思惑は人それぞれ

自分にとって幸せか、不幸せか、

それは相手によって異なる

でも、やはり言葉を交わすことは大事

時には勇気がいるけれど

わかりあうためには

大切なこと

 

 

 

小話その7 親子の関係

 

 

 

 それは、まりあが大学受験を二日後に控えた日に起こった出来事。

 受験勉強の追い込みを図書館で終え、自宅兼店舗でもある紅茶館“さくら”に戻ってきたまりあは、店から出てきた意外な客とすれ違った。

 その客とは白河菊枝。

 まりあの義理の姉、さやの母親だ。

 とはいっても菊枝は継母で、さやとは血のつながりはないらしいが。

「あら。綾瀬さん。ごきげんよう」

 目があった途端、菊枝の方が先に挨拶をしてきた。けれど、その口調はお世辞にも好意的とはいえない

「こんばんは。白河さん」

 まりあも挨拶は返す。

 でも、どうしても表情は硬くなる。

 少なくともまりあにとって、彼女は苦手な人間だった。

 菊枝は、まりあの兄の直人と駆け落ち同然に結婚したさやを、白河家に連れ戻すことを目的としている。そして、直人が事故死した今では、その風当たりがより一層強まっていた。

「お店まで来るなんて珍しいですね。さやさんに用事だったのですか?」

 ただ挨拶だけというのも何なので、まりあはそう話を振ってみた。もっとも本当は気がすすまないが。

「そうよ。あの子に用事があって来たの。大事なお話よ」

「…………そうでしたか」

 “大事なお話”。それが何なのかは気になるが、こちらからこれ以上訊ねるのは気が引けた。それに、まりあにとって好ましい話とも思えない。

「そういえば綾瀬さん。あなた、大学受験するんですってね。自信の程はどうですの?」

 菊枝が話題を逸らすようにそう訊いてきた。

「え? あ、はい。自信があるかどうかはわかりませんが、調子は悪くないと思います」

「うまく合格するといいわね。祈っててあげるわ」

「ありがとうございます」

「それよりも、大学を合格したら、それを機に独り立ちしてはいかが?」

 やはりそういう話か。正直、手放しで合格を祈られるとは思っていなかっただけに、案の定という感じだった。

 わかってはいたとはいえ、まりあは少し悲しくなる。

「合格してもその予定はありません。私はさやさんとこの店で暮らしていくので」

「でも、独り立ちも考えるべきよ。何だったらこちらで素敵なマンションを手配してあげてもいいわ。家賃だって払ってあげてよ。魅力的なお話でしょ?」

「さやさんはどうなるのですか?」

「勿論、白河の家に戻ってもらうわ」

「ですが、さやさんにはこのお店だってあるんですよ」

「だから何だというの。こんな小さな店、あってもなくても困る人なんて少ないでしょうが」

 さすがにこの言葉には、まりあもカチンときた。

「それは菊枝さんの勝手な理屈です。このお店はさやさんにとって大事なものなんですよ。それをわかってあげれないのですか!」

「世の中にはもっと大切なものがあるのよ。それと秤にかけた時、このお店が大事なんてどこまで言い切れるかしらね」

 菊枝はそこまで言うと、フンっと鼻を鳴らす。

「とりあえずあなたと話していても無駄ね。こちらも忙しい身。もう帰らせてもらうわ」

 まりあも彼女を引き止める気はなかった。

 二度と来ないで。思わず心の中で悪態をついてしまう。

 こうしてまりあは店の中に戻ることにした。さやのことが心配だった。

 ドアをあけて店に入ると、しおりとふみかと目が合う。その様子から察するに、まりあたちの外でのやりとりを気にしていたのかもしれない。

「ただいま。さやさんは?」

 店内にはさやの姿が見えない。あと、他の客の姿も今のところはなかった。

「店長は今、店の奥に。少しの間、ここは私たちに任せると仰ってました」

 ふみかが淡々とこたえる。

 続いてしおりが口を開いた。

「まりあさんも大丈夫ですか? 先ほどのお客様と何やら口論されてたようですが」

「心配かけてごめんね。大丈夫よ。あの人とはいつもああなの」

「でも、あのお客様って店長のお母様ですよね?」

「まあね。実の母親じゃなくて継母らしいけど」

 少なくともあれが本当の母親だったら、さやとはあまりにも性格に違いがありすぎる。菊枝には菊枝なりの使命感もあるのだろうが、まりあはあのキツイ性格だけは正直好きにはなれない。

