月下夢想

 

 

 

§

 

 

 冷たい長雨が容赦なく私たちを打ちつける。

 それをしのぐことすらできない私たちは、ただ地の底で動くこともできないまま、死を待つだけの存在なのだろうか?

 古い枯れ井戸の底。誰の助けも望めないような場所で、私たちは既に三日の時を過ごしている。

 もっとも、自分たちを見つけてくれる誰かがいたとしても、それが助けになるという保障はない。

 理由は簡単。

 私たちは都の兵に追われる身だから。でも、罪を犯したつもりはない。

 ただ、寵われの身から逃れたかった。もう一度、自由に外の世界をみてみたかった。生まれた国に帰りたかった。

 だから。

 私は彼が差し伸べる手を取った。私を逃してくれると約束してくれた、彼の手を。

 けれど今は。

 その彼の手も、温もりが消え去らんばかりに冷たい。

「…………京也さま」

 祈るようにつぶやいて、私はその人の手を強く握る。

 すると彼は、閉じていた目をそっと開いてくれた。

「瑠璃殿か?」

 弱々しい声ではあったが、彼ははっきりと私の名を口にする。

「はい。お身体の方の痛みはいかがでございますか?」

「痛みはもうさほど感じぬよ。だが、身体は意に反して動いてはくれぬ。それに目も霞んでおるな」

 京也さまは穏やかに仰るが、それでも彼の具合を察するには十分すぎる言葉。

 この井戸に落ちた時、私をかばった京也さまは全身を強く打ちつけていた。満足に手当てもできない状況の中、彼はただ静かに痛みに耐えていた。

 私に出来る事といえば、その手を握って見守ってあげることくらい。

 でも、私の手や身体も長雨に打たれて冷え切っている。互いに冷え切った状態で温もりを分け合うにしても、たかだか知れていた。

「それにしても無念なものよ。このままでは貴女との約束、どうにも守りきれそうにない。本当にすまぬ」

「何を仰います。京也さまは何も悪くはありませぬ」

「だが、約束を守れそうにないのは事実。謝らねば、俺の気が済まん」

「律儀すぎますわ」

 感情をこらえながら、そう答えるのが精一杯だった。

 世の出来事に疎い私でもこれだけはわかる。京也さまの命がもう尽きかけようとしていることくらい。

 気を緩めると大声で泣いてしまいそうだった。みっともなく喚いてしまうかもしれない。

 でも、それだけは絶対にしてはいけない。先に逝く者にすがって泣き喚くなど、相手に余計な苦しみと未練を与えるだけ。

「ありがとう京也さま。あなたのそのお言葉だけで、瑠璃は何も恨む事などございません」

 彼を安心させてあげたいという意味もあるが、それは私の偽り無い言葉。

 寵われの自分を救い、願いを叶えてくれようとした彼にどのような恨み言をいえるというのか?

 都を離れ、追っ手におわれる日々は決して楽なものではなかったが、ただ飼われていた人形のような状況とは違い、人間らしく生きてあがけたと思う。

「優しいな、瑠璃殿は」

「そのような気持ちになれる相手がいればこその優しさです」

「なるほど。ならば俺は瑠璃殿の優しさを受ける意味では、それに値する男と考えても良いのだな」

 京也さまは口もとを緩め、ほんの少しだけ笑みを受かべる。

 力強い笑みではないが、見る者をほっとさせる笑みだ。

「今、このようなことを申すのも無粋かもしれぬが、瑠璃殿のお顔、もう一度はっきり見たかったものよ」

「雨と泥にまみれて、見栄えするものではないと思いますが…………」

「そうか。ならば瑠璃殿に恥をかかせるわけにもまいらぬな。いらぬことを申した」

「お気になさいますな」

「俺の瞼には、瑠璃殿の美しい姿が今でも焼きついておる。だが、憂い顔ばかりであったのが残念に思えてな。貴女の笑顔を見たかった」

「京也さま…………」

 故郷の国を失い、時の権力者に寵われていた私は笑うことなどできようはずもなかった。

 そして今も、京也さまという心許せる相手が側にいるというのに、彼が望むであろう笑みを浮かべられる自信がない。

 笑ってあげたかった。でも、それが出来ない自分が悔しい。絶対に笑い以外の感情が流れ出すとわかっているから。

「すまん。またいらぬことを申して瑠璃殿を困らせたな」

「謝るくらいでしたら、最初から申されなければよいものを」

「甘えておるんだよ。こうやって貴女と話し、優しい声を聞き続けていたいとな」

「そのようなものでよければ、いくらでも」

「ならば、甘えついでにもうひとつ願いを聞いてもらえぬか?」

「私に叶えられるものであれば」

「貴女は子守唄など歌えるだろうか?」

 意外な願いに私は首を傾げる。

「幼き頃、母より聴かされたものは記憶しておりますが」

「ならばそれを歌ってはくれぬか。良い大人が何を、と思われるやもしれんが、俺は生まれてこのかた母の記憶というものがなくてな。子守唄というものを聴かせてもらったことがないのだ」

