?
実のところは別の理由があるのかもしれない。ユメミは時としてそう思うことがある。
だから彼女は自問する。が、まだ答えにはいきつかない。
本当に別の理由があるのかすらわからないのだ。ただ、漠然とそう思うだけだから。それは出口のない迷宮である可能性だってある。
それでも焦る気持ちはなかった。
今はゆっくりと記録を続ければ良い。
それがユメミの仕事。
自分自身への心の探求は、その中でゆるやかに進められたらそれで良いのだ。