「あの人はここで何を話していたか知らない?」

「すみません。生憎と詳しくは」

 しおりが申し訳なさそうに肩を竦める。

「ふみかさんは知ってる?」

「いえ。私もあまり。ただ、店長のお父上が入院されたとかで」

「入院? 病気なの? 事故なの?」

「そこまではわかりません。ただ、こう言っては何ですが、今すぐ命にかかわるものではないと思います」

 ふみかの言葉は一理あった。切迫した状況にあるのならば、もっと大騒ぎになっているだろうから。

 しかし、どういう形にせよ父親が入院ともなれば、さやもさぞ心配していることだろう。すぐに駆けつけたいという心境はあるかもしれない。

「二人ともありがとう。私、さやさんの様子をみてきます」

 まりあはそう言うと、店の奥へと向かう。

 そして、すぐにさやの姿を見つける。その格好はまだ店の制服のままだった。

「あら。おかえりなさい」

 いつもと変わらない笑顔で先にそう言われ、まりあは少しホッとした。

 想像していたよりは元気そうだ。

「ただいまです。今さっき、店の前で菊枝さんと会ったのですが、何かあったのですか?」

 まりあは何も知らないフリをして、さやにそう訊ねた。もっともフリも何も殆ど何も知らないに等しいともいえるが。

「実はおとうさまが隣町の中央病院に入院したらしく、そのことを伝えにきてくれたの」

「それって大丈夫なんですか?」

「過労による疲れで倒れたみたい。でも、命に別状はないわ。しばらく休暇を取れば大丈夫だろうって」

 さやは苦笑しながら答えた。そして、いい年齢なんだから無茶しないで欲しいわ、とも。

「でも、入院となるとやはり心配ですよね。今からお見舞いとか行かれなくてもいいのですか?」

「今日はやめておくわ。一刻一秒を争うものでもないし、面会時間も終わる頃ですもの」

「…………そうですか」

「心配してくれてありがとう。それよりまりあちゃんこそ、おかあさまに変なこと言われなかった?」

「ええ。大丈夫ですよ。そんなに大した話はしてませんから」

 まりあはさやに心配をかけないよう軽く流す。それに菊枝のあの嫌味はいつもの事だ。いちいち気にしていてはキリがない。

「良かったわ。明後日には受験ですものね。そんな時に余計な心配事が増えたら大変だもの」

「さやさんこそ、菊枝さんから何も言われてませんか?」

 わざわざ店までやってくるほどだ。父親の入院のこと以外で何か話されたのではないだろうか。まりあはそのことが気になった。

 けれど。

「あ。うん。大丈夫、大丈夫。まりあちゃんが心配するようなことは何もないのよ。本当よっ。えへへ」

 不自然にまで明るく言われ、かえって気になってしまう。嘘が下手というか、素直で不器用すぎるというべきか。

 とはいえ、気遣いあうのはお互い様ということで、まりあもこれ以上は突っ込まないでおいた。

「私も着替えてお店の手伝いに入りますね」

「帰ったばかりで疲れてるでしょう。まりあちゃんはゆっくり休んでいて」

「いえ。手伝いたいんです。私だけ除け者なんて寂しいじゃないですか。皆の側にいさせてください」

 これはまりあの心からの本心だった。

 今は一人でいるより、心許せる仲間の近くにいるほうがきっと心も安らぐだろうから。

 

 

 

§

 

 

 その日の深夜。まりあは再び受験勉強に戻っていた。

 彼女の成績をもってすれば合格は容易いと言われている大学だが、だからといって油断する気もない。念には念を入れる。

 まりあはそういう努力の人間なのだ。

 けれど今は、少し集中力が欠けている事を意識する。

 夕方に行われたであろう、さやと菊枝のやりとりが気になって仕方がなかった。

 さやは心配するようなことはないと言ってくれたものの、それでも何かしら変な事は言われているように思える。

 自分の知らない所で彼女が傷ついていないかと思うと、まりあは気が気でない。

「まったく。この集中しなきゃいけない時期に困ったものだわ」

 これは誰かに対する恨み言というよりは、自分自身に対する一言。

 思わず疲れて、がっくりとうなだれてしまう。

 その時、正月の初詣でひいたおみくじが、ふと目にとまった。

 「大吉」と書かれたおみくじを、大事に机へ貼っておいたのだ。

 おみくじには【試験:くよくよせず、思い切り勉強せよ】とあるが、その通りできればどれだけ良いことだろう。ちょっとの心配事だけで、すぐ不安定になる自分が情けなかった。