 京也さまは私の手を今いちど握る。それが、生きている彼の最後の願いだと、私は悟った。

「どうだろう? 叶えてはくれまいか」

「…………お安い御用ですわ」

「ありがとう、瑠璃殿」

 安堵したような彼の顔。私はそんな京也さまの手をそっと離さないまま、記憶にある子守唄を歌い始める。

 自分たちを打つ雨音にかき消されぬ様に。

 それでも静かに、優しく。

 ただ聴かせる相手に想いを届けんがために。

 

 

§

 

 俺には母親という者の記憶はない。俺が生まれるのと引き換えに息を引き取ったのだという。

 小さいながらも武士の家に生まれついた俺は、無骨な父の手によって育てられ大人になった。

 そしていつしか都にて、帝が住まいし皇宮を守護する役職へと就いた。皇宮守護といえば一見聞こえが良いようにも思えるが、俺からすれば閑職も良いところだ。

 時は戦乱の世。帝は各地に兵を送り、武力を持って小国を併合し、領土拡大をはかっていた。

 俺も武士として生まれついたからには、そのような戦場に立ち、武功をあげることを望んでいた筈だ。しかし、現実に俺が仰せつかったのは平穏極まりない皇宮の守護。噂に聞こえる戦場の活気とは裏腹に、欠伸が出るほど退屈な毎日が多い。

 そんな自分の役職に不満を覚えているだけに、帝への忠誠もそれほど高くは無かった。

 若さゆえに力を持て余していた。

 そんなある日の事。東方へと遠征していた軍の一部が都へと帰還した。

 東方諸国の三分の二は既に帝のものとなり、残りの国が併合されるのも時間の問題だという。

 だが、そのような戦況報告よりも俺の心を捉えたのは、遠征軍が持ち帰った……いや、連れ帰ってきたものだった。

 それが瑠璃姫であった。

 数ある東方の諸国でも最も美しいとされる姫君。西のこの地にまでその噂は伝わるほどだ。

 本来の俺は、あまり女性に興味を示す人間ではない。皇宮にも美しい女官はいるが、それらは全て仮面をつけたような美しさであり、他者の顔色ばかりを窺う見栄ばかりの彼女らには、人としての美しさが欠けているようにも思える。ならばそれが、姫とも呼ばれる貴人なれば尚のこと。美しい仮面だけをつけた人形ではないのかとさえ思う。

 しかし、初めて瑠璃姫の姿を見た俺は、己の狭量さを恥じた。

 噂に名高い美姫というだけあり、その姿は確かに見事なものだった。

 艶やかな長い黒髪。上質の絹を思わせるような肌。深い色をたたえた宝玉のごとき瞳。艶やかな朱に染められたの着物も、彼女の美しさを見事に引き立てていた。それこそ布で大事にくるまれた、穢れない宝物と表現しても良いほどに。