 これはもう心の病気に近いようにも思える。

 さやの事が好きで好きでたまらない病気だ。

 もっとも。まりあは別にそっちの趣味の人間ではない。当人は至って健全なつもり。

 ただ、さやのことだけに関しては、自分でも不思議になるくらい歯止めがきかなくなってしまうのだ。

 女の子同士のことなので、これが“恋”かどうかはわからないけれど、とにかく好きという事実だけは曲げられない。

 おみくじには【病気:重くなる。早く医者へ】とも書かれてあるが、この病気だけは医者にだって治せないだろう。いや、むしろ治されたくない。

「ちょっと一息いれるか」

 まりあは紅茶でも淹れて、気分転換することにした。

 この時間、さやはもう寝ているだろうから、紅茶は自分で淹れないといけない。

 自室から廊下へ出ると空気の冷たさが肌を刺す。まだ真冬の季節だけに、暖かい部屋から一歩出ると、身の引き締まるような寒さだった。

 まりあは、なるべく音を立てないよう、そっと台所へ向かう。真夜中は静かに歩くものだ。

 けれどその途中、さやの部屋から明かりがもれている事に気付く。

 そして。

 …………そこからすすり泣きのような声が聞こえてくることにも。

 気になったまりあは、ゆっくりと彼女の部屋のドア付近まで近づいた。

 すると。

「ごめんなさい、直人さん……わたし、本当に自分が情けなくて嫌になります」

 ドア越しから、すすり泣きと共にそんな声が聞こえてきた。

(兄さんの名前……どうして?)

 直人はさやの亡くなった夫であり、まりあの兄の名前だ。

 さやは、今は亡き夫に、何かを独白しているのだろうか?

「……まりあちゃんやこのお店だって大事な筈なのに、おとうさまや実家の事も心配なの。おかあさまには、おとうさまの心労はわたしの親不孝も一因だって言われてしまいました。でも、わたしはそれに対して何も言い返せなくて……」

 続けて聞こえたこの独白に、まりあは目を伏せた。

 表面にこそ出さないものの、さやが父親の入院に深いショックを受けていることはわかった。そして、菊枝とどういったやりとりをしていたのかも、漠然とながら察しはつく。

 きっと、父親の入院話を盾に、白河家へ戻ることを強くすすめたのだろう。

 心優しいさやにとって、それはあまりにも痛い泣き所。

 そこで菊枝のある言葉が思い出される。

【世の中にはもっと大切なものがあるのよ。それと秤にかけた時、このお店が大事なんてどこまで言い切れるかしらね】

 あの言葉は、この事を意味していたんだなと実感する。

 部屋からは尚もさやの独白が響いた。

「本当にごめんなさい。弱音を吐くつもりはなかったんだけど、今だけはどうしても……涙が止まらないです」

 続いて漏れる嗚咽。

 これ以上、盗み聞きするのは気が引けた。

 まりあはこの場を離れて自室に戻ることにする。紅茶はどうでもよくなっていた。

 側にいて力になってあげたいのに、何もしてやれないという無力感だけが残る。悩みの原因は自分にもある以上。

 けれど大好きな人が泣いている。

 ただ、それだけで胸が痛んだ………………

 

 

 

§

 

 

 一夜が明け、その日の午前中。まりあは隣町の中央病院前にいた。

 この大きな病院にさやの父親が入院しているということだったから。

 ただ、ここに来るまでには悩みがあった。自分は何がしたくてここにきたのか? それが今ひとつはっきりしないからだ。

 勿論、普通にお見舞いに来たと考えてもいいが、顔を合わせる以上はそれだけの話で住むとは思えない。下手をすれば、さやを白河の家に戻すよう懇願される可能性だってある。

 もしそうなった時、まりあは、自分自身でどう答えられるか想像もつかない。

 けれど、さやの父親の容態によっては覚悟するつもりだった。彼女を白河の家に戻す事を。

(大丈夫よ。もしそうなったとしても、私とさやさんの縁が完全に切れるわけじゃない)

 まりあは何度も心の中でそう自分に言い聞かせた。

 それにこれは最悪な想像であって、必ずしもそうなるとは限らないのだ。

 何にせよ、まずはさやの父親の容態を自分の目でも確認しないことには話しにならない。だからまりあは病院前にいる。

 ただ、さやには病院に行く事は伏せておいた。いつものように図書館で勉強してくると伝えてきただけ。

 ちなみに一夜明けてからのさやは、いつもどおり何事もなかったように振る舞ってはいた。一人で泣いて気持ちの整理がついたのか、それとも未だに強がっているのかはわからない。昨夜の独白を盗み聞きしてしまった気まずさもあって、あまり目を合わすことができなかったから。

「よし。行こう」

 まりあは言葉に出して気合を入れ、病院内に入る。今はしっかり現実と向き合って話をするつもりだ。

 お見舞いに相応しい花もここに来る途中で買ってきた。

 病室の場所はわからなかったので、案内所で訊ねてみると五階だと教えてもらえた。

 まりあはエレベーターを使わず階段で五階まで行く。往生際が悪いと言われればそれまでだが、一段一段階段を昇って心の整理をする感じだ。五階まで登りつめた後は、そのまま目指す部屋まで迷うことなく辿り着く。

 部屋の扉付近には“白河慶吾”という名札がある。それがさやの父親の名前だった。

 ちなみに面識はないに等しい。一度だけ遠目に姿を見る事はあったが、その時は会話するに至らなかったからだ。

 その時の見た目の印象は温厚そうな紳士という感じだった。優しいさやの父親らしいというか。

 駆け落ち同然に結婚した娘の生き方を、最後には許すくらいの人物なので、話が通じないほど頭が固いということはないだろう。

 まりあは深呼吸すると、部屋の扉を遠慮がちにノックした。

 すると中から「どうぞ」という男性の声がかえる。

「あの、失礼します」

 まりあはそう言って部屋に入った。少し緊張してしまう。

 部屋は個室で、今は点滴をしながらベッドに背を預けている男性の姿があるだけだった。

 間違いない。さやの父親、白河慶吾その人だ。

 彼は一瞬「おや?」という顔をするが、すぐに温厚そうな笑みを浮かべて先に言葉を切り出してくれる。

「君は確か、綾瀬さんの」

「あ。えっと……はじめまして。綾瀬まりあです。ご存知だったのですか?」

 まりあは深々と頭をさげつつ、緊張の面持ちで訊ねた。

「ああ。勿論。話すのはこれが始めてだったと思うが、君のことは娘から沢山聞かされているよ。写真も送られてきたからね。いつも娘が世話になっているようで感謝しているよ」

「い、いえっ。滅相もありません。私の方こそ、さやさんに甘えっぱなしで」

「ははは。ならお互い様ということで。あ。それよりも、そんなに緊張しないで」

 笑顔で気遣われる。そこはさやに似ていて、まりあも自然と肩の力が抜けた。

「ありがとうございます。それはそうと容態の方はいかがですか?」

「心配するようなものではないよ。ちょっとした仕事疲れさ。ここ最近、海外への出張も続いていたからね」

「大変そうですね」

 白河家は海外との貿易事業でちょっと名が知れているだけに、あちこちに飛び回る事が多いのだろう。

「自分が年をとったことだけは実感するよ。周囲からはそろそろ隠居してはどうかなんて言われるしね」

「そうですか…………」

 肉体的には元気そうだが、精神的にはやはり気弱になっている部分があるのだろう。まりあはそう感じ取った。

「それよりも今日は君だけが来たのかね?」

「あ、はい。ちょっとこっちの町に立ち寄る用事があったので、私からもお見舞いしておこうと。さやさんも近日中には来られると思います」

 さやからは特に何も聞かされていないが、一度くらいは見舞いに顔を出す事だろう。だからそう言っておいた。

「そうか。わざわざすまないね。それよりも娘に伝えてくれるかい? 自分もこの通り心配する程のことでもないし、無理に見舞いに来る事はないって」

「それはさすがにどうかと」

「こうやってまりあ君が来てくれたんだ。わたしにはそれで十分だがね」

「でも、私なんて、さやさんのかわりとしては役不足すぎです」

「そんなことはないさ。わたしは君も大事な娘のようなものだと思っているからね」

 さらりと言われたその一言に、まりあは目を丸くする。

「君はさやの妹になってくれた人だ」

「それはそうですが、それはおじさまにとって望ましくなかったことでは? 私は駆け落ち相手の妹なんですよ」

「確かに最初は君の兄さんと娘の駆け落ちには反対だった。だが、君達を認めていなかった訳じゃないんだよ。親ばかかもしれないが、わたしはさやを正しい子に育てたという自負はある。そんな娘が駆け落ちしてでも一緒に居たいと願った相手だ。悪い人間じゃないとは信じていた。もっとも、菊枝の方が猛反発していて大変だったがね」