 だが、何よりも俺が心奪われたものは、彼女が見せる憂いの表情であった。

 無表情に感情を消したそれとは違い、悲しみに満ち、儚げなまでにその境遇を示しているところに、人らしさを感じた。

 憂い顔に惹かれるなど、あまり良い趣味とは言えないかもしれないが、それが彼女の人間らしさを思わせてくれたのは事実。あの悲しみに満ちた表情に、俺は深い同情を覚えた。

 こうして帝に飼われることになった瑠璃姫は、与えられた場所を離れることも許されず、ただ訪れる客人への見せ物のように扱われた。それこそ鳥籠の小鳥のように。

 唯一、彼女にとって幸いといえたのは、帝と褥を共にし、慰みものにはされていないということくらいか。

 瑠璃姫は、未だ遠征中の皇子と婚姻を結ぶということになっており、皇子が帰還するまでは何人たりとも手出しはしてはならぬという事になっているからだ。

 まあ、この取り決めをしたのは皇后だというから、それは年甲斐もなく色狂いした帝への牽制という噂もある。

 こうした中から、瑠璃姫の寝所への警備を強化せよとの命令もあり、俺は瑠璃姫の姿を幾度と無く見る機会にも恵まれた。

 その後、寵われの生活がはじまってから幾らかの月日が流れたが、彼女の憂いは消え去らなかった。

 正確には周りに打ち解けることもできず、怯えたままだった。

 当の昔になにもかもを諦めて、現状を受け入れた方が楽だというのに。不憫な話だ。

 しかし、怯えているということは、それはまだ感情が死んでいないという証拠でもある。人間らしさがあるということだ。まったくもって皮肉な話ではないか。

 人間らしい彼女にこのような生活を強いる者どもに、俺はちょっとした憤りを覚えた。それは人ならざるものが人を飼うような感覚。

 もしや俺がいる場所は悪鬼共の救う魔窟ではなかろうか?

 このような考えは帝への反逆以外の何ものでもないが、元より忠誠の低い俺には何の違和感もない。

 俺は武士だ。

 戦場に立って武功をあげたいと願う人間だ。だが、それは言い換えれば人殺しでもある。

 武士同士の戦いであるならば、それは覚悟を決めた者同士の戦いだ。互いに命のやりとりを気にするつもりはない。しかし、そんな綺麗ごとばかりでは済まない事も多くあるだろう。無抵抗の人間を斬ることだってあるやもしれない。

 そんな俺が、人の在り方うんぬんについて語る資格があるのかはわからないが、少なくとも人間らしくありたいとは願っている。

 そして俺が願う人間らしさとは、心の根元までは誰にも縛られない生き方だと思う。

 誰に仕えようが、誰に命令されようが、聞けるうちは聞いてやる。だが、それに疑念を持った時、俺は俺の意思で動く。

 もはや俺は、ここにいるべき人間ではないのだろう。

 そして、あの瑠璃姫も…………彼女が望むのであれば、ここから連れ出してやりたかった。

 だからある日の夜、俺は彼女の寝所に忍び込みこう告げた。

「姫よ、もし貴女が望むのであれば、俺は貴女をこの場から逃がしてさしあげたい」

 逃げ出したところで追っ手におわれるのは明白で、命の保証はない。

 生き延びれたとしても、昔の生活を取り戻せる訳でもない。

 そのことも全て話した上で、俺は貴女をお守りしたい。そう告げた。

 我ながら身勝手な話を持ちかけたものだとは思う。どこまで彼女を守りきれるかなどわかりもしないのに。

 更に言えば、彼女が俺を信用してくれる根拠もない。

 しかし、先々のことばかりを考えていては何もできぬのも事実。俺の言葉にどこまでの価値を見出してくれるかは彼女の自由。

 そんな俺に、瑠璃姫は一言だけ訊ねられた。

「どうして私にそのような持ち掛けを?」

「貴女は人だ。人はこのような場所で鳥のように飼われる存在ではない」

 俺はただそれだけ告げた。

 瑠璃姫は驚いたような顔をする。だが、その後にはっきり申された。

「…………もう姫としては生きられないのであればそれでもいい。でも、もう一度外の世界に出られるのであれば。このような知らない都ではなく、少しでも故郷に近づけるのでさえあれば」

「瑠璃殿。参ろう」

 俺は彼女の覚悟を汲み取って姫とは呼ばずにおいた。

 そして、そっと手を差し出した。

「この京也。最後まで貴女をお守りすると約束しよう」

「…………信じます。京也さま」

 こうして掴み返された手のひらの温もりに勇気をもらい、俺は彼女への約束を守ろうと誓った。

 しかし、現実は不甲斐なくも、志半ばでたおれようとしている。

 それでも許してくれる彼女の優しさに、そして今、耳元で聞こえる静かな歌声に…………彼女の人としての強さを改めて感じ取った。

 俺は母を知らぬ。

 だが、母は女性であるが故の強さを持つと聞く。

 今、瑠璃殿が俺に与えてくれているものが、女性の持つ強さなのかもしれぬな。

 約束を守れなかったことは悔しいが、俺は不思議と安らいだ気持ちでいる。勝手な言いざまだが、人としては悪くない最期だ。

 このまま静かに眠れそうだ。本当にありがとう。瑠璃殿。

 

 

§

 