「そうだったのですか」

 以前からさやの父親は寛容な人物だとは聞いていたが、こうやって話を交わす事によってそれがより実感できた。

「まりあ君。娘も何かと大変なことがあるだろうが、これからも可能な限り支えてやってくれるかい」

「それは望むところですが、おじさまはそれでいいのですか? さやさんを白河の家に戻したいとか、そういうお考えはないのですか?」

 まりあは思わずそう口に出してしまった。自分でも馬鹿正直だとわかっているが、言わずにはいれなかった。

「どうしてそんなことを?」

「さやさんを私の家に預けておく事、おじさまは心配じゃありませんか? 寂しく感じて、それが心労になっていたりしませんか? うちには兄さんももういないし、このまま綾瀬の家に縛られていても子供を産む機会だってないんですよ。それならば白河の家に戻して、新しい人生を歩ませてあげたいとか思った事はありませんか?」

「まるで菊枝の受け売りだね。だが、それは君にとっても本心なのかい。違うだろう?」

「それは…………」

 確かにこれは本心じゃない。できればずっとさやと居たい。さや自身もそれを望んでくれている。

 けれど、だからといってこれらのことを無視できる訳じゃない。

 これらのことが心に引っかかる限り、まりあもさやも本当の意味で幸せにはなれないのだから。

「まりあ君。わたしは娘を白河の家に戻したいとは思っていない。さやはもう大人だ。大人には大人の果たすべき務めがあるんだよ。そして、自分の事は自分で考えるべきだと思うんだ。だから、さやが自分から実家に戻ると言わない限り、わたしから道を用意してやることはない」

 さやの父親は穏やかに言葉を続けた。

「娘は綾瀬の人間として、守るべき店と家族がある。そう考えている筈だよ。時には弱音を吐くかもしれないが、それでも随分と強くなったんじゃないかと思っている。白河の家に居た時のさやは、気弱で頼りない所がまだ多かったからね。でも、君や君の兄さんと一緒に過ごし、幸せや悲しみも経験し、一人前の強い子になっていけた。だからわたしは君たちに感謝しているくらいだ」

「…………ありがとうございます。そう言ってもらえると、亡くなった兄も本望だと思います」

 まりあは身体の中が熱くなるのを感じた。

 同時に、駆け落ち相手の妹という負い目も自然と消えてゆく。

「あと、妻の菊枝のことなのだが、許してやって欲しい。彼女は彼女でわたしや娘のことを思いやってくれている部分は確かにあるんだ」

「それは勿論です」

 性格的に合わない部分は多々あるが、菊枝の気持ちも理解できない訳じゃない。だからこそ悩んでしまうのだ。

 その時、部屋の扉がまたノックされる。

(噂をすれば何とやら?)

 まりあは菊枝が来たのではないかと思い身構えた。

 しかし、やって来たのはさやの方だった。

「あら。まりあちゃん、どうしてここに?」

 彼女は、まりあがお見舞いに来ていたことに驚く。

「あ。その……私もおじさまの容態が気になったもので。せっかくなので寄らせてもらいました」

「そうだったの。わざわざありがとうね」

 本当なら色々と詮索されてもおかしくはないが、さやは素直に喜んでくれた。

 まりあはホッとするが、帰ってからはちゃんと説明しようとは思う。

「おとうさま。身体の具合はどうですか?」

 さやが父親に向き直って訊ねる。

「見ての通りだよ。深刻さとは程遠い。何せ可愛い娘が二人も来てくれたのだからね」

「もう、おとうさまってば。でも、本当に元気そうで安心しました」

 くすくすと微笑むさや。

 そこで繰り広げられるのは、何のわだかまりもない、普通の親子の会話。

 まりあはそれを眺め、微笑ましく思った。

 でも、途中からまりあもその輪の中に加わり、三人での談笑へと続いてゆく。

 それは、とてもとても穏やかな時間だった。

 