 いつのまにか雨は止んでいた。外の世界は夜を迎え、外気も少し下がる。

 湿った着物が肌にはりつく嫌な感触。初夏の季節だけにすぐにでも乾くとは思うけれど、今はまだ体温を奪うだけ。

 京也さまは息を引き取った。

 まともな光も差し込まぬ古井戸の底では彼の表情を確かめる術もないが、きっと安らかな顔をしているのだと願いたい。

 彼は私との約束を守れそうにないと悔やんではいたが、私は彼が約束を破っただなんて思っていない。

 京也さまはこうして息を引き取る最後まで、私を守ってくださったのだから。

 彼には彼の思惑があり、それを果たせないことが悔しかったのだとはわかる。

 でも、私にはもう十分なほどだ。

 私を人として見てくれた京也さま。彼の言葉があったから、私は最後に人としての尊厳を取り戻せたように思える。

 ただ泣いて悲しむことしかできなかった私に、選ぶ道を与えてくれたのだから。

 もっとも、悔やむことがないと言えば嘘にはなる。都という檻からは抜け出して、再び外の世界へ出ることはできた。

 ただ、欲を言えばもう一度、故郷の景色を見たかったな…………

 苦笑と共に少しため息をつく。

 悔やむのはもう止めよう。京也さまにも申し訳がたたない。弱気な気持ちで思うわけではないが、もうどうにもならないことなのだ。正直、私の命も長くは持たないという自覚がある。

 足だってまともに動きそうにないのだ。

 私は京也さまの最期を看取ってあげることができたけれど、私自身はどういう気持ちで最期を迎えたらいいだろう。

 ただ無念のまま果てたくはない。

 その時だ。この井戸の底にすぅっと銀色の光が差し込んだのは。

 見上げれば雲は晴れ、空には月が見て取れた。この井戸に落ちてから三日と経つが、ずっと曇っていたので月夜など意識はしなかった。

 都に籠われていた時や逃避行の時もそうだ。空や月を眺める気持ちの余裕などなかった。

 こうやって改めて月夜を意識するなど、いつ以来のことだろう。

 さめたような冷たさを宿す月明かり。鮮やかさとは程遠い物静かな光。

 でも、闇夜を照らし出すこの一筋の光は美しい。

 私は光に照らされた京也さまのお顔を見る。

 ………………よかった。安らかな顔でいらっしゃる。

 そして、今度は自分の姿に目をおとした。

 着物も長い髪も泥水で薄汚れている。手足も傷だらけ。

 東方一の美姫と呼び称えられた姿とは程遠いもののように思えた。

 とはいえ私自身、東方一の美姫という名を、少し重荷に感じることもあったのだけど。

 褒めてもらえることは素直に嬉しかった。でも、人はいずれ老いて朽ち果ててゆくもの。その時に、美姫という名にどれほどの価値があるというのか?

 それは少し冷め過ぎた考え方にしても、私はただ謙虚で慎ましやかな美しさがあればそれでいいと思う。

 そう。この月のように。

 …………そして。

 私は自分の最期の願いを見つけた。

 どんなに薄汚れていようとも、どこかで美しくありたいと願うのは女の性。私だって例外ではない。

 私は月を見上げたまま、そっと微笑んだ。

 そして静かにお願いをする。

「月よ、私を綺麗に照らしておくれ。そして笑顔のまま京也さまの許にいさせて頂戴」

 それが私の最期の願い。

 月明かりに照らされて綺麗に死ねるのであれば、きっと笑顔のまま最期の時を迎えられる。

 京也さまに笑顔を見せてあげることはできなかったけれど、彼の望んだ笑顔を湛えて側にいたい。

 彼を飾る一輪の花のように。

 それが私のために命をかけてくださった京也さまへの恩返しになりますように。

 私は彼の側へと寄り添い、目を閉じた。

 月明かりが私たちを照らしてくれているのはわかる。

 笑顔のまま眠りに就く。

 その時の私は、自分の思い描く美姫としての役目を果たせたのではないかなと思った。

 

 

 

〈了〉

 

 

【あとがき】

 たまにはシリアスな作品もということで、思いつくままに執筆してみました。

 読まれた方はおわかりでしょうが、少し悲しいお話です。死の運命を受け入れた二人の最期の願い……書きたかったのはそういう部分に尽きます。

 登場人物は和風名ですが、特に過去の日本を舞台にしているとかいう訳でもないので、架空の和風世界とでも思ってください。

 短編のお話でもありますし、歴史小説書きたかった訳でもありませんし(苦笑)