 

 

§

 

 

 その日の夜の就寝前。まりあはさやの部屋にいた。

彼女はさやに、見舞いへ出向いた際の自分の気持ちを話し、病室でのやりとりもちゃんと伝えた

 さやは静かにそれを聞き、最後にはいつもの優しい表情で微笑んでくれる。

「まりあちゃん。いつも不安な思いをさせてごめんなさいね。でも、おとうさまがそんなことを言ってくれていたのなら良かったわ」

「最初は緊張しましたが、さすがはさやさんのお父さんだけあって、とても素敵な方でした」

 まりあは心からそう思った。

 彼女の父親に会って、本当に良かった。直に話す事によって、ずっと心の中に引っ掛かっていた負い目も消えたのだから。

「ありがとう。わたしももっと強くなって頑張るわね。おとうさまがより安心してくれるためにも」

「私もさやさんの力になるため頑張ります。まあ、その前に明日の受験に全力投球ですけど!」

 まりあはそう言って気合を入れる。

「応援してるわ。今夜はそろそろ休んで、明日に備えましょうか」

「そうですね」

 二人は目の前に置かれた紅茶を飲み干した。

 今夜は安眠できるようにとリンデンとベラベーヌを加えたハーブティーだった。

「…………あの、さやさん。ひとつお願いがあるのですが」

「うん。なあに?」

「今夜、さやさんの隣で一緒に寝てもいいでしょうか」

 まりあは少し照れ臭そうにそう告げた。さやの方は意外そうな顔をする。

「あらあら。どうしたの。まだ何か不安や悩み事?」

「いえ。そういう訳ではないのですが、ちょっと甘えてみたくなりまして。さやさんの側で眠れたらもっと安眠できて、明日はスッキリかな〜なんて」

 まりあ自身、こういうストレートな甘え方をするのは珍しい。

 でも、今夜はそういう心境だった。

「それなら大歓迎よ。何なら抱きしめてぎゅ〜ってしてあげてもいいし」

 快諾と共にそんな事も言われる。

「いや、別にぎゅ〜っとまでは……」

 して欲しくないというと嘘になるが、それはそれで恥ずかしいものがあったので遠慮した。

 こうして二人はカップ等を片付け寝巻きに着替えると、ベッドに潜り込んだ。

 この季節。温まっていないベッドの中は少しひんやりするが、二人の体温でならすぐに気にならなくなるだろう。

 それほど広いベッドでもないので、ちょっと動くだけで身体が触れ合ったりした。向き合えば顔も近い距離。

「遠慮なくくっついていいからね。布団からはみ出して風邪ひいたら大変だし」

 さやがにこやかに言う。何だか楽しそうな表情だった。

「自分で甘えておきながら言うのもなんですが、ちょっと照れ臭いですね」

「そう? わたしは気にならないし、むしろ嬉しいわよ」

「…………私も嬉しいですよ」

「なら一緒の気持ち〜」

 さやの笑みにつられ、まりあも思わず微笑んでしまう。

「それではまりあちゃんの大学受験合格を祈って、わたしから祝福を」

「…………!」

 そして、さやがとった行動にまりあは目を丸くする。

 何と顔を寄せ、額にキスをされたからだ。

 まりあは頬が火照って真っ赤になっていくのを意識した。

 キスは一瞬の出来事だったが、身体全身に帯びた熱は簡単にひきそうにない。

「祝福とおやすみのキスよ」

 さやも少し恥ずかしかったのだろう。照れ臭そうな表情と共に、すぐに部屋の明かりを消す。

 そして続く「おやすみなさい」の一言。

 まりあもボ〜っとした頭で、おやすみなさい、とは返す。

 この刺激的な出来事に、すぐに寝付けないんじゃないかと思われたが、眠りは案外すぐに訪れた。

 先に眠ったさやの寝息の穏やかさが、子守唄のように心地よかったから。

 そして翌朝には、とても清々しい気持ちで寝起きを迎えることができた。

 大好きな人の優しい声で目覚めれた一日。

 そんな幸せなスタートは、今日一日の順調さを約束してくれるようなものだった。

 

 それから。しばらくの日が経って。

 ……………まりあは大学受験に見事合格した。

 

 

〈了